2019/10/27 在日ブラジル人信徒祖霊大祭(於:本部ご神前)
2019/11/1 祖霊大祭並びにポルトガル世界信徒大会(於:リスボン)
2019/11/3 祖霊大祭並びにドイツ世界信徒大会(於:フランクフルト)
皆様、おはようございます!お元気ですか?
本日は、祖霊様の祭典ですので、教主様は、きっと、祖霊様に関することをご教導くださると思います。ですので私は、少し違うことを話そうと思います。私は、「教主様」についてお話しさせていただこうと思います。よろしいでしょうか?
皆様もよくご存じのように、教主様は迫害を受けていらっしゃいます。教主様のご教導は、明主様に、明主様の御教えに、そして、明主様のみ心に反していると、そのように教主様は批判を受けていらっしゃいます。しかし、果たして、そのような批判は正しいものなのでしょうか?
一つの例をあげたいと思います。
教主様は、「想念」についてたくさんお話をされることによって、ご浄霊を否定していると、そのような批判を受けていらっしゃいます。
教主様を批判される方々は、ご浄霊は、明主様の信徒にとって最も大切な実践であり、御教えであるが、教主様は、想念の話をすることによってこのことを否定しているではないかと、そのように言っています。
では、明主様はこのことにつき、なんとおっしゃっているのでしょうか。
ご昇天の前年、明主様はご浄化を受けられ、脳溢血(のういっけつ)の症状でお倒れになりました。この時明主様は、「これから想念の世界である。ご浄霊は二の問題で、まず想念である」ということを、側近の方々におっしゃいました。
私たちは今日(こんにち)まで、このような明主様の御言葉に焦点を当ててこなかったかもしれませんが、これは、明主様がおっしゃった御言葉です。
しかも明主様は、このような御言葉を一度発せられただけではないのです。繰り返し繰り返し、何度もおっしゃったのです。
もし明主様がこのような御言葉を遺(のこ)していらっしゃるならば、果たして教主様は明主様に反していると言えるのでしょうか?言えませんね。
さらに申せば、当然のことながら、教主様はご浄霊を否定されてはおりません。
私たちは、日々の暮らしの中で、良いものも悪いものも含めて、さまざまな思いや感情を持たされます。教主様は、このような思いや感情を、メシヤの御名にあって主神にお捧げすることの大切さをご教導くださっています。
ではなぜ私たちは、私たちの思いを神様にお捧げすることができるのでしょうか。それは、私たちの中に「神様の御(み)手」が存在しているからです。神様の尊い御手が私たちの中にあり、常に私たちに対してご浄霊をしてくださり、そして、私たちをご自身の光によって包んでくださっています。
教主様は、この、私たちの内側に存在する神様の御手こそが、「真(しん)のご浄霊の御手」であると、そのようにご教導くださっているのです。
別の例をあげたいと思います。
教主様は、「新しく生まれる」ことをお説きになることによって、生まれ変わりを否定している、という批判がありますね。ではこのことについて、明主様はなんとおっしゃっているのでしょうか。
明主様は、先程も少し触れました脳溢血のご浄化の折、当時の幹部の方々の多くを、熱海にあるご自宅に呼ばれました。そして、ご自分が、メシヤとして新しくお生まれになったことをご発表になりました。この時明主様は、生まれ変わりとは違う、ということを強調されました。そしてそのことも何度も何度もおっしゃいました。
明主様がこのような御言葉を遺(のこ)していらっしゃるならば、教主様は明主様に反していると言えるのでしょうか?決して言えませんね。
さらにもう一つの例をあげます。
教主様は、キリスト教徒の方々と交流されていること、そして、本教をキリスト教化していると批判を受けています。では、このようなことにつき、明主様はなんとおっしゃっているのでしょうか。
1950年、明主様は、世界救世(メシヤ)教を開教されました。この時明主様は、教団機関紙からのインタビューをお受けになり、明主様の宗教団体というのは、キリスト教と呼応して人類の救済を進める団体なんだと、それが本教の世界的な使命なんだよと、そのことを信徒に伝えられました。さらに明主様は、世界救世(メシヤ)教は、「よほどキリスト教に近くなる」とおっしゃいました。
明主様は、キリスト教がよほどメシヤ教に近くなる、とおっしゃったのではない。明主様は、メシヤ教が、明主様の宗教が、キリスト教によほど近くなりますよとおっしゃった。
これは、驚くべき御言葉だと思います。キリスト教が私たちの宗教によほど近くなる——我々は普通こう考えますね。でも明主様は違う。この御言葉において明主様は、キリスト教を中心に考えていらっしゃる。
つまり、もし、今私がずっと言っているような御言葉やご事蹟を明主様が遺していらっしゃらなければ、確かに、教主様に対してなされている批判というのも正当なものと言わざるを得ないでしょう。
しかし、「浄霊は二の問題」で、「これから想念の世界である」、また、「キリスト教と呼応」する、「メシヤ教はよほどキリスト教に近くなる」これらすべての御言葉は、実際に明主様が遺されたものです。
いつか、私たちが天界において明主様にお会いする時、明主様から、次のように質問をされるかもしれません。「私は、『浄霊は二の問題で、これからは想念である』と言ったが、そのことについてあなたは何をしたのか?」あるいは、「私は、『私の宗教はキリスト教と呼応する』と言ったが、そのことについてあなたは何をしたのか?」あるいは、「私は、『私の宗教はよほどキリスト教に近くなる』と言ったが、そのことについてあなたは何をしたのか?」と。
いつか、明主様は私たちにこのようにお聞きになるかもしれません。
私は、教主様は、私たちがこのような明主様からの問いに、確信をもって答えることができるように、私たちを準備してくださっていると思えてならないのです。
本当のことを言えば、私たちは、今言ったような明主様の御言葉をずっと無視してきたのです。
今日(こんにち)まで、多くの先生方や教師たちがいらっしゃいましたね。また、自分は明主様の御教えとはなんたるかを知っているんだ、あるいは、自分は明主様の御教えのすべてを研究し尽くしたんだと自負していらっしゃる方々もいるかもしれません。しかし、今日(きょう)に至るまで、明主様の本当のみ心を理解できた方は一人もいなかったのです。
しかし、明主様は、ご自分のみ心を、ご自分に従う信徒にどうしても伝えられたかった。だから今、教主様をお使いになって、教主様を通して、ご自分の本当の願いを私たちに伝えようとされているのではないですか?
もしそうでなければ、なぜ明主様は「教主の座」を用意される必要があったのでしょうか?
私は、明主様が、教主様を通して働かれていることを信じています。そして、今日ここにお集まりの皆様も、きっとそのことを信じていらっしゃると思います。
私は、時が来たのだと思います。明主様の本当のみ心が現れる時が、その時が、来たのです。
教主様を先頭に、それを共に実現してまいりましょう。