於:リーガロイヤルホテル大阪(3F光琳の間)
皆様、おめでとうございます。
ただいまのビデオをご覧になって、皆様はどう思われましたか。
私は、感動したと同時に、明主様に対し、申し訳ない思いになりました。明主様が脳溢血(のういっけつ)という病(やまい)の中にあって頭が痛い。その中にあって、これは神様からのメッセージだと思われて、ヘンデルの「メサイア ハレルヤコーラス」をたくさん聞かれて、そして信徒に歌ってほしいと願っておられたそのお気持ちを、私たちは一体どこまでお受けしていたのだろうかと。感動いたしましたけれども、明主様に対して申し訳なかったと。ここまで長年かかってしまって、申し訳なかったと、そういうことを思い、明主様にお詫(わ)びをさせていただくような思いになりました。
でもそれが今、教主様のご教導によりまして実現しようとしていることに、本当に、明主様がお喜びになるものを私たち皆でお捧げできたらいいな、というふうに、ビデオを見て思わせていただきました。
このリーガロイヤルホテル大阪は、主之光教団の方々は初めての方が多いと思いますけれども、私やいづのめ教区の方々は、昨年の地上天国祭をここで執り行わせていただきました。
去年の6月のその前の4月、5月、私自身は、審定委員会というものがありまして、私が専従者や信徒の方々に伝えている内容がおかしいということによって、信徒籍剥奪(はくだつ)ということがあった時期でした。
その中にあって、この先どうなるんだろうと、明主様のご神業はどうなるんだろうか、という不安もあった中で、地上天国祭がここで行われたわけですけれども、いづのめ教区の多くの信徒の方々がお集まりになって、本当に心強かったですし、これから進んでいくんだと、そういう思いを抱(いだ)かせていただけた場所であります。
その場所で、昨年の地上天国祭から一年も経(た)たないうちに、いづのめ教区の方々だけではなくて、主之光教団の方々ともご一緒に、この春季大祭を、このように盛大に執り行わせていただいております。
喜びということだけではなくて、何か言葉に表現できない思いがあります。明主様のご神業のお進めになりようや、また、それにお仕えしなければならないという厳しさ、それにお仕えできる喜び、楽しさ、期待、不安、そういうものが私の胸にはたくさんあって、なかなか言葉にするのが難しい思いが今、あります。
でも、こうやって皆様とご一緒にこのような場をもたせていただいておりますことは、皆様の明主様を求める信仰のおかげです。本当にありがとうございます。
春秋の大祭では、信徒の皆様の献歌を奉唱させていただきますね。いづのめ教区の方々は長年、献歌をしておられましたけれども、今回は主之光教団の方々とご一緒に、ですね。皆様の献歌を、祭典で皆様とお上げさせていただくことを、いつも楽しみにしております。
今日も、皆様の、教主様を通して伝えられる明主様のみ心を求めようとする信仰の思いに満ち満ちているお歌を共に奉唱させていただけて、私自身も、「あっ、こういうふうに思えばいいんだ」ということや、また励まされたり、皆様のお歌からいつもたくさんの学びや気づきをいただいております。
来月からは、皆様ご存じのように「教主様のお歌」を私たちはいただくことになります。それらも、当然、大切に受け止めさせていただきますけれども、皆様の信仰の気持ちが込もった献歌も、私の信仰の学びとさせていただきたいと思い、楽しみにしております。
今のビデオにもありましたように、今度の地上天国祭では、ヘンデルの「メサイア ハレルヤコーラス」を神様、明主様にお捧げすることになっております。そして、新しい「神様の子どもとなるために」の教団リーフレットも今、配布が始まっております。メシヤの御名をまず自らがお受けして、それを人々にもお伝えしていく、そういう活動がいよいよ本格的に進められることになります。
そういう中で、どうしても私たちが乗り越えておかなければいけないこと、克服しておかなければいけないことが一つあると思います。それは、今のビデオにもありましたように、「明主様だけがメシヤなのか、そうでないのか」。ここを私たちの中で、もはや曖昧(あいまい)にしておくわけにはいかないと思います。
私たちの中には、それはどちらでもいいじゃないかと。自分は明主様によって救われたし、神様に出会わせていただいたんだ。だから、明主様がメシヤであろうが救世主であろうがどちらでもいいんだ、という思いもあるかもしれません。あるいは、明主様は「私のメシヤ」「私たちのメシヤ」なんだから、それでいいじゃないか、というふうな思いもあるかもしれません。それは、自分個人の救いのことだけを考えれば、そのようなことでいいのかもしれません。
しかし明主様は、「あなた方は、自分が救われるだけではなくて、すばらしい世界を造る人たちになりなさい」ということを私たちに命じられた。「地上天国建設」ということを、私たちに課せられた使命として託(たく)されました。
地上天国建設とは、すなわち、人類救済、つまり、すべての人が救われる、ということです。
「メシヤ」という名前は、明主様が世界救世(メシヤ)教という名前をお使いになったり、また、メシヤ降誕もご発表になったりしたように、私たち明主様の信徒は、メシヤという名前から逃(のが)れることはできない。その名前をお受けして進んでいかなければならないということは、間違いがない。
そのように、メシヤという名前を出して人類救済を進めていくことを考えますと、私たちは、すぐ、イエス・キリストという存在にぶつかります。というのは、キリスト教徒は、イエス・キリストを唯一のメシヤと信じているからです。
ですから、もし「明主様だけが唯一のメシヤである」ということで人類救済を進めていくならば、イエスを唯一のメシヤと信じているキリスト教徒とは一生相(あい)いれることはない。全人類70億人のうち、20億はいるといわれるキリスト教徒を私たちが救うことはできなくなる。その20億人の救いを私たちは諦(あきら)めるのか、諦めていいのかと、そういうことになると思います。
人類救済というと響きは良いですけれども、これは架(か)空(くう)の話ではないんです。人類救済が架空の話であるならば、明主様だけがメシヤである、明主様は私たちのメシヤである、ということでもよいのかもしれません。しかし、全人類の救済は、神様が私たちを通して実際に進めておられることです。
そうした中にあって、メシヤの御名を出すならば、一体私たちは、イエス・キリストという存在とどうやって向き合っていくのか。これは絶対に避けられない問題です。
もし、明主様だけが唯一のメシヤであるとするならば、そして全人類がそういう認識にならなければ地上が救われないとするならば、例えば、ヨーロッパやアメリカや世界中にあるいろんなキリスト教関係の芸術、教会、音楽、絵とか、そのようなものがたくさんありますね。そのような、キリストを題材としたものについて、欧米の人たちや世界中のキリスト教徒が、「これは間違えていました」と。「イエス・キリストはメシヤではなかった」と。「聖書も間違えていました」「教会に十字架をかけていたのは間違いでした」と。「キリストに関する芸術作品もすべて間違えていました」「ヘンデルの『ハレルヤコーラス』もイエスではなくて、明主様を讃えていたものでした。申し訳ございませんでした」と。そういうふうになるのか、というと、私はそういうふうになるとは思えません。
もしそうであるならば、なぜ明主様は、私たちに対して「キリスト教と呼応して救いを進めなさい」とおっしゃる必要があったのでしょうか。
イエス・キリストはメシヤとして新しく生まれた。これは事実です。そして、明主様もメシヤとして新しく生まれた。これは事実です。明主様もメシヤであるし、イエスもメシヤであると。
でも、それだけではなくて、今、教主様は、イエスや明主様だけではなくて、私たち一人ひとりもメシヤと名の付いた尊い魂をいただいている存在なんですよと、このようにお導きくださっています。もしそうであるならば、これは誰をも否定しない、全人類に対して、本当に開かれた救いのメッセージになると思います。
もし明主様だけが唯一のメシヤであるならば、ヘンデルの「ハレルヤコーラス」も、キリスト教徒の方々と一緒に歌うことはできなくなりますね。キリスト教徒の方々が「私は間違えていました。イエスではなく、明主様が唯一のメシヤでした」という認識にならない限り、一緒に歌うことはできない。
でもそうではなくて、「私たちは、キリスト教徒の方々も認めています」と。「イエスはメシヤであると認めています」と。でもそれだけではなくて、彼らに対して、「私たちは、私たちの中にもメシヤの魂があると信じています」と。そして、「それはあなた方の中にもあるんですよ」とお伝えすることができますよね。そして、「どうぞ、ご一緒に『ハレルヤコーラス』を聞きましょうね」と言うことができますよね。これは、仏教の方でも、イスラム教の方でも、神道の方でも、平等に伝えることができるメッセージだと思います。
ですから、地上天国祭で「ハレルヤコーラス」の奉納をさせていただくわけですけれども、これは、誰を讃えている曲なのかということで迷うことはないわけです。「全人類の中に平等にある神様の魂。メシヤの魂。それを讃えてる歌なんだな」と思って聞かせていただく。歌わせていただく。
そして、「神様の子どもとなるために」のリーフレットも、「全人類の中に平等にあるメシヤの御霊(みたま)を知ってほしい。その魂に目覚めてほしい」という思いでその活動に取り組むことができると思います。
そういう意味において、私たちは、メシヤの御名を受けたイエスの土台の上にいることは間違いがない。間違いがないけれども、この救いはキリスト教では説(と)かれていない。この本当の救いは、キリスト教では説かれていないんです。全人類の誰もが、メシヤと名の付いた魂を賜(たまわ)っている。この本当の救いの福音を宣(の)べ伝えていくのは、明主様の信徒である私たちに託(たく)された使命なんです。
そしてこれは、私は、全人類を本当の意味で救う唯一の道であると思いますし、信じています。でも私たちは、この救いのメッセージに、私たちだけでは気が付くことができなかった。教主様から教えていただいて初めて、私たちは、この明主様のメッセージに目覚めさせていただけた。だからこそ、私は、今の教団方針・合言葉にありますように「どこまでも教主様と一つ心に」というのが本当に大切なものであると受け止めています。
ですから、私自身、皆様とご一緒に「どこまでも教主様と一つ心に」、この明主様の本当の願い、本当の地上天国建設、本当に全人類が救われるという道を歩んでまいりたい、光に満ちあふれた世界を造ってまいりたい、と思っております。
その道が、今私たちの目の前にある。明主様は、「あなた方はその道を歩みなさい」「確信をもって歩みなさい」とおっしゃっていると思います。
この道。これは、スケールの本当に大きな大きな、壮大な救いの御用だと思います。その御用に、今日も、そしてこれからも、皆様と共に歩ませていただきます。
ありがとうございました。
※午前と午後のご挨拶をまとめたものです。
印刷用PDF:20190330_春季大祭_真明様ご挨拶