教主様とのご面会
ポルトガル世界メシア教理事、資格者、拠点長
お花教授職、海外教師
於:シェラトン リスボン ホテル&スパ
《 真明様ご挨拶 》
おはようございます。
今日は、教主様が、浄霊についてなんとおっしゃっているか、それについてお話ししたいと思います。
教主様は、長い間、ずっと、私たちの感情や思いを、メシアの御名にあって神様にお捧げすることがいかに大切であるかを教えてくださっていますね。
なぜ私たちは、神様に私たちの思いをお捧げすることができるのでしょうか?
それは、神様が、常に、私たちの思いや感じていることをご自分のもとに迎え入れたいと願ってくださっているからです。神様は、どんな時も、私たちを、ご自分の大きな御(み)手によって包んでくださっている。神様の御手は、私たちを完全に包み、私たちの心も思いも包んでくださっています。
教主様は、この神様の御手こそ、本当のご浄霊の「手」ではないかと、そのようにご教導くださっているのだと私は思います。
私たちはご浄霊をさせていただきますよね。その時に私たちが掲げている手は、私たちの手ですか?それとも神様の手ですか?どちらでしょうか。
私は、ここが、大変重要な点であると思います。
もし神様の手であるならば、神様がその御手を掲(かか)げていらっしゃらない時間はあるのでしょうか?ご浄霊をなさっておられない時間があるのでしょうか?
私は、そのような時間は、一瞬たりともないと思います。
神様は、常に、いつだって、私たちの中で、私たちに対してご浄霊をしてくださり、そして、私たちが感じること、思うことのすべてをその御手によって包み、ご自分のもとに迎え入れてくださっていると思います。
私たちは、ご浄霊をさせていただく時もあるし、させていただけない時もありますね。ご浄霊をさせていただく対象の方がいない、そのような時、一人の時、例えば自分の家で一人でいる時、ふとした拍子に、誰かに対して強い怒りのような思いを抱くこともあるかもしれません。しかし、このような時にこそ、「私がこのような負の思いを感じているのは、神様が私にご浄霊をしてくださり、神様の光によって私を包んでくださっているからですね」と、そう思わせていただくことが大切なのではないでしょうか。
そして、「神様、あなたは、今私が感じている感情、思いをご自身の天国に迎え入れたいのですね。今、私の思いをお捧げします」と、そのように思わせていただく。そう思うことができたら、きっと神様は、私たちに対し、「そうだよ、よく分かってくれたね。私は、あなたの中でいつもあなたに浄霊をしていて、あなたの心を光で包んで、天国に迎え入れたいと思っているのですよ」とおっしゃってくださると思います。
私は、このようなことが、教主様がお説きになっている、ご浄霊の真(しん)の意義であると思います。
そうであるならば、私たちが実際にどなたかにご浄霊をさせていただいている時には、「神様、今私はご浄霊をさせていただいておりますけれども、本当のご浄霊の手はあなたの御手なのですね。たとえ手を掲げることができなくても、あなたは常に、私の中で、そしてこの方の中で浄霊をしてくださっているのですね」と思わせていただけたら神様は喜ばれると思います。
神様は、常に、全人類一人ひとりの中でご浄霊をしてくださっているのです。なんと素晴らしいことでしょうか。
明主様は、ご昇天前年に脳溢血(のういっけつ)の浄化をお受けになります。このご浄化に入られてから、明主様が度々仰せになったこと。それは、「浄霊は二の問題」である、「これから想念の世界である」ということ。もはや想念の世界に入った。だから浄霊は二の次だと、そういうことですね。
このことを今まで私たちは知らなかったかもしれません。しかし、これは、明主様ご自身の御言葉です。明主様が、度々おっしゃったことです。しかし、この御言葉の真意について、明主様は私たちにお伝えくださる前にご昇天になってしまいましたね。
しかし今、教主様が明主様のみ心をお受けになって、明主様がこの御言葉に込められた真(しん)の意味をご教導くださっているのではないでしょうか。
明主様は、ご浄霊については、もう必要ないとも取れる御言葉を遺(のこ)されました。「二の問題」だと、二の次だとおっしゃったわけですから。しかし私は、明主様は、決して、大きな意味での「ご浄霊」は否定されたわけではないと思っております。
教主様は、明主様にとっての真(しん)のご浄霊とは、神様が私たち一人ひとりの中にいらっしゃり、そして、全人類を救うために、私たちの中で、私たちに対し、常にご浄霊をしてくださっていることなんだとおっしゃる。私たちの心をお使いになって、すべての人の思い——想念ですね——を迎え入れ、救いの御用を進めておられる、そのことが、明主様が願っておられた本当のご浄霊であると、教主様は、そうお示しくださっていると思います。
全人類は、私たちの中にいる。全人類のご先祖様も、私たちの中にいる。私たちの「心」につながっているのです。ということは、私たちの思いをお捧げすることは、全人類の救いに密接に関わっているということです。全人類の救いのために私たちの心は存在している、ということです。
つまり、本当の意味で全人類を救う道、それが真(しん)の「ご浄霊」であると、そう教主様はお導きくださっているのではないでしょうか。それが、明主様が願っておられたことなのではないでしょうか。
今まで私たちは、「明主様とイエス・キリストは、どちらが上なのだろうか」と思ってきたと思います。
果たして、明主様は唯一のメシアであるのかどうか、そこの問題がずっとありますね。もしそうであるならば、全人類の約3分の1、20億以上の方々がメシアと信じるイエス・キリストは一体何者なのでしょうか。この問題は、ずっと私たちの中でくすぶってきたと思います。
しかし、もし、明主様の中の魂も、イエスの中の魂も、神様の魂であるならば、本来、それは、どちらが上であるとか、比べられるようなものなのでしょうか?決して比べられるものではありません。なぜならば、神様の魂は一つであり、上も下もないのですから。神様はお一人しかいらっしゃらないのですから。
イエスの中にある魂も、明主様の中にある魂も、メシアと名の付いた、同じ、唯一の神様の魂です。
しかし、実は、それだけではないですよ。
神様の光は、実に、私たちの中にも存在しているのです。
メシアと名の付いた神様の魂は、実に、私たちの中にも存在しているのです。
明主様は、イエスを救う、助けるという旨の御言葉を遺されていますが、私たちは、今まで、この御言葉の真意について理解していなかったと思います。この御言葉を耳にすると、「イエスより明主様のほうが上ではないか」と思われるかもしれません。
しかし、そうではなくて、私は、この明主様の御言葉は、明主様の、また、私たちに課せられた使命がいかに大きいかについての御言葉であると受け止めております。なぜならば、今日(こんにち)まで、イエス・キリストが本当に伝えたかったことを継承した人物は、一人もいなかったからだと、私はそう思います。
明主様は、メシアとして新しくお生まれになり、人類にとっての雛型(ひながた)、モデルとなられました。そして、そのことにより、イエスの真(しん)の願いを継承されたのではないでしょうか。人類史上誰も成し遂げることができなかった、神様の、またイエスの真の願いを継承されたのが、明主様ではないでしょうか。その意味において、私は、明主様は、イエスを救った、助けたと、そうおっしゃったのだと受け止めております。
今まで私たちは、この、明主様の本当の願いに気が付くことができませんでしたね。しかし、今、教主様を通して、明主様の真(しん)の願いとは何か、本当の救いとは何か(永遠の命に触れること)、イエスの説いた本当の救いとは何かを知るに至りました。
私たちの使命は、この事実、真実を信じ、認め、受け入れ、それを一人でも多くの方にお伝えすることであると思います。私たちの使命は、なんと大きいのでしょうか。本当に、なんと、大きな使命なのでしょうか。
私は、この、人類の救いにとって計り知れないほど大切で大きな道を、常に、教主様と、また皆様と共に歩んでまいりたいと思っております。
よろしくお願いいたします。
《 真明様へのお伺い 》
【フェルナンド理事長 】
グローバル化により、日本国外に住む多くの信徒は、インターネットを通して、言葉の壁、あるいは今までの執行部の運営の方針を超えて、これまで触れたことのない数々の明主様の御教えに触れることができるようになりました。教主様がそれぞれの祭典に応じて、今必要と思われる御教えをお選びになり、翻訳の見直しもされています。それでも、私たちはどうしても自分と日本信徒を比べてしまい、自分たちは御教えを知らない下位な存在であると思ってしまいます。
このたび、世界メシア教が再び生まれたと受け止めておりますが、それによる全く新しい信仰を歩むお許しを賜った私たちは、このような御教えに関する思いをどのように受け止め、明主様の御教えの全体像に触れたいという信徒の要望にどのようにお応えしたらよろしいでしょうか。
フェルナンドさん、どうぞお座りください。
ご質問は、御教えについて、ですね?御教えのすべてを知ることができないと、そして、だから、劣等感を覚えると、そういうことですね?(はい)
私も、もしポルトガルの皆様が御教えのすべてにアクセスできるようになれば、それは素晴らしいことだと思います。私も、いろいろな方の手助けを受けながら、現在、御教えの翻訳をしている最中ですし、これからも、そのようなことが実現できるよう、精一杯翻訳を進めてまいりたいと思っております。
ただ、すべての御教えへのアクセスがあるとか無いとかを超えて、私たちは、「御教え」について考える上で、一点だけ、忘れてはならないことがあると思います。この一点が、私はとても重要だと思います。
それは何かというと、「明主様は御教えをどなたからお受けになったのか」ということです。御教えの出どころはどこなのか。御教えは、最終的には、どなたのものなのかと、そこですね。そこが、御教えについて考える上で、最も大切なことだと思っております。
そして、答えは明白ですね。神様、ですね。
神様がご自身の御教えを用意され、そしてそれを明主様にお授けになった。これは、紛れもない事実であり、また、最も外してはならない点ですね。
なぜならば、もし御教えが神様から来たのであれば、その神様は、実は、私たちの中にいらっしゃるわけです。御教えをお持ちの神様が、私たちの中にいらっしゃる。御教えのことについて語るならば、何をおいてもまず、このことを認識しなければならないと思います。
明主様の御歌に、「拡ぐれば万(よろず)の教(おしえ)約(ちぢ)むれば聖(せい)観音の御(み)心なるらめ」というのがあるのですが、観音はメシアとなりましたので、これは、拡げればたくさんの教えになるけれども、ひと言で言えば、メシアのみ心ですよと、そういうことになりますね。
明主様の御教えはたくさんあると。だけれども、縮めればメシアのみ心ですよと、そういうことですね。そして、私たちの中には、このメシアという神様の魂がある。私たちの中には、神様がいらっしゃって、そのお方のみ心を、拡げれば御教えになるその元の神様の御心がすでに私たちの中にあるわけです。神様の御教えも、御心も、明主様の御教えも、み心も、すでに、私たちの中にあるのです。大変なことですね、これは。まず、これを認めないといけない、と思います。
そこで私たちはもう一つ自分自身に問わないといけないと思います。それは、「私たちの中にいらっしゃる神様は完全な存在なのか、それとも不完全な存在なのか」ということです。
神様は完全なお方ではないのですか?完全なお方ですよね。そして常にそのお方によって私たち自身のすべては、体も心も、満たされている。そう感じられないとしても、そうなんです。
そうだとするならば、もし私たちが、「明主様の御教えのすべてがまだ翻訳されていないから、手に入らないから、神様の御心を完全に受けることができない」と思ったとしたら、私たちは、神様から、「あなた方は私を受け入れないのか。私が完全であることを認めないのか」と言われてしまうと思います。
すべての御教えを翻訳するには時間がかかりますね。もしかしたら30年、40年、50年、あるいはもっとかかってしまうかもしれない。フェルナンド先生が生きている間にすべての翻訳は完了しないかもしれない。
その時に、先生は、どのように受け止めるのでしょうか。「御教えの全部を読むことができなかったから、明主様のみ心を、神様の御心を完全に受けることができなかった」と思うのか、それとも、「いや違う、私は、神様の、明主様のみ心を完全にお受けしました。していました」と思うのか。
これは、未来というより、今、決めるべきことです。今、明主様のみ心を、神様の御心を完全に受けているのか、それとも、そうではないのか、先生ご自身が、ご自分でお決めになることです。
私たちは、欠けているものに心を向ければ、自分にはたくさんのものが欠けていると思ってしまう。これもない、これも足りない、あの人はあれがあるけど私にはないと。しかし、神様は、完全なお方です。そしてそのお方が私たちの中にいらっしゃって、私たちを常に、完全に満たしておられる。私は、まず、このことを認めることが、大変重要なことだと思います。
ですので、ご質問されたような思いが湧いてきた時に、「そうだ、自分にはこれが欠けているな」と思うより、「いや、そうではない。神様は完全であられるのだ。私に欠けているものは何もない」と、もしそのように思うことができれば、神様は、「そうだ。よく分かってくれたね」とおっしゃってくださって、そして、あなたにとって必要なものを、すべて、過不足なくご用意くださると、そう私は信じております。
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