ギリシャ教会 教会長 エヴァンジェロス・クレアチソウラス

 

私はギリシャ系ブラジル人としてブラジルに生まれ、1980年12月に信徒となりました。

その後、1985年に第10期ブラジル研修生となり、1991年4月には資格者、同年5月から今日(こんにち)に至るまで、ギリシャにおいて布教活動をさせていただいています。
 私は、過去2回起きた教団浄化に、明主様のお導きにより、日本で立ち会った経験を持っています。
 30年前の教団浄化の時、私は海外研修生として日本におり、教団のさまざまな変遷を目の当たりにしました。
 2017年に表面化した今回の教団浄化においては、同年9月末に救世会館で開催された教会長会で、東方之光が手を染めた、非人道的、犯罪的行為である「尾行・盗聴・盗撮」情報を小林氏が公開した時も、私はその場で一部始終を目撃しました。
 「世界救世教」といづのめ教団が、ここまで悲惨で、惨めな状態になっているとは思ってもいませんでしたが、そのようなスパイ行為をするような、恥ずべき集団の一員、臆病者の集団の一員であり続けるという選択肢は私には一切なく、即座に教主様と共に歩む決断をし、その思いをもってギリシャに戻りました。言うまでもないことですが、ギリシャの信徒も皆、私と同じ思いです。
 その後私は、2018年10月8日に大阪で開催された、教主様ご出座の秋季大祭に参拝するため、訪日しました。その場には5300名の信徒が集いましたが、日本の信徒一人ひとりのお顔が、喜びに満ちあふれていたことに強く感動しました。
 日本の信徒の皆様は、天国的な雰囲気の中で教主様を迎えられ、教主様、まゆみ奥様、教主様の後継者であられる真明様も笑顔で、謙虚に信徒の皆様と接しておられました。
 日本滞在中、私は、救世会館にも行ってみましたが、一見大きく、立派に見える救世会館も、空虚で、空っぽで、エネルギーもなければ喜びもない印象を受けました。
 大半の専従者が、教主様と共に歩むために救世会館から離れたので、人がほとんどおらず、活気も無く、不気味に静まり返っていました。まるで魂を抜かれた無味乾燥な雰囲気を感じました。
 一方、秋季大祭が執り行われた大阪の会場は、温かさと美しい感情に満ちあふれていました。本当の喜びと信仰がここにあることを体感させられました。
 私は、今日(こんにち)まで、40年間、尊い明主様の信仰の道を歩んできました。専従してからは35年(その間、28年はギリシャ教会とロシアなどの隣国の責任者として)が経ちました。
 はっきり申し上げて、私は、自分の信徒、また専従者としての人生の結末に、「唯物主義信仰」、つまり、目に見える聖地や教会を重視する信仰、現界の物質を重視する信仰には一切関わりたくありません。私の今日(こんにち)までの信仰を汚したくはありません。世の中の一般企業のように成り下がった教団には関わりたくありません。「世界救世教」やいづのめ教団が、聖地をまるで〝テーマパーク〟のように扱っていることを認めるわけにはいきません。そして、何より、教主様が私たちにご教導くださっている、21世紀にふさわしい御教えを求める道が閉ざされることを私は、認めるわけにはいきません。
 地上における明主様の代行者は、信仰的にも、法的にも、岡田陽一教主様以外にはあり得ません。教主様は、私たちを明主様のみ心に導き、明主様が示してくださる全く新しい信仰の道に導いてくださっているのです。
 私はただの一専従者ですが、畏れながら、歴代の教主様は、明主様の御教えに対する私たちの理解をより一層深めるべく、世界中に存在するあらゆる宗教について研究をしなければならないお立場にあると、私は受け止めています。なぜなら、あらゆる宗教は、私たちが信奉する、唯一の神様である主神から生まれてきているからです。
 教主様が、『聖書』を勉強するキリスト教のグループに参加されていることは、問題視されるどころか、大変喜ばしいことであり、必要なことであると私は思わせていただいております。
 ギリシャは、熱心なキリスト教徒が国民の大多数を占めます。そのギリシャにおいて、明主様の御教えを広めようとしている私にとりましては、教主様が説かれていることは非常にありがたく、また、今まで私が悩みに悩んできたキリスト教との関係においても、それを抹殺するのではなく、呼応できるあり方を提示してくださっています。教主様がお立ちになって初めて、明主様のみ心がギリシャの方々にも伝わりだしたと感じております。
 私は、数年前から、自宅の書斎に、イエス・キリストが子供たちを祝福している絵を飾っています。本棚には、『天国の礎』の横に『聖書』があります。参拝席には、マリア様の像があります。だからと言って、ギリシャの信徒の方々は、私が「明主様の教えをキリスト教化しようとしている」などというくだらないことを思ったことはありません。
 教主様への批判は、自分たちにとって都合のよい状況を維持したい方々、また、変化を恐れている方々が作り上げた、ばかげた話でしかありません。そもそもその方々は、今まで、明主様の「新人たれ」の御教えの精神をもって教主様のお言葉を拝読したことがあるのでしょうか。疑わしいかぎりです。
 教主様は、冬眠と言ってもよいくらいの長い眠りから、私たちを目覚めさせてくださいました。私たちが慣れきってしまっていた、代わり映えのしない信仰から目覚めさせてくださいました。
 いつの間にか、私たちは、万教帰一を目指し、地上天国を実現する集団ではなくなっていたのです。自分たちだけが、明主様だけが、他よりも優(まさ)ったものであるとし、いつの間にか世の中から孤立していたのです。私たちは、いつまで、このような視野の狭い信仰を続けていこうというのでしょうか。
 私たちは、目覚めなければならない時がきたのではないでしょうか。教主様は、明主様が願われた、世界的な宗教の実現を目的にされていると思えてならないのです。明主様の本当のみ心を全世界に訴えてくださっていると思えてならないのです。全世界の救いが目的であったからこそ、明主様は、教団に世界救世(メシヤ)教という名前を付けられたのではないでしょうか。
 教主様は、教団の執行部の方々によって、過去何十年間も隠されてきた明主様の真実を、私たち信徒のために、明るみに出してくださったのです。明主様が「キリスト教と呼応する」「メシヤ教はよほどキリスト教に近くなる」等の御教えを遺(のこ)していらっしゃったにもかかわらず、私たちは今まで、それらの御教えに向き合うことができずにいました。
 しかし私は、教主様のおかげで、これからは恐れることなく、明主様の御教えを全人類に告げ知らせることができます。私は、教団が今、明主様が真(しん)に願われた、全く新しい信仰の段階に入ろうとしている時期に生きていることを、何よりもうれしく感じています。
 私はこのたびの教団浄化の中で、双方の立場の方々と会うことが許されました。そして、その方々の目を真正面から見つめ、一人の信仰者として、自分の本能と心に従おうと思いました。「目」の中に、その方の誠がにじみ出ると思うのです。2018年の秋季大祭で、喜びいっぱいの多くの信徒の目、表情を見て、自分の決断が正しかったと確信しました。
 また、2018年に訪日した際、長時間にわたって、教主様から直接お言葉を賜ることが許されました。その場には、まゆみ奥様、真明様もいらっしゃいました。お三方と共に過ごさせていただいた時間は神聖なものであり、これまでお会いした偉大な先生方との時間とは比べものにならないものでした。
 私は今、日本から遠いギリシャに身を置いていますが、教主様のご教導のもと、日本の信徒の皆様とご一緒に、信仰の革命が許されていることに、深い感謝の念を抱いています。
 新しい「世界メシア教」は、私たちを一つに結び、世界中に大きな影響を与えていくと確信しています。「世界メシア教」の発足により、ついに、神様が前面に出られる時が来たのです。
 神様のご意思は、全人類を漏れなく救うことであると知ることができ、私は大変うれしく思っています。全人類の誰もが、神様の子供となるために、常に、甦りと救いの中にいるのです。
 ギリシャ教会はまだ小さい教会です。しかし私は、メシアの御名に込められた福音をギリシャの地でお伝えしていく御用にお使いいただけることに対し、強い情熱を感じています。私たちの宗教は――世界メシア教は――老若男女、誰もが同じ神様の魂を有し、そして、メシアの御名がそれぞれの内側で生き、輝き、振動していると信じています。私は、そのような偉大な宗教の一員であることが、何よりも幸せなことだと思っています。
 メシアの御名は、私たち一人ひとりの中で響き、その響きによって、私たちの中にある天国――ずっと昔から存在していた天国、私たちの真(まこと)であり、唯一の父である神様がお造りになった天国――に立ち返らせてくださっているのです! 私たちは昔、その天国において、皆、一人ひとり、神様の教会として存在していたのです!
 神様、私たちをご自身の教会として用いてくださいますように。

 

 

 『グローリー』No. 3, 2020/4月号掲載

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