於:主之光教団本部ご神前

 

皆様、こんにちは。
 教主様は、長年にわたり一つの筋をお説きくださってきたと思います。
 それは、私たちの中に天国があること。そして、その天国において、神様はずっと昔、始まりの時に、すでにご自分の願いを定めておられたこと。そして私たちが、救いの御用にお使いいただきたいと思うならば、その天国に、悔い改めをもって帰らなければいけない、とおっしゃっています。
 そして、天国には、一人で帰るのではないんだと。教主様は、私たちの中には多くのご先祖様が生きていらっしゃる、存在していらっしゃるとおっしゃって、私たちは、ご先祖様と共に、メシヤの御名にあって天国に帰って、そして、救いの御用に使われなければならないと、そう教主様はお説きくださっています。
 私たちの中に多くのご先祖様がいらっしゃるがゆえに、私たちの心にはさまざまな思いが去来するんだと。不安だったり、憎しみだったり、怒りだったり。ですから、その者たちを携(たずさ)えて天国に帰る、そしてまた新たな救いの御用にお使いいただくと。
 神様は、ご自身の大きな御手(みて)によって、多くの者を天国に救い入れようとされていらっしゃって、私たちの心は、常にその御用にお使いいただいている。教主様は、その御用が、実は、本当の浄霊のみ業なんだと。神様は、私たちの心、思い―つまり想念ですね―想念を使って救いの御用を進めていらっしゃるんだと教主様はおっしゃる。
 では私たちは、そのような救いの御用にお仕えしていってそれで終わりなのかというと、そうではなくて、私たちの最終目標は、神様の子供たるメシヤとして新しく生まれることなんだと。神様がずっと昔、そのように定めてくださったんだと。その道を今、私たちは歩ませていただいている。
 私は、これが、教主様のお説きくださっている筋だと思います。
 私たちは、明主様ご昇天後、私たちの考える明主様の願い、み心、御教えの理解というのがあって、そのことと、教主様がお説きくださっていること、これが違うのではないかと、今ここにいる私たち一人ひとりの中に、そういう思いがあったことは、否(いな)めない事実だと思います。
 では、明主様はなんとおっしゃっているのか。
 明主様は「本教救いの特異性」の中で、まず天国に上がって天国人となりなさい、とみ教えくださっています。まず天国に上がって、ということは、私たち一人ひとりの中に天国があることが前提ですね。明主様は、「あなた方の中には天国があるんだから、まずそこに帰りなさい」とおっしゃっている。それが、本教の救いの特徴なんだとおっしゃるわけです。
 そして明主様は、ご自分は、何千年、何万年以前に神様によって定められた業をしに来たんだとおっしゃる。
 教主様は、明主様のみ心を語られる上で、繰り返し繰り返し「悔い改め」ということをおっしゃいますが、明主様は、『文明の創造』の序文で、自分は神に代わって悔い改めを勧告しに来た、自分はそういう存在なんだとおっしゃっている。
 ご先祖様のことも、無数の祖先の綜合たる個体が自分ですよと、明主様はお説きくださっている。
 教主様がお示しになっている想念の浄霊のことも、明主様は、脳溢血後、すぐ、何度も何度も、「浄霊は二の問題である。これからは、想念の時代である」とおっしゃった。
 メシヤとして新しく生まれるということも、これは、明主様の最終的なお姿そのものですね。私たち明主様の信徒は、明主様に倣(なら)わせていただきたいから、今まで明主様がなさっていらしたご浄霊もさせていただいてきましたし、その他あらゆる御用をしてきた。それは、明主様を模範としたいから、倣いたいから、それだからですよね。
 教主様は、究極的には、私たちが明主様のお姿に倣いたいのか、倣いたくないのかだけなんだと。明主様に倣ってメシヤとして新しく生まれる道を歩みたいのか、歩みたくないのか。教主様は、この一点を、この一点だけを私たちに突きつけておられると思います。
 明主様がメシヤとして新しく生まれられた事実は、どうやっても消せませんね。音声としても証拠があります。はっきりおっしゃっている。
 そうなると、明主様に倣って私たちも新しく生まれなければならない、という教主様のご教導は、どうやっても否定できないことになってしまう。今まで私たちが、自分たちの都合で築き上げてきた、明主様ご昇天後のあり方が崩されてしまう。
 しかし、それはどうしても受け入れがたい、今までのあり方を継続したい、守りたい、ということで、私たち自身は確かにそういう行為はしなかったかもしれないけれども、私たちの中にある、自分たちを守りたいという思いが、言葉に出すのもはばかられるような行為、明主様のみ心や御教えからは遠くかけ離れた行為、つまり、教主様を隠れて付け回して、隠し撮りして、という行為になって現れた。
 それは、私も含めて、私たちの中にそういう思いがあったからです。私たちの中に、なんとか過去の営みを維持していきたい、今までの、自分たちの理解の範疇(はんちゅう)の明主様のご神業をなんとか続けていきたい、という思いがあったから、一部の人たちが、そういう御用を担(にな)わされて、そういう行為をさせられた。ですから、あのような行為をする姿は、私たち自身の姿です、本当は。
 だけれども、じゃあそのようなことまでして結果はどうだったのか、というと、なんということはない、教主様は、キリスト教やキリスト教徒の方々と交流していると、それが問題であると、そういうことになりましたね。
 では、そのことについて、明主様は何とおっしゃっているのか。
 明主様は、世界救世(メシヤ)教開教の折に、はっきりと、私の宗教はキリスト教と呼応する宗教なんだとおっしゃる。そして、西洋にキリストあり、東洋にメシヤあり、この二大勢力の全信徒がまじめに闘っていくなら、世界平和は絶対に実現されるんだとおっしゃる。メシヤ教の信徒も、キリスト教の信徒も、明主様は「全信徒」という表現をされた。同じ信徒としてご覧になっていらっしゃるわけです。
 このように、キリスト教の方々と交流することに対し、明主様は、どうやっても否定しがたい御言葉を遺(のこ)していらっしゃる。明主様の宗教とキリスト教という二大勢力が相呼応して闘っていくんだとおっしゃっているわけですから。
 だけど、このようなことで諦めるわけにはいかない、ということで、いや、キリスト教の方々と交流するのはいいんだと。だけど、教主様の教えそのものが今までの教えをキリスト教化しているんだと、それが問題なんだと、そういう批判もありますね。
 では、明主様は何とおっしゃるのか。
 明主様は、一番弟子の一人でいらした中島一斎(なかじまいっさい)先生がご帰幽になったとき、我がメシヤ教はよほどキリスト教に近くなるんだとおっしゃった。
 これは、驚くべき表現だと思います。キリスト教はメシヤ教に近くなる、というならまだ分かります。でも明主様は、メシヤ教がよほどキリスト教に近くなるとおっしゃった。キリスト教を主体とした言い方をなさっているわけです。普通、ご自分の宗教を主体として考えそうなところですけれども、明主様は、そうではあられなかった。
 ですから、メシヤとして新しく生まれたとか、まず天国に上がりなさいとか、浄霊は二の問題だとか、キリスト教と呼応するとか、キリスト教によほど近くなるとか、そういうすべてのことを、もし明主様が遺されていなければ、確かに、教主様への批判が一部起こるのもやむを得なかったことだと思います。
 しかしそうではない。今ここで私が述べている明主様の御教えやご事蹟、これらはすべて、紛(まぎ)れもない事実です。明主様が遺された事実です。教主様が最初におっしゃったのではない。メシヤとして新しく生まれるのも、キリスト教と呼応するのも、キリスト教に近くなるのも、浄霊は二の問題でこれからは想念の時代だというのも、これらすべて、明主様がおっしゃったことです。
 もし私たちが、天界に行って、一人ひとり明主様にお目にかかった時に、明主様から、「私は、『浄霊は二の問題である、これからは想念の時代である』と言ったけれども、あなたはそのことについて何をしたか?」「私は、メシヤ教はキリスト教と呼応すると言ったが、あなたは何をしたか?」「私は、メシヤ教はよほどキリスト教に近くなると言ったが、それについてあなたは何をしたか?」と問われたら、私たちは明主様に何とお答えするんですか?
 そのような明主様からの問いに、私たちが恥じることなく明主様に真向かうことができるように、教主様が今、私たちを導いてくださっているのではないですか?
 私たちは最近、節目の時をいくつも迎えていますね。この間の3月31日の全国合同布教所長・教会長会の時もそうでした。今日もそうです。なぜこのように何度も何度も明主様が私たちに節目の時を用意してくださっているのでしょうか。
 それは、明主様が、私たちが本当に決心するようにと願って、こういう節目を私たちのためにご用意くださっているのだと思います。
 と言っても、本当はもう、遅すぎるわけです。明主様は、何十年も前に今言ったすべてのことを遺してくださっていた。でも、私たちが至らないから、猶予(ゆうよ)を延ばしに延ばしてくださって、私たち一人ひとりが、本当の意味で決心するのを、ずっと待ってくださっているのだと思います。
 それは、決して、信徒がこう言っているからとか、信徒のこういう声があるから、ということで先延ばしにする種類のことではないはずです。
 というのは、もし信徒が、この今の新しい信仰を理解できないとしたら、それは私たちの責任ですね。私たちが今まで信徒を導いてきたわけですから。
 でも、明主様に対して、明主様がお遺しになったご事蹟に対し真向かっていなかったことが本当に申し訳ないと、これからはなんとか明主様の御用にお使いいただきたいのです、と心底思うならば、信徒に直接何かを言うとか、言わないとかを超えて、私たち一人ひとりの姿勢からにじみ出るものがきっとあるはずだと思います。
 もし皆様が、教主様のお説きくださっている筋が、明主様のみ心であると信じるならば、これから新たな御用をいただく方も、一線を退(しりぞ)かれる方も、そこに一切、差はないはずです。
 なぜならば、教主様は、明主様が最晩年にお遺しになった、本当のご浄霊の業についてお説きくださっているからです。それは、神様は、いつでもどこでも、私たちの想念、心ですね、をお使いになって、救いの御用を進めていらっしゃる。これがご神業なわけですから。
 私たちは、これからどこに行こうとも、どこにいようとも、どのような御用を授かろうとも、そこで家族とのやり取りだったり、信徒とのやり取りだったり、その中でいろいろ湧き上がってくる思い、このすべてが、神様が、全人類の救いのために私たちの心に集めてくださった「思い」ですね。
 だから、もし神様が私たちの心をお使いになってご神業をお進めになっていらっしゃるなら、今日は、参列の方々の中の一部の方たちだけの承認式ということですけれども、私はそうではないと思います。そうではなくて、私たち皆、これから、本当に明主様がお進めになるご神業にお使いいただくのです。
 私たちの心の営み、想念の営みというのは、形に見えないですけれども、私は、それが現界に及ぼす影響は計り知れないほど大きなものがあると思います。
 私は、それを信じて、これからも教主様と共に歩んでまいりたいと思っております。また、皆様と共に歩んでまいりたいと思っております。
 よろしくお願いいたします。
 ありがとうございました。

 

印刷用PDF:20191001_教区長・布教区長並びに本部部課長承認式_真明様ご挨拶

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