「限りない愛」

於:本部ご神前

 

明主様は、私たちに、たくさんのことを遺してくださったと思います。
 特に、浄霊、自然農法、芸術という、私たちが「救いの3本柱」と言ってきたもの。これを私たちは大切にしてきたと思います。
 では、浄霊、自然農法、芸術、これを明主様が私たちに遺された願い、目的、これは一体何だったのでしょうか。
 自然農法ということで言えば、無農薬ということですけれども、今世の中でも農薬を使わないとか有機で作ったとかオーガニックだということが増えていっていますね。
 それに関連して、薬毒ということもありますけれども、今世の中でも、発熱しても、一般のお医者さんでも薬をあまり出さない、発熱をさせたほうが良いんだという考え方もだんだん増えてきていると思います。
 浄霊ということも、手をかざして癒す、癒しの力があるということは、これは浄霊という名前ではないですけれども、気功とかそういう種類のもので、人間にはそういう力がある、手をかざすことによって体が良くなる、ということが一般でも受け入れられつつある状況だと思います。
 あるいは芸術ということで言えば、お花ということがありますね。今世の中でも、お花を活ける、そして、それを見る人が癒される、ということも言われている。
 あるいは芸術そのものですね。美術品。そういう芸術が、情操教育に必要だということも世の中では普通に言われている。
 では果たして、このようなあり方がどんどん増えていくということが、明主様が、浄霊とか自然農法とか芸術とかを私たちに遺された目的が達成されていく、ということになるのでしょうか。
 私は決してそうは思いません。
 例えば、これから先、地球上全体で無農薬の作物を作る時が来たとする。その時に、無農薬のもののほうが体に良いんだ、健康に良いんだ、ああ、じゃあこれで人間長生きできるようになって良かったね、ということになったとする。でも、もし、それが、ただ人間の健康を良くして、人間の体に良いということで、「神様」という存在がなければ、明主様は決してお喜びにはならないと思います。
 確かに明主様は、無農薬とか無肥料──最初は自然農法という名前ではなく「無肥料栽培」とおっしゃっていましたけれども──を強調された。それを強調されたのは、あくまでも、「作物を育てているのは肥料なのか神様なのかどっちなんですか?」それを私たちに問うてきておられたわけです。自然農法ということを通して、そのことを私たちに問うてきておられた。
 作物が育っていく。これは、人間が肥料をやるから育って人間がその食べ物を食べることができるのか。そうではなくて、明主様は、「神様がいらっしゃるじゃないか」「作物を育てている主人公は神様じゃないか」「神様のご意思によって作物ができているじゃないか」ということを私たちに知ってほしい──何としても知ってほしい──ということで私たちに自然農法をお示しになったと思います。
 薬毒も同じことですね。人間の体を治したり良くしたり維持しているのは薬なんですか、それとも神様なんですか、どっちなんですか、ということを私たちに問われたかったから、明主様は薬毒ということをおっしゃった。
 あるいは、浄霊。浄霊は科学で証明できるということをおっしゃった。それは、もし、ただ、人間が手をかざすことによって、人間にはそういう力があるんだ。それで人間の体が良くなり少しずつ長生きするんだ、ということではなくて、明主様が科学で証明できるとおっしゃった意味は、神様がいらっしゃる、神様を証明できる、という絶対的確信のもとにそういうことをおっしゃった。科学でも神様のことは絶対証明できるんだと、それをお示しになりたかった。
 それをただ、「手かざしということは昔から人間はやっていたんだ。気功のようなものもある。それで人間の健康が良くなりますね」ということでは明主様にとっては何の意味もないわけです。明主様は浄霊ということを通して、あくまでも、神様がいらっしゃるということを証し立てられたかった。
 お花の活動も、これが、多くの人がお花を活けるようになって、ああ、癒されるね、お花は美しいね、人間は素晴らしい存在だね、となったとしても、明主様にとっては何のお喜びもないと思います。
 なぜなら、明主様は、「美はしき花見る毎に意ふかな神のたくみの妙なる御技を」。美しい花を見るたびに、神様のたくみの妙なる御技を思う、ということですから、言葉で説明できないような神様の技を感じる。そしてそれは、花を見るたびにですよ。「美はしき花見る毎に」ですから。花を見るたびに、明主様は神様のことを思われた。
 もし私たちのお花活動があるとすれば、この明主様の姿勢が絶対に基本であり神髄であると思います。私たちは、お花を見た時に、明主様のように、「あっ、神様という創造主がいらっしゃって、こんなに素晴らしいものを造ってくださっているんだな」と思わせていただく。世の中ではあまりこういうふうには言いませんよ。ただ、お花はきれいだな、癒されるなということで終わりですよね。
 芸術ということも、平和な世の中になって、人類の多くが芸術を楽しめるようになって、そして何か、こういう芸術品がある、こういう芸術家もいた、ということで、人間的に学んだり楽しんだりする、ということのために明主様が芸術という活動をお示しになったわけではないですよ。
 明主様は、「凡そ世にあらん限りの美を蒐め最奥天国の状を映さむ」。「凡そ世にあらん限りの美を蒐め」て、「最奥天国の状を映さむ」ですよ。天国の状を映そうとされたんです、明主様は。ということは、「私たちの中に天国があるじゃないか」ということを教えてくださるために芸術活動をお示しくださったんです。私たちが、何か、人間的に、こういう芸術を知っているとか味わっているとか癒されるとか、そういうことではないですよ。
 あくまでも私たちに天国を思い出させたかった。最奥天国、ですから、最も奥の、最もきれいな所、最も素晴らしい場所がある。それに何としても気づいてほしい、ということで、芸術品を通して私たちを目覚めさせようとしておられた。
 ですから、一般的に、お花とか有機農法とか手かざしとかそういうさまざまなことを神様抜きにやるのであれば、もうそれはNPOとかボランティアとか、そういう方法でしたほうがよほどいいと思います。
 でも、明主様が私たちに遺されたこと。それはそんな世の中の人が普通にやっているようなことと同じ種類のことなんですか?明主様が私たちに命懸けで遺してくださったことは、世の中で一般的に芸術とか農業とか命とかについて語られていることと同じようなことなんですか?
 聖地ということもありますね。地上天国のひな型。今私たちも聖地におりますけれども、明主様は、訪れる人に何を感じてほしかったのでしょうか。それは「地上天国のひな型」ですから、本当は、先程と同じく、「最奥天国の状」を映そうとされたわけです。聖地を通して、私たちの中にある天国を思い出してほしかった。
 何か、ただ、私たちがここに来て、ああ、ここはきれいだな、ということではなくて、「あっ、本当は、霊界にもっと素晴らしい天国があるんだ」ということを感じてほしかった。明主様はおっしゃっていると思います、「そこにあるじゃないか」「あなた方の中にあるじゃないか」と。その内なる天国に目覚めてほしいということを願われて、全力を傾けて聖地造営をしてくださった。
 だから、明主様は、ありとあらゆることを通して、私たちの中に天国がある、それを何としても知ってほしい。神様がいらっしゃるじゃないか、神様がすべてを育ててくださってあなたの体を維持していらっしゃるじゃないか。それを私たちに強く訴えかけてくださった。
 神様がいらっしゃるのか、いらっしゃらないのか。天国はあるのか、ないのか。明主様は、これを私たちに問うておられたわけです。
 では、その浄霊、自然農法、芸術を遺された明主様の目的を知った今、これからも、まだまだ奇蹟がほしい、もっとほしい、もっときれいな場所にしなければいけない、もっともっとと、そのようにして、この地上だけの喜びと繁栄をずっと求めていくんですか、私たちは?
 私はそうではないと思います。
 もし、明主様がそれらのことを遺してくださった目的が、神様や天国に目覚めるということであるならば、何よりもまず、私たちは、明主様に対して、「神様はいらっしゃいます」「天国は確かに私の中にあります」と、そのように思わせていただく。それが自然農法とか浄霊とか芸術を遺してくださった明主様のみ心にお応えすることになるのではないですか。
 そしてこの明主様が、この明主様が、皆様ご存じのように、1954419日、脳溢血のご浄化をお受けになった時に、たびたび仰せになったことがある。それが、「浄霊は二の問題」である、「これから想念の世界である」ということ、これをたびたび仰せになった。
 この「浄霊は二の問題」という御言葉、これを私たちは、「これは浄霊だけのことである」「浄霊だけが二の問題になったのだ」と思っているかもしれませんけれども、「これから想念の世界である」とおっしゃっているわけですから──つまり、これからは、形あるものではなくて、目に見えない心が主になっていくとおっしゃっているわけですから──「浄霊は二の問題」であるということは、浄霊のことだけではないですよ。
 むしろ、明主様がおっしゃりたかったのは、浄霊だけではなくて、浄霊を始めとする自然農法とか芸術のように、目に見えるもの、形ある活動を通してこれから救いが進められていくのではない。そうではなくて、想念の世界に入ったとおっしゃるわけですから、これからは、私たちの想念、心を通して神様が救いを進めていかれるんだよと、そういうことを仰せになりたかったのだと私は受け止めております。
 人によっては、このことはそういう意味ではないと言われるかもしれません。しかし今、例えばこのコロナの状況で、もし本当に、手をかざして癒す力を示すことが今でも明主様のご神業の目的であるならば、本来は、今こそそのようにすべきですね。しかし、もし今そのようなことをしたら、おそらく世の中から問題視されて、メディアでも叩かれて、場合によっては宗教法人格も取り消されるかもしれない。そうしたら宗教活動すらできないですね。
 あるいは、薬毒だからということで、医療拒否、という問題もありますね。こういう薬や注射をちゃんと受けてくださいと国などから言われた時に、いや薬毒だから断固医療拒否をするとしたら、それも同じ運命になるかもしれないですよ。社会から孤立してしまうかもしれない。
 というように、今そのような時代になっているということ自体、私は、明主様が、もう何十年も前にこのことを予見していらして、「あっ、これからの世の中というのは、形ある世界は色々変化していくんだ。だけど、これから神様は、目に見えない私たちの心を使ってご自身の救いを進めていかれるんだ」ということを確かに感じ取られたから、私たちに「浄霊は二の問題」である、「これから想念の世界である」という御言葉を遺してくださったのではないですか?
 「浄霊は二の問題」である。「これから想念の世界である」。私たち明主様の信徒にとって衝撃的な御言葉ですね。
 だけど、それは、明主様が、今の時代をすでに予見されて、私たちのために、本当の救いのために、この御言葉を遺してくださっていたんだと私は思います。
 ではその心を通しての救いというのは一体何なのか。今までは形ある世界の救いであった。だけど、「これから想念の世界である」ですから、この想念の世界の中にあって救いはどのように進められていくのかというと、それが、いつも教主様がお説きになっているように、私たちの中には多くの方がいらっしゃる。私が地上に生まれてきたのは、自分の力で生まれてきたわけではないですね。多くのご先祖様の方たちがいらして、自分がいる。そのご先祖様たちは、恨んだり妬んだり、殺したり殺されたりしながら今日まで来た。その不純物のようなものが、私たちの心の中に堆積しているわけです。それが私たちの心に表面化してきますね、日常的に。誰かからこう言われた、言い返さなきゃいけないとか、あるいは、もっと醜い、言葉にできないような醜い思いも心に湧いてきますね。
 でも神様は、それを、私たちのせいだとはおっしゃっていないんですよ。神様は、「そのような思いは、人類が歩んできた道の積み残しとしてお前の中にあるじゃないか」「それを今、私の光によって照らしているんだから、それを携えて私のもとに持って来てほしい」「天国に持って来なさい」と、こうおっしゃっているわけですね。
 教主様は、このように今お説きくださっておりますけれども、これは、決して、教主様だけがおっしゃっていることではない。
 明主様は、「永遠に冬なき夜なき天国に世人救はむはや来れかし」。永遠に冬もない、夜もない、その天国に私は世人を救いたいんだ、だから早く来なさいと、そうおっしゃっている。
 永遠に冬も夜もない天国はどの天国ですか?瑞雲郷や平安郷、神仙郷、ここに夜は来ますよ、絶対に。でも明主様は、「永遠に冬も夜も来ない天国があるんだからそこに来なさい」とおっしゃっているんです。目に見える素晴らしい世界に来なさい、ではなくて、「永遠に冬も夜も来ない世界に早く来なさい」と、そうおっしゃっている、はや来れかし、ですから。
 だから、明主様は、天国から、私たちを呼んでいらっしゃるわけです。その世界は目に見えないですよ、神仙郷とか瑞雲郷とは違いますから。そうだとしたら、それはもう私たちの中にある天国のことしかないじゃないですか。
 私たちは今日までに、もう充分、聖地とか御歌とか美術品を通して私たちの中に天国があることを思い出させていただいたんですから、「もっと、もっと」ということではなくて、「あっ、その世界は確かに私の中にあります」と思わせていただく。
 そして、「世人救はむはや来れかし」と仰せですね。世人と言っても、もう私たちの中に──私たちの全身に──世人が結ばれているんです。だから、自分じゃないような思いが湧いてくることもありますよね。世の中でも、何でこんな穏やかな人が、という人がとんでもない事件を起こしたりしますね。というように、私たちの中に世人が結ばれているわけですから、それを携えて、はや来れかし、ですから、天国に行かせていただく。
 あるいは、「神は光にして光のあるところ平和と幸福と歓喜あり」「来れ」「メシアの御名を奉唱せよさらば救われん」と。「来れ」とおっしゃっていますよ。神様の光のところへ来れとおっしゃっていますよ、明主様は。だから私たちは、明主様が「来なさい」とおっしゃっているんだから、「世人を携えて行きます」「私の中に多くのものがいるので行きます」と、そのように思わせていただく。
 この想念の世界での救いについて、教主様は、これは「第二段階の創造」だとおっしゃっていますけれども、明主様は、「第二紀元の誕生」とおっしゃっていますよ。明主様は、太陽が出たら第二紀元が誕生するとおっしゃっていますよ。教主様は、これを、第二段階の創造とおっしゃっているんだと私は受け止めておりますけれども、明主様も、教主様も、同じことを言われていますよ。
 御歌に、「時は今紀元末なり新しき紀元に肇まる地上天国」とあります。これは、明主様がもう何十年も前にお詠みになった御歌ですけれども、この「時は今」の「今」は、私たちの「今」、ですよ。私たちのこれまでの紀元末のような色んな姿がありますね。この世を重視して、この世の天国を追い求めて、光と安らぎを追い求めて、一方では人との争いごとを繰り返したり。それが紀元末のような生き方だったんですよ。
 でも、「新しき紀元に肇まる地上天国」ですから、まず、私たちが今、「ずっと追い求めていた安らぎは私の中にあります」「確かにいただいておりました」とさせていただく。でも、それを自分だけで味わったってしょうがないんですよ。そうではなくて、まだそれを味わっていない多くの方々が私たちのもとに「救われたい」ということで集まってきているわけですから、「その方たちと共に味わわせていただきたい」ということであれば、「新しき紀元に肇まる地上天国」の道を歩ませていただけるのではないでしょうか。
 ですので、時は今、というのはもう何十年も前の御言葉ですけれども、それを今、私たちが、「私にとってその今は『今』です」「新しく始まる第二紀元、第二段階の創造にお使いいただきたいのです」と、そのように思わせていただく。このことを、私は、明主様が今、教主様を通して私たちに強く願っていらっしゃることだと思います。
 そうなりますと、このことを私たちは知ることができた、これが本当の明主様信仰だと、そういうことには確かになりますね。それはもちろん大切なことではありますけれども、私たちが決して忘れてはならないのは、「明主様」というご存在、これを用意されたのは神様ですよ。「明主様」というご存在、「明主様」というお名前、これを用意されたのは神様ですよ、絶対に。
 また最近では、イエス・キリストと明主様、どっちが上なのかとか、イエスと明主様が相呼応するとか、誰が贖罪主で誰が赦し主だとか私たちは言っていますけれども、「イエス・キリスト」を用意されたのも神様ですよ。
 明主様を用意されたのも、イエス・キリストを用意されたのも、明主様というお名前もイエス・キリストという名前も言葉も、全部神様が用意してくださった。一方的に用意してくださった。
 私たちが「いやいや自分はイエスではなく明主様を信仰している」とか、「明主様のほうが上だ」とか「自分はイエスを信仰している」とかいうその以前に、もうすでに、用意してくださったんですよ、神様が。明主様とかイエスという存在、名前、言葉──それらすべてを、神様が、一方的にご用意くださった。
 そして、私たちは、神様が必要だとか必要じゃないとか、信仰しているとかしていないとか、神様はいるとかいないとか、そんなことばかり言っていますけれども、そんなことと一切関係なく、神様は、一方的に、「あなた方のことが必要なんだよ」とおっしゃってくださっている。「人類を救うためにあなたの心が必要なんだよ」と言ってくださっている。一方的に、ですよ。
 私たちの歩んできた道のり、人類の歩みというのは、決して誇れるものではないですね。争い合い、殺し殺され、妬んだり、恨んだり。そういうことをずっとしてきた。そんな私たちでも、神様が、一方的に、あなた方が必要なんだよ、あなた方を使いたいんだよとおっしゃってくださっている。
 これは、教主様は「誠に畏れ多いことではありますが」とおっしゃいますけれども、本当に畏れ多いことだと思います。
 私たちは、簡単に、「信仰する」と言いますけれども、その「信仰する心」、これすらも本当は私たちのものではないんです。「感謝する」──その「感謝する心」を湧かせてくださっているのは誰なんですか?
 私たちが作れるのは精々頑張ったってすごい高性能な携帯ぐらいですね、いやもっと高性能なものもありますけれども。でも、「心」という人間では到底作れないもの、それを神様はお造りになって、そして感謝する心を湧かせてくださったり、信仰する心を湧かせてくださったりしてくださっている。その神様が、一方的に私たちを必要としてくださっているんです。
 今日、教主様が、祭典の中で「祈りの言葉」をお上げくださいましたね。「祈りの言葉」の一番最後は、「み心のままにお使いください」と締めくくられますね。だから、「こんな私たちでした」と。でも、神様が私たちのことを必要だとおっしゃってくださっているんですから、せめて、「あなたの望みのように、み心のままにお使いください」ということを思わせていただく。
 本当は、もうその素晴らしい世界は約束されているんですよ。素晴らしい世界が来ることは約束されている。私たちは今、ただそこに至るまでの道を歩んでいるだけなんですね。そしてその道を、神様の願いのもとに歩ませていただける。
 「地上天国」「人類救済」。素晴らしい言葉ですね。でもその御用に今、私たちの心をお使いいただいているわけですから、日々色んなことを思ったとしても、「あっ、これを神様が必要としてくださっているんだな」でいいんです。本当に細かなことで日常的に色々ありますね。心が色々と揺れ動く。でも、それを否定しなくていいんです。神様は、それが必要だとおっしゃってくださっている。私たちが感じることが必要だとおっしゃってくださって、そしてこんな私たちでもその素晴らしい世界──人類に約束された素晴らしい世界──に進むために、私たちメシア教の信徒、そして全人類を、一方的にお使いくださっている。私は、このことを本当に大切にしなければならないと思います。
 明主様は、私たちに色んなものを遺してくださった。そして今、私たちは、そういうものを遺してくださった明主様の本当の願いを知ることができた。そして、その中で、神様にお使いいただいている。ですので、本当に、素晴らしい希望と喜び──また時には忍耐も必要かもしれませんけれども──大いなる喜びと希望、それを持って、日々、一瞬一瞬、皆で、神様にお仕えさせていただきたいと思います。

 

 

印刷用PDF: 九月度月次祭_真明様ご挨拶_「限りない愛」

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