PDF: 教主様との出会い_三橋 淸子

 

元・神静教区横浜教会長
 三橋 淸子

 

「明主様と共にあるメシアの御名にあって、わたしのすべてをゆだねますので、み心のままにお使いください」。この祈りの言葉を真に実行して生かしていただきたいと願わせていただいています。
 平成24年6月の地上天国祭後に、その年の全国浄霊センター長研修会第1期が開催されました。その日、御入霊祈願を終えられた教主様を、参加者11名は救世会館の2階ホール前でお迎えしました。渡辺理事長が「全国の信徒布教師の方々です」とご紹介くださいました。教主様は、一人ひとりに握手くださいました。思いがけなかったことに、私は喜びと緊張で握手させていただきました。教主様がお隣の方にお移りになった瞬間、教主様のお顔を拝しました。瞬時に「教主様は、明主様だ」と畏れ多い表現ではありますが、強く感じさせていただきました。教主様のお顔は明主様でした。その時の鮮明な感動と感激は、その後の私の信仰の歩みの絶対なる原点となりました。
 私の父は、昭和36年、35歳で4人目に長男が生まれた年に、啓光教会三田支部にお使いいただくための家を新築しました。そして、会社勤めを辞めて専従をお許しいただきました。私は、小学校1年生の長女でした。その後5人の兄弟姉妹は1部屋の子供部屋を中心に仲良く成長させていただきました。昭和28年、世界救世(メシヤ)教の信仰がご縁で結婚した両親でしたので、このように父が専従を許され、家を支部としてお使いいただいたことも神様のお導き、お計らいのことと感謝させていただいています。
 昭和63年、先の教団浄化後、当時「教団護持委員会」の布教所長であった父は、志半ばで帰幽しました。父の最晩年の思いは、私には推し量ることしかできませんでしたが、最後の1か月は、母や妹たちと共に私も病院に通い、また付き添い、みとることができました。父は、病苦はありましたが、生への執着をお返しして、安堵して肉体の命を終えさせていただきました。
 父は、ご神前に御玉串をお上げして祝詞をお上げしてほしいこと、「みたまや」、お墓にお参りしてほしいことを私に託しました。そのことをさせていただき、父に報告しました。父はうなずきました。その後、臨終を迎えました。後に教主様のお言葉によって、父が私の中でいつも生き続け、多くの先祖と共に神様にお使いいただいていることの確信をいただきました。
 また昨年、教主様より賜りました新しい「みたまや」は、全人類につながるすべての先祖が、みな永遠の命をいただき、私どもと共に今も生きていらっしゃり、全世界の全人類のすべてが、メシアとして新しく生まれる養いとみ恵みを賜っているという、新しいみ祀りの姿をいただきました。共に神様にお仕えさせていただきますようにと、日々思いを通わせていただいています。
 母の胎内にいる時から明主様にご縁をいただき、支部(布教所)で育った私は、この信仰の道を、どんな時も疑ったり迷ったり離れたりすることなく、今日に至るまで歩ませていただきました。
 45歳の時、縁あってカトリックの幼稚園に通いました。数度シスターに導かれて園庭の階段を上り、教会に案内されました。園児の私たちは一列に並び、静かに祭壇の所まで導かれていきました。手を合わせていたのかどうかは記憶にないのですが、教会の中に静かに導かれていった時に、全身で感じた崇高で清新な空気、大人になってから思う尊厳さが、神様を感じさせていただいた私の初めての実感でした。
 また支部での月次祭の朝は、特別な朝でした。神様に祈りを捧げ、一同で神様のみ恵みに感謝申し上げる、神様に向かわせていただく。その日大人たちが準備し、整えられていく中に、清新で何とも言えない浄福感を子供心に感じさせていただきました。
 大光明燦然と輝く光、私の中に生きていらっしゃる神様の光を、私の中に生きていらっしゃる神様のことを、教主様を通して今、教えていただいていますことに、永遠の生命をいただいて生かされていることへの原点の感謝を捧げさせていただきます。
 昭和47年、救世専門学院が開校されました。学生会活動をしていた私は、「明主様の学校が出来る」とうれしく、ぜひ入れていただきたいと強く思わせていただきました。昭和48年、2期生、文化コース(女性)芸術学科生として入学。2年間は華道、茶道、日本画を中心に学び、仲間と共に過ごした懐かしい、思い出深い京都での生活となりました。卒業後、華道山月流華道庁で、昭和55年の結婚による退職までお使いいただきました。
 振り返りますと、この信仰がご縁で結婚した夫と神奈川県で40年間、二人三脚で歩んでまいりました。昭和60年に、2人目の長男を出産したころは、教団浄化の最中でした。夫は、熱海の救世会館に寝泊まりして神奈川の職場に通ったこともありました。私自身、長女が幼稚園、長男が1歳になるころより、子育てしながら布教活動を始めさせていただきました。
 幼稚園のお友達のお母さん、ご近所の方のお導きから始まり、浄霊所としてお使いいただき、一つのグループからブロック、地域となり、地域長としての御用をいただくようになりました。
 平成14年、浄霊センター長制になった時に、センター長の御用をいただきました。30代の終わりから50代の初めのころまでは、無我夢中で、まさに我が身のことを後にして、我が家のことを後にして、地域長、センター長として動かしていただく毎日でした。
 その時の営みも、その時々に必要あって神様がくださった貴重な体験であったと、そして、先輩や多くの信徒さんから学んだことを、懐かしくありがたく思わせていただいています。
 しかし、「夜昼転換した今」の全く新しい信仰を、教主様からお言葉をいただくようになり、人間中心から神様中心の信仰をご教導いただき、今までの過去の営みと新しい現在、未来の営みが違うことにはっきり気付かせていただくようになりました。入信のお導きも、信徒さんのお世話も、数字に表れる結果も、証しとして現れることも、奇蹟をいただくことも、人間の努力の上に許されるものと、長い間思ってまいりました。また、至らないことの原因を曇りの深さや罪によるものと、時にはその原因を先祖に探し、自分を責めていました。そして、地上天国のイメージを自分なりに思い描き求めてまいりました。
 人間主体の御用を、長い間してきたように思います。何かが足りないから問題解決しない。救うことができない。そして、「人を幸せにするのは、人間の愛や霊力によるもの」と思っていました。長い間、「神様、明主様」と言いながら、人を讃え、人に感謝することを優先していました。人間中心の信仰であり、信徒さんにもそのようにお伝えしていました。その在り方が正しいことと思って突っ走ってきましたから、いかに塵や埃を巻き上げてきたことでしょう。そのたびに神様が後始末をしてくださり、大きな愛でお赦しくださり、お導きくださっていましたことを、後に教主様のお言葉によって気付かせていただきました。
 平成19年夏、52歳の私は、生死を分ける肉体の浄化を突然いただきました。命を救っていただき、神様が現世での命を継ぎ足してくださいましたことを、日を経るに従い気付かせていただきました。しかし、当時の私は、死ぬほどの浄化をいただいても変われない自分に対し、神様の御心に思いを向けることより、自分の心に思いを向けて悶々としたものがありました。
 平成21年春、神様は、信仰上の大きな浄化を私ども夫婦と家族に、また突然の出来事として現してくださいました。当時、私は本部教区鎌倉教会で、30年近く親身にお世話くださり、指導くださっていた先生を、神様の道へ導いてくださる指導者として、心から尊敬し信頼しておりました。
 それは、悪意でも何でもない一本の電話がかかってきたことから始まりました。私は、恩師を裏切り傷つけた者となされ、今までの信仰のすべてを否定されました。私は何かとんでもないことをしてしまったのかと、事の成り行きが理解できず、自分を責め、嘆くしかなく、来る日も来る日も寝ても覚めても涙があふれ、うつ状態が続きました。そのような時に、何通かの怪文書が出回るようになりました。私や私の家族は、その怪文書の差出人とされました。「私ども家族は、決してそのようなことはしていません」と、お会いし、真実を伝えましたが、最後まで信じてもらえませんでした。その先生のもとでは信仰の道を歩めない、真実は絶対に曲げられないと決心し、恩師にご挨拶を申し上げ、去ることになりました。
 振り返りますと、私にとっては30年間、夫にとっては40年以上、その先生のお導きのもとに信仰を歩んできましたが、この浄化があったからこそ、全く新しい信仰への転換を、神様がお導きくださいましたことと、後になって気付かせていただきました。
 平成21年5月より、大船浄霊センターに家族で移籍させていただきました。その後、平成22年7月に逗子浄霊センターで御用をいただくようになるまでの間は、自宅に未信徒さんや重い浄化の友人が来られ、浄霊所のようにお使いいただきました。その間も、一信徒として充実した日々を送らせていただいていると思っていましたので、平成21年の御生誕祭の日に、「逗子浄霊センター長」のお話をいただきましたが、家族で話し合い辞退させていただきました。
 そのお話は終わったものと、すっかり忘れていましたが、平成22年地上天国祭の日に、再度そのお話をいただいた時には、「神様、明主様からいただいた御用をもう辞退できない」と、感謝でお受けさせていただきました。
 エリア長や前センター長、信徒の皆さんが、信仰と誠心で私を受け入れてくださいました。その誠心は、今も私の中によみがえってきます。
 逗子で御用をいただくようになった展開も、やはり神様のお導きとしか思えないことでした。私は、教区長、エリア長に指導をいただき、いづのめ教団の浄霊センター長、研修センター長としての責任を果たさせていただけますようにと、日々努めさせていただきました。
 中心は、教主様のお言葉の学びであり、積み上げていただき、先生から教主様中心の信仰を導いていただきました。
 平成16年以降、祭典でいただく教主様のお言葉は、当初は、本当に申し訳ないことですが、別世界からのお言葉のように感じられ、私にはよく分からなかったのです。しかし、教主の座におられる教主様を尊崇の思いで仰がせていただいていましたので、教主様の祭典へのお出ましと、お言葉を賜りますことをいつも心待ちにしていました。教主様のお言葉は、主神のみ旨であり、主神と共におられる明主様のみ心であることと気付かせていただくようになり、今日に至っております。
 そして教主様は、明主様と共におられると感じさせていただくようになったころから、「教主様のお姿に倣う」ことを気付かせていただきました。教主様のお姿を、真に神様にお仕えになる尊いお姿として拝させていただくようになりました。
 いづのめ教団では、平成265月より平成2811月まで、教主様の国内5教区へのご巡教をいただきました。本部教区には、平成27年5月にご巡教いただきました。そのころ、私は「新しく生まれる」ということを、心がけや生き方を全く新しく変えること、それにより信仰や人格を新しくしていただくことのように受け止めていました。〝明主様を模範として、神様の子供、メシアとして新しく生まれる〟ということには至っていませんでした。

 

「新しく生まれる」ということの真の意味は、私どもが生まれるのではなく、主神ご自身が、私ども一人ひとりの中で、新しくお生まれになることであります。
 …このことを私どもから申せば、私どもは、主神をお受けし、表現させていただくことにお仕えする、言わば器であります。
 (平成23313日 春季大祭)

 

とのお言葉を、今は求めさせていただいています。
 平成27年は立教80周年で、教会制発足の年でもありました。教主様ご出座の地上天国祭の後、救世会館の201号室に新教会長が集められました。副教会長の御用をいただいた私も、教主様のお言葉をいただき、握手をしていただきました。教主様は笑顔で、とてもお喜びのご様子でした。まゆみ奥様は、私たちの緊張をほぐしてくださり、明るく接してくださいました。まゆみ奥様を身近に感じさせていただきました。

 

日本において教会が生まれたことによって、世界と日本とが相呼応していることを認めさせていただいたことになり、世界中の信徒をひとつとしてご覧になっている明主様も、きっとお喜びのことと思います。
 (平成27615日 新教会長に対してのお言葉)

 

とのお言葉に、〝世界〟を見ておられた明主様のみ心と教主様のお心が一つであると感じさせていただきました。

 

…主神にとっての教会とは、私ども自身であると思います。
 なぜならば、主神は、私ども一人ひとりを、全人類を天国に立ち返らせるという救いの働きを担うもの、すなわち、教会とみなしてくださっているからであると思います。
 …多くの人々を明主様に結ばれたものとして、自分の意識の中心に迎え入れ、共に天国に立ち返らせていただく教会としての御用にお仕えする務めがあると思います。
(同上)

 

と、お言葉をいただきました。明主様のお喜びをお伝えいただき、教会の真の意味をご教導いただきました。
 逗子教会長として神様にお使いいただくようになり、一点の疑いもなく、いづのめ教団は教主様を中心に進んでいると信じ切っていました。
 平成29年の立春祭、3階正面玄関ホールに立って、まっすぐに教主様のお姿を拝し、お言葉をお待ちしていました。教主様のお言葉に驚くとともに、真意は分からないながらも、何か大きく動いている中に置かれていることを感じ、体中に震えるような緊張感がよぎりました。
 その後のいづのめ教団の混乱とも言える流れの中に、全信徒一人ひとりが真の信仰を、明主様が真に願われた救いの道を、本来の人間の在り方を問われていったように思います。
 平成29年はとても厳しい年でした。執行部から教主様に対し、先生方に対し、信徒に対して次々と出される過酷なありように、信徒さんは憤り、不信、悲しさ、つらさ、無関心など、さまざまな思いが照らし出されました。私自身もむなしさ、情けなさ、悲しみで夜中に目覚める日が続きましたが、信徒さんと共に教主様のお言葉の学びと実践に努めさせていただいていました。
 教区長は、教主様が信徒を愛し、いつもお心をかけてくださっている旨をお伝えくださいました。そんな状況の中にあって、平成291222日、御生誕祭の日に熱海後楽園ホテルで、教主様をお招きさせていただき「教主様と思いを共にする信徒布教師の集い」が実現でき、教主様と一つ心に歩ませていただいていることの喜びと感動を実感しました。そして、天国に立ち返らせていただく道を進んでいく、さらなる勇気と力をいただきました。
 平成30年、逗子教会は教会発足70周年、平成31年春には竣工祭の予定で教会建設が進んでいました。2月末は建て替えのための引っ越しの日が決まっていました。しかし、教団の混乱の中で状況が変わっていきました。
 3月10日、信徒と執行部側副教区長との話し合いを最後に、4月には建設中止を伝えられました。信徒の皆さんはどんなことがあっても、信頼できない執行部のもとには献金を上納できないと意思表示され、1月、2月と上納される方が減ってきていました。建設を継続するために以前のように献金するように言われても、それには断固として従わない姿勢を示しました。
 3月末、執行部に従う内容の誓約書を教団へ出さなかった私に代わり、執行部側の教会長が赴任されました。その対応策についても、信徒さんと話し合いを重ねました。執行部は、新年の教主様お言葉の廃棄、教主様のお言葉の学びと唱和の中止など、信徒さんの思いと逆のことをどんどん現してきました。その中で心したことは、教主様中心の信仰を貫くこと、信仰を中心に対応策を考えること、それぞれがお役目に使われていると認めていくこと、敵対心を持たないことなどを確認しました。
 信徒さん方は、執行部側の教会長には従わないことを決意されるとともに、そのもとでの教会月次祭には参拝しないことを実行されました。4月、5月は横須賀の浄霊センターからの1名だけの参拝でした。また、教会内で盗聴疑惑が出てからは、参拝は希望の方のみ対応することになりました。そのつど、現れてくる事象に対し、信徒さんと話し合いながら対処させていただきました。
 逗子教会は、先達の先生方や信徒さんに守られ、大切にされてきました。しかし、最も大切なものは目に見える建物より、本筋の信仰を貫かせていただくこと。神様、明主様、教主様と縦軸の定まった中心につながる信仰の道を歩ませていただくこと。信仰信念に基づいて進むことを決意させていただきました。4月からは、信徒宅で地域ごとに感謝祭をさせていただき、地域ごとに活動をさせていただきました。
 平成3051日、主之光教団との連携協働により、いづのめ教区が発足。6月15日には地上天国祭が、教主様のご出座のもと、リーガロイヤルホテル大阪の光琳の間で執り行われ、この展開のスピードの速さに驚くとともに、神様がお許しくださっていることと拝察され、喜びと感動の中で参拝をお許しいただきました。
 教主様はその後も、祭典にご出座になり、各地区にもご巡教くださいました。9月に入信式でのご親授、教主様の後継者であられる真明様のドイツへのご出向、また11月には韓国ご巡教や次の年のご巡教も予定され、ご神業が加速していることの実感をいただきました。
 教会のほうでは、拠点となる物件を求めて、何軒かの不動産屋を訪ね、何十件も候補を探して歩きました。しかし、宗教法人に貸してくれる所はなく、また貸してもらえそうな所は拠点としては狭すぎ、この状況をお委ねしながら、地域ごとの活動を続けていました。
 そして、神奈川県の各教会、浄霊センターは、教主様と思いを共にする信徒全員が、拠点から出ざるを得なくなるという状況にあって、専従者は、話し合いを積ませていただきました。今まで自分のもののようにしていた教会、浄霊センターの名前も建物も御用奉仕も、自分のものは何一つないことに気付かせていただきました。そのすべてを神様、明主様にお返しさせていただき、新たな教会をいただきたいと思わせていただくに至りました。10月より神奈川県の4つの教会は、3つの教会として新たに教会名を定めて、各教会の状況に応じた拠点で新しく出発することになりました。平成27年6月15日、教会制発足時の教主様のお言葉を、信仰の柱としていただきました。
 逗子教会の信徒さんは、名実共に逗子教会を神様にお返しさせていただきました。人間関係にとらわれることなく、人について行くのではなく、教主様について行くことで、それぞれの住所により沿線上の2つの教会に分かれて所属することになりました。私は、それぞれの教会に所属された逗子の信徒さんのお世話をさせていただくことになりました。
 平成301014日に開所されたみなと教会(現横浜教会)は、3つの拠点が1つとなり、以前いづのめ教団の浄霊センターとして借りていた所を、いづのめ教区として新たに借りることができ、拠点にも恵まれ発足しました。
 12月末、みなと教会長の突然の入院に戸惑い驚きました。御生誕祭で奉仕をされていた時のいつもの笑顔が思い出されました。地区本部長を中心に、神静地区(現神静教区)の教会長として、困難とも言える状況の中を、同じ方向を見つめて共に歩ませていただいたことにより、同志と思っていました。その後も短い間でしたが、みなと教会で御用をいただく中で、先生を信頼していました。125日に帰幽され、先生を失ったことは、みなと教会の信徒さんも私も喪失感が大きく、大きな悲しみでありました。先生は、みなと教会のご神前を整えられ、教会の御神体をお迎えすべく、すべて用意してくださっていました。
 平成31年1月1日、本部にてご神体「大光明」のご下付、5日に鎮座祭、翌6日には新年祭並びに開所式を、責任者としてお仕えさせていただきました。平成3141日に教会長を拝命し、本年7月20日、退職させていただく日まで、ご神体「大光明」にまっすぐに向き合わせていただいてまいりました。幾度お祈りさせていただいてきましたことでしょう。教会の御神体は、どんなときも大光明燦然と輝き、み光に満ち満ちているように感じさせていただいていました。ご神前に身を置くだけで、神様を感じさせていただき、勇気と愛と、そして力をいただきました。
 形ある御神体「大光明」を、とても大切と思わせていただくからこそ、目に見えない自分の中に生きていらっしゃる神様を感じさせていただきたい、神様に心を向けさせていただきたい、私の中に神様が生きていらして、私の中に神様の大光明燦然と輝く光があることを、真に分からせていただきたいと思わせていただきました。
 令和元年4月21日、キリスト教の復活祭の日、マイアミのまばゆいばかりの光の中で、「春の大祭並びにアメリカ世界信徒大会」が執り行われました。どうしてもこのご巡教に夫婦で参拝したいと願っていたことが実現しました。教主様、まゆみ奥様、真明様を、世界の信徒さんと共に間近に感じ、「アメリカを救う」との明主様の思いに立ち返らせていただきたいと思いました。そして、忘れられない思い出とさせていただきました。
 930日、大きな節目として、教主様のご承認により新体制が発足。みなと教会は、横浜教会として新たに出発することとなりました。令和元年もすごい勢いで大転換を、神様がお進めになっているように感じさせていただきました。教主様お言葉、真明様ご挨拶をより深く学ばせていただきたいと思いました。
 そして、令和2年の世界メシア教立春祭。70年前に明主様が開教された世界救世(メシヤ)教の復活という、歴史的な祭典に参拝させていただきました。「世界メシア教」の信徒として、主神、明主様にお仕えさせていただけるという千載一遇のときに生かされていることに、父母先祖と共に感謝を捧げました。
 自らの心の中心に天国があることを信じ、明主様と共にあるメシアの御名にあって天国に立ち返らせていただきます。主神の、すべてをよみがえらせ、新しいものに造り替えるという第二段階の創造のみ業に、お仕えさせていただけますように、これからも、喜びと感謝と確信を持って、教主様と一つ心に、この道を歩ませていただきます。
 ありがとうございました。

 

『グローリー』No. 9, 2020/10月号掲載