先日8月11日、自称「世界救世教責任役員会」が、いづのめ教区に対して文書を出してきました。
教主様の意を汲まれる真明様が、全人類、どのような悪人、罪人、殺人者であったとしても、メシヤの御名にあって赦され、天国に迎え入れられ、明主様に倣い、神様の子たるメシヤとして新しく生まれることができる、と説かれたことを非難したものです。また、教主様、真明様と心を同じくする私どもいづのめ教区に対しても、極めて無礼な表現で批判をしています。
事実上、東方之光・MOAが作成していると思われるこの文章の論点は、一言で言えば、「悪人が救われる、という真明氏の主張は明主様の御教えからするととんでもない間違いだ」というものです。その論調は、明主様の親鸞に関する御教えを抜粋しながら真明様を一方的に裁き、彼らが信仰者であることすら疑わざるを得ないような、品性に欠けた、高圧的なものです。明主様の「裁く勿れ」の御教えはどこにいってしまったのでしょうか。
明主様は、親鸞が残した「善人尚もて往生を遂ぐ、況んや悪人をや」の言葉につき御教えの中で様々触れておられます。その根本としては、「悪人こそ救われなればならない」という意で説いておられます(下記参照)。
東方之光・MOAが、真明様批判文書の中で引用している親鸞についての御教えは昭和10年のものであり、その後、この親鸞の言葉につき、明主様のご理解は変化していかれましたが、このことは、御教えにお詳しい方であるならば当然ご存知のことと思います。
「迷信」についての御教えも抜粋していますが、目的が意味不明なため、直接のコメントは差し控えさせていただきますが、まさに、キリスト教において、「全人類の中でイエスだけがメシヤである」という迷信を、「人類みなメシヤの御名に結ばれた存在である」としてその迷信を正しておられるのは教主様であり、私どもの尊いひな型であられる明主様の「メシヤとして新しく生まれた」ご事蹟そのものでしょう。
東方之光・MOAが批判している教会長の「悪人は神様から使われている」というご発言についても、明主様の御教えを少しでも読ませていただくならば、明主様のお伝えくださっている神様は、善と悪の両方をお使いになる神様であることは瞬時に理解できることであり、世界救世教の教義の根幹であることは言うまでもありません。
東方之光・MOAは、御教えについてここまで大上段に語っているので、これくらいのことは本来知っていることだと思いますが、意外にそうでもないのかもしれません。御教えを学んだ結果がMOA活動だということ自体、そのなによりの証拠でしょう。MOA活動の中心となる浄化療法にいたっては、明主様が明確に取りやめられたもので、当然のことながら教義違反です。
また、アンゴラの信徒の中に、「自分は教主様のご教導に出会って救われた。自分は内戦に関わり、人を殺したことがあった。もはや救われる見込みはないとあきらめていた。しかし教主様のご教導に出会い、全人類、誰であろうと赦され、救われ、天国に立ち返ることができるという天国の福音を知らされ、言葉にできないほど喜んでいる」という話を、渡辺先生がたびたびしておられたことを覚えている方も大勢いらっしゃると思います。世界救世教の代表役員を自称する長澤好之氏には、是非この信徒に対し、あなたは悪人なので救われないのだ、と伝えていただきたいと思います。
どちらにしろ、もしこの真明様といづのめ教区批判の文書が手元に届くことがありましたら、それをしっかりと読まれた上で、以下の御教えに目を通していただきたく思います。いかに、東方之光・MOAの御教えの理解が、教主様・真明様とは比較にならないかが、よくご理解いただけると思います。当然のことですが。
また、東方之光・MOAがさかんに繰り返しているように、教主様や真明様のお言葉の一部分だけを取り出し、「御教えと違う」という彼らの主張にちょうど合う御教えをいかに都合よく使っているか、よくご理解いただけると思います。
明主様は、善の行ないを推奨し、善人を救われる一方で、明確に、〝悪人こそ救わなければならない〟〝殺人をするような人こそ救う〟旨み教えくださっています。
昭和29年6月15日のメシヤ降誕仮祝典においても、明主様は、「全人類の罪をお赦しくださいますようよろしくお願いいたします」という信徒からの願い出をお受けになってくださいました。言うまでもなく、罪人の赦し、罪人の救いは御教えの根幹であり、救世教の救いの中核を担っていることです。
悪人、罪人が救われることを説かないとしたら、全人類の救済も説かないことになるのですから、東方之光・MOAや自称・世界救世教責任役員会が、明主様のなにを世に伝えていこうとしているのかはなはだ疑問であり、彼らの姿は小乗信仰の極致と思われますが、これも私どもの中にある姿と思わせていただき、主神に委ねさせていただきたいと思います。
東方之光・MOA、いづのめ教団小林執行部並びに世界救世教責任役員会を自称している方々は、教主様・真明様のご教導を否定、攻撃、排除しているつもりだと思いますが、そうすることにより、実質的に、明主様、そして御教えの否定、攻撃、排除をしていることに気が付かないのでしょうか。
以下に添付した御教えは、真明様や教会長が語っているお話とまったく同内容のものであり、明主様は、〝悪人、殺人犯こそ救う〟と仰っています。であるならば、彼らにとっては、明主様や御教えは、社会に危惧される存在であるということなのです。
MOAが「岡田茂吉」の名前を使い明主様を隠し、否定をし、明主様が堂々と世に打ち出していた宗教や主神を隠していることからも明らかなように、彼らにとって明主様のご存在と御教えは都合の悪いものなのでしょう。MOAの勉強資料が、都合のよい御教えの寄せ集めをしていることは有名な話ですが、そのようにして、自分たちにとって便利な明主様像を作り上げることに労力を費やしていることは、明主様の信徒として誠に残念なことです。
そもそも、彼らが、もし、MOA活動や、明主様がお取りやめになった浄化療法が、彼らなりに明主様の御教え、御歌、ご事蹟を研究した結果に出た結論だと信じているならば、なぜその活動に全力を注がず、このような裁きに満ち溢れた文章の作成に時間を費やしているのか、首をかしげざるを得ません。虚しさを覚えないのでしょうか。
同文書の中で、東方之光・MOAは、明主様が「悪は駄目である」とみ教えくださったことに言及していますが、もちろんその通りです。
東方之光・MOAが実行し、いづのめ教団小林執行部が容認している非人道、反社会的、「尾行・盗聴・盗撮」は決して許されることではありません。私どもが立ち上がったのも、この明主様の正義感をお受けしたい、という気持ちからでもあると思わせていただいております。
全人類に対する罪の赦しという明主様の愛を説いていく私どもと、「尾行・盗聴・盗撮」実行・容認者のどちらが、社会から「危険思想集団」とみなされるか、論をまたないところです。彼らにはまず、尾行等を容認していることに対する「社会への悪影響」を考えていただきたいと願うものですが、もはや社会の常識が通じる相手ではないのかもしれません。
しかし、どのような悪事を働いたものでも、心から悔い改めれば天国に入れるのだという福音を説かれたのが明主様であり、そして今、まったく同じ全人類の赦しの福音をお伝えくださっているのが教主様と真明様です。
このような高圧的な文書を通し、私どもは、いかに教主様・真明様が明主様の御教えの神髄について教えてくださっているかをよりよく分からせていただきたいと思います。
今後とも、明主様のご聖業を継承しておられ、現界経綸の中心、先頭に立たれている教主様と共に、倦まず弛まず、力強く歩んでまいりましょう。
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『大光明世界の建設 光の活動』 (昭和十年一月十一日)
そういふ訳でありますから、光明世界を作るには、理屈や議論は後からでいいんで、先づ第一に、御神体を、お祭りすれば、いいんであります。そうすれば、朝夕拝んでゐる裡に、魂(ミタマ) が、お光に照らされて、どんな悪人でも、不良でも、善道に立還り、どんどん救はれて行くんであります。
『為郷恒淳氏との御対談 浄霊は信じなくても出来る?』(昭和二十七年十月二十二日)
為郷氏 それから神様は悪人を造って、その悪人を救わないのでせうか。
明主様 いや救うのです。神様は悪人を作っておいて救うのです。救わなければならない必要があるのです。と言うのは、悪人と言うのは、要するに、汚いものは綺麗にしなければならないのです。
『御垂示録23号』(昭和二十八年八月一日)
神様と単純に言うが、神様と言っても、一流、二流、三流とありますが、一流の神様は何でもお許しになります。それは殺人強盗でもお許しになります。それはそうでしょう。戦争もお許しになりますが、これは何十万と殺すのですから、殺人強盗どころではありません。それは一流の神様はお許しになりますが、二流、三流の神様はお許しにならないのです。
『御垂示録20号』(昭和二十八年五月一日)
前に人殺しという事で、三宅雪嶺の説を読んだ事がありますが、うまい事を言ってます。“殺人という事もなくてはならないというのです。若しそれがなければ、如何に人を苦しめるか分らない。しかし殺人というものがあるために、人を苦しめるという事が或る程度でくいとめられる”という事を書いてましたが、これは真理です。あんまり酷い事をすると、若しかすると彼は自分を殺しやしないかという事があるから、或る程度で弱まるわけです。ですからそういった殺人というのは善の働きもあるわけです。
『御垂示録26号』(昭和二十八年十一月一日)
前に三宅雪嶺の説で、殺人という事は必要だ、法律でやるよりも殺人でやる方が秩序が保てるという事を書いてます。人間をウンと苦しめる、法律に引掛らないようにして苦しめる事ができる。しかし殺人という事があるから、或る程度までしかできないという事を言ってますが、その時分には大乗も小乗も知らなかったが、今でもそれは間違っていません。これ以上苦しめると、アイツはオレを殺すだろうというわけで止めます。ですから殺人が悪いとも言い切れません。
『況んや悪人をや』(昭和二十四年十月二十三日)
“親鸞の言葉に「善人は救われる況んや悪人をや」という事がありますが、それでは悪人の方が救われる事になりはしないでしょうか。
“悪人は救はれる事を諦める事がある。(罪を犯したので畳の上では死ねないと諦めてる)そういふ者の為に言った言葉で、強く言った言葉である。字通り解すると大間違いになる。善人は当然救はれるが、悪人を先ず救ふ要がある。悪人は諦めているもので、それを救ふ為に言ったのである。
『自力と他力信仰、本願寺派と親鸞、排悪の牧師、観音行の在り方、(従来の日本)、経緯結びと日本』(昭和二十三年)
親鸞は「善人尚もて往生を遂ぐ、況んや悪人をや」といふ。之は自暴自棄の者も救はれるといふ訳である。先に私は、キリスト教会の宣教師が善くない者があるから除名すると言った、之は変だと思った。善い人間ならそれでいいが、汚れた人間や悪い人間を排斥すれば宗教の意義はなくなる。悪い人間を善くするのが宗教の使命であらうに、之は変だと思った。
『御教え集14号』(昭和二十七年九月六日)
人間は何かというと、人間の害虫というのは悪人です。之が害虫です。処が人間が間違つた事をするからして其人の霊が穢れる。そうすると人間の霊の穢れを取る為に害虫が発生する。処が人間の害虫というのは、やつぱり人間なのです。人間でそういうのが湧くわけです。そこで悪人が苦しめる――社会を悪くしたり色々苦しめるという事は、浄化を受けているわけです。だから悪人が湧くという事は、必要があつて悪人が湧くのだから、やはり人間が悪い罪を重ねるからで、罪の掃除を悪人がするのです。だから悪人に苦しめられるという事は、こつちに苦しめられる丈の罪穢があるのです。それを掃除して呉れるのですから、悪人も必要――と言つては少し変ですが、まあ合理的なものです。だから社会悪だとかずるい奴や悪い奴が沢山居るという事は、そういう悪人が必要な世の中を作つているわけです。又、悪人が浄化作用して、それが又悪を作るから、それを又掃除する悪人が出来るのです。
『御教え集31号』(昭和二十九年二月四日・立春祭)
そういうようで、神様がやられる事は実に深いです。ですから“あの人はああいう事をしているから悪い、間違っている”という事は、とても言えるものではないです。そう言っている人は、実はその人自身が悪い事をやっていて、悪い事を言われている人は良い事をやっているかもしれません。お筆先に「一生懸命、神のためと思い、間違うている事をしている人は、神も困るぞよ」というのがあります。“これが神様のためだ、これが本当だ”と言って一生懸命にやっている事が、案外神様のお邪魔になっているというわけです。そこで人間、特に信者は、善とか悪とか決める事は大変間違っているのです。又分るものではないのです。ただ、自分が良いと思う事をして居ればそれで良いので、人が善いとか悪いとか言う、それが一番危険なわけです。なにしろ世界人類を救うというのですから、開闢(カイビヤク)以来ない大きな仕事なのです。お筆先に「大きな器には大きな影がさす。だから器が大きくなければ神の仕事はできんぞよ」というのがあります。余程大きな器で、要するに大局的に見るというわけです。
『寸鉄』(昭和二十五年十二月六日)
集団強窃盗百一人も捕まったとは驚いた、だが斯んなのは鼻糞位だよ、何故なれば、今や何億万の集団殺人強盗が地球を荒し廻るといふんだからね-、だから俺は斯んな物騒な地球から逃げ出そうと思って考えてゐるんだが、そんな好い処は何処にもないので、ヤッパリ地球へ戻って、殺人強盗を改心させやうとするんだ。その大仕事をするのがメシヤ教なんだ、どうだ判ったか。