令和2年6月15日
岡田真明

時空を貫く明主様の聖言

このたび、教主様より、「御教え」の呼称につき、「聖言(みことば)」と改める旨、お示しがございました。
 「御教え」は、「教え」という言葉からも分かるように、「教えを守らなければならない」「こうしなければならない」という、ややもすると道徳的響きを持つ言葉であります。
 明主様は、

 

“人間はこういう気持をもて”とか“こういう行いをしなければいけない”と言うが、そういう道理を説いて心を良くするという事であっては、本当は宗教より下のものです。つまり道徳です。 
(「御講話」昭和28年2月15日)

 

大体宗教というのは宗祖の教えです。人間はよい事をする、悪い事をしてはいかん、親に孝行を尽くすもの、粗末にしてはいけないという、一つの道徳です。しかしただそれではいけないのです。 
(「御講話」昭和28年7月27日)

 

宗教は宗教としての、独自の使命があって、一切衆生の霊体を不幸から永遠に脱却さす事である。教化や道徳や、倫理や哲学では一時的の救いである。無量無辺に、魂を救う事は出来ないのである。 
(「宗教の使命」昭和10年9月15日)

 

人間は神を認めて、神様が見通しだという事を知ればそれでよいのです。他の事は別に必要ないです。それが、ややこしい、“ああしろ、こうしろ”と言っているだけでは何んにもならないです。肝腎な「神が有る」という事を唱える人は本当にないのです。そういう事を言うのは救世(メシヤ)教だけなくらいでしょう。他の宗教でもそういう事は言っていませんから。 
(「御講話」昭和29年2月27日)

 

よく“救世(メシヤ)教にはまだ教義がない”とか言われるのですが、これは、つまり世間一般の宗教として見るから、その教義というものを考えるのです。本当言うと宗教ではないのだから、教義などは要らないわけです。大体「教義」という言葉がピッタリしてないのです。教えではないのですから……。教義というものは昔から、殆んどの宗教にはありますから、随分立派な、よく出来た教義が沢山あります。つまり教義というのは、教えの理窟ですから、教えでは人間は救えないです。 
(「御講話」昭和29年3月6日)

 

との聖言を宣べておられます。
 明主様は、メシア教は、「教義などは要らない」「教えではない」「教えでは人間は救えない」と、はっきりと仰せです。
 そして、「良い行いをしなさい」「こういうふうに思いなさい」ということは道徳であり、道徳、倫理、哲学は一時的な救いであり、「一切衆生の霊体を不幸から永遠に脱却」させ、「無量無辺に、魂を救う事は出来ない」と仰せです。
 私たちは、今日まで、明主様の御教えと言えば、「こういう行いをしなければいけない」ものが記されていると思い込んできたのではないでしょうか。「感謝の気持ちを持たなければならない」「人に良いことをしなければならない」、それが明主様の御教えだからと。
 しかし明主様は、「“人間はこういう気持をもて”とか“こういう行いをしなければいけない”」ということは、道徳であり、宗教より下であるとおっしゃっている。「ややこしい、“ああしろ、こうしろ”と言っているだけでは何んにもならない」とおっしゃっている。むしろ、「人間は神を認めて、神様が見通しだという事を知ればそれでよい」と断言しておられます。そして、「肝腎な『神が有る』という事を唱える人は本当にない」「そういう事を言うのは救世(メシヤ)教だけなくらい」であると聖言くださっています。
 そもそも、明主様ご自身も、ご自分の御論文等を「御教え」と呼ばれたことはなく、ほぼ一貫して「御神書」--神の書ということですね--と呼称していらっしゃいました。ご自分の書かれた、『天国の福音』や『信仰雑話』という本につき、「御神書」と呼んでおられたのです。
 私たちも、明主様の書かれたそれらの本そのものは、「御神書」と呼ばせていただくことが妥当でありましょう。
 しかし、明主様が遺された御教えは、否、聖言は、明主様の御論文だけに限りません。5500首は詠まれたという御歌、数多くの御書、また、膨大な量の御講話。それらすべて、ひと言ひと言に、一文字一文字に、明主様のみ心が--明主様を通して地上に到達した神様の神聖なる御心が--宿っているのであります。
 それらすべてを、どのような言葉をもって呼称させていただくのか。今日までのように「御教え」と呼称させていただいた場合、冒頭から記しているように、明主様の望まれていない、教え、道徳の面が強調されてしまうのではないでしょうか。
 ではいかに呼称させていただけばよいのか。
 紛れもない事実として存在しているのは、御歌も、御書も、御論文も、御講話も、それは、例外なく、言葉であります。明主様の聖い御言葉を通して、私たちは、神様の光を感じているのであります。
 ですから、聖なる言葉、「聖言」と呼ばせていただくのではないでしょうか。

 

明主様は、ご自身の御教え改め聖言につき、次のようにおっしゃっておられます。

 

これは誰も気が附かない事と思うが、恐らく私の文章位難かしいものはあるまい。先ず文字が出来て以来例がないであろう。
(「私の文章とその他」昭和28年12月9日)

 

智慧正覚の進んだ人なら私の言葉の奥も判る筈です。そこまで行ってない人は言葉通りしか判らず、ボンクラは言葉の半分位、もっと「ボンクラ」なら三分の一や五分の一位しか判らない。だから言葉の奥まで判る様になる事が必要なんです。 
(「御講話」昭和23年12月18日)

 

私たちは、明主様の聖言を読み、「理解できる」「理解した」と思ったことがあるでしょうか。もしかしたら、「教主様のお言葉は難しいが、明主様の御教えは分かりやすい」と、そのような思いを持ったことはなかったでしょうか。
 しかし明主様は、ご自分の文章につき、これより難しい文章は世の中に存在しないと、明確に仰せです。しかも、そのことは「誰も気が附かない」であろうと仰せです。
 私たちは、明主様の聖言がいかに難しいか、まったく気が付いていないのだと、そのように思えてなりません。聖言を拝読し、理解したつもりになっているのではないでしょうか。理解したつもりになっていること、理解していると錯覚していることにすら気が付かない、気が付いていないのではないでしょうか。
 確かに、明主様の御言葉・御文章は、一見、分かりやすい言葉で書かれているように感じるでありましょう。しかし明主様は、「ふつうの見たまま、感じたままを書くのなら簡単なのですが……深いところをごく平易に書くので、そこに苦心がいるのです」と仰せです。
 平易に書かれていることに目を奪われ、明主様が本当に望まれている「深いところ」など考えたこともなかったのではないでしょうか。「平易に書く」のところだけに心が向き、「明主様は分かりやすい言葉で御教えを書かれた」と、その面だけを思ってきたのではないでしょうか。文字面に追われ、理解したつもりになり、その奥こそを求めねばならないと、思ったことなどなかったのではないでしょうか。
 そればかりでなく、明主様の「文字が出来て以来例がない」聖言を、世の中で一般に言われているような愛や神様や信仰や自然や教育や芸術と同じレベルで捉え、人智を遥かに超えた明主様の聖言を、人間の世界まで引きずりおろしてきたのではないでしょうか。
 私たちは、「御教えに書いてある」「御教えに書いていない」ということを言いますが、明主様は、言葉通りに理解していてはだめなんだとおっしゃる。一見して言葉にはないが、その奥の真意を理解しないとだめなんだとおっしゃる。智慧正覚が進んでいなければだめなんだとおっしゃる。明主様のみ心に関して言えば、御教えにその言葉がある、ない、では、判断などできない、ということであります。文字としては存在しない、その奥に存在する明主様のみ心を求めねばならない、ということであります。
 では私たちの中で、誰が、「私の智慧正覚は進んでいる」「言葉の奥が分かる」と言えるというのでしょうか。私たちの中で、誰が、明主様のみ心を垣間見たというのでしょうか。
 明主様が、ある先達の先生に、聖言は百回は読みなさいと言われたご事蹟については、皆様もよくご存じのことと思います。では、百回読み、明主様に誇らしげに「百回拝読しました」と申し上げれば、明主様はなんとおっしゃるでしょうか。私は、「では千回読みなさい」とすかさずおっしゃるように思えてなりません。
 「百回は読みなさい」と言われたご真意は、その先達の先生をはじめ、私たち明主様の信徒が、聖言を、人間の頭と知恵で理解しようとしている、また、理解しているつもりになっていることを、戒めてくださったものであると受け止めております。私の耳に、「百回読めば私の言葉が理解できるようになると思うのか」という、明主様の厳しい御声が、聞こえてくるような気がいたします。
 明主様は、御歌に、

 

人の眼に映るが如きものなれば神の仕組にあらじとぞ思へ

 

節穴の如き小さき眼もて我業見るも分り得べしや

 

と聖言くださっておられます。
 私たち人間の目では、頭では、明主様のみ心など、到底分かるはずもないのです。聖言は、そのような簡単なものではないのです。
 明主様は、私たちに、「私の頭では--人間の知恵と理解では--聖言を理解することは到底できません」と、そのことに気が付いてほしかったのではないでしょうか。明主様に「聖言はまったく分かりません」と申し上げれば、「少しは分かったようだね」とおっしゃってくださるのではないでしょうか。そして、明主様が、今現在、主神から直接示されている神智を、私どもに、ほんの少しであっても、分け与えてくださるのではないでしょうか。
 私は、明主様が、「明主様の教義とはこうである」「明主様の御教えとはこうである」と自負している方々に--そして、それはどこまでいっても私たち自身のことでありますが--ご自分が感得されている現在のみ心を伝えてくださるとは到底思えません。そのような思い上がりを許されるとは到底思えません。

 

何気なく宣る我言霊の節々に神秘の謎の含まれゐるなり

 

一見分かりやすく書かれているその聖言の中に、神様の底知れぬほど深い真理の謎が、神秘が、奥義が潜んでいるのです。なんと畏れ多いことでありましょうか。今までの私たちの御教えの理解は、否、聖言の理解は、なんと浅かったことでありましょうか。
 では、聖言はまったく理解できませんでした、ということで終わりなのでしょうか。人智を超越した聖言を紐解く鍵は、もはや存在しない、ということなのでしょうか。聖言の神秘の扉を開く鍵は、無いということなのでしょうか。
 決してそうではありません。
 明主様は、

 

万教を開く御鍵は早已に神の御国に具はりしならめ 

 

と宣べておられます。
 あらゆる教えを開くその尊い鍵は、すでに、神の御国に--天国に、この地上ではなく天国に--具わっているんだとおっしゃる。準備してあるんだとおっしゃる。
 教主様は、

 

御教えもご事蹟も、その始まりは天界にある

 

と断言しておられます。
 今引用しました御歌に込められている神秘を、一言にして、明快に説き明かしておられます。
 そして教主様は、

 

人間の理解や認識を越えて、私どもの思いを天界に立ち返らせていただいて、そこで明主様の生きた御教えに触れさせていただき、キャッチさせていただき、そして、味わわせていただきたい 

 

と願うべきなんだとおっしゃる。
 天国に、御国に上らせていただいて初めて、明主様の御教えの真実に触れさせていただけるんだとおっしゃる。
 果たして誰が、今まで、今引用した御歌に秘められた謎を解かれたでしょうか。
 「御教えは天界にある」という奥義を、誰が今まで私たちに教えてくださったのでしょうか。
 畏れ多いことですが、私は、教主様がこのような認識に--明主様と同じ認識に--至ることができたのは、それは、人間ではなく、教主様の中に生きていらっしゃる明主様のみ力によるものだと思わざるを得ません。
 明主様が、教主様を通して、人智を超越した聖言の真の意味を、今、私たちに教え導いてくださっているのだと思えてなりません。

 

理屈もて説けぬ神秘を明らかにするこそ真の教なるらむ

 

と明主様がおっしゃるように、明主様が遺された神秘を明らかにしてくださっているのが、教主様のご教導なのではないでしょうか。教主様が今、明主様の真の教えを、聖言を、私たちに伝えてくださっているのではないでしょうか。

 

1954年6月5日、明主様は、

 

ずいぶん若くなってるよ私の方は--メシヤ降誕と言ってね、メシヤが生まれたわけです。言葉だけでなく事実がそうなんですよ。私も驚いたんです。生まれ変わるというんじゃないですね。新しく生まれるわけですね。 

 

から始まる、明主様の聖言の集大成とも言える、メシア降誕の聖言を宣べられます。
 これは、聖言の集大成であると同時に、聖言のすべてを貫き、すべてに満ち満ちている聖言であると思います。いわば、至聖言とも言えるものでありましょう。
 なぜならば、このことは、明主様が、最晩年に、突然おっしゃったことではないからです。明主様は、昭和10年、1935年の元旦、本教立教の発会式において--本教が生まれたその最初の日に--新しく生まれることが本教の使命である旨、明確に宣べておられます。

 

今日までに「経と緯」との二大文明の見本が、一通り出来たのであります。. . .それで、此の二大文明は、何処へ行くという事です、之が、此の観音会の使命になるのであります。此の二大文明は、最後に結ばれるのが、神定の経綸であります。結ばれる地点は、我が日本であり、結ぶ時が之れからなのであります、恰度、夫婦が出来るのであります、東洋というお婿さんと、西洋というお嫁さんと結婚するのであります、其の媒酌人が、観音様であります。そうして生れた児供、其の児供が、「真文明」人類待望の「理想世界」であり、地上天国、ミロクの世なのであります、此の結婚をさして、玉の如な児を生ませる、空前の大事業を、遂行する其の力が、即ち「観音力」なのであります。
(「大光明世界の建設」昭和10年1月1日)

 

明主様は、東洋というお婿さんと西洋というお嫁さんが結婚をするんだ、そして、子供が生まれるんだとおっしゃる。その子供が、その子供が、人類待望の地上天国であると仰せです。それを推し進めていくのが観音力だと仰せです。しかし、観音はすでにメシアとなられたわけですから、「メシアの力」によってその子供が生まれる。それが、空前の大事業であり、神が古に定められた全人類に対するご計画であると仰せです。なんという素晴らしい聖言なのでしょうか。明主様を通して伝えられる神様の御心のなんと奥深いことでしょうか。
 明主様のご神業の集大成であるメシア降誕の至聖言の種は、本教立教の夜明け、その一日目に、すでに明主様によって私たちに託されていたのです。
 明主様は、ご立教の時におっしゃった聖言を胸に秘め、ご神業を進められ、そして、ご昇天前年、それを、その大事業を、御身をもって成し遂げられ、至聖言を宣べられたのではないでしょうか。
 明主様のご神業が開始した1935年1月1日と、明主様のご神業の集大成であるメシア降誕ご発表の1954年6月5日は、一直線につながっているのです。
 ということは、どの明主様の御歌にも、御書にも、御論文にも、御講話にも、「新しく生まれる」という思いが貫いているのではないでしょうか。御歌の一首一首に、御書の一つ一つに、御論文の一文字一文字に、御講話のひと言ひと言に、すべてに満ち、貫いているもの、それが「メシアの力によって新しく生まれる」という神様のご経綸であり、明主様の思いであります。神様の御心であり、明主様の願いであります。
 しかも明主様は、このことは、明主様のみのことであると仰せではありません。メシアの力によって子供を生む業に仕えるのが本教の使命であると、はっきり仰せです。私たちの使命であると、はっきり仰せです。
 教主様は、明主様に倣い、私たち一人ひとりも、神様の子供であるメシアとして新しく生まれなければならないとおっしゃっておられますが、これは、教主様が、突然おっしゃっていることでは、断じてありません。明主様が、立教の初日から私たちにお示しくださっていることであり、託されていることであります。
 しかし私は、さらにもう一つだけ、重大なことにつき申さねばなりません。
 それは、この「新しく生まれる」ということは、明主様からさかのぼること二千年、ナザレの聖者イエス・キリストによって遺されていた言葉である、ということです。
 聖書に、

 

パリサイ人のひとりで、その名をニコデモというユダヤ人の指導者があった。この人が夜イエスのもとにきて言った、「先生、わたしたちはあなたが神からこられた教師であることを知っています。神がご一緒でないなら、あなたがなさっておられるようなしるしは、だれにもできはしません」。イエスは答えて言われた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」。ニコデモは言った、「人は年をとってから生れることが、どうしてできますか。もう一度、母の胎にはいって生れることができましょうか」。イエスは答えられた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない。肉から生れる者は肉であり、霊から生れる者は霊である。あなたがたは新しく生れなければならないと、わたしが言ったからとて、不思議に思うには及ばない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこからきて、どこへ行くかは知らない。霊から生れる者もみな、それと同じである」 
(「ヨハネによる福音書」第3章1節~8節)

 

そして、

 

よくよく言っておく。わたしたちは自分の知っていることを語り、また自分の見たことをあかししているのに、あなたがたはわたしたちのあかしを受けいれない。わたしが地上のことを語っているのに、あなたがたが信じないならば、天上のことを語った場合、どうしてそれを信じるだろうか。天から下ってきた者、すなわち人の子のほかには、だれも天に上った者はない。そして、ちょうどモーセが荒野でへびを上げたように、人の子もまた上げられなければならない。それは彼を信じる者が、すべて永遠の命を得るためである 
(「ヨハネによる福音書」第3章11節~15節)

 

とあります。
 私は、これらのイエスの言葉と、明主様の聖言に、説明ができないような一致が存在していることを感じざるを得ません。イエスと明主様が語られる、天上に具わっている神様の栄光のことを思いますと、計り知れないものがあると言わざるを得ません。
 メシアの力によって神様の子供として新しく生まれるという、天上に、御国に準備されていたすべての教えを開く鍵は--神様の真の御心は--二千年の時空を貫き、明主様とイエスを貫き、私たちを貫き、全世界、否、全宇宙に満ちていると、畏れるほどの思いをもって認めざるを得ません。
 このたび、御教えは「聖言」と呼称させていただくことになりましたが、私たちは、聖言を拝読させていただく時も、教主様のお言葉を拝読させていただく時も、そして、聖書を読ませていただく時も、まず、その内容につき、人間の知恵では理解できないことを素直に認め、また、教えを理解する鍵は御国に存在しているわけですから、その天上に行かせていただき、そして、「メシアの力によって新しく生まれる」ということがすべてに貫いているという思いをもって、それらの言葉に触れさせていただくべきではないでしょうか。
 明主様は、新しく生まれる子供が、すなわち、地上天国であるとおっしゃっておられます。その明主様は、1954年にメシアとして新しくお生まれになりました。ですから、明主様こそ、私どもが最も大切にし、尊ばねばならない地上天国の雛型であります。であるならば、地上天国建設とは、まさに、全人類が、明主様に倣い、メシアの力によって新しく生まれるそのみ業が拡大することであると思えてなりません。
 そして、神様が定められた、メシアの力によって子供を生むという空前の大事業に--教主様によって初めて明らかにされた、明主様が私たちに真に託しておられる、人智を遥かに超えた救いの御用に--筆舌に尽くしがたい喜びをもってお仕えしてまいりましょう。

 

印刷用PDF:20200615_時空を貫く明主様の聖言

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