※英語スピーチからの日本語訳

 

皆様、こんばんは。

先ほどは、オラシオ先生の決意を聞かせていただき、その言葉だけではなく、先生のお心に感動しました。

先生は、いづのめ教団からクビになる覚悟で行動されましたが、それによって、先生は、地上にあるものではなく、もっと崇高で、偉大なものを守ることになったと思います。

先生は、体的なものではなく、霊的なものを求められ、いづのめ教団に対してはっきりとした姿勢を示されました。

その先生の決心は、私の決心をより強めてくださいましたし、私は、この信仰の道を、教主様と共に、また、教主様を通して明主様に近づきたいと願っておられる日本、また世界の信徒と共に、これからも歩んでまいる覚悟です。

オラシオ先生のお心に、心から感謝申し上げます。ありがとうございます。

また、アレッサンドラさんの決意発表、誠にありがとうございました。温かい言葉と歓迎の気持ちを、ありがたく受け止めました。

決意発表にありました、メルボルン浄霊センターに昔、火事があったことは、少し聞いています。そのことで、結果的に拠点を出なければいけなくなった、ということですが、それは、今の日本の状況とも重なる部分があると思います。

教主様と共に歩む日本の多くの信徒は今、今までの拠点から離れなければならなくなりました。

しかし、アレッサンドラさんの発表にもありましたように、今まで私たちは、教会に行って、参拝し、ご奉仕することが「ご神業」だと思ってきたと思います。そうなってしまっていたのかもしれません。

しかし、そのことによって、様々な事情によって教会に行けない信徒などは、寂しい思いをしてきた面もあると思います。しかし、日本では、拠点が無くなったために、専従者や信徒が、より積極的に信徒のお宅等に訪問し、お話をたくさんお聞きし、また何かお話しすることができたりと、そのようなことが起きていると聞いています。そして、多くの人が、そのようなことこそが「ご神業」であると感じていると伺っています。

自分には通うべき教会がある、所属する組織がある、ということによって、私たちは、「ご神業」というものを限定的なものにしてしまっていたのかもしれません。そして、「教会に通ってさえいれば、神様にちゃんと礼は尽くしているんだ」と、そのようなことで終わっていたのかもしれません。

しかし、ひとたび通うべき教会が取られてしまう、当たり前だと思っていたことが無くなってしまうことによって、何か、私たちの信仰に再び火がついたように私は感じています。

ですから、明主様が「浄化」とみ教えくださいますように、浄化は、当初はひどいことのように感じますが、やはり、それらが、私たちの信仰の養いには欠かせないものであるのだと思います。ですので、アレッサンドラさんのメルボルンでの歩みは、日本の信徒の歩みと重なる部分があると思いますし、拠点が無くなる、ということを通して、本当のご神業とは何か、また、明主様が私たちに対して本当は何を願っていらっしゃるのか、ということを考える大切なきっかけとなったように感じています。

明主様は、私たちがただ教会に通っているだけで喜ばれるのか?やはりそうではなくて、私たちが、お互いの話を聞き、お互いの思いを打ち明け、そして支え合う、それを明主様は願っていらっしゃると思います。

火事のこと、またその後もいろいろ大変なことがあったと思います。しかし、それを私たちに共有してくださり、ありがとうございました。

 

私がこのようにオーストラリアに来ることができるのは、日本の、主之光教団といづのめ教区の信徒の皆様のおかげである、ということを皆様には知っていただきたいと思います。

そして、私がこのようにオーストラリアに来て皆様にお会いする、というような素晴らしいことが実際に起きるとは、まったく想像もしていないことでした。

今回の教団浄化が表面化する前から、私は、一部の方々が教主様を排除しようとしていることは感じておりました。

そして、その教主様を排除しようと目論(もくろ)む「執行部」は、いわば、体的なものを所有している形式をとっています。ですから、これから教団浄化が表面化していくだろうな、と思いました時に、私は考えました。「このまま教主様に付いていけば、私はおそらくクビになるであろう」と。というのは、私は、その教主様排除を(たくら)んでいる「世界救世教」に雇われていますので、その可能性があると、そう思いました。

それで、当時、私は妻に話しました。「私は、教主様がお説きくださっていることが、明主様の真の願いであると信じています。そして、教主様に付いていけば、クビになり、仕事を失う可能性があります」と。というのは、今は、多くの信徒が教主様と共に歩んでくださっていることを私は知っていますが、当時は、この先どうなるかまったく分からない状態でした。ほとんどの信徒が、明主様のみ心よりも、体的なものや、目に見える聖地のほうを優先するかもしれない、とも思いました。とにかく、どういうふうになるか、まったく分からない状態でした。ですから、妻に、「私は仕事を失うかもしれない。その時には、一時的に家族を養うことはできなくなるかもしれない」と伝えました。その時、私たちはちょうど、一人目の子どもが生まれようとしている時期でもありました。そして妻に、「そういう可能性があるけれども、私は教主様に付いていきたい。それでもいいですか?」と聞きました。妻は、「はい」と言いました。そして、「私は教員免許を持っているから、私もなんとか仕事を見つけられるかもしれない。それで少しは生活の足しになると思います」と言いました。私は、妻の決意に本当に胸を打たれました。

私は、この信仰の道を、自分だけではなく、家族と共に歩むことができる、というのは、本当に大きな神様からの恵みだと思っていますし、妻は、私を常に100%サポートしてくれていることに、これ以上ない感謝の念があります。

そのようなことがあってからしばらくして、実際に教団浄化が表面化しました。そして、日本にいる多くの信徒が、教主様を守るため、明主様のご神業を守るために立ち上がってくださいました。浄化が起こる前には、そのようなことが起きてほしいと願い、前向きな気持ちでいようとは思っていましたが、何が起こるかというのは誰にも分からないことです。でも、結果的に、日本の信徒が立ち上がってくださった。ですので、日本の信徒がいなければ、そして、教主様をお支えしたいと立ち上がってくださっている皆様がいなければ、今回の私の訪問は実現しなかったものです。本当に、私がこうして今日、皆様とお会いしていること自体、私は奇蹟だと感じています。皆様に対して、そして、日本の信徒の皆様、日本の専従者の皆様に対して、私は、私の感謝を表現する言葉がありません。

 

教主様は私たちに様々なことを教えてくださっています。確かに、教主様のお言葉は理解するのが難しいと感じることもあるでしょう。しかし私は、教主様が私たちにお説きくださっていることは、一つのことに集約されると思います。それは、新しいリーフレット「神様の子どもとなるために」にもあるように、私たち一人ひとりがメシヤの御霊(みたま)をお受けして、神様の子どもとなりたいか否か、ということです。教主様は、私たち一人ひとりに聞いてきておられるのです、「あなたは、あなたの中にあるメシヤの御霊をお受けして神様の子どもとなりたいですか?」と。時には、その問いすらも我々には理解が難しいと感じることもあるでしょう。なぜなら、私たちは、「私たちはすでに神様の子どもではないのか。なぜ神様の子どもとして新しく生まれなければならないのか」と思うこともあるからです。

しかし、皆様が奉唱されています「誓いの言葉」にもありますように、神様は、深い愛をもって、私たちを「メシヤ」と名付けてくださいました。子どもを名付ける時、普通、親は、親の願いや愛をその名前に込めますよね。神様も同じだと思います。ですから、「メシヤの御名があるの?そういうことなら受けます」という姿勢ではだめだと思います。親が子どものために何かをしてあげる時、親は、本当に愛を込めるわけですから、やはり、子どもには、その愛を込めたものを本当に子ども自身が望んで受け取ってほしいと思いますよね。せっかく親が何年も何年もかけて準備したものを、「そういうことなら受け取ってあげてもいいよ」というような姿勢では、親も悲しむのではないでしょうか。

ですから、メシヤの御名をお受けしたいかしたくないかは、私たち一人ひとりの問題なのです。もし軽い気持ちでお受けしたいと思うなら、神様は、「それでは受けなくてよろしい」とおっしゃると思います。お受けするかしないかは、私たち一人ひとりの決断なのです。神様は、「私の子どもになりたいか?」と、「本当に、私の子どもになりたいか?」と聞いてきておられます。

神様の子どもになるということは、神様があなた方の王様になるということです。ということは、これからは、自分が王様ではいられなくなる、ということです。人間は、自分が、自分自身の王様でいたい、そして、自分の人生を自分でコントロールしたい。しかし、神様の子どもとなって神様を受け入れる、ということは、これからは、神様があなた方の王様となり、あなた方は神様にお仕えする、ということになるわけです。

ですので、メシヤの御名をお受けし、神様の子どもとなりたい、というのは、簡単な決断のようですけれども、私は、これは、実は人間にとって、大変難しい決断だと思います。

「祈りの言葉」の最後に、「み心のままにお使いください」とありますよね。私は、この言葉を口に出すのを躊躇(ちゅうちょ)する時があります。というのは、私は、自分の都合の良いように自分を使いたい、という思いが自分の中にあるからです。だけど、「み心のままにお使いください」と言ってしまったら、神様は、「そうか、分かった。では、私の都合でお前を使おう」と、そうおっしゃるわけですから、それが、人間にとっては大変厳しいことだと思います。これは、ある意味においては恐ろしいことでもあると思います。神様が、私たちをどのようにお使いになるか、人間にはまったく分からないですよね。ですから、み心のままに使われることは、怖さや不安もあると、私は思います。

しかし、色々な不安や不確かなことがあっても、もし私たちが勇気をもって神様のみ元に飛び込むならば、神様は、必ずやその大きな御手(みて)によって私たちを支えてくださると私は信じています。そして、いかなる浄化に(あ)おうとも、神様は、私たちに、「大丈夫だよ」と言ってくださると私は信じています。そう考えますと、教主様が私たちに本当に気が付いてほしいのは、一言でいうと、「神様の本当の愛」であると私は思います。

新しいリーフレット「神様の子どもとなるために」を使い始めることによって、明主様のご神業は、全く新しいステージに入ることになると思います。

明主様は、メシヤとは、「キリストの再臨」であるとみ教えくださいました。これは、とてつもなく大きなご発言であり、御教えであると私は思います。今まで私たちは、明主様が「キリストの再臨」とおっしゃったことにつき、あまり深く考えてこなかったのかもしれませんが、私は、これは、極めて重大なことであると感じています。

今まで私たちは、「キリストの再臨」は一人だけに起こる問題だと思ってきたと思います。でも、「神様の子どもとなるために」にありますように、もし、私たち一人ひとりがメシヤの御霊(みたま)、キリストの御霊を持っているならば、その御霊をお受けすることによって、私たち一人ひとりも「キリストの再臨」をお受けすることができる、ということになるのです。

明主様は、この地上でそのみ(わざ)を成し遂げられた最初のお方であり、また、イエス・キリストが本当に人類に伝えたかったことを完成させたお方である、と言ってもいいのかもしれません。私たち人類は、誰でも、メシヤという名前、キリストという名前に結ばれた兄弟姉妹である、ということです。

「神様の子どもとなるために」の中に込められたメッセージは、シンプルなものに思うかもしれませんが、それは、本当に神聖で、尊いものだと私は思います。

 

教主様は、私たちは、明主様に倣い、神様の子どもたるメシヤにならなければならない、とお伝えくださっています。教主様は、そのメッセージをお伝えされたことによって、大変な攻撃に(あ)われています。しかし教主様は、決してそのメッセージを降ろされませんでした。教主様は、「このメッセージが問題なのですね。分かりました。ではもう言いません」とおっしゃることも充分可能だったわけです。でもそうされなかった。

このメッセージが、ここまで攻撃に遭うこと自体、いかにこのメッセージに、メシヤの御名に、パワーがあるかの証拠だと思います。メシヤの御名のパワーをなんとか封じ込めたい、だからこれだけ教主様は攻撃されているのだと思います。

教主様は、明主様が私たちに遺してくださった「メシヤの御名」を守るために立ち上がってくださったと私は思います。私は、教主様のお側にいさせていただいて、教主様のお覚悟を肌で感じています。そして私は、教主様に付いていくことを決心しています。そして私は、教主様と共に、また、教主様と歩まれるすべての方々と共に、明主様の真のメッセージを世界中に伝えてまいりたいと決心しています。

私は、メシヤの御霊をお受けして歩ませていただけるこれからを本当に楽しみにしています。私は、人類の一人ひとりが、私たちの中にある神性を帯びた魂に目覚めることが、本当の全人類の救いの道だと信じています。ですから私は、このメッセージを、皆様とご一緒に、世界中にもたらしたいと願っています。

本日が、我々にとって、その救いの業のスタートの日でありたいと思います。ありがとうございました。

 

印刷用PDF:2018.12.05 真明様メルボルンJC「信徒の集い」ご挨拶

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