信仰即正義 昭和二十五年六月三日
まず宗教とは何ぞやと言えば、いうまでもなく宗教理論や宗教哲学を難しく説くことではなく帰するところ正しい人間を造ることであって、それ以外の何物でもない。しかし口で言えばそれだけのことではなはだ簡単であるが、実際上その簡単なことがとても難しいのである。論語に、言うは易(やす)く行うは難(かた)しという言葉があるが、まったくその通りであるとしたら、何でそのように難しいかを書いてみよう。
いかなる人間でも、偉くなるにも金を儲けるにも出世をするにも大抵の人は善いことばかりでは駄目だ、どうしても幾分(いくぶん)かの悪いことが交(まじ)るのも止(や)むを得ないというように思い込んでいるのが実情である。しかも楽しみや遊びごとに対してさえも、善いことよりも悪いことの方が面白いとされている。右のような考え方が何百何千年も続いて来たので、ついに人間処世の常識とさえなってしまったのである。昔からこれに対し、法律や道徳教育等によって改善しようと骨折っては来たが、その効果ははなはだ微々たるものであるとすればどうしても宗教よりほかに方法のないことはいまさらいうまでもない。しかし単に宗教といってもその力の強弱が大いに関係する。それは力の足りない宗教ではどうしても悪に勝つことができない。宗教信者でありながら非行にうち勝ちえないものもそのためである。いかなる宗教でも本当に正義を貫く信者は寥々(りょうりょう)たる有り様である。
以上によってみるとき、その結論としては、悪に打ち勝つ力ある宗教が現れなくてはならない。それによってのみより善い社会も幸福な平和世界も生まれるのである。吾らが唱える信仰即正義とはこれをいうのである。
『救世』六十五号