アメリカ世界メシア教
パウロ・サントス本部長
私はブラジルで生まれ、信徒になってから52年になります。信仰二世です。
私の家族では、母が最初に明主様にご縁をいただきました。母が信徒になる前の我が家は、多くの問題を抱えていました。私と私の兄弟は、数々の病気で苦しんでいましたが、その上、経済的な問題や、家族同士の絶え間ない争いがあり、状況は日々悪化していくだけのように見えました。当時のことを思い出すと、暗闇と苦痛と失望というイメージしか浮かんできません。
母は、私の最初の憧れの人でした。神様を信仰するということ、そして、明主様のご神業のためにすべてをなげうってお仕えすること、それを教えてくれたのは、母です。母が入信して以降、我が家は神様からたくさんの奇蹟とご守護をいただきましたが、それは、ひとえに、母の決して揺らぐことのない明主様への信仰の賜物であったと私は感じています。
私たち家族は、神様のみ恵みにより、一つまた一つと困難を乗り越えていきました。その経験がきっかけとなり、私は、1981年、18歳の時、研修生になる道を選びました。
1981年から1987年の間、私は研修生として、主にサンパウロやリオデジャネイロでの布教に携わるなど、積極的に多くの活動に関わりました。本部で秘書のような御用を経験することも許されました。また、研修の期間中、教団の指示により、サンパウロ・カトリック大学で社会科学、人類学、政治学を学びました。渡辺哲男先生をお慕いするようになったのも、この時期です。
1988年の春、私は、ブラジルから日本に派遣されます。ブラジル本部としては、私に日本語と日本文化を学ばせ、また、布教も含め、多くのことを経験させることが目的であったと思います。自分で言うのもはばかられますが、私は、将来のブラジル救世教の幹部候補として扱われ、育てられ、またそのように周りからも認識されていました。
日本に派遣される直前、日本の状況の説明を受けました。それによると、世界救世教は今、激しい内紛の最中であり、「新生」「再建」「護持」の3つのグループが争っている。教主様──当時は三代様──は三派の溝が埋まらない状況をご覧になり、どの派の活動にも関わることができない状態になられている。それにより、信徒間に悲しみ、混乱、不安がある、とのことでした。
日本に到着すると、確かに混乱はありましたが、同時に、私にとっては、大いなる学び、喜び、希望の時でもありました。なぜならば、渡辺先生をはじめとする新生教団の先生方が、世界救世教に再び平和をもたらし、三代様を中心に据えるべく、不断の努力をされている姿を目撃することができたからです。
日本に滞在中の1989年から1990年にかけて、私は国際部で御用をさせていただきました。さらに、渡辺先生の秘書の御用も許されましたが、この経験が、私の日本滞在における最も貴重で、記憶に残るものとなりました。渡辺先生の極めて身近において、私は、渡辺先生の、明主様はもちろん、教団の中心にお立ちになる教主様を信じられるお心、また、尊敬の念と親愛の情を持って教主様に忠実にお仕えになる姿を拝見することが許されました。渡辺先生を通して、「教主の座」とは何なのか、また、教団にとって、そして、人類救済にとって、いかに教主様というご存在が大切なのかを徹底的に学ぶことができたのです。
1990年の春のことと記憶していますが、ご出向を終え、熱海に戻る新幹線の車中、渡辺先生は、明主様のみ救いをアメリカに広めたいというご自身の願いを私に語られました。そして、その役割を私に託したいとおっしゃいました。このことをお聞きしたのち、私は日本での研修を終え、ブラジルに帰国しました。
そして1991年2月、ついに私はアメリカに行くことが決定しました。ラリー・アマー教師と共に、ニューヨークのマンハッタンでの布教活動を開始したのです。私たち二人は朝から晩まで御用にまい進し、多くの奇蹟を許され、たくさんの方々が浄霊の実践をするようになりました。当時私は、「私は素晴らしい経験をしている」「幸せだ」と、そのように思っていました。
ニューヨークで布教を始めた時、私たちには、本当に何もありませんでした。教会はもちろんのこと、信徒は一人もおらず、お金もほとんどありませんでした。しかし私には、謙譲の心がありました。神様と明主様無しでは何もできないのだという謙譲の心があり、心は常に感謝で満たされていました。
しかし、奇蹟をたくさんいただき、教会にたくさんの信徒が集まるようになると、私は、知らぬ間に、うぬぼれ、思い上がるようになりました。「癒しの浄霊」布教が進むにつれ、私は常に結果を追い求めるようになりました。そして結果も出ました。それによって私は、結果が出ていない他の教師よりも自分は優れているのだという自己満足に陥るようになっていきました。
しかし実は、私は心の奥底ではもがいていたのです。なぜならば、いかに多くの浄霊による奇蹟をいただいても、信徒に、神様と明主様に対する本当の信仰心を植え付けることができなかったからです。
もはや手遅れだと思いました。いかに口で「明主様信仰」と言っても、それは、ただの「癒しの浄霊」でしかなかったのです。「明主様信仰とは、浄霊による癒しの業である」ということから抜け出すことも、さらに奥に進むことも、もはや不可能だと思いました。時が経つにつれ、私は、虚しさに苛まれるようになりました。私の心は荒れ、満ち足りず、常に不安に包まれるようになりました。
私は、はっきりと感じたのです。今私がしていることは、神様と明主様にお喜びいただけるものではないと。
その後、1994年の夏、私はロサンゼルス教会へと異動になりました。ロサンゼルス教会はアメリカの他の教会に比べて歴史がありましたが、思うような発展が許されていないことから、私が教会長として派遣されたのです。
私は、御用に打ち込む姿を通してロサンゼルス教会の信徒の信頼を勝ち得たいと願っていました。さらに言えば、アメリカの理事会のメンバーに対して、私こそがこの教会を昔のように発展させるのに最も適任であることを証明したいと思っていました。
私の願いが通じたのか、ロサンゼルス教会には再び活気が戻ってきました。そして数年後には、私はアメリカ本部の副本部長に指名されたのです。
これにより、私は、さらにおごり高ぶるようになりました。アメリカの信徒は私を必要としているのだ、私はアメリカの教団の未来を自分の意のままにできるのだと、そのような思いが私の心に棲みつくようになってしまったのです。私は、明主様にお仕えする使徒ではなく、会社を運営している経営者のように成り下がってしまったのです。
同じ時期、教団浄化の影響で、三代様はまだ表に出られることができず、それにより、世界中の教師たちは、それぞれの国の教団を、明主様のものというより、自分たちのもののように扱い、自分たちの願い通りに操っていくようになってしまっていました。
1997年12月、私は日本に行き、その年の御生誕祭に参列することが許されました。日本での内紛が収まり、三代様が再び表舞台にお戻りになることができたのです。私の心は、喜びと希望に満ちあふれました。
しかし、アメリカに戻ると、その喜びと希望が打ち壊されるような事態が巻き起こったのです。アメリカの理事会は、あろうことか、三代様と共に歩まないという決議をしたのです。
1999年6月、もはやそのような理事会とは共に歩めないことが明白になり、私は、専従者や信徒たちと共に、教主様中心の、いづのめアソシエーションUSAを立ち上げました。
しかし、教団浄化が終わり、三代様がご神業の中心にお戻りになったと言っても、三代様、またその後の四代教主様の時代になっても、教主様と信徒との間には、目に見えない大きな壁があるかのようでした。教主様は確かに存在されているのですが、多くの信徒にとっては、教主様は、実際はいらっしゃらないかのようであり、触れることも会うこともできないようなご存在であったと思います。
信徒は、教主様というご存在に対する尊崇の念を持っていたとは思いますが、教団の状態が、まだ、本当の意味で教主様を中心に据えるような体制ではなかったのでしょう。
2013年、渡辺先生がお亡くなりになりましたが、そこから大きな変革の時に入っていきました。教主様のご教導は、よりはっきりとした表現になり、真実に迫る力強さが増していったと感じました。教主様は、明主様の真のみ心に一直線に向かわれていると、そのように感じました。
同時に、いづのめ教団の理事長と大半の理事の、教主様軽視の姿勢、教主様に逆らい、教主様のお心をないがしろにする動きが目に見えて明らかになっていきました。
そのような中、教主様は、2017年の立春、敢然とお立ちになり、教団の実態を私たちに教えてくださいました。教主様と教主様のご家族は、いかなる苦難がその先に待ち受けていようとも、全人類を救うという明主様のみ心実現のためならば、すべてを犠牲にしてでも成し遂げるという姿勢を明確にお示しになったのです。
私は、この勇者のような行動のおかげで、ようやく目覚めることができました。明主様が願われている真の道に戻ることができたのです。
教主様の、「何があろうとも、明主様の真の願いを信徒に、そして全人類に伝える」という揺るぎない信念に、私の心は激しく揺さぶられました。
2017年立春祭での教主様のお姿とお言葉。私は、これは、私個人はもちろん、本教にとって、その長い歴史の中でも、最大の恵みであったと確信しています。
それからというもの、私は、明主様の聖言の神髄を理解するため、教主様のご教導を自分の魂の糧とすることに決めたのです。
教主様のお言葉に触れるにつれ、私は、明主様のみ心、聖言、本教の使命について、長い間、いかに誤った認識でいたか、いかに偏った理解であったか、思い知らされました。
深い眠りの中にあった自分の魂が、教主様により再び目覚めることができたと感じました。私は、長年、専従者としてご神業にお仕えしてきましたが、明主様によって明らかにされていた主神の真の願いに、全く気づいていなかったのです。
このように私が目覚めることができたのも、明主様がお示しになっていた全く新しい信仰になんとか気づいてほしいという、私たち信徒に対する、教主様の深い愛情があればこそのことでした。
私は、教主様のお言葉を通して、明主様そのものにお会いしているような感覚になるのです。本当の父である神様のことを思い出し、その神様に触れさせていただいているような感覚になるのです。神様の子供であるメシアとして新しく生まれるという真実に、目覚めさせていただけるような感覚になるのです。神様が生きておられ、その神様が、天国において、私と共に永遠に存在してくださることを思い出すことができるように思うのです。世界メシア教の使命は、キリスト教と呼応し、地上に永遠の平和をもたらすことであると強く感じることができるのです。真のご浄霊の業とは何かを知ることができるのです。そしてそれは、神様が、すべてのものを新しくするために、ご自身の光を私たちに常に注いでくださり、天国に迎え入れてくださっている、ということです。
教主様のお導きがなければ、私は、今でも、明主様の真の願いから離れていたままだったと思います。ご昇天前、明主様が繰り返し繰り返し想念の大切さを訴えておられたことも知らないままだったと思います。私たちが今昼の時代に生きていて、目に見えない想念の限りない力が存在していることにも気づかないままだったと思います。
教主様に出会っていなければ、私は、今でも、間違いなく、長年教えられてきたような「癒しの浄霊」を実践し続けていたと思います。明主様が、この地上での最晩年に、これから浄霊は二の問題であること、つまり、浄霊はもはや本教の中心的な御用、実践ではないと強調されたことも知らないままであったと思います。私たちが、明主様と共にあるメシアの御名にあって、思いや感情、心や意識を主神にお捧げすることで、主神は人類救済の御用を進めておられること──この救いの御用にお仕えすることもなかったと思います。
現在、アメリカの専従者と信徒は、教主様によって明らかにされた、明主様の真にして最後の願い実現のため、一丸となって進んでいます。すなわち、アメリカの私たちは、もはや浄霊を頼みとすることはやめにしたのです。私たちにとって、手を掲げる浄霊の実践は、もはや大切なものではありません。
現在私たちは、インターネット上で参拝のライブ配信をしていますが、その中で、集団浄霊を行うことはやめにしました。今私たちが大切にしていること、頼みとしていること──それは、想念であり、お委ねの実践です。
また私たちは、キリスト教と呼応していくことを嬉しく、楽しみにしており、リーフレット「神様の子どもとなるために」をできるだけ多くの方にお届けしたいと願っています。そして、一人でも多くの方が、神様の子供であるメシアとして新しく生まれる道に導かれるよう願っています。
日本で世界メシア教が復活したことにより、アメリカにおいても、世界メシア教の名の下でご神業を進めることが可能になりました。
私たちアメリカ信徒は──メシアの力が宿された明主様の教会に所属し、教主様のご教導のもとにあるアメリカ信徒は──次のことを固く決意しています。それは、明主様が70年前に遺されたメッセージから、これ以上目を背けない、ということです。私たちは、明主様の真の願いの実現をもはや先延ばしにしたくないのです。
そして、この道を示してくださったのは、教主様です。教主様が、明主様の真のみ心を私たちにお伝えくださっているのです。私は、このことを深く心に刻み、この先も、アメリカの信徒と、アメリカ全国民と、そして世界中の人々と共に前進してまいる決意です。
ありがとうございました。
『グローリー』No. 8, 2020/9月号掲載