地上天国祭
2020年6月15日

御歌

人の眼は偽り得ても神の眼は偽り得ぬと知る人の幸 

よしやよし人の眼はかくすとて己が眼は隠すよしなき 

人の皮着たる獣を吾救ひ真の人と作り替へなん

 

聖言

善と悪 昭和二十三年九月五日

世の中は善悪入り乱れ、種々の様相を表している。すなわち悲劇も喜劇も、不幸も幸福も、戦争も、平和も、その動機は善か悪かである。一体どうして善人もあれば悪人もあるのであろうか。この善悪のよって来るところの何か根本原因がなくてはならないと誰しも思うであろう。
 いま私がここに説かんとするところのものは、善と悪との原因で、これはぜひ知っておかねばならないものである。勿論普通の人間であれば善人たることを冀(ねが)い、悪人たることを嫌うのは当たり前であり、政府も、社会も、家庭も、一部の人を除いては善を愛好することは当然であって、平和も幸福も悪では生まれないことを知るからである。
 私は判りやすくするため、善悪の定義を二つに分けてみよう。すなわち善人とは「見えざるものを信ずる」人であり、悪人とは「見えざるものは信ぜざる」人である。
 悪事を行うものの心理は、全然神仏の存在を信ぜず、利欲のため人の眼さえ誤魔化せば、いかなる罪悪を行うも構わないという―虚無的思想であり、欺瞞は普通事のごとく行い、他人を苦しめ、人類社会に禍いをおよぼすことなどはさらに顧慮することなく、はなはだしきは殺人さえ行うのである。
 かように人の眼さえ誤魔化せば、いかなることをしても知れないということであれば、できるだけ悪事をして、栄耀栄華に暮すほうが得であり、怜悧(りこう)―ということになる。また死後人間は零となり、霊界生活などはないと思う心が悪を発生することになる。しかるにいかほど悪運強く、一時は成功者となっても、長い眼でみれば必ずいつかは没落することは例外のない事実である。第一悪事を犯した者は、年が年中不安焦燥の日を送り、いつ何どき引っ張られるか判らないという恐怖に脅え、良心の呵責に責められ、ついには後悔せざるをえなくなるものである。よく悪事をした者が自首したり、捕まってからかえって安心して刑罰にあうことを欣(よろこ)ぶ者さえある事実を、吾らはあまりに多くみるのである。それはすなわち神より与えられたる魂が、神から叱責さるるからである。何となれば魂は霊線によって神に通じているからである。故に悪を行う場合、完全に人の眼を誤魔化しえたとしても、自分の眼を誤魔化すことはできないから、人間と神と霊線で繋がっている以上、人間のいかなる行為も神には手にとるごとく知れるからで、いかなることも閻魔帳にことごとく記録さるるというわけである。この意味において悪事ほど割の悪いことはないわけである。
 しかしながら世の中にはこういう人もある。悪事をしようとしても、もしかやり損なって世間に知れたら大変だ、信用を落とし非常な不利益となるから、という保身的観念からもあり悪事をすればうまいこととは知りながら、意気地がなくて手を出しえないという人もあり、また世間から信用を得たり、利益になるという観念から善を行う功利的善人もある。また人に親切を行う場合、こうすればいずれは恩返しをするだろう―とそれを期待する者もあるが、このような親切は一種の取引であって、親切を売って恩返しを買うというわけになる。以上述べたような善は、人を苦しめたり、社会を毒したりするわけではないから悪人よりはずっと良いが、真の善人とはいえない。まず消極的善人とでもいうべきであろう。したがってこのような善人は、神仏の御眼から覧れば真の善人とはならない。神仏の御眼は人間の腹の底の底まで見通し給うからである。この種の善人も詮じ詰めれば「見えざるものは信じない」という心理で、何らかの動機に触れ、少々悪事をしても人に知れないと思う場合、それに手を出す憂いがある以上、危険人物ともいえるわけである。これに反し見えざる神仏を信ずる人は、人の目は誤魔化しえても神仏の眼は誤魔化せないという信念によって、いかなるうまい話といえども決して乗らないのである。故に現在表面から見れば立派な善人であっても、神仏を信じない人は、いつ悪人に変化するか判らないという―危険性を孕んでいる以上、やはり悪に属する人といえよう。
 以上の理によって真の善人とは、「信仰あるもの」すなわち見えざるものを信ずる人にしてその資格あり―というべきである。故に私は現在のごとき道義的観念のはなはだしき頽廃を救うには、信仰以外にないと思うのである。
 そうして今日まで犯罪防止の必要から法規を作り、警察、裁判所、監獄等を設けて骨を折っているが、これらはちょうど猛獣の危害を防止するため檻を作り、鉄柵を取り廻すのと同様である。とすれば犯罪者は人間として扱われないで、獣類同様の扱いを受けているわけで、せっかく貴き人間と生まれながら、獣類に堕して生を終わるということは、何たる情けないことであろう。人間堕落すれば獣となり、向上すれば神となるというのは不変の真理で、まったく人間とは「神と獣との中間である生物」である。この意味において真の文化人とは、獣性から脱却した人間であって、文化の進歩とは、獣性人間が神性人間に向上することであると私は信ずるのである。したがって、神性人間の集まる所―それが地上天国でなくて何であろう。

 

 

『信仰雑話』

*抜粋

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