令和2年4月18日
岡田真明

真のご浄霊とは
- 新時代を切り拓く教主様のお言葉 -

現在、世界中で、新型コロナウイルスによる影響が出ております。
 それにより、集会はおろか、人との接触も基本的には避けること、どうしても人と接触することがあれば、2メートル以上の距離をあけるよう推奨されています。
 このような中で、私たちは、ご浄霊につき、どのように捉えればよいのでしょうか?
 教主様は、ご浄霊につき、次のようにご教導くださっております。

 

神様は、大きな愛をもって、すべての人のありのままの姿をご覧になり、様々な心の声や思いをお聞きくださり、すべてをご自身の浄霊の光によって赦し、救い、天国に迎え入れてくださっている

 

主神は、ご自身の光によってご覧になったすべてを、赦し、救い、ご自身の御手に収めてくださっています。
 ですから、私どもが良いことでも悪いことでも、何かに気づき、思わせていただいたならば、それがどんなに取るに足りないことであっても、〝ありがとうございます。あなたがご覧くださっていたのですね〟と主神に申し上げ、〝明主様と共にあるメシヤの御名にあって、赦され、救われたものとして、すべてを主神に委ねさせていただきます。み旨の御用にお使いくださいますように〟と自分自身を主神に捧げさせていただくことが大切であると思います。

 

私どもが、万物を始めすべての人々の中に主神の大光明が輝き、赦しと救いがすべてに及んでいることを認め、その栄光を携えて、すべてのものと共に自らを主神に委ねさせていただくという想念の御用そのものが、主神が最もお喜びになる浄霊の御用なのではないでしょうか。

 

教主様は、私たち一人ひとりの中にある神様の光が私たちを照らしているがゆえに、私たちの心にはいろいろな思いが湧いてくること、そして、その思いを、神様は、ご自身の御手によって収めてくださっていること、であるから、私たちはそのことを認め、すべてを神様にお委ねするという「想念の御用そのものが、主神が最もお喜びになる浄霊の御用」であることを知る必要があるとお説きくださっています。
 私は、教主様がご教導になるご浄霊につき、

 

私たちが掲げているこの手だけが、浄霊の手ではないじゃないかと。神様の手が私たちの中にあるじゃないかと。それが本当の浄霊の手じゃないんですかと。神様の光が私たちを照らして、そして、私たちの心を常に救いの御用にお使いくださっている。どんな思いでもですよ。私たちがどんな思いを持ったとしても、神様は、ご自分の光によってそれを包んで迎え入れてくださっている。これが本当の浄霊なんだと教主様はおっしゃる。

私たちはご浄霊をさせていただきますよね。その時に私たちが掲げている手は、私たちの手ですか?それとも神様の手ですか?どちらでしょうか。…
 もし神様の手であるならば、神様がその御手を掲げていらっしゃらない時間はあるのでしょうか?ご浄霊をなさっておられない時間があるのでしょうか?
 私は、そのような時間は、一瞬たりともないと思います。
 神様は、常に、いつだって、私たちの中で、私たちに対してご浄霊をしてくださり、そして、私たちが感じること、思うことのすべてをその御手によって包み、ご自分のもとに迎え入れてくださっていると思います。

 

そして、

 

神様は、常に、全人類一人ひとりの中でご浄霊をしてくださっているのです。なんと素晴らしいことでしょうか。

 

と思わせていただいております。
 明主様のご神業の中心であり、救いの中心であったご浄霊。そのご浄霊は、すべての人の中で、常に行われているのです。本当に、なんとありがたく、素晴らしいことでしょうか。
 教主様は、手を掲げることができなくても、神様のご浄霊は私たち一人ひとりの中で行われていること、そして私たちは、私たちの思い——想念——を通して、その業にお仕えできること、つまり、人間のさまざまな思いを神様にお捧げすることで、救いのみ業にお仕えできることをご教導くださっております。
 この、ご浄霊に関する教主様のお言葉を、そのままお受けになる方々もいれば、反発される方々もおられます。場合によっては、「教主様は明主様の信徒として一番大切な手を掲げるご浄霊を否定している」「浄霊が想念となんの関わり合いがあるのか」「思いを委ねても何も変わらない」、そして、「手を掲げるご浄霊こそ、真のご浄霊であり、人を救う唯一の手段である」と、そのような声も聞こえてまいります。そして、このような思いは、実は、私たち一人ひとり、わずかなものであったとしても、持ったことがあるのではないでしょうか。私も例外ではありません。教主様に、深くお詫び申し上げたく思います。
 冒頭に申しましたように、現在、新型コロナウイルス感染症の影響により、人との接触を避けることが、世界中で取り組まれております。人との距離は2メートル。
 もし私たちが、教主様のお言葉を否定し、手を掲げるご浄霊こそが真のご浄霊であり、人類に救いをもたらすものであると主張するならば、信じるならば、私たちは、今こそ立ち上がり、人との接触禁止の取り組みを無視し、ご浄霊の奇蹟によってこのウイルスを撃退するよう動かなければならないのではないでしょうか。今こそ、教主様のお言葉に反対していた思いを、具体的に現さなければならないのではないでしょうか。
 あるいは、普段は1メートル前後の距離でさせていただくご浄霊を、2メートルの距離をおいてさせていただこうとでも言うのでしょうか。その場合、普段の距離より倍になっているがゆえに、ご浄霊の偉力は半減するとでも言うのでしょうか。
 そう考えますと、では、3メートル離れたらさらにご浄霊の偉力は減るのでしょうか。4メートル、5メートルと離れていけばいくほど、ご浄霊の偉力は弱まるのでしょうか。それとも、同じ部屋の中であれば、どんなに離れていても、ご浄霊の偉力は同じでしょうか。違う部屋であれば弱まるのでしょうか。同じ家の中であれば、同じでしょうか。隣の家にはご浄霊の光は届かないのでしょうか。隣の町には、隣の市には、隣の県には、隣の国には、神様の光は届かないのでしょうか。地球の裏側の方には、届かないのでしょうか。もし届くとするならば、私たちは、一人自分の部屋にいて、四方八方にご浄霊の手を掲げていればよいのでしょうか。
 私たちは、「手を掲げる」ということが何を意味するのか、よくよく考える必要があると思います。
 また、もしこのまま集会も、人との接触も制限された状況が1年続いた場合、私たちは、「1年間、明主様のご浄霊の業はストップした」と言うのでしょうか。もし2年続いたら、3年続いたら、いかがでしょうか。
 新型コロナウイルスのことが終息したとしても、近い将来、違うウイルス等により同様の状況が起き、人との接触が制限されるようになった場合、私たちは、「ご浄霊の業を行うことができない」と言うのでしょうか。
 明主様の尊い「ご浄霊」のみ業は、人間の行動が制限されたら行われなくなるような、そのようなスケールの小さいものなのでしょうか。
 教主様のもとにいる私たちは、「断じてそうではない」とはっきり言えるのではないでしょうか。なぜならば、教主様は、本当のご浄霊の御手とは、私たち一人ひとりの中にある神様の御手であり、その神様のご浄霊の業は、一瞬たりとも滞ることのないことをお示しくださっているからであります。
 明主様はなんとおっしゃっているでしょうか。
 教主様がたびたびお取り上げくださっておりますように、明主様は、1954年に脳溢血のご浄化をお受けになったあと、側近奉仕者の方々に、「浄霊は二の問題」であること、「これから想念の世界である」ことを、繰り返し繰り返し仰せになりました。「今までとは違う。これからは特に想念が大事なのだ」と仰せになったとのことであります。
 明主様の秘書であり、教団の執事であり、最側近のお一人であった、井上茂登吉先生の日記に、その時の様子が詳しく書かれております。
 1954年4月28日の日記から抜粋しますが、

 

御浄化の御模様は、去る十九日御右腕と御右足が御不自由とならせ給いし由なり。最初はあまりに大きい結構なる御事にて、御嬉しさに号泣し給いし御由である。

 

とあります。
 脳溢血という大変な病であり、激しい痛みの中におられたと思いますが、明主様は、嬉しさのあまり、号泣なさっておられたと、そう記されております。
 そして、同日の日記によりますと、明主様は、

 

毎日御浄霊を遊ばしているが、御手をかざされず、御想念で遊ばすのみである。今迄お喜びの御事はあっても、何か一抹真からのお喜びはあらせられなかった。今度はもう嬉しくて嬉しくて堪らない。今度の御浄化は特にキリスト教と関係がある。

  

と仰せであると、そのように書かれております。ご浄霊のことと併せて、「今度の御浄化は特にキリスト教と関係がある」と仰せになっていたとのことです。
 同じ時期に、メシアとして新しく生まれるというメシア降誕のご事蹟をお示しになっておられましたが、そのこととご浄霊のこと、それらのことも含め、「キリスト教と関係がある」と明主様は仰せです。
 さらに、井上先生の日記によりますと、

 

之からは一切御言霊と御想念で自由に遊ばすのである。

之からはお詫びの時代ではない。悔改めの時代である。悔改めて想念でおわびすればお許しが戴けるのである。

   

と明主様はおっしゃっていたとのことです。これからは想念の世界であると同時に、悔い改めの時期に入ったことをお示しになっておられます。
 これらの御言葉を通して、明主様は、明確に、手を掲げるご浄霊での救いから、一人ひとりの思い——想念——を通して神様の救いのみ業にお仕えする段階に至ったことを、すでに、70年近く前にお遺しになっておられたのです。
 この救いの福音を教主様を通して知らされた私たちは、2メートルの距離が離れているからご浄霊の力が弱まるのだろうかなどというそのようなことに思い悩むのではなくて、

 

眼に見えぬ想念は地球の涯はおろか無限大に拡がり得る事も一瞬にして可能である。(「唯物主義と唯心主義の戦」昭和24年12月20日)

 

わけですから、そして、この「眼に見えぬ想念」は、私たちのアンバランスな想念が拡がっていっても仕方がないのですから、神様の調和をもたらす想念が無限大に拡がることをこそ願い、現在、たとえ実際にご浄霊をさせていただいたり、受けることができなくても、私たち一人ひとりの中に神様の救いの御手があることを信じ、その光によって照らされたさまざまな思いを、一人ひとりの心の中で——想念の中で——神様にお捧げすることにより、多くの方々が天国に迎え入れられ、救われ、そして、その天国での栄えが、霊主体従の法則により、この地球上にも投影し、神様の光が世界中に拡がり、満ちることにより、この世界がより生き生きとしたものとなる業にお仕えさせていただこうではありませんか。
 現在の世界情勢の中で、もし、手を掲げるご浄霊のみが真のご浄霊であり救いであると信じ、世に出たならば、私たちは、世界中から非難され、そのような行動により、場合によっては宗教法人格さえも剥奪されてしまうかもしれません。
 しかし、今までの私たちの信仰は、そのような信仰だったのではないでしょうか。
 もし、私たちの掲げる手から出る光による救いが、明主様のご浄霊による救いであるならば、そして、もし私たちが、——そして私たちはそのように長年信じてきましたし、また、未だにそれを信じ、教主様のご教導を否定しておられる方々もいらっしゃいますが——本来私たちは、社会からいかなる攻撃、非難を浴びようとも、今こそ世に打って出なければならなかったのではないでしょうか。手を掲げる「浄霊力」があると誇るのであれば、今こそ立ち上がらなければならないのではないでしょうか。
 しかし、教主様は、新しいご浄霊を、否、明主様が願われた真のご浄霊をお説きくださっております。
 なぜならば、明主様は、手を掲げるご浄霊が主なのではなく——それどころか「浄霊は二の問題」、つまり二の次であると仰せです——想念の世界に入ることを、すでに70年近く前に、おっしゃっておられるからです。
 まさに、明主様と教主様が呼応して働いておられる、否、教主様の中で、明主様が生きて働いておられると思わずにはおれません。
 新型コロナウイルスが猛威をふるっている今の事態を考えますと、明主様も、教主様も、すでにこのような時代が来ることを予見しておられたのではないかと思えてなりません。
 手を掲げるご浄霊を中心にしたあり方では、行き詰まりが来ることを予見しておられたのではないかと思えてなりません。
 明主様は、新時代にふさわしい救いのあり方を、最晩年に遺してくださっていたのです。それを、私たちは長い間無視してまいりました。
 しかし教主様は、明主様の全く新しい救いの福音をお受けになり、私たちを、「真のご浄霊とは何か」「明主様の真の救いとは何か」ということに目覚めさせてくださいました。
 私たちは、たとえ集会が持てなくても、人に会うことができなくても、ご浄霊のみ業にお仕えできないわけではありません。むしろ、いつだって、どんな時も、神様のご浄霊のみ業にお仕えし、救いの御用に、地上天国建設の御用にお使いいただけるのです、お使いいただいているのです。
 なんとありがたいことでしょうか。
 私は、明主様の真のみ心を宣べ伝えてくださる教主様に、心の底から感謝申し上げたいと思います。そして、たとえ世界が混乱の中にあっても、神様と明主様が、まさに今こそ大建設を進め、素晴らしい世界を造ってくださっていると信じ、教主様がお説きくださっている新時代にふさわしいご浄霊のみ業に、救いのみ業に、メシア教信徒の皆様とご一緒に、一丸となってお仕えしてまいりたいと思います。

 

神様が、いつまでも私たちにご浄霊の御手を掲げてくださいますように。

 

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