2020年2月19日
専従者 各位
信 徒 各位
世界メシア教
理 事 長 成井圭市郎
副理事長 白澤 道夫
副理事長 川谷 昌弘
「世界メシア教」の復活と「世界救世(きゅうせい)教」の凋落(ちょうらく)
世界メシア教の専従者・信徒の皆様に、また、世界メシア教につながる世界中の信徒の皆様に、謹んでご報告申し上げます。
皆様のご記憶にも新しいことではありますが、明主様が世界救世(メシヤ)教を開教されてより70年の節目となる、本年の立春、2月4日、「世界メシア教 立春祭」は、教主様ご出座のもと、平日にもかかわらず5200名もの信徒が馳せ参じる中、盛大、厳粛且つ華やかに執り行われました。
「世界メシア教 立春祭」は、明主様がこよなく愛され、大切にされ、また、「心せよかし」と仰せになった「メシア」の御名が、皆様方の手によって甦った歴史的な祭典であり、明主様のお喜びを考えますと、目頭が熱くなってまいります。
私どもは、5200名もの信徒が集ったことが、明主様がお喜びになっていることの証の一端であると思わせていただいております。
この、5200名という参拝者数は、同日、熱海・瑞雲郷でのいづのめ教団の立春祭、また、箱根・神仙郷での東方之光の立春祭の参拝者数をそれぞれ遥かに上回るものであり、さらに言えば、いづのめ教団と東方之光の参拝者数を合わせた数をも超えるものでありました。
世界救世教責任役員会と称する方々は、教主様が、そして、私ども世界メシア教が、明主様の教義に反している、明主様となんら関係のない活動をしているとして、教主様と私どもを「世界救世教から追放した」と一方的に主張しております。
不可解なことに彼らは、私どもが「離脱」したと吹聴しておりますが、教主様の推戴を取り消したのも、また、主之光教団との包括・被包括関係を解除したと主張しているのも、彼ら自身の手によって行われたことです。
「離脱」という日本語の意味を理解しているのかと首をかしげざるを得ません。ご自分たちのしていることに後ろめたさがあるがゆえに、私どもが「離脱」したことにしておきたいのだと、そう思えてなりません。
皆様におたずねしたいと思います。
もし本当に、教主様が、また、私どもが、明主様の教義に反し、明主様となんら関係のない活動をしているならば、この立春祭において、世界救世教の3つの被包括法人の中で、圧倒的多数の参拝者が来られたでしょうか。
答えは、自ずから明白であります。
数年前、教主様は、私ども世界メシア教の御神体を「大光明」とお定めくださいました。私どもが以前ご奉斎していた「五六七大神」は明主様が書かれたものではなく、明主様の御文字をつなぎ合わせて作成したものであり、明主様御直筆のもののほうがよいと仰せくださいました。
また、現在、いづのめ教団から移籍された信徒の皆様に対しても、今までの、二代様によって書かれた「大光明真神」ではなく、明主様御揮毫の「大光明」をお許しくださっています。
教主様は、明主様の御神名を、単に「教祖」の意味となる、「をしへみおやぬしの神」から「メシアの御神」へと変えるようお導きくださいました。
さらにこのたび、私どもが宗教活動を進めるにおいて、明主様が御自ら命名された、「世界メシア教」の名前を使うことをもご承認くださいました。
教主様は、信仰活動を進める上において極めて大切な「御神体」「御神名」そして「教団名」を、それぞれ、明主様がお遺(のこ)しになったもの、願われたものに戻すよう、私どもをお導きくださったのです。
「世界救世教」を名乗る方々は、「教主様は、明主様とは全く異なる新しい団体を立ち上げた」と喧伝しておりますが、その事実がどこにあるのか、提示していただきたいくらいであります。
「キリスト教と呼応し、人類の善導と救済に全智全能をあげて働いてゆきたい」「メシヤ教はよほどキリスト教に近くなる」「西洋にキリストあり、東洋にメシヤあり、この二大勢力が東西相呼応して平和のために全信徒が、真面目に闘ってゆくなら必ず永遠の平和が齎(もたら)されるものと思う」とお述べになった明主様の御教え、み心、願いを真正面から受けられ、継承していらっしゃる教主様の一体全体どこが明主様の教義に反するのでしょうか。
明主様をどこまでも模範とし、私ども明主様の信徒も、「メシアとして新しく生まれる」道を歩まなければならないとおっしゃる教主様の、どこが明主様に反しているというのでしょうか。
教主様を批判する方々は、次のように繰り返し繰り返し主張しています。「教主様がキリスト教、『聖書』の学びをしていらっしゃる場において『新しく生まれる』ということが説かれている。教主様は、そのことを説いている。明主様から離れている。御教えに反している」と。彼らは、我らが慕い仰ぐ明主様御自身が、「新しく生まれる」という御言葉を遺されたことをなんと心得ているのでしょうか。
教主様を批判する方々は、また、次のようにも言っています。「教主様が『平道成 陽一』氏であることを信徒にきちんと伝えなさい」と。まず、私どもが、何を信徒の皆様にお伝えするかは私どもの自由でありますが、私どもは、教主様が、キリスト教の集いにおいて、「平道成 陽一」様として学んでいらっしゃることを、皆様方に一切隠し立てするつもりはありません。
私どもは、教主様が、ご自分のプライベートなお時間までも、御自らキリスト教、『聖書』から学んでおられることを、心の底からありがたく、また尊んでおります。
教主様が常にご教導くださいますように、明主様は、霊界で生きておられます。生き生きと生きておられます。その明主様から、日々進化する御教えを、現界において「教主様」がきちんと受け止められるよう、明主様が教主様をお使いになり、キリスト教と『聖書』の世界で学びをさせておられるのではないでしょうか。
ではだからと言って、私どもは、教主様のプライベートな時間を付け回し、そのようなお時間で学んでおられることを、教主様のご許可なく公開するような、暴露的なことをするというのでしょうか。そのような人道にもとることをするわけがありません。
また、世界救世教責任役員会と称する方々は、「キリスト教と呼応する」「よほどキリスト教に近くなる」等の御教えも、彼らが作成した文書の中で、「これは、キリスト教との関係を明主様がことさら強調していらっしゃるわけではない」という不可解極まりない解釈を加え、明主様のみ心をどこまでもないがしろにしています。
彼らは、さらに、次のように言います。「『キリスト教に呼応し』とは、人類の救済を行うのが『世界メシヤ教』であるが、先ずは日本、そして東洋へと明主様の真理のみ教えと救いの手段・方法をもって、人類の救済を進めるならば、キリスト教の救いと相まって世界平和に大きく寄与できるとのみ心であると理解しています。ことさらに『呼応』に重点をおいたみ教えではありません」と。
明主様が、「呼応」とおっしゃっているにもかかわらず、「呼応」に重点をおいた御教えではないと言うのです。呼応という言葉を、不可解にも、「相まって」という違う言葉、意味に置き換えています。
明主様が「キリスト教と呼応し」とみ教えくださっているにもかかわらず、なぜか、キリスト教と呼応しようと努めている私どもが悪いような、明主様の御言葉通りに進む私どもが悪いような言いぐさであります。
明主様の信徒とキリスト教の信徒とが手を携え、人類救済が成し遂げられることが不服なのでしょうか。
明主様の御教えの結晶が、「MOA」だと解釈する方々ならではでありましょう。
表看板に世界メシヤ教と掲げていない方々が、また、「宗教ではないMOAで行く」方針の方々が、どうしてこのようなことを言えるのでしょうか。もしそのご自分たちの解釈が真実だと思われるならば、明主様のように、宗教を表看板にし、メシアの御名を社会に問い、歩んでいただきたく思うのは、私どもだけではないでしょう。
そもそも、私どもは、明主様の世界救世(メシヤ)教開教のみ心をどこまでも大切にし、それを実現しようと努めています。MOAは、大日本健康協会発会という、明主様にとっては、官憲の厳しい取り締まりに対処するという目的で、あくまでも、一時的に立ち上げられたご事蹟をその活動の中心に据えているのです。
MOAの方々はこう言います。「東方之光・MOAが展開する幅広い活動は、『大日本健康協会発会式御講話』(昭和11年5月15日)のみ教えにおいて、その発会の目的を『例えば、キリスト教、天理教の人などは、観音様というと躊躇する。(中略)今までは救われる門が一つしかなく狭かった。今度はもっと広い、入りいいものが、も一つできたことになる』」と明主様がおっしゃっていることを根拠にしていると。
「観音様というと躊躇する」からより広く、入りいいものを作られたと。では、その大日本健康協会発会が真に明主様が願われたことだとしたら、なぜその後「日本観音教団」と、「観音」を表看板に打ち出された宗教団体を創立されたのでしょうか。さらにその後、なぜ明主様は、観音よりさらに躊躇するであろう「メシア」の名前を教団の表看板に付けられたのでしょうか。
また明主様は、明確に、「しかたなしに浄化療法という民間療法でやっとやっていた」「浄化療法という民間療法でごまかしていた」とみ教えくださっています。MOAは、いまだに、明主様が「しかたなしに」「ごまかして」されていた「浄化療法」を活動の柱としているのです。
教主様を攻撃している方々は、常に「み教え通りの」と言います。
しかし、明主様の御教えの量は膨大かつ多岐にわたるものであります。時や場によって、一方でおっしゃっていることの逆のことを他方でおっしゃったりもしておられます。
明主様のみ心を無視し、ご自分たちに都合の良い部分のみを抜粋し、それが実現することは、決して「み教え通り」ではありません。
世界メシヤ教開教と大日本健康協会発会。明主様にとって、どちらが大切なのでしょうか。
その答えは、言うまでもないことです。
そして教主様は、世界メシヤ教開教の明主様のみ心を、全身全霊をかけて求めておられます。大日本健康協会発会こそが明主様の真のみ心だと主張する方々が、その教主様に対し教義違反であると言っているのです。
別の言い方をすれば、彼らは、教主様を教義違反と断ずることにより、畏れ多くも、明主様に対し、「あなたは教義違反です」と言っているのと何ら変わりないことをしているのです。これほど恐ろしく、不遜なことがありましょうか。
明主様に対し、「私たちは大日本健康協会発会の時のみ教えを、み教え通り実現しています」「浄化療法として世に訴えています」と言えば、明主様からは、〝今さら何を言っているのだ〟と一喝されるのみでありましょう。一喝されればまだよいのかもしれません。もしかしたら、すでに、明主様から完全に見放されている、のかもしれません。
教主様のお言葉を批評する前に、MOAの活動が、そして、いまだに「浄化療法」を行っていることが、明主様の御教え、み心、ご事蹟からかけ離れたものであることを直視すべきでありましょう。MOAのすべてが、明主様の遺されたものから明らかに逆行するものであることに、なぜ彼らはいまだに気づけないのかと、不思議でなりません。
もし、明主様から、教義違反と言われる団体があるとしたら、それはいまだに「大日本健康協会発会」のことを語り、「浄化療法」を行っている団体でありましょう。
また、現在、世界救世教責任役員会と称する方々は、キリスト教との関わりで、最も根本的な問題につき、完全に目を背けています。それは、「メシアとは誰か」ということです。
「世界救世教責任役員会」は、次のように断言しています。「メシヤは明主様ただお一人である」と。
ユダヤ人が今もって待望し、世界中の多くの人々にとってはイエスこそが唯一のメシアであるとしているそのメシアは、明主様お一人であると、彼らはそう断言しています。
明主様は、キリスト教の全信徒がメシヤ教の信徒となる旨み教えくださっておりますが、彼らの論理で行けば、真明様が常々ご教示くださいますように、世界中の全キリスト教徒が、「自分たちは間違えていました」「イエスはメシアではありませんでした」「イエスがメシアであることを題材にした芸術作品はすべて間違いでした」「ハレルヤコーラスはイエスを讃える歌ではありませんでした」「キリスト教はすべて間違いでした」と言うことになりますが、彼らは本当にそのような時が来ると信じているのでしょうか。それが、明主様がおっしゃる「キリスト教を救う」ということだと、本当に、そう思っているのでしょうか。
しかし、明主様を唯一のメシアとするということは、そういうことに他なりません。ですから、そのようなことが起きると信じているのでしょう。
しかし、世界救世教責任役員会と称する方々が、今まで、世界に対して、そのような布教をしているとは聞いたこともありません。「イエスはメシアではない」と断言しているのも聞いたことはありません。
詰まるところ、メシアという言葉を出すと、そのように、どうしても解決できない問題、キリスト教や社会、世界に対しての関わり合いが出てまいります。
ですから、明主様がなされていたような、メシアの御名を表に出した布教を、今まで誰もできずにいた。そして、明主様が遺された大切なメシアの御名を隠しながら、「明主様はメシヤである」ということを、教団内部的なことにしながら今日まで来たのでしょう。
その行き詰まりを解消してくださったのが、他でもない、教主様であります。
教主様は、「明主様は人類の雛型である」という一大獅子吼、そして、私ども明主様の信徒は、明主様を模範としてメシアとして新しく生まれることができるということ、そしてこれは、全人類に定められた道であることをお説きくださっているのです。
イエスもメシアと認めておられながら、しかし、本当のキリスト教徒の使命についてもお説きくださっているのです。
これこそが、キリスト教と呼応し、本当の意味で「キリスト教を救う」ことでありましょう。
何年もの間、誰も解決できず、封印されていた明主様のみ心が、教主様によって復活したのです。
キリスト教のことについて語るならば、まず、メシアは誰かということ、そして、イエスを唯一の贖い主、救い主、赦し主であり、メシアと仰ぐキリスト教徒の救いがどのように行われるのかを、机上の空論ではなく、現実的に考えなければなりません。
しかし、「メシヤは明主様ただお一人である」と断言しているのは、世界救世教責任役員会と称する方々です。この先、彼らが、どのようにキリスト教と呼応していかれるのか、興味深く見守ってまいりたいと思っております。
いずれにせよ、世界救世教責任役員会と称する方々が、教主様を批判している文書は、すべてが滑稽であります。文書を重ねるにつれ、引用元もより定かではなくなり、意図的な切り取りがあからさまになっております。
教主様が、明らかに「神様」を意図されて、ご自分より上の方、「超えた方」に従わなければいけない、とおっしゃったことを、彼らは、「それは、キリスト教の集いに参加している人物のことだ」と訴え、そのことこそが、教主様が明主様を裏切っている証だと言っています。なんとしてもそうしたいのでしょう。教主様ご本人に一度でも確認されたことがあるのでしょうか。明主様のお孫様は、嘘しか言わないようなお方だというのでしょうか。
そのような短い教主様のお言葉でさえ、そのように、強引な曲解、自分たちの都合に合わせたあり得ない解釈をしている姿を見ますと、本当は、彼らは、教主様が「超えた方」とおっしゃったのは、神様のことであると気づいてはいるが、それを言えず、引き返すに引き返せなくなってしまったのではないかと思えてまいります。
彼らの出す文書に、明主様を感じ、真実を感じる方がいらっしゃるとしたら、それは特異な方と言わざるを得ません。文書の行間から、「尾行・盗聴・盗撮」を実行・容認している品性がにじみ出ております。
いづのめ教団や東方之光の専従者の方の中にも、表向きは体制側に合わせたような態度を示していても、心の中では、役員の方々に対し、「このようなくだらない文書を出すくらいなら、ご自分たちの正しいと思われている明主様のご神業を進めることに時間を費やしてくれ」と思っておられる方も大勢いらっしゃるかもしれません。しかし、それが表に出るのは、執行部絶対の体制ではほぼ不可能でありましょう。
教主様は、全身全霊をかけて学ばれたことを、私どもの信仰を、より向上させてくださろうとして、必要な時に、必要なことを教えてくださっている。私どもは、そのことがありがたいのであります。
教主様が、キリスト教と『聖書』から学び、「御教え」と『聖書』の一致、明主様とイエスの呼応を感得していらっしゃることは、「キリスト教と呼応して人類救済を進める」「メシヤ教はよほどキリスト教に近くなる」と仰せになった明主様御自身のみ旨であることは、誰の目から見ても明らかでしょう。
ここで改めて皆様に申し上げます。
「世界救世教」を自称している方々が、「尾行・盗聴・盗撮」を実行したのは、紛れもない事実であります。
明主様の信徒と名乗る方々によって、実際に、そのようなことを行うことが議決され、そして、実行に移されたのです。興信所のようなところに、実際に、「尾行・盗聴・盗撮」を依頼したのです。しかも、その費用も、信徒からのご献金によってまかなったのでありましょう。
明主様のお孫様である、教主様に、「尾行・盗聴・盗撮」したのは、他でもない、現在、「世界救世教」を自称している方々であります。
言うまでもないことですが、これは、明主様の「地上天国建設」の御教えから大きく逸脱しています。「尾行・盗聴・盗撮」が許される世界は、決して「地上天国」ではないからです。
言うまでもないことですが、これは、明主様の「利他愛」の御教えから大きく逸脱しています。他人に「尾行・盗聴・盗撮」をすること自体、他者への愛が欠落しているからです。
言うまでもないことですが、これは、明主様の「順序・礼節」の御教えから大きく逸脱しています。プライベートな時間をお過ごしの教主様を「尾行・盗聴・盗撮」するということは、明主様、教主様、信徒という神的順序と、他者への礼節を著しくないがしろにしているからです。
言うまでもないことですが、これは、「明主様」というご存在そのものを極めて軽視することです。教主様は、明主様のお孫様であります。ご自分のお孫様がそのような目に遭うことを、明主様が、ほんの少しでも喜んでいる、認めていると、本当にそのようなことがあり得ると思っているのでしょうか。お孫様がいらっしゃる方は、一人ひとり、ご自分のことと思い、考えていただければ、決してそのようなことはないとお分かりになると思います。
しかも、明主様にとっては、「キリスト教と呼応する」「メシヤ教はよほどキリスト教に近くなる」と仰せになった御自身のみ心を、全身全霊をもって受けられている教主様が、ご自分のお孫様が、「尾行・盗聴・盗撮」され、攻撃されているのです。
その行動、ありようは、どのような理由があろうとも正当化できるものではありません。いや、「尾行・盗聴・盗撮」実行者である世界救世教責任役員会を自称している方々は、それを正当化せんがため、「教主様は明主様の教義に反する」という、ありもしないことをでっち上げ、明主様の御教えに鑑(かんが)みれば、本来、なんら問題がない、キリスト教の方々との交流が、とんでもない大罪であるかのように訴えているのみであります。それのみであります。
「尾行・盗聴・盗撮」という行為を正当化するようになったら、それは、信仰者としては、すでに終わりの姿であります。
世界救世教責任役員会と称する方々は、さまざまな高圧的な文書を通して、教主様のご教導につき、「御教えとここが違う」「あそこが違う」と必死に書き立てています。
明主様の御教えは、平易な御言葉で書かれているかのようですが、実は、非常に深く、難解であり、百遍読んでも、その深奥をつかむことは至難の業でありましょう。
その明主様の御教えにつき、ご自分たちの知恵のみでたどり着いた解釈に基づき、教主様のご教導を批判していること自体、むなしい姿であると言わざるを得ません。
改めて皆様におたずねしたいと思います。
もし、教主様のご教導が、彼らが主張するほど明主様の御教えから離れているとしたら、本年の立春祭に、いづのめ教団、東方之光を優に超える方々が、「世界メシア教 立春祭」に参拝されたでしょうか。
決してされません。
彼らは、教主様を批判することにより、実質的に、皆様方の信仰そのものを侮辱していると私どもは思えてなりません。
彼らは、もし御教えについて語りたいならば、まず、何よりもまず、「尾行・盗聴・盗撮」という行為のどこが御教えにかなっているのか、そこを見つめなければならないでありましょう。
彼らがいかに多数の文書を発信しようとも、いかに御教えのことについて触れようとも、この問題をクリアしない限り、どこにもたどり着くことはありません。
そして、今のところ、彼らのいかなる行動も、明主様の御教えに則したものでないことは、言うまでもありません。
私どもは、空虚な論戦の中ではなく、生活の場でこそ、御教えの実践をしなければいけないと、そのように思わせていただいております。
彼らが、いかに外形的体裁を整えようとも、いかに一見真摯に明主様の御教えについて語ろうとも、「尾行・盗聴・盗撮」を実行・容認しているという事実、そこから逃れることは一生できません。
この先彼らに待っているのは、それを覆い隠す日々であります。犯罪まがいの行為を正当化し、むなしく自分たちを納得させる日々であります。そしてその先に待っているもの、それは、悔い改めのみであります。
さらに、もう一点、皆様に申し上げたいことがございます。
現在、「世界救世教」と称する方々の「教主様」は、明主様の血統者でない、ヒンズー教学者、東海大学名誉教授でMOA関連団体の理事である、「渡瀬信之」改め「岡田信之」氏であります。
もう一度、申し上げます。
現在、「世界救世教」の「教主様」は、ヒンズー教学者、東海大学名誉教授でMOA関連団体の理事である、「渡瀬信之」改め「岡田信之」氏であります。
いづのめ教団の信徒にとっても、東方之光の信徒にとっても、聖地直結の会の信徒にとっても、教主様は、ヒンズー教学者、東海大学名誉教授でMOA関連団体の理事である、「渡瀬信之」改め「岡田信之」氏であります。
「世界救世教教主 渡瀬信之改め岡田信之様」であります。
「世界救世教五代教主 岡田信之様」であります。
このことの異様さは、これ以上説明の要はありませんが、さまざまなことから察するに、「世界救世教」と称する方々は、この事実を隠そうとしていると思われます。
もしご自分たちのされていることが正しいと胸を張れるのであれば、堂々としていればよいのではないでしょうか。
そこにも、ご自分たちのしていることに対しての、後ろめたさを自覚している姿が、如実に現れていると申せましょう。
「尾行・盗聴・盗撮」を「調査」と言い換えているのも同じことです。もし、本当に、心の底から、ご自分たちのしていることが正しいと信ずるならば、隠し立てすることなどあろうはずがありません。堂々としていればよいことです。
同じ明主様を信奉するものとして、彼らの今現在の姿は、心から残念でなりません。
では、今現在、明主様のみ心を継承している、明主様にとっての「本体」とは、どの宗教団体でありましょうか。
二代様、三代様を受け入れず、離脱していった諸教団でしょうか。それとも、「尾行・盗聴・盗撮」の犯罪的行為に手を染めている、ヒンズー教学者「渡瀬信之」改め「岡田信之」教主様のもとにある「世界救世教」でしょうか。
あるいは、明主様のご血統にある教主様のもと、明主様が御定めになった教団名を表看板にし、明主様が願われた通り、キリスト教と呼応して人類救済を成し遂げるというご神業にお仕えし、ひたすら明主様を模範とし「新しく生まれる」ことを目指している、私ども「世界メシア教」でしょうか。
答えは、自ずから明白であります。
立春祭において、「尾行・盗聴・盗撮」を容認している2団体を大きく上回る圧倒的多数の方々がご参拝にいらしたことが、その証左でありましょう。
明主様は、世界メシア教を通して、これからも、ご自分の真の願いを私どもにお伝えくださるでありましょう。
私ども世界メシア教こそ、明主様にとっての「本体」であります。私どもは、その誇りと責任の重大さを認識しなければならないと思います。
明主様というご存在が遺されたあらゆることから逆行する、非人道的な「尾行・盗聴・盗撮」を実行している、現在、「世界救世教」と称する方々が、明主様信仰の「本体」であろうはずがありません。
いかに「自分たちは聖地を所有している」といえども、彼らが誇っているのは、そのような「物」のみであります。
彼らは、神様に対する畏敬の念、明主様に対する尊崇の念、明主様の聖業を継承される教主様に対する敬虔な思い、他者への思いやり、それら信仰者にとって最も大切な「心」を「尾行・盗聴・盗撮」行為を実行・容認していることにより、捨て去っているのです。
明主様は、御歌に、「物欲の外(ほか)望みとてなき人を見る毎(ごと)神知る人の尊し」「物にのみ頼りし事の愚かさを世人悟らむ時ぞ来ぬるも」「眼に見ゆる物質に迷ひ眼にみえぬ魂忘るる人こそ哀れ」「物のみに頼り只管(ひたすら)つかまんとすれど逃げ行く幸福の二字」と御示しくださっております。
彼らが、物を頼みとして、今後、どのようになっていくのか、その未来を、その凋落する様を案じざるを得ません。
彼らは、「明主様が心血を注いだ聖地を『物』というのか」と言うでありましょう。「聖地を管理している我々を通してこそ明主様は働いておられるのだ」と。
はっきり申し上げたいと思います。「尾行・盗聴・盗撮」を実行・容認する方々の中に、明主様が生きて働いておられるわけがありません。「尾行・盗聴・盗撮」を実行・容認する方々が管理する聖地が、明主様の願われた聖地としての働きをするはずがありません。つまり、「尾行・盗聴・盗撮」を実行・容認する方々が、明主様信仰の「本体」であるはずがないのです。それだけは、間違いないことであります。
非人道的、犯罪的行為である「尾行・盗聴・盗撮」を実行・容認している方々を明主様信仰の「本体」と認めることは、全身全霊をかけて人類を善の方向に、神の方向に導こうとされた明主様に対し、申し訳ないことであります。
当然、私どもは、「尾行・盗聴・盗撮」実行者である、現在、世界救世教責任役員会と称する方々が、真に心から反省し、悔い改めることを願っております。彼らが、明主様信仰の本然の道へと戻ることを心から願っております。
私どもが、裁判で、「宗教法人世界救世教主之光教団は、今も世界救世教の被包括法人の一つである」として争っているのも、それが理由の一つであります。
かつては同志であった、明主様信仰の同胞を、なんとしても善導し、救いたいと心底願っております。
世界救世教を救いたいと、心底願っております。
私どもが裁判をしているのも、世界救世教を救うための、裁判であります。
私どもが何より憂いているのは、「尾行・盗聴・盗撮」実行・容認グループである、いづのめ教団と東方之光のもとにいる、真実を知らされていない多くの信徒の方々であります。
犯罪的行為を実行・容認している団体のもとにいる信徒を、なんとしても救いたいと、そのように思えてなりません。
いまだ、自分たちが属している団体の本性を知らない多くの信徒に、できる限り真実を伝え、正しい明主様信仰の道に戻し、滅びの縄目から解放してあげたいと、そのように思えてなりません。
私どもの信仰活動は、裁判で勝とうが負けようが、それによってなんら影響を受けるものではありません。
仮に裁判で負けたならば、正々堂々、胸を張って新たな道、明主様が本当に願われている道を歩んでまいります。そもそも、明主様は、私どもが「尾行・盗聴・盗撮」実行者と共に信仰活動をすることを決してお許しにならないでありましょう。犯罪的行為を行い、渡瀬信之氏が「教主様」である、異様な団体において信仰活動をすることを、決してお許しにならないでありましょう。
世界救世教責任役員会と称する方々は、いかに非人道的なことをしようとも、明主様となんら関係のない人物を教主にしようとも、聖地さえあれば、聖地さえあれば、自分たちのあらゆる行動は正当化され、信徒が自分たちのもとに集まると思っているのでしょう。
しかし、明主様は、目に見えないものを信じる御自身の本物の信徒、正義を尊ぶ御自身の本物の信徒を遺してくださいました。
その多くの信徒は、明主様の聖業を継承される正当な教主様がおられず、抜け殻となった聖地に、なんの未練も持たれないでしょう。
このことは、目に見えるもののみを頼みとしている方々にとっては理解しがたいことなのかもしれません。しかし、私どもにとっては、選択の余地がないほど明らかなことであります。
裁判で勝とうが負けようが、私どもの未来は明るく、大きく開けております。なぜならば、私どもには、明主様のみ心を継承していらっしゃる教主様が、そして、その教主様の後継者であられる真明様がいらっしゃり、すでに盤石の体制で歩んでいるからです。
しかし、現在世界救世教を名乗る方々がもし裁判で勝ってしまったならば、「世界救世教」は、明主様のみ心を受けていらっしゃる教主様から離れ、もはや、取り返しのつかない状態に陥ってしまうことは、明らかであります。
世界救世教が救われるための最後のチャンス、それは、「包括法人世界救世教」が、裁判で私どもに負けることである、と思えてなりません。
以 上