於:ツインメッセ静岡 南館

皆様、本日は御生誕祭おめでとうございます。

私どもはそれぞれ、この世での誕生日を持たされていますが、私どもは、何のためにこの世に生まれてきたのでしょう。どのようなものになるために生まれてきたのでしょう。
畏れ多いことですが、私どもは、新しく生まれ、神様の子供・メシヤとなるために生まれてきたのです。死にゆくために生まれてきたのでは、決してありません。

なぜならば、私どもの本当の親であり、創造主であられる神様は、地上に送り出した私どもを、再び天国に迎え入れ、ご自身と思いを通わせることのできる子供として新しく生まれさせ、その天国に永遠に住まわせることを心から願って、創造のみ業をなさっているからです。

明主様は、この神様の願いにお応えになり、そのみ業にお仕えになりました。

そして、明主様ご自身の中で成された神様のみ業を、私どもにお示しくださいました。

明主様は、ご昇天の前の年に、脳溢血でお倒れになり、その症状が続く中、昭和29(1954)年6月5日、碧雲荘に500名程の幹部の方々をお呼びになり、ご自身の中で「メシヤが生まれた」ことをご発表になり、それは、「生まれ変わる」のではなく、「新しく生まれる」ことであるとお伝えになりました。

この時のご発表の中で、明主様は、「言葉だけでなく事実がそうなんですよ。私(わたし)も驚いたんです」と明かされ、また、「奇蹟以上の奇蹟」とも仰いました。

事実や奇蹟によって私どもを目覚めさせようとしておられた明主様が、このように強調して述べておられるということは、私どもに対し、このことは、決して架空のことではなく、紛れもない事実として受けとめてほしい、そして、このみ業をぜひ受け継いでほしい、と強く願っておられたからだと思います。

記録によりますと、ご自身の中でメシヤが生まれたことに対する明主様のお喜び、嬉しさは大変なもので、このご発表をにこやかにお伝えになったとのことであります。

 

このメシヤとして新しく生まれるというみ業について、私どもは今まで、明主様お一人だけしか成し遂げることのできないみ業であると、何の疑いもなく信じ込んでまいりました。

果たしてそうなのでしょうか。断じてそうではありません。

明主様は、私どもの先駆けとして、このみ業にお仕えになった、と私は思います。
私どもの誰もが、人間の子供として生まれただけではなく、神様の子供として新しく生まれさせていただくことができるのです。そのように、あらかじめ天国で定められているのです。

私どもは、明主様と共に、神様の願いにお応えする喜び、幸せを味わわせていただくことができるのです。

明主様は、私どもと同じように、この世のご両親を通して人間の子供としてお生まれになりました。

人間の子供である以上、明主様が「無数の祖先の綜合が、個体たる自分である」とみ教えくださいましたように、明主様ご自身も、私どもと同様、「祖先の綜合」であります。

先祖の方々のいろいろな要素を御身に受けられて、この世での人生を歩まれました。

神様の存在に目覚め、信仰の道に入られてからの明主様は、地上天国建設、人類救済を掲げられ、多くのみ教えやお歌、浄霊、自然農法・自然食、芸術などの普及、聖地のご造営、また、数々のご事蹟や生きざまを通して、私どもの中に神様が生きて、いつもお働きくださっていること、私どもの中に神様の愛が存在し、天国が存在していることに目覚めさせようと、全身全霊をもって私どもを導いてくださいました。

そして、神様が明主様を通して最終的にお示しくださったことは、神様の子供・メシヤとして新しく生まれる、ということでありました。

 

神様は、全人類がこのみ業を成し遂げることができるよう、道を整えてくださいました。

神様は、創造をお始めになる前、私どもを世に送り出す前に天国を用意され、その天国において、私どもをご自身の子供とされるために必要なすべてのみ業を成し遂げられました。

そして、ご自身の一つ体(からだ)なる霊の子をお生みになり、メシヤと名付けられました。

神様は、大きな愛と赦しをもって、私どもが犯すであろう、神様に対する罪を、あらかじめ贖(あがな)い、浄め、救い、ご自身の子供として甦らせるというみ業を、天国においてすべて成し終えてから、創造をお始めになり、私どもを世に送り出してくださったのです。

ですから、私どもが世に生まれさせていただいたということは、私どもは誰であろうと、メシヤの御名を持たせていただいているのです。

メシヤの御名にあって、天国において成し遂げられたすべてのみ業を携えて、世に生まれさせていただいているのです。

神様の赦しと救い、そして、新しく生まれるという、甦りのみ業は、私どもの中にあるのです。

そして、神様は、私どもがその創造のみ業にお仕えすることができるよう、一人ひとりの中に、自我意識と呼ばれる意識を造ってくださいました。

神様は、この自我意識をお使いになって、常に私どもと交流しようとしておられます。

この神様の働きかけにお応えし、私どもは、神様に心を向ける努力をさせていただく必要があるのではないでしょうか。

私どもは、自我意識あればこそ、神様に心を向け、自らの命の親が神様であることを知らずにいた無知に気づき、悔い改めて、天国に立ち返り、メシヤの御名にある赦しをお受けするという意思表示をさせていただくことができるのです。

自我意識あればこそ、全人類を新しく生まれさせ、神様の子供たるメシヤとするという、全く新しい救いのみ業にお仕えさせていただくことができるのです。

 

本日の御生誕祭の三首目のお歌は、「数ならぬ身にしあれども御業(おんわざ)の端になりとも加へさせたまへ」というお歌でありました。

明主様ご自身が「数ならぬ身」と仰って、祈りを捧げてくださっています。

私どもは、自らの本当のふるさとを忘れ、神様に数えられないような者でありました。
しかし、私どもは今、明主様に導かれ、自らが新しく生まれ、神様の子供として数えられる者にならせていただくという望みを抱(いだ)くことができます。

この望みをもって、私どもは、明主様を先頭に、すべてを全く新しいものに造り替えるという、未来を創造する主神のみ業に、ほんの少しでもお役に立てるよう、倦(う)まず弛(たゆ)まず、お仕えさせていただきましょう。

 

終わりに、まもなく迎える新しい年が、皆様にとりまして、希望と安らぎに満ち、力強く前進させていただける一年でありますようお祈りいたしております。

ありがとうございました。

◆印刷用PDF:2018.12.23 御生誕祭お言葉(最終)

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