令和元年615

於:プラサヴェルデ  キラメッセぬまづ

 

皆様、本日は地上天国祭おめでとうございます。

明主様のお導きにより、主之光教団の皆様、いづのめ教区の皆様、東方之光教区の皆様が一堂に集(つど)われる中で、本日の祭典を執り行わせていただくことができましたことを、大変ありがたく思っております。

 

本日は615日でありますが、今から88年前の昭和6(1931)615日の未明、明主様は、随行者28名と共に千葉県の鋸山にお登りになり、大海原から東の空に昇る太陽に向かい、ご自身が先達となられ、「天津祝詞」を奏上されました。

この時、明主様は、主神より啓示をお受けになり、それを「霊界における夜昼転換の啓示」と仰せになりました。

この「夜昼転換」は、明主様がご在世中、繰り返しお述べになったことからも明らかなように、明主様のお説きになった「地上天国建設」の根幹をなすものであります。

それでは、主神が明主様を通してお示しくださった夜昼転換の啓示とは、私どもにとってどのような意味があるのでしょうか。

私どもは、夜昼転換という表現から、その意味を、この地上において私どもが経験する夜から昼への転換、夜が明けて朝になり昼になっていくという、移り変わりの意味での転換を連想しがちでありますが、そうした連想のみに基づいて、その意味を受けとめるべきではないと思います。

明主様は、「霊界における」夜昼転換と仰せになっています。

明主様が「霊界における」と仰せになった、その霊界とは、どこにあるのでしょうか。

明主様にとっての霊界は、私どもにとっての霊界でもあります。霊界は一つ、主神が治めておられる霊界です。

そして、明主様が「霊界は想念の世界」とみ教えくださいましたように、霊界は、想念、すなわち、私どもの意識の世界のことであります。

その意識の世界での夜昼転換とは、どのようなことなのでしょうか。

 

私どもの意識の中心には、すべてを創造する世界、言い換えれば、すべての創造の原因の世界である天国が存在しております。

その天国は、夜もなく昼もなく、大光明燦然と輝く、光の源の世界であります。

主神は、ご自身の子を生むために、その天国で、ご自身の分霊(わけみたま)をお生みになり、メシヤと名付け、そのメシヤの御名にある光をもって、天地万物一切を創造されました。

私どもは、一人ひとりが、主神の子供となるために、光そのものであられる主神から生まれ出たものであります。

しかしながら、私ども全人類は、自分の真(まこと)の親である主神の思いを忘れ、光を持たされて生まれてきていることを知らずに生きてまいりました。

主神の思いよりも自分の思いを優先し、自分の尺度で自他を評価し、おごり高ぶり、自分の思いのままに生きてまいりました。

そのままでは、私どもは御前(みまえ)に罪あるものとなり、主神が私どもを天国に再び迎え入れ、ご自身の子供とされ、私どもと共に天国に住まわれるという目的、すなわち、人類を救済し、地上天国を建設するという目的を達成することはできません。

だからこそ、主神は深い愛をもって私どもを顧(かえり)みてくださり、メシヤの御名によって私どもを赦し、御前に罪のないものとしてくださったのです。

主神は、私どもが反省と後悔を繰り返し、堂々巡りしていた、今までの心の営みにピリオドを打ち、新しい創造の養いの中に迎え入れてくださったのです。

そして、私どもが主神のみもと、光の源である天国に立ち返ることのできるように、メシヤの御名という道を用意してくださったのです。

その大いなる赦しを、そのこの上ない恵みを、主神が明主様を通して私ども全人類に告げ知らせてくださり、私どもが光を持たされて生まれてきていることを思い出させてくださったのが、夜昼転換の啓示だったのではないでしょうか。

この、夜昼転換を成し遂げた光が、全人類に対する罪の赦しであることについて、明主様は、次のように述べておられます。

罪障(ざいしょう)なるものは大きな光に遇(あ)えば速かに消えてゆくんであります」「太陽が出れば如何(いか)なる光も消されて、世界中が一度に明るくなるんであります」「太陽が出たのを知った時、素直に戸を開け放てば此(この)大きな光を無雑作(むぞうさ)に受け入れらるるのであります」

私は、明主様が、鋸山の頂(いただき)で、東の空に昇りくる太陽に向かって参拝されたということは、ご自身の中に存在する天国に立ち返られ、「霊的太陽」、すなわち、全人類の罪を赦すというメシヤの御名にある主神の光が、ご自身の中に輝いていることに気づかれ、そのことを全人類を代表して主神に奉告されたのではないかと思います。

私どもは、全人類が、夜に例えられるような、光を追い求め、罪を贖(あがな)い続けなければならない、暗い闇の世界から赦され、救い出されて、昼に例えられるような、燦々(さんさん)と輝く光に満ち溢れ、すべてを新しいものに造り替える天国という世界に迎え入れられたという事実を、明主様を通して主神から知らされたのであります。

 

明主様は、このすべてのものを赦し、救い、天国に迎え入れるという光、メシヤの御名にある光をご自身が持たされていることを確信され、その光を「東方の光」とも仰せになりました。

このことを、明主様は、御歌に、「幾万年待ちに待ちける東方の光はメシヤの業(わざ)にぞありける」

また、「東方の光といふは我(わが)有(も)てる救ひの力にありと知れかし」とお詠みになりました。

私どもは、「東方の光」の「東方」という意味を単に、太陽が昇る東の方向という、地理的な意味だけで理解しないほうがいいと思います。

私は、「東方の光」の本質は、明主様が「霊的太陽」と仰せになった、私どもの始まりの世界である天国の輝きのことであると思います。

「霊的太陽」である主神の光は、私ども一人ひとりの中で輝いています。

 

本日の祭典において拝聴いたしました御教えは、明主様が昭和25(1950)24日の立春を期して「世界救世(メシヤ)教」を創立された折にご発表になった「開教の辞」でありました。

この「開教の辞」の中で、明主様は、「いつも吾らが唱えるところの、霊界における夜昼転換の時期にいよいよ入ったからである」また、「霊界が昼となる以上、これが現界に移写する」と述べておられます。

このように、明主様は、夜昼転換という主神の赦しがあればこそ、「世界救世(メシヤ)教」の創立に至ったことをお示しくださいました。

明主様は、「夜昼転換の時期にいよいよ入った」あるいは、「現界に移写する」と仰せになることによって、私どもに何を教えてくださろうとしておられたのでしょうか。

私どもは、目に見える現象の世界の中にその兆候を探し求めたり、待ち望んだりいたします。

しかしながら、主神は、明主様のこのような御言葉を通して、私どもに対し、「わたしの光はあなたの中に宿り、あなたの全身の細胞を貫いているのだから、そのことを認めてくれないだろうか」と語りかけてくださっているように思います。

私どもは、明主様が鋸山で啓示を受けられたご事蹟を、過ぎ去った過去のご事蹟と受けとめるべきではなく、また、明主様お一人がその啓示をお受けになったものと受けとめるべきではないと思います。

夜昼転換は、主神が全人類を天国に迎え入れるために、その罪を赦したことを、天地万物一切に告げ知らせてくださったみ業なのですから、私ども一人ひとりが、明主様に倣い、悔い改めて、天国に立ち返り、夜昼転換を成し遂げられた、メシヤの御名にある主神の光が、全人類とその父母先祖の方々と共に、万物と共に、自分の中に存在していることに気づかなければならないと思います。

明主様が仰せになりました、夜昼転換の時期に入るか否か、それが現界に移写されるか否かは、私ども一人ひとりが、自分の中に光が存在していることを認め、認めたことを主神にお返事させていただくかどうかにかかっています。

私どもは今、明主様を通して、主神にお返事させていただきましょう。

「あなたの光はわたしの中に確かに存在しています」

 

この後、明主様が大変好まれた、ヘンデル作曲の「メサイア ハレルヤコーラス」が、全国から集われた大勢の信徒の方々により奉納されます。

「ハレルヤ」という言葉は、ヘブライ語で「神をほめたたえよ」の意味とされております。

私どもは、私どもの始まりの天国で、天国におられる多くの方々と共に主神にお仕えし、主神をお讃えさせていただいておりました。

そして主神は、私どもが今、この地上でも主神をお讃えすることを許してくださいました。

ハレルヤという言葉をもってお讃えすることを許してくださいました。

明主様が、御歌に、「万能(ばんのう)の力を有(も)つはエホバなる只(ただ)一柱(ひとはしら)なる神よりぞなき」また、「キリストの父なる神は主(す)の神と知れよ信徒(まめひと)吾と併せて」とお詠みになりましたように、イエス・キリストの父なる神と、明主様がエホバ、また、天の父ともお呼びになった主神は、同じ唯一の神であられます。

私どもは、主神が、万物を甦らせ、全人類を神の子たるメシヤとして新しく生まれさせるという創造のみ業を成し遂げておられることに感謝申し上げ、明主様と共にあるメシヤの御名にあって、すべてのものと共に、主神をお讃えさせていただきましょう。

ありがとうございました。

This post is also available in: English Português