ボリビア世界メシア教
ジョルジェ・ウエマ本部長
私の父方と母方の祖父母は沖縄で生まれ、1930年ごろブラジルに移住しました。私は、日系3世のブラジル人となります。
私の妹と私は、子供のころから病気がちでした。それを心配した父と母は、1970年代初頭、あらゆる治療法を探っておりましたが、ある時、私の叔母にあたる方が、母に明主様の教会を紹介しました。
母はすぐに「おひかり」をいただき、それからというもの、ご浄霊と明主様の聖言により、私の妹と私の健康は回復していきました。
母は、私たちを皮切りにたくさんの方をお導きしました。親族のみで100人以上の方にこの信仰を紹介し、また、信仰は継承され、現在ウエマ家は、信仰4世にまで至っています。
私が「おひかり」をいただいたのは、1973年6月9日、私が13歳の時のことです。自分が望んでというより、母に背中を押されての入信でした。正直に申しますと、その状態は16歳の時まで続きました。というのも、私は、当時、将来自分がやりたいことがあり、信仰の道を歩んでいくことなどまったく考えていなかったからです。
そんなある日、教会で主催された青年信徒対象の勉強会に参加しました。そこで、ブラジルで開拓布教をされた先生方のお話を聞き、目が覚めたような思いになりました。心の中で「彼らと同じような人生を歩みたい。明主様の聖言がまだ一切届いていないところで、開拓布教をしたい」という声が聞こえたような気がしたのです。
この、ゼロからの開拓布教の夢が実現するのに、それから15年かかりました。その期間に起きたさまざまなことを通して、私の信仰が成長する必要があったのだと受け止めております。
そのようにして、1992年、31歳の時、ボリビアに来ました。妊娠3か月の妻、4歳の娘と1歳半の息子を引き連れてのボリビア行きでしたが、教団からの派遣ではなく、一信徒として、開拓布教のため、ボリビアに行きました。
ボリビアの地において、たくさんの挫折、困難、失敗を経験しました。明主様は、それらを通し、私の信仰を成長させてくださいました。
ボリビアは、南米の多くの国々と同様、先住民であるインディアンが、スペインとポルトガルによって征服され、植民地化されるという運命をたどりました。
ボリビアにおいては、白人による先住民への支配によって特に深い爪痕が残り、その影響から、現在に至っても、地域ごとのさまざまな対立関係が存在しています。
ボリビアにおいて、私たちは、2005年の後半、私たちは神様の代行者であり、無数の祖先の綜合体であるという教主様のご教導の実践に取り組んでおりました。その中で、同年末、ボリビアにおいては初となる先住民出身の大統領が選ばれました。私は、このことと教主様のご教導の取り組みとが無関係であるとは思えませんでした。
教主様のご教導の実践を通して、過去のさまざまなことが浮き彫りになりました。私たちの中には人類の歴史が集約して存在しており、人類の過去が、私たちの目の前に現れてくるのです。私たちのご先祖の方々が、どのような思いを持って生きていたかが、私たちに感じられるのです。
多くのボリビア信徒の中で、今まで表に出ず、隠されていた思いが――諦めにも似た思いで封じ込めていた思いが――現れ始めてきました。嫌悪、憤り、恨み、復讐の念などが現れてきたのです。
教主様のご教導の実践を通し、私たちの歴史が浄められる時とチャンスが来たのだと、私は感じました。しかもそれは、私たちの日常の場で現れてきたのです。つまり、ボリビア教会内での、人間関係の激しい対立が起こり始めたのです。
しかし、そのような争いと苦痛も、私たちは、教主様のお言葉のおかげで、救いの機会とさせていただくことができました。どのような対立であってもそれは救いの過程であり、それを通して、私たちは光を感じることができたのです。
2005年の地上天国祭で、教主様は、ご先祖様が感じられた混とんとも言えるさまざまな思いの一端が私たちの心に到達しているという趣旨のお言葉を宣べられました。そして、そのような思いを――苦しみを――神様にお委ねすることにより、私たちは、ご先祖様の救いのみ業にお使いいただけるのだとおっしゃいました。
ボリビアの多くの信徒は、ご教導の実践を通して、過去とのつながりを強く感じるようになり、それにより、霊界が実在するという真理に目覚めるようになっていったのです。
教主様のお言葉は、その時々に、私たちにとって本当に必要なことをお示しになっていると感じました。それは、あたかも完全に練られた計画が進展していくかのようでした。
実践を通して、信徒の信仰、意識が少しずつ変わっていき、教会での信徒同士の争いは減っていき、調和が生まれるようになりました。私たちは、この教会での事象は、まだまだ地域間での争いが絶えない、ボリビアの社会全体に拡がっていく小さな型であると確信しております。
私は今、霊界から守られていることを強く感じます。それは、私たちがご先祖様の苦しみを神様に委ね、ご先祖様が喜んでおられるからだと思います。ご先祖様は、教主様のご教導に、そしてそれを素直に実践する私たちに、感謝の思いを持っていると思わざるを得ません。
私は思うのです。教主様と共に歩むということは、本来、決断するかしないか、という問題ではないのです。教主様に賛成する意見も、反対する意見も、本来、知る必要すらないのです。
教主様に関することで重要なのはただ一点、自分と、そして自分につながる多くのご先祖様を本当に救いたいと思っているか否かということに尽きると思うのです。そして、このような救いの道に、教主様を通して導いてくださっている明主様に、感謝の思いを持たなければならないと思うのです。
私は皆様に告白しなければならないことがあります。それは、教主様のお言葉を学び始めた当初、私は、教主様が何をおっしゃろうとしているのか、理解できないことがたびたびありました。
しかし、私は決断をしました。それは、分かっても分からなくてもお言葉を拝読し、そして何より、それを実践するという決断です。
どちらにしろ、お言葉に出会うまでの私は、すでに行き詰まりを迎えていました。ボリビアを、そして世界を、明主様の真実を通してなんとしても救いたいという私の願いと現実はあまりにもかけ離れていました。日々のご神業にいかに必死にお仕えしても、神様を感じることが難しくなっていたのです。
私は、人間の力、努力、知恵を使った布教を長年してきましたが、神様から、人間の力の限界を示されたのだと思います。まさにそのような時、私の目の前に、救いの綱が現れたのです。それが教主様のお言葉でした。そのような綱を用意してくださったのは、神様と明主様です。私を真に救うため、神様と明主様は、限りない愛を持ってその綱を私のもとに届けてくださったのです。
お言葉がなかなか理解できないと思いながらも、私は、ボリビアの信徒と共にお言葉を学び、また学ぶよう伝えていました。そのような日々が重なるにつれ、お言葉に込められている救いの力を確信するに至りました。神様がそのように私の心を開いてくださったのです。
なんと不思議なことでしょうか。お言葉を理解することができなかったことが、私の救いとなったのです。
もう一つ、皆様にお伝えしたい「救い」があります。それは、昨年の3月、私は、教主様に拝謁するお許しを賜ったことです。
教主様にお会いする日の朝、私は、三代様がブラジルにご巡教になった1985年のことを思い出していました。私は交通係をしていたのですが、交通係は、当然祭典には参列できません。
祭典終了後、三代様がお帰りになる時のことです。お車の中の三代様が振り返り、数秒もなかったと思いますが、私の目をじっと見られたように感じました。それは、まさに、明主様が私にくださった尊いプレゼントであり、その瞬間のことは、今日まで忘れることはできません。
私は、私の人生の中で、教主様にお目にかかるお許しをいただけるとは夢にも思ったことはありませんでした。もしお会いすることが許されるとしたら、それは夢の中だけのことだと思っていました。ですから、三代様が私の目を見られている時、私は、「これは夢ではないのか」と思いました。
私にとって、ボリビアの信徒にとって、また、世界の多くの信徒にとって、教主様を、たとえ遠くからであっても、拝することができるのは、それだけで、すでに天国からの祝福です。同時に、そのような祝福を神様が与えてくださるのは、「より救いの御用にまい進しなさい」という神様からのメッセージでもあると思うのです。
話を2019年の教主様とのご面会に戻しますが、そのご面会の場において、私は、神様が、教主様の発せられるお言葉を通して、ご自身のみ業を推し進めておられることをより確信することとなりました。
ご面会の折、教主様は、私がボリビアから持参してきた献上品のチェスボードについて触れられました。チェスボードの駒は、一方は先住民、もう一方は侵略してきたスペイン人のデザインとなっていました。
教主様は、なんでもないかのように、ごく自然に、「このチェスボードはボリビアの歴史の縮図なのですね。このようなボリビアの歴史は、実は、神様がすでに赦されたことですね。私はそのことを神様にご奉告したいと思います。ボリビアの信徒の方にも、よろしくお伝えください」という趣旨のお言葉を宣べられました。
教主様がこのお言葉を発せられて以降、ボリビアのご神業は、また新たなステージへと進んだように感じています。ボリビアの信徒の日々の生活においても、また布教においても、あらゆる面で神様のお働きが強まり、浄めと救いがさらに拡大しているように感じるのです。
もはや人を裁く時は終わったのだと、ボリビア信徒の誰の目から見ても明らかになってきたのです。
神様から与えられる試練を拒否し、受け入れなければ、私たちは、被害者意識に苛まれ、心は闇に閉ざされていきます。その結果、私たちは、私たちに苦痛を与えている人を裁き、ついには神様をも裁くようになってしまいます。
また、ボリビアの多くの信徒は、うぬぼれ、思い上がり、あたかも自分が神様であるかのように生きてきたことに気が付き始めました。私は、それに対する深い悔い改めがどうしても必要だと思うのです。私たちはもはや、今までのように生きていくことはできないのです。
そのように、神様は、教主様を通して、私たちの心の変革を推し進めておられますが、それは、現象的な面でのご経綸と密接に結びついていると感じています。私たちは新しい拠点を探していましたが、私たちが新たな気づきをいただくのと合わせて、まったく想像もしないあり方で、新たな教会が見つかったのです。それは、私たちが願っていたのより数段も良い条件のものでした。
それは、あたかも神様が、「私がすべてをコントロールしているのだ」ということを私たちにお示しになっているようでした。私は思いますが、「神様がすべてをコントロールしている」というのは、教えではなく、事実です。ですから、「神様がすべてをコントロールしている」という考えを人に押し付けることはできませんし、それに抵抗するよう試みることも意味がありません。謙虚さと従順さをもって、神様がなされるありようを受け入れる以外、私たちにすることはないのです。そうすれば、神様からのみ守りに包まれ、すべて私たちにとって必要なことが起きてくるのだと思います。
神様は、今私たちの身の回りで起きているさまざまなことを通して、「時は来たのだ。ただ私の声に従いなさい」と私たちに語りかけてきているように感じています。
ここ数年のうちに教団で起きたことは、どれほどのお金と権力があろうとも、人間の力で成し遂げることは到底できなかったことです。神様のみ力により、一瞬にして、大きな変革がもたらされました。それを通し、私たちが昼の時代に生きていること、また、霊主体従の法則が絶対であることが、誰の目にも明らかになったのではないでしょうか。
私の手記を終える前に、大切な点につき触れたいと思います。それは、世界メシア教の創立と、メシア教はキリスト教と呼応しなければならないという明主様のみ心についてです。
ボリビアを含めた南米大陸のほぼすべての人々は、イエス・キリストを信奉しています。イエスは救い主であり、メシアです。
今までの私は、明主様のみが人類の救い主であると思ってきました。ですから、イエスのみがメシアであると聞くのは苦しかったのです。そのような話を聞かなければいけない時は、作り笑いをしながら、心の中で、相手の方を否定していました。そして、明主様がイエスよりいかに上かということを証明しなければならないと思っていました。
そのような私に、教主様は光をもたらしてくださいました。教主様は、明主様の世界メシア教に込められたみ心を私たちに思い出させてくださったのです。それは、「私たちはキリスト教に近づかなければならない」ということです。
今まで私の心にこびりついていた、明主様がイエスより優っていると証明しなければならないという思いは、完全に消えました。私の心の扉は開かれ、生まれて初めて、キリスト教徒に対する愛情を持てるようになったのです。
そうなって初めて、重大なことに気が付きました。キリスト教徒を心の中で否定した状態で、私は、一体全体どのようにしてキリスト教徒を救おうとしていたのだろうか、と。
明主様は、今まで私からひと時も離れたことはありませんし、これからも離れることはありません。明主様は、私の中で生き続けているのです。この明主様が、明主様だけではなく、イエスも私の中で生きていることを教えてくださいました。
それにより、明主様のご存在は、私にとっては、以前から、すでにこれ以上ないくらい大きなご存在であったのが、今はもう、姿が見えないほど、手が及ばないほど偉大なご存在となられたのです。明主様にとり、私は、明主様の目の端にも入らない、ちっぽけな存在です。
神様のみ旨と、人類救済のみを考える人であって初めて、神様のように歩めるのです。
「キリスト教と呼応して人類を救う」という明主様のみ心を知っただけで、私は充分なのです。なぜならば、それにより、明主様が、ご自分の信徒だけではなく、全人類の救いを心から願っていることの証明となったからです。
明主様が神様を心から愛され、すべてをご神業にお捧げしたように、明主様を心から愛する人であって初めて、すべてを犠牲にしてでも明主様の真に願われた救いの道を歩むことができるのです。
私は、その人物こそ、教主様でいらっしゃると思うのです。
世界は、教主様を必要としているのです。人類は、教主様を必要としているのです。いかなる信仰、立場を持とうとも、人間という存在は、教主様を必要としているのです。キリスト教徒も、無神論者も、教主様を必要としているのです。
なぜならば、誰であろうと、自分の中にある思いや感情に対してどのように向き合ったらよいか、分かっていないからです。
人間は、正しい順序のもとで人生を歩まねばなりません。それは、神様を認め、神様をすべての中心に据えるということです。
詰まるところ、私たちの使命は、教主様を世にお出しすることです。教主様のメッセージを、ありとあらゆる方法を使って、時には走ってでも、世に伝えることです。
このたびの教団浄化の中に自分の思いを留めることは、もはや無意味なのです。もうそれは過去の問題です。なぜならば、教団浄化を通して、世界メシア教が誕生したからです。
浄化という破壊の裏で創造の槌が揮われ、それによって、世界メシア教が出現したのです。教主様の手によって、出現したのです。
今、神様の御心は、日を経るにつれ明らかになっています。人類救済という神聖なる目的を達成するため、明主様のご神業は、全く新しくなったのです。神様のお導きにより、そうなったのです。
私は今、心の底から信じていることがあります。それは、この教主様のもとにあるご神業が、永遠の平和の世界をもたらすものであると。
『グローリー』No. 6, 2020/7月号掲載