於:ツインメッセ静岡 南館

皆様、こんにちは。

今、ビデオにもありましたように、明主様が最終的にお示しになった「メシヤとして新しく生まれること」、これが、一体私たちにとって何を意味するのか、ということを、教主様はずっと私たちにお説きくださっていると思います。

明主様は、皆様ご存知のように、ご昇天前年に、「メシヤが生まれた」「新しく生まれる」とおっしゃって、その翌年にはご昇天になりました。ここで私たちが考えなければならないのは、ではメシヤとして新しくお生まれになった明主様は、その後、ご昇天になった時、1歳くらいの年齢でもうお亡くなりになってしまったのかと。そうではないですよね。あるいは、1954年に新しく生まれたとおっしゃって、それから70年、80年の間、霊界のどこかで生きられて、またお亡くなりになるのか、といったらそうではないですよね。

というのは、明主様は、「生まれ変わるというんじゃない」「新しく生まれる」とおっしゃった。ということは、明主様は今も生きていらっしゃるし、これからもずっと生きていらっしゃる。「生まれ変わらない」ということは、もう死なない、ということですよね。つまり明主様は、永遠の命を獲得されたんですよね。

明主様は、「メシヤが生まれた」とおっしゃって、〝永遠の命に込められている名前とはメシヤだよ〟と私たちに教えてくださったわけです。そして今教主様が、このことは、明主様だけのことではなくて、私たち一人ひとりも、メシヤという名前の付いた永遠の命を賜ることができるんだよと私たちを導いてくださっていますよね。

そこで私たちは、〝メシヤとして新しく生まれることを目標にしよう〟とか、〝メシヤの御名をお受けしなければいけないのかな〟というふうに思う。もちろん、目標にするのも、お受けするのも大切なんだけれども、私たちが忘れてはいけないのは、やはり「メシヤ」というのは、神様が、愛情をもってご用意くださった本当に大切な名前だということです。

例えば、お母さんが、自分の子供がどこか遠くから帰ってくるという時に、何とか子供に喜んで欲しいと思って、色々な食材を買ってきて、レシピも調べて、調理器具も最高のものを揃えて、料理を用意してくれる。あるいはお父さんが、息子が結婚する時のために、と思って、ずっと大工仕事をして、息子のために素晴らしい家を用意する。そして、実際にその時がきて、子供たちが家に帰って、料理を目の前にしたり、あるいは家を用意してくれたことに対して、親に、〝用意してくれてたのならじゃあいただきます〟とか、〝家が用意されているなら使わせていただくよ〟というような、あっさりとした反応を示すとしますよね。そういう反応であったとしても、もちろん親としては、子供が自分の作った料理を食べてくれて嬉しいな、私が作った家を使ってくれて良かったなと思うと思います。

だけど本当は、親としては、子供たちが、そのような時に、〝あっ、お母さん、私のようなもののためにこんな素晴らしい料理を作ってくださって、申し訳ないです。食べさせていただきます〟とか。あるいは、〝こんな私のために、こんな素晴らしい家を用意してくださったんですね。ありがとうございます。自分はこのようなものをいただくのに値する存在ではないですけれども、一生懸命お父さんが作ってくれた家に住まわせていただきます〟と子供が思ったら、親は本当に喜ぶと思います。

でもこれは、料理とか家とか、目に見える世界の話です。神様は、そうではなくて、人間では作ることすらできない、目には見えないもの。この、目に見えない「命」というものを私たちのために造ってくださっている。

そして、〝あなた方は死ななくていいんですよ〟と。〝永遠の命を与えてあげますよ〟と。そして、〝名無しの権兵衛じゃなくて、名前もあげますよ〟とおっしゃって、この「メシヤ」と名付けられた命を、私たちに授けてくださろうとしている。

だからそれが、今の例えの話のように、目標にする、とか、お受けしなければいけないのだな、ということだけでも、神様としては、〝そういうふうにお前が私に心を向けてくれて嬉しいよ〟とおっしゃると思います。思いますけれども、やはり私たちとしては、〝いや、神様にあんなに背(そむ)いた自分なのに、神様はこんなに素晴らしいものを私のためにご用意くださったんだ。私はもう死ななくていいんだ。永遠の命という本当の救いを、自分のためにご用意くださって本当に申し訳ないな〟というふうに思って、〝メシヤの御名をお受けさせていただきたいのです〟と思うことができたら、私たちの本当の親である神様は、お喜びになると思います。

そこで、私たちとしては、そういうふうに思える自分でいたい、という自分にとっての理想の姿というのがありますよね。だけど、現実の私たちはどうかというと、お受けしたいと強く思える時もあるし、お受けしたくない、と思うこともある。あるいは、何かもう、神様に心を向けること自体がもう嫌だ、ということもある。色々なことに悩み苦しんで、神様の存在すら信じられない、と思ったりもする。

だからここに、埋まらない差がありますよね。本当に悔い改めて、メシヤの御名をお受けしたい、という理想の自分と、そうはなかなか思えない現実の自分との差がある。そして、この「理想の自分」に近づくために何とかしたいんだけれども、何年かかっても難しいと。思えたり思えなかったりするんですと。

ではもう、私たちは、この世では、救いようがない存在なんですかと。そういうことで終わりなんですかと。でも私は、そうではないと思うんです。

明主様は私たちに何とおっしゃっているのか。色々な思い、悩み、葛藤(かっとう)に苦しんでいる私たちに対して何とおっしゃっているのか。明主様は私たちに対して、〝実はあなた方は天国人なんだ〟とおっしゃる。天国人。

もしそうであるならば、私たちの心に湧いてくる色々な思いがありますよね。メシヤの御名をお受けしたい、とか、したくないとか。人のことを妬(ねた)んだり恨(うら)んだり、神様に心を向けられないとか。それこそを私たちは救いに来たんだよと、そういうことですよね。

天国人であるからこそ、メシヤの御名を賜っているからこそ、メシヤの御名をお受けしたくない思いとか、色々と救いようのないかのような思いが私たちの心に集まってくる。そしてそれを、神様は、私たちを通して受け取ろうとしていらっしゃるのではないですか?救いのために。

でもこれは、〝じゃあお委ねをすればいいんですね〟〝想念の実践をすればいいんですね〟という単純なことでもないと思います。もちろんこれは大切なことなんですけれども、そのこと自体をどのような気持ちでさせていただくか、ここだと思います。

やはり、〝あっ、本当に神様は、愛をもって私の心を満たしてくださって、私のすべてを受け取ってくださろうとしているのですね。私の中にあるメシヤの御名にすべてを結んで、すべてを救うために、私の元にいろんな思いを集めてくださっているのですね〟というふうに思って、お捧げさせていただくと。

私たちは、このメシヤという本当に素晴らしいものをお持ちなのは、明主様だけだと思ってきたわけです。素晴らしい世界は、明主様の中だけにあると思ってきたわけです。だけどそれを、教主様は、そうではないんだと。〝あなた方一人ひとりの中にも、その、最も素晴らしい世界があるんですよ〟とおっしゃってくださっている。目に見える聖地とか、人間世界で考える幸せを遥(はる)かに超えた、私たちにとっての最高の幸せ、本当の幸せが、あなた方の中にもあるんだよ、とおっしゃってくださっている。

しかもこれは、私たちだけではなくて、実は、全人類が、どこにいようとも、その最高の幸せを一人ひとりの中に持たされているんです。神様の本当の素晴らしい世界、幸せに満ちた世界を持たされている全人類なんです。

だから、もちろん私たちはお受けさせていただくと。そして、お受けする中で様々に湧いてくる思いも、〝あっ、これは、私の心が神様の愛で満たされているんですね〟と。〝神様が受け取ろうとしてくださっているんですね〟と思うと同時に、周りの人にも、〝いや実はあなたの中にも素晴らしい世界があるんですよ〟と。〝メシヤの御名が刻まれた永遠の命があなたの中にはあるんですよ〟と。というように、神様の愛に包まれている全人類である、ということを、お伝えできる私たちでありたいと思います。

ですからそう考えますと、明主様は今、本当に、〝時が来た〟と。〝時が来たんだ〟とおっしゃっていると思います。明主様の本当の願い、本当の救いが、いよいよこれからスタートするその時が来て、今その岐路に立たされている私たちであると。

だから今、教主様が、あなた方一人ひとりの中に素晴らしい世界があるんだ、メシヤの御名があるんだ、とご教導くださっていることは、人類にとって、大変なことだと思います。そういう大変な、また、素晴らしい時代に立たされているのが今の私たちだと思います。

本日は、明主様の御生誕をお祝いする日ですよね。では、その明主様というのは一体どういうお方なのかと。それは、本当に、人類はこうあらねばならない、人類とはこういうものなんだ、人類の本当の幸せとは何か、ということを御身(おんみ)をもって成し遂げられたお方であると、そういうことですよね。

ですから、その明主様が地上にお生まれになったこの日は、本当に人類にとって大変意義深いものだと私は思います。そのおめでたい日を、こうして皆様とこのように盛大にお祝いしているということは、本当に幸せなことですよね。

今年は、本当に色々なことがありましたけれども、皆様と共に歩ませていただいて、私はこれ以上ない喜びを感じております。そしてまた来年も、教主様と共に、皆様と共に、明主様の救い、明主様の喜びが、成し遂げられていくみ業に、精一杯お仕えさせていただきたいと思っておりますので、よろしくお願いいたします。

ありがとうございました。

◆印刷用PDF:20181223_御生誕祭真明様ご挨拶_定稿

This post is also available in: English Português