御歌

 

長き世を積り積りし罪咎(つみ とが)を赦さんとして吾は世に出(い)づ

今はしも滅びんとする罪の世を生かすはメシヤの力なりけり

数ならぬ身にしあれども御業(おんわざ)の端になりとも加へさせたまへ

 

聖言

 

本教の誕生

 

そもそも、本教誕生の理由は、何であるかというと、まず人類が数千年以前から孜々(しし)として作り上げたところの、近代文化を検討してみるとき、外形的にはいかにも進歩発達し、絢爛たる容装は実に幻惑されるばかりである。これを観る現代人がいかに絶讃し謳歌して来たかはいうまでもない。ところが、ひるがえってその内容をみるときこれはまたあまりにも意外である。およそ外形とはまったく反対であることに気づくであろう。反対とは勿論精神方面であって、いささかの進歩も見られない。むしろ古代人の方が勝っているとさえ思えるのである。いま人間の心を善悪の計量器で測るとすれば遺憾ながら善より悪の方が多いであろう。*

そうして、人類欲求の中心は、何といっても幸福であり、幸福を得んがためにはいかに智能を傾け、あらゆる手段を盡(つ)くして来たかは勿論である。それがユートピアの夢となり、理想世界の念願となったのはいうまでもない。その意味から、初め人類は宗教に依存したのである。ところが宗教のみによっての可能性が危ぶまれて来た結果、これを他に求めようとした。それがかの中世紀以後中国を始め、ヨーロッパ方面において興って来た、教育、道徳、哲学等である。* ところが西洋においては十七世紀頃より唯物科学が抬頭しはじめ、あらゆる面に亘って漸次改革が行われた。就中(なかんずく)、機械文明の発展は、俄然産業革命を起こし、世界は挙げて科学に魅惑されてしまった。ここにおいて人類は、いままでのような宗教や道徳のごとき迂遠な道を辿るより、眼に見え手で掴める実証的科学文化こそ無上のものとし、人類の幸福を増進し、理想世界を作るにはこれに若(し)くものはないと思ったのも、無理はないのである。*

以上によってみるとき、現在はちょうど旧文化と新文化の交代期ともいうべく、吾らが常にいうところの、世界的大転換時代である。有史以来かくのごとき、人類にとっての大異変があったであろうか。実に空前の大問題である。しかしながら旧文化に取って代わるべき新文化とは果たしていかなるものであろうか。勿論このことはとうてい今日の人間の智能では片鱗だも掴めないことはいうまでもないが、それでは一体いかなるものであるか、何人がそのような新文化創造の掌(しょう)に当たるであろうかということである。ここで初めて信ずると信ぜざるにかかわらず、神というものの実在を肯定するよりほかにないことになる。

したがって、これから神についての説明をしてみるが、単に神といっても、実は上中下の階級があり、千差万別の役目がある。神道においては八百万あるというが、まったくその通りで、今日まで神といえば、キリスト教的一神教と、神道的多神教のどちらかであった。しかし両方とも偏った見方で、実は独一真神が分霊して多神となるのであるから、一神にして多神であるというのが本当である。*

ここで面白いことには、その時代の文化のレベルから、わずか頭角を抜いたくらいの説が出た場合、識者はそれを謳歌し称讃するものである。何となれば既成文化の教育を受けた人達はこの程度の説が最も理解しやすいからで、ノーベル賞受賞者の多くはこの種の学者である。ところがたまたまその時代のレベルからあまりに飛躍隔絶した説を唱えるとすると、とうてい理解することができないから、かえって異端視し、排撃し、抹殺しようとするのである。それらの例として、ヨーロッパにおいても、キリストを始め、ソクラテスやコペルニクス、ガリレオ、ルーテル等々先駆者の受難史を見ても明らかである。ところが私の唱える説は、右の人達よりも層一層破天荒で一世紀も二世紀も進歩したものである以上、初めて聴く人や、既成文化に固まった人達は、唖然として進んで検討しようともせず、頭から極端な迷信として葬り去るのである。しかしもし単なる突飛な説であるとしたら、これほど非難攻撃を浴びせられ、糅(か)てて加えて絶えず官憲の圧迫を受けながら、微動だもせずますます発展を加えつつあるのは、そのところに何物かがなくてはなるまい。吾々が今日まで荊の道を潜り、槍衾の中を突破したことも幾度あったか知れない。にもかかわらず、予想以上に天国建設の事業は進展しつつあるのは、人間の理屈では解け難いことを覚らないわけにはゆくまい。* そうして本教のモットーである地上天国を造るその基本条件としては、まず個人の向上であり、天国人たる資格を得ることである。このような人間が増えるとしたら、世界は個人の集団であるから、やがては地上天国出現となるのは勿論である。

『天国の礎』宗教 上(昭和二十五年十一月二十日)

*祭典用に一部省略しております。

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