於:ホテル ナゴヤキャッスル 天守の間

 

皆さま、立春祭おめでとうございます。

ただいまのビデオを見て、昨年皆さまと全国各地で接したことを思い出して、感極(かんきわ)まるといいますか、改めて感動いたしました。

私たちにとって昨年は大変な年でしたけれども、皆さまお一人おひとり、逆境の中にあっても本当に明るくて、その皆さまの明るいお心に私自身たくさん励まされました。皆さまのおかげで昨年一年を過ごせましたし、また今年も皆さまと共に歩んでまいりたいな、という思いをビデオを拝見しながら新たにさせていただきました。

本当に改めまして、皆さまの尊い信仰のお心に感謝させていただきたいと思います。ありがとうございます。

 

皆さまのお姿を拝見して、私は、明主様のご立教当初の信仰とはきっとこのようなものだったんだろうなと思いました。

皆さまもご存知のように、明主様は非常に貧しい家庭にお生まれになって、そして病が多い少年時代、青年時代を過ごされました。そして明主様のお父様が亡くなられて、そのお父様からのわずかな遺産をもとに商売を始められて、それが成功し、実業家となられました。

しかし、その後、商売の失敗や様々なことが起こる中で、明主様は神様を求められ、そして神様に出会われました。

そしてそれ以降は、岡田商店という商売のことは番頭に譲り渡して、すべてを神様にお捧げになってご神業に身を投じられました。

そのようなお姿は、明主様ご立教当初、明主様の周りにお集まりになった先達の方々も同じであったと思います。明主様を通して神様を感じられて、そしてその神様にすべてをお捧げしたい、神様にお仕えしたい、という信仰の心を持たれていたと思います。

そのような明主様や先達の先生方の尊いお心によって、明主様を信じる集団ができました。だけれども、ひとたび組織ができ、年を経るごとに、いつの間にか、組織を維持することが優先されたり、神様にお捧げをするということよりも、おかげをこうむることばかりを考えてしまったり、また、目に見えない神様よりも、目に見えるものを追い求めてきた姿が私たちの中にあったのかもしれない。

その私たちの姿を明主様が天界からご覧になって、「お前たちには、再び、私や、私の周りにいた先達の人たちが持っていた信仰の心を思い出してほしいんだ。その私の思いを受け止めてくれるか?」と、そう思われたのではないのかなと思います。

そして昨年、明主様はその問いを私たちに投げかけられました。「お前たちは、目に見えるものを大切にするのか。それとも目に見えない心の喜びを大切にするのか、どちらなんだ」と。そして、その問いに対して、目に見える世界よりももっと大切なものがあると決断されたのが皆さま方であると思います。

そういう意味においては、明主様や先達の先生方は本当に今、天界において、お喜びになっていると思います。明主様があれだけ苦労されてご立教をされたけれども、そのご立教のみ心は、もう滅びかけていた。けれども、そのみ心を継承してくださる皆さまがこうして今、歩んでいらっしゃるということに、明主様はものすごく喜んでおられるのではないのかなと、私はそのように感じております。

 

一方で、昨年や今も含めて様々なことがある中で、私たちは、やはり、拠点に執着をしてしまうとか、教会に執着をしてしまう、という思いを持つこともありますよね。そして、自分は拠点に執着をしてしまって、それが悪いことなのではないかと自分を責めてしまう。目に見えない教会とか、目に見えない聖地を信じられない自分は信仰心が足りないんじゃないだろうか、明主様に申し訳ないな、というふうに思ってしまう。

だけど私は、それは決して自分を責めることではないと思います。神様の御心(みこころ)を考えますと、神様は私たち一人ひとりの中に、すばらしい聖地、すばらしい世界を用意してくださった。だけれども、私たちはいつの間にか、救いや光というものが、私たちの中にあるすばらしい世界ではなくて、目に見える教会とか、目に見える聖地に救いや光があると思い込んでしまって、そしてそれを求めてきてしまった面もあるのかもしれません。

そのような私たちをご覧になった神様は、「お前たち、思い出してほしい」と。「そのすばらしい世界は、本当は、お前たちの中にあるじゃないか」と。そういう、神様ご自身の、目に見えない教会や目に見えない聖地に対する執着のような思い。その神様の執着の思いが私たちの心にまで到達して、そして私たちはそれを感じさせられているから、私たちとしては、目に見える教会や拠点に執着する思いを感じているのではないでしょうか。

だからこれからは、もし、目に見える教会や拠点に執着をしている思いが湧(わ)いてきたとしたら、その思いを否定せず、「あっ、これは自分の思いじゃないんだ」と。「神様が私の心を愛で包んでくださって、神様が、私たち一人ひとりの中にある最も大切な場所。教会であり、本当の救いの光がある場所、そこをなんとか思い出してほしいと願っていらっしゃる思いを私は感じさせられているんですね」と、そういうふうに置き換える、というんですかね、そうさせていただいたらいかがでしょうか。

そして、多くの方々が目に見える世界を主とした思いをまだまだ持っていますので、もし自分が神様の思いを感じさせていただけたならば、「多くの方々にもこの神様の思いが分け与えられるようにお使いいただきたいな」というふうに思えれば良いのかなと思います。

 

先ほど拝見したビデオにもありましたが、現在、全国で拠点が開所したり、鎮座祭が行われたりしていますよね。その時に非常に喜びますよね。喜ぶんだけれども、その時に、今までのように、以前あった教会が無くなってしまって、また拠点ができてうれしいな、というふうに思うよりも、「この喜びは、私の中にある、本当のすばらしい教会や目に見えない聖地に出会えた喜びなんだな」というふうに思わせていただくことが大切じゃないのかなと思います。

というのは、皆さま方の中でも、まだ拠点が見つからないところや、あるいは様々な統廃合で教会が無くなってしまうところもあります。そうすると、新しい拠点が開所などした時に、それを、目に見える教会に触れた喜びというふうにしてしまうと、その喜びは、限られた人たちだけの喜びになってしまう。

だからそうではなくて、もし自分が開所式や鎮座祭に参加することができて、本当にうれしいなと感じさせていただいたならば、「この喜びは、元々、自分の中にあったすばらしい教会とか、光のある世界に触れた喜びなんだな」と。そして、同じような思いを感じられない方々や同じような経験ができない方々もたくさんいらっしゃいますので、「そのような方たちとも共にこの喜びを味わわせていただきたい」という思いで、鎮座祭に参加したり、教会などに通わさせていただけるならば、本当に私たちみんなで一体となって、明るく進んでいけるのではないのかなと思います。

 

本当に、教主様は長年、「あなた方の中にあるんだ」と、「すばらしい世界はあなた方の中にあるじゃないか」と、ずっとご教導くださっておりましたけれども、私たちにはその実感がなかなか湧かなかった。湧かなかったんだけれども、昨年、目に見える拠点を出なければいけないとか、新しい拠点を探そうとするけれどもなかなか見つからない、という様々なご苦労をされる中で初めて、本当に、自分の中にそういうすばらしい世界はあるんだな、という心を、私たちは明主様からお導きいただけたのではないのかなと思います。

そして今、もし私たちが、自分の中にそういうすばらしい世界があるということを思えれば、皆さまお一人おひとりが、いわば、地上天国の模型、地上天国の雛形(ひながた)という存在となれるのではないでしょうか。

そしてそれを、周りの方々に対しても、「実はあなたの中にもすばらしい世界があるんですよ」と。そして世界中の人々が、「あっ、自分は地上天国の雛形なんだ」と。「人間という存在ではあるけれども、私の中に天国があって、自分自身が地上天国の雛形なんだ」と思えて、そういう人が増えていく。それがやはり、明主様が願っておられた、地上天国が広がっていくということ、地上天国建設、ということではないでしょうか。

ですので、本当に、昨年からの流れの中で今、皆さま方を通して、明主様が本当に願っておられた地上天国建設、人類救済のみ心がどんどん進められていることに私は大きな喜びを感じていますし、それはきっと明主様も同じだと思います。

 

私たちの周りには、目に見える拠点とか目に見える世界のものがいろいろありますけれども、誰にも侵(おか)すことのできない私たち一人ひとりが持たされている最も尊いもの。それは一人ひとりの「心」。これは誰にも取ることはできないですよね。私たちの心というのは本当に尊いものであって、誰にも侵されることのないものであると。

そして、私自身のことでいえば、その私の心は、皆さまと共に歩ませていただけて、今、これ以上のない喜びがあります。その喜びを持って今年一年も皆さまと共に、明主様のお導きのままに、神様のみ業にお仕えさせていただきたいと思っておりますので、よろしくお願いいたします。

ありがとうございました。

 

※午前と午後のご挨拶をまとめたものです。

印刷用PDF:2019.02.04 立春祭真明様ご挨拶_定稿

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