神は、有る
《明主様》
人間は神を認めて、神様が見通しだという事を知ればそれでよいのです。他の事は別に必要ないです。それが、ややこしい、“ああしろ、こうしろ”と言っているだけでは何んにもならないです。肝腎な「神が有る」という事を唱える人は本当にないのです。そういう事を言うのは救世(メシヤ)教だけなくらいでしょう。他の宗教でもそういう事は言っていませんから。
( 1954年3月15日『御教え集』31号)
《教主様》
皆様、創造の神・主神は生きておられます。皆様お一人お一人の中に生きておられます。このことは、理屈でその通りだということではありません。本当に私の中に神が生きていらっしゃると、そう心に触れて言えるかどうかということです。
人間は日々心の赴くまま喜怒哀楽の世界の中で汲々として一生懸命生きております。私の中に神が生きていらっしゃると感じることは大変難しいことです。人間は辛うじて信仰という名のもとに神を信じ、それぞれの願い事をし、神を信頼するよう努力をしてまいりました。本当に自分の中に神が生きていらっしゃると断言できるかどうかということです。
明主様は岡田茂吉という名前をもってこの世に生まれ、この世で生きてこられました。そしてご自分の中に神が生きていらっしゃるということを感じ取り、確信を持つに至りました。今や、明主様は岡田茂吉という名前ではなく、岡田茂吉という名は必要なくなり、神の子、すなわち生命の親である方の子供となられました。親である神の業を受け継ぐものとなられました。それが、メシア、救世主であると思います。すなわち、主神を表現する子供となっていらっしゃるのであります。
(2003年10月19日「秋季大祭」)
《真明様》
私たちは、幸せや喜びを望みますよね。でも、本当の喜びは、永遠の喜びですよね。一時的な喜びや一時的な幸せは、その時は嬉しいけれど続かない。病気が治るのは嬉しいけれど、その後また病気になって亡くなってしまう方もいます。
だから、本当は、そういう「天国」という、本当の喜びに、永遠の喜びに満ちた世界があるんですよ。天国があるんです。完全な安らぎと、喜びと、愛と平和に満ちた天国という世界があるんです。
そして、これは一種の比喩でもありますけれど、天国は神様の家でもあると。お父さんが神様で、お父さんは、自分の家である天国において、子どもたちと共に住みたいんだと。住みたいんだけれども、自分の子どもたちが家出をしてしまったと。家出をしてしまったら、親としてはいつか帰ってきてくれたら良いなと思いますよね。だから神様は今、待っておられる状況ですよ、ご自分の家でね。私たちを待っておられる。だから、問題は、私たちがそこに帰りたいかどうかなんです。
…神様とかの話は、目には見えないので架空の話のように思うかもしれませんが、実は、神様も明主様も確かに存在しているんです。明主様は、ご昇天になって、消えてしまったわけではないんです。だから、目には見えなくても、あると信じて、素直な気持ちで〝ごめんなさい〟と言って、天国のドアに飛び込んだら、本当に、神様も明主様も抱きしめてくださると思います。そういう真の愛情を持ったお方ですから、神様は、明主様は。その喜びは、言葉に表せないほどのものだと思います。
(2018年9月1日「フランクフルト教会お話」)
『グローリー』No. 6, 2020/7月号掲載