PDF: 十一月度月次祭_真明様ご挨拶_「約束された未来」
2020年十一月度月次祭真明様聖言のポルトガル語朗読版は、こちらからご覧いただけます。
「約束された未来」
於:本部ご神前
皆様、おはようございます。
ここ数年、教団が大きく動きましたね。大きく動いて、一見混乱とも言える状況が続いたと思います。
そのことを通して、明主様が、私たちに何かお伝えになろうとしていらっしゃることは間違いがない。明主様は、何を私たちに気づいてほしいのか。何を私たちに問うておられるのか。
当初私たちは、これは、明主様の世界メシヤ教開教のみ心、これを私たちは忘れてきてしまったんじゃないか。明主様がお付けになった名前であったにもかかわらず、ご昇天後2年、たった2年で世界救世教に変えてしまって、そしてそのまま歩んできてしまった。このことを明主様は私たちに伝えてくださろうとしていたんだということで、本年2月4日、皆様ご存じのように、世界メシア教の名を復活させるということに私たちは携わることができたと思います。
もちろんこのことは、きっと、明主様が私たちに願っていらしたことであると思います。しかしその後のご神業の推移、世界メシア教が復活してからのご神業の推移を自分なりに思い返し、考えてみますと、世界メシヤ教開教のみ心はもちろんですけれども、さらにもう一つ、明主様が私たちに気づいてほしいこと、問うておられることがあるんじゃないかと、そう最近感じるようになりました。
それは、「イエス・キリスト」ですね。イエス・キリストという存在が一体私たちにとってどういう存在なのか。イエス・キリストを信じ、受け入れること。イエス・キリストが神様によって使われていたし、今も使われていると信じ、受け入れること。明主様は、「あなた方は、イエスが神様に使われている存在だと信じ、受け入れるのか?」と、これを私たちに問うてきておられるのではないのかなと感じています。
皆様ご存じのように、教主様は、MOAグループから、尾行ですね、尾行・盗聴・盗撮をされました。そしてその結果は何であったかというと、何ということはない、キリスト教の友人の方と会っていらっしゃる。そして、キリスト教の学びをしていらっしゃる。そしてそれだけではなくて、キリスト教という存在は、明主様のみ心や聖言を求める上で欠くことのできないものではないかと感じていらっしゃる、そういうことでしたね。
そして、MOAグループは、教主様にキリスト教の友人がいらっしゃること、キリスト教の学びをしていらっしゃること、これはもう大問題であって、明主様のみ心からかけ離れているのだ、ということで、教主様は批判された。そして、教主様を一方的に追い出した、追放したと主張している、ということですね。
しかしもし、これが、MOAが進めているような浄霊を科学するとか代替医療とか、そういうことに関わっている人と教主様が会われていたらどうだったのでしょうか。そしてそのような人たちの集う学びの場に行かれて、そして、代替医療などそういうことは素晴らしい、明主様のみ心を求める上でこれは欠くことのできないことであると、このように教主様が思っていらしたらどうだったのでしょうか。
間違いなくあちらの方々は、なぜそのことをもっと早く私たちに言ってくださらなかったのですか、素晴らしいことじゃないですか、まさに明主様が教主様を通して生きて働いていらっしゃる、明主様のみ心に適っていらっしゃる、教主様は素晴らしいと、きっと大賛成をされたことと思います。
でもこれが、キリスト教とか聖書とかイエス・キリストとか、そういう存在であったから、教主様は批判されましたね。そういうことですよね。
そしてそのことを、あちらの宣伝等によって私たちが知るに至った。その上で私たちは、では自分はどうするんだ。教主様がお導きくださっているこの明主様の道を歩むのか、それとも今まで私たちが歩んできた道をそのまま歩むのかという選択を迫られましたね。
教主様がキリスト教の方と会われているとか学んでいらっしゃるということを知った上で、私たち一人ひとりはそういう選択をさせられた。ということは、やはり、明主様は、私たちに、「あなた方はイエス・キリストやキリスト教という存在をどうするのか?受け入れるのか?」ということを私たちに問うてきておられたのではないのかなと感じております。
そしてもう一つ。今のインターネットの時代に、そういうさまざまな情報を教団内だけに抑えておくことができませんね。YouTubeやインターネット上の色んなメディアによって、これは当然恥ずべき話ではありますけれども、教団の色んな混乱の状態が世に出ます。そして、世界救世教に関わる私たちだけではなくて、日本を含めて世界中の明主様信仰を持っていらっしゃる多くの人たちが、今回の教団の動きをネット等で確認したと思います。そして、キリスト教のことが問題になっているんだとか、こういうことが起きているんだということを知るに至ったと思います。
そう考えますと、明主様のこの問いかけですね、「キリスト教とかイエス・キリストという存在をあなた方はどう受け止めるのか」という問いかけは、世界救世教に関わる私たちだけではなくて、ご自分を信じているすべての信徒—離脱したとかその他色んな団体のご自分を信じるすべての信徒—に対して、明主様は、「あなたは私の業の土台にイエスがあると信じるのか否か。キリスト教と呼応するということを信じるのか否か」ということを問いかけておられて、そしてご自分の信徒の心の反応をご覧になっていらっしゃるのではないのかなと、そのように思います。
教主様への批判は、キリスト教とかイエス・キリストと関わり合いを持つことは、明主様のみ心ではない、ということですよね。果たしてこの批判は事実なのかというと、実はまったくそうではなくて、私は何度も言っていますが、明主様は何とおっしゃっているのかというと、これが、1950年、世界メシヤ教を開教された時の機関紙のインタビュー上で、「世界メシヤ教の世界的な意義は?」と問われた明主様は、イエス・キリストの神力は偉大なんだ、イエスの教えと自分の教えは最も近いんだ、私は、わが新教はこのキリスト教と呼応して人類の善導と救済に全智全能をあげて働いてゆきたいんだと、そのように仰せになりました。人類を救うために、キリスト教と呼応してそれを進める、そして、そのことに全智全能をあげて働くのが明主様でありメシヤ教であると断言していらっしゃいますね。
あるいは、明主様の御歌に、「キリストの宣らせ給ひし天国の福音吾は伝へむとすも」。キリストの宣べた天国の福音、これを私は伝えようとしているんですよという御歌ですね。私たちは、明主様のおっしゃる「地上天国建設」とか「天国建設」というその天国が、「イエスの説いていた天国」だと思ったことが果たして今まであったでしょうか。何か、単純に「明主様のおっしゃる天国」を造るんだと思ってきたのではないでしょうか。
あるいは、「キリストの父なる神は主の神と知れよ信徒吾と併せて」。キリスト教で言う父なる神—天の父ですね—は、私の言う主の神と同じお方なんだよ、それを知りなさいと、そう明主様はおっしゃっていますね。信徒よ、知りなさい、とおっしゃっているということは、私たちがそう思っていないから、知りなさいとおっしゃるわけですよね。そして「吾と併せて」ですから、私は主の神のことを天の父と受け止めているんだから、信徒のあなた方もそのように受け止めてほしいんだよと、そういう明主様からのメッセージですね、この御歌は。
私たちは、今まで、神様を拝したり、神様のことを思った時に、「あっ、お父様」とか、「本当のお父様」と思ったことがどれだけあったのでしょうか。明主様の神様といっても、それは、キリストの言っている天の父、父なる神と同じであって、その本当のお父さんが私たちの信仰対象であると思ったことがどれだけあったのでしょうか。
また「天国予言の具体化」の聖言の中でも、私たちは天国を造るんだ、それによってイエスの予言が的中するんだと明主様はおっしゃっていますよ。でもこれは別段誇ることではないんだ、神エホバが必要があってイエスも私も使っていらっしゃるんだ、そして、イエスの予言を実行する使命を課せられた一員がメシヤ教の我々なんだと、そう明主様はおっしゃっていますよ。
これらの聖言を見ますと、明主様は、信じるとか受け入れるということはもちろん、それを遥かに超えて、イエスは、ご自分のご神業の土台そのものであるとお示しになっていらっしゃいますね。イエスの遺した予言の実行者であるのが私たちメシヤ教であるとおっしゃっていますね。
また、ヘンデルの「ハレルヤコーラス」。これを私たち歌わせていただいております。この間の御生誕祭の時も歌わせていただきましたね。
だけど明主様は、ヘンデルのこの「メサイア」という曲が良いんだと仰せです。「ハレルヤコーラス」の部分だけじゃないですよ。ヘンデルの「メサイア」、これが素晴らしいんだ、神様がメシヤ教のために用意した曲なんだ、これを信徒に歌わせたいんだとおっしゃっている。
そして明主様は、曲、メロディーが良いとおっしゃっているのではなくて、「メサイア」の歌詞が良いんだとおっしゃっています。ヘンデルの「メサイア」のこの歌詞が素晴らしいんだと、そう明主様は仰せですよ。
では、ヘンデルの「メサイア」の歌詞は何かというと、これは、全編『聖書』の言葉ですよ。「メサイア」のすべての歌詞が『聖書』の言葉ですよ。この「メサイア」を信徒に歌わせようとしていらしたんですよ、明主様は。これは、普通、なかなかできることではないですよね。一宗の教祖が、全編イエスを讃えていて、全編『聖書』の言葉から取られた歌詞の「メサイア」が良いとおっしゃって、そしてその曲を私たちに歌わせようとしていらっしゃった。
「メサイア」は、2、3時間ある曲ですけれども、その歌詞というのは、イエスの生誕から始まって、途中「ハレルヤコーラス」があったりして、そしてその一番最後、結末の歌詞というのは、これは、屠られた子羊。この「屠られた子羊」というのはイエスのことを指しているのだと思いますけれども、屠られた子羊の血によって私たちは神に対して贖われたんだ—これは、私たちの罪が贖われたと、そういうことですね—そして、この屠られた子羊こそ、神様の祝福とか権威とか栄光を受けるのにふさわしい方である、そして、神様とその子羊に世々限りなく栄光、権威がありますように、というのが「メサイア」という曲の最後の歌詞ですよ。
この「メサイア」を、明主様は、歌詞が良いとおっしゃって、私たち信徒に歌わせようとしていらしたわけです。
今言った歌詞は、最後の大きなかたまり。この後に、「ハレルヤコーラス」と対をなすといわれる「アーメンコーラス」というのがありまして、「メサイア」は、最後の最後、「アーメン」という言葉の大合唱で終わるわけですね。
「アーメンコーラス」は数分の曲ですけれども、ただ、「アーメン」の一語を何十回も繰り返し歌うという、そういう最後の大合唱です。「アーメン」というのはキリスト教用語で「そのごとくありますように」ということですから、「メサイア」の、イエス・キリストをずっと讃えていたその歌詞の内容について、最後、「アーメン、そのごとくありますように」と歌い上げて「メサイア」は終わるわけです。
この歌を、明主様は、歌詞が良いと仰せになって、私たちに歌わせようとしていらしたんですよ。
アーメンという言葉は、「主の祈り」も含めてキリスト教のお祈りで最後に使われる言葉ですけれども、もし私たちに、アーメンという言葉は明主様のみ心と違うんじゃないかとか、アーメンという言葉を口に出すのに抵抗がある、という思いがもし湧いているとしたら、私たちは、明主様が私たちに歌いなさいと仰せになったヘンデルの「メサイア」をどうやって歌うつもりなのでしょうか。アーメンという言葉にそのような否定的な思いが湧くこと自体、もう明主様のみ心からずれているということになってしまうのではないですか。最後に、アーメンという言葉を何十回も言うんですよ。もし明主様が今も生きていらっしゃったら、その曲を歌わされているんですよ。
当時明主様がお造りになったメシヤ会館には、ヘンデルの「メサイア」を演奏するために、そのために、わざわざオーケストラボックスを明主様は造られたんです、救世会館になってこれは無くなってしまいましたけれども。
明主様は、メシヤ会館を建てられた時に、ヘンデルの「メサイア」をやるんだ、祭典の時にやるんだとおっしゃっていたわけですから、本来、私たちはこの曲を歌っていたわけです。もしそうであれば、教主様のキリスト教に関わることが出てきたとしても、私たちはびっくりするようなことは決してなかったと思います。キリスト教と呼応する、当たり前じゃないか、イエスが私たちの土台である、当たり前じゃないか、という風潮が教団に普通にあったのだと思います。
そう考えると、私たちが本当に長い間迷ってきたところを、教主様が、明主様のみ心を私たちに思い出させてくださったのだなと思います。
しかし本来、そのように「メサイア」という曲を歌わせること自身、一般の教祖であれば、ちょっと難しいことですよね。イエスを讃えている歌詞やアーメンという言葉、その歌詞が良いんだとおっしゃって、そしてご自分の信徒にその曲を歌わせる、これは普通難しいことだと思います。
また、明主様ご昇天後であれば、なおさら、私たち信徒としては「メサイア」という曲に抵抗感を抱きますよね。「メサイア」という曲を受け入れることは、あたかも、明主様とイエスという存在が相並ぶみたいになってしまって、私たちとしては明主様を上に思いたいですからね。
ではなぜ、明主様は、イエスを讃えている「メサイア」という曲を信徒に歌いなさいと言うことができたのか。それは、私は、明主様は、やはり、ご自分とイエスという存在を、二つで一つの働きとしてみていらっしゃったんじゃないのかなと思います。
イエスと明主様は二人で一つ。キリスト教とメシヤ教は二つで一つ。明主様は、そういう感覚でいらしたのではないのかなと思います。
私はたびたび引用しますけれども、世界メシヤ教開教時の機関紙のインタビュー、この時、「世界平和が宗教の力で実現可能ですか」と問われた明主様は、「絶対可能と信じている」「西洋にキリストあり、東洋にメシヤあり、この二大勢力が東西相呼応して平和のために全信徒が、真面目にたたかってゆくなら必ず永遠の平和がもたらされるものと思う」とおっしゃっています。
キリスト教とメシヤ教が東西相呼応して、そして、「全信徒」という言い方。要は、キリスト教の信徒もメシヤ教の信徒も、明主様にとっては同じ信徒、同じ神のもとにある信徒であるとの認識でいらした。だから、こういうことがおっしゃれるのだと思います。
同じ時、明主様は、メシアの定義についても聞かれるわけですけれども、その時明主様は、メシアの定義というのは実はまだ定まっていないんだ、二十世紀になってだんだんはっきりしてきたんだ、これから神の力がいよいよ現れるんだとおっしゃって、そして、西洋ではさぞやキリストは本来の実力を発揮するであろう、東洋ではやはりメシアだと思うと、そういう言い方ですね。そしてこのことは、「従来のような宗教的観念ではとうてい理解できない」とおっしゃっています。
「従来のような宗教的観念」での「メシア」とはなんですか、というと、それは普通、一人のメシアだ、ということになりますよね。イエスだけだとか明主様だけだとか。
でも明主様は、これから神様の力が現れる、キリストもさぞや力を発揮する、同時にメシアも力を発揮するとおっしゃっていますよ。だから、キリストとメシアという名前の違い、言霊の差はあっても、神様としては、それを二つで一つとしてご覧になってご神業を進められる、ということを明主様が思っていらっしゃらなければ、さっき引用したような「メサイア」の歌詞を信徒に歌わせるということは普通できないことだなと思います。
だから、従来の宗教的観念ではとうてい理解できない、と明主様がおっしゃるように、今私が話していることそのものが、私たちとしては、本来雲をつかむような話だと思います。
メシアだとかキリストだとか東西相呼応してだとか、それは一体どういうことだろう、ヘンデルの「メサイア」の歌詞、どういうことだろう、いろいろと難しいな、今までの明主様観と違うなとか、そのような思いが私たちの中にはあると思います。
だけれども、今お伝えしたような、ありとあらゆる聖言を見ますと、明主様は、明らかにイエスのことを受け入れて、そして、それだけではなく、イエスをご自分の業の土台として理解していらっしゃる。
しかし私たちは、そのことを今日まであまり深く思ってこなかったですね。だからもし、今、明主様が、「あなた方はイエス・キリストという存在を受け入れるのか受け入れないのか」と問うてきていると信じるならば、私たちは、明主様に対して、「イエス・キリストという存在を信じ、受け入れます」「ハレルヤという言葉を受け入れます」「アーメンという言葉も信じ、受け入れます」「エホバ、天の父という神様を信じ、受け入れます」と、そのように思わせていただくべきなのではないでしょうか。
今まで私たちは、今言ったようなことに対して、何か明主様とは別のものとして、第三者的に理解していたかもしれないですけれども、明主様は、それらのものを、ご自分と一つのものとして捉えていらっしゃるわけですから、やはり、今言ったような言葉で明主様にお返事させていただく。
また、今日の祭典の御歌でも、明主様は、常立の神の贖いが無ければこの天地が滅びていたであろうとおっしゃっていますね。「メサイア」の最後の歌詞のところにもありましたね、屠られた子羊の血によって私たちは贖われたんだと、そうでしたね。
というように、明主様は、贖いの血を受け入れていらっしゃるわけです。だって、その歌詞を信徒に歌わせようとしていらっしゃったんですから。ご自分がおかしいと思われている歌詞の内容を信徒に歌わせることはあり得ませんね。だから、「贖いの血も受け入れます」と思わせていただく。
そしてまた、今日の聖言にありましたように、聖書ですね、聖書という存在。これについても、明主様は、『聖書』は宗教の書籍の内で罪を悔い改めるのに最も力あるものであって、獄舎に置くべきであるとおっしゃっている。
普通、一宗の教祖であれば、例えばご自分の書かれた『天国の福音』とか『信仰雑話』とか『明日の医術』とか、そういうものを置かれたいというなら分かりますけれども、明主様は『聖書』が罪を悔い改めるのに最も力があるんだ、それを私は獄舎に置きたいんだと仰せですよ。アメリカのように各家庭に『聖書』があるのがうらやましいと、そう仰せですよ。アメリカ大統領就任式の時に—選挙も迫っておりますけれども—大統領が聖書に手を載せて宣誓するのをご覧になって、何とも言えない感に打たれた、と感じられる明主様のご感覚、これは、少なくとも聖書というものを否定していらっしゃいませんね。拒否していらっしゃらない。むしろ、神様につながる何か大切なものとして受け入れていらっしゃるわけです。
ですから、「イエス・キリストという存在を受け入れます。アーメンという言葉も受け入れます。ハレルヤという言葉も受け入れます。エホバも受け入れます。そして聖書も受け入れます」と、そう思わせていただくことが大切ではないのですか?なぜなら私たちは、長年そのように思ってこなかったわけですから。
そして贖いの血ですね。子羊の血で神に贖ってくださったとあるわけですから、「贖いの血を受け入れます」と、やはりこのように明主様にお返事をさせていただくことが、ここ数年、教団の動きが大変なように見えますけれども、そのようにお返事させていただければ、明主様が、「よく分かってくれたね」とおっしゃってくださって、そして私たちは今、いろいろな悩みとか、体にも色んなことを抱えていますけれども、今言ったように明主様に宣言したら—というのは、明主様がお喜びになれば私たちの中にもその喜びが満ちるわけですから—もしかしたら、今いろいろ抱えている悩みも解決するかもしれないですよ、本当に。
だからそれはもう、だまされたと思って—私にだまされたと思って—「受け入れます」「贖いの血汐を受け入れます。イエスを受け入れます。聖書を受け入れます。エホバを受け入れます」というふうにおっしゃってみたらどうかなと思いますし、私もまた皆様とね、今お話ししていることは、ここ最近、月次祭のお話をするという中で思わされたことですので、皆様と共にそのように思わせていただいて、そして、明主様が本当にお喜びになってくだされば良いなと思います。
明主様がご立教になったのは、1935年ですよね。1935年に大日本観音会という名前で立教されて、でも当時、大本との関係ですぐ弾圧されて、もうほとんど何もできないまま戦後を迎えて、そして信教の自由が確立されてから、ついに、宗教活動ができるということになって、最初は、日本観音教団ですね、1947年。そして翌年に、日本五六七教会を創立された、と思ったらもうその1、2年後ですよ。観音と五六七の看板を下ろして世界メシヤ教という表看板にされた。
これは私は、当時の信徒は、もうびっくりしたと思いますよ。観音とかミロクという何か仏教的な神様を信仰対象としている私たちなんだなと思っていたら、それがいきなり、キリスト教的なこのメシヤという名前になって、しかも、今までは日本だったのが世界になって、そして、私たちは世界メシヤ教なんだと仰せになって、当時の信徒は本当にびっくりされたと思いますよ、明主様がそれを発表された時。
私たちは今、振り返った歴史としてそれを見ますのでね、何かそれが当然の推移のように感じますけれども、当時の信徒はその時代をまさに生きていらした。私たちも、この1、2年でどんどん変わっていっていると思うかもしれないですけれども、当時とは比べものにならないのではないですか。
当時の信徒は、ようやく信教の自由が確立されて、日本観音教団になったぞ、日本五六七教会になったぞ、これからだ、という時にすぐ世界メシヤ教に変わってしまって、しかもこれは、戦後の混乱期ですよ。普通であれば、できるだけ安定して進められたいところを、明主様はもうどんどんどんどん先に進んでいかれて、しかも、ただ名前が変わっただけではなくて、その時明主様は、当時のメシヤ教なんてキリスト教に比べたら本当に小さな宗教団体だったと思いますけれども、でも、明主様は、この二大勢力が—西洋のキリストとメシヤのこの二大勢力が—東西相呼応して世界平和を成し遂げるんだというものすごい確信と気迫ですよね。
当時の信徒は、戸惑ったどころのものではなかったと思います。本当に度肝を抜かれたまま、度肝を抜かれたまま、何十年も経ってしまったんだと思います。そして、明主様もご昇天になってしまうと、その中で明主様の本当のみ心を求めるのはなかなか難しいですよね。イエス・キリストと明主様、当然明主様のほうが上じゃないか、と単純にそういうことになって宗教活動を進めていく、ということになってしまいますので。ですので今、教主様によって、明主様の本当のみ心を思い出させていただける私たちは、幸せだと思います。
でも本当に、明主様は、そのように、どんどん変わられるお方ですね。皆様も最近よく聞かれていると思いますけれども、ご昇天前年には、浄霊という本教の核心をなした—今もなしていると思いますけれども—なしていたこのご浄霊について、いきなり、「御浄霊は二の問題」であるとおっしゃって、「これから想念の世界」に入ったんだと、そうおっしゃって、そうやってどんどん前へ前へと進まれる明主様のスピード感というのでしょうか、この速さは、本当に想像を絶する速さではないのかなと思います。
私の目には、神様の御心を成し遂げるために、常に全速力で突っ走っていらっしゃる明主様のお姿が浮かびます。もしそうであるならば、私たちはその明主様のみ心を、60年、70年も忘れていたわけですから、明主様は一体どれくらい先に行かれてしまったのだろうかと思うくらいです。もう双眼鏡を使っても、全然お姿も見えない、ということなのでしょうけれども、でも今、教主様に導いていただいて少しでも近づこうとしてるのではないのかなと、そう思います。
明主様はやはり、走っていらっしゃるお方だと思います。ありとあらゆることを全力でされて、常に走っていらっしゃった。だから私たちも、物理的にではないですけれども、やはり明主様が走っていらっしゃるお姿を思い浮かべて、自分も明主様の背中を追いかけたい、ということで、走るような思いで明主様のあとをついて行くのが良いのかなと思います。
でも、走るといっても、やみくもに走るわけでもないんですよ、実は。というのは、私たちはゴールがあることを知っていますね。私たちの走るゴール。それは何かというと、それは、明主様のゴールであった「メシアとして新しく生まれる」、これが私たちのゴールであり、そのために今、いわば「命のレース」とも言えるレースを走らせていただいているわけですね。
普通のマラソンですと、参加条件があったり、あるいは、一回棄権したらもうだめだとかいうことがありますけれども、この「命のレース」は何度棄権しても—そして当時、70年前、私たちはいわば一度棄権してしまったわけですけれども—棄権しても「また走っていいよ」と神様はおっしゃってくださって、また、このレースは、誰でも参加していいんですよ。体が不自由だとか、こういう罪を犯してしまったとか自分はこうだとか、そういうことと一切関係なく、誰でも参加していい「命のレース」というものを今、私たちは走らせていただいているんですよ、本当はね。
そして明主様が、メシアとして新しく生まれるとおっしゃった時、これは世界中で最高の位なんです、キングオブキングスであるとおっしゃった。王様ということですね。ということは、命のレースを走って最後のゴールに行けば、私たち一人ひとりにも命の冠、王になるべき命の冠、王冠、これが用意されているんですよ。私たち一人ひとりに、ですよ。
だからこれは、本当にものすごい光栄なこと、想像もできないくらい光栄なことだと思います。しかも普通のマラソンなら、走って1位になったと喜んだり、何位になったからどうだとかいうことになりますが、この命のレースにはそもそも順位もないわけです。みんな最後は、神様の子供という、それぞれが兄弟姉妹の本当に平等な存在である私たちになるのであって、差はないわけですね。
そして、普通のレースならゴールをしたらそれで終わりですが、私たちのレースはそうではない。ゴールをして冠をいただいたら、私たちは、さらにその先に、もっと大きな喜び—神様の子供となった素晴らしい喜び—を持って、今度は、明主様とかイエスとかその他多くの素晴らしい方たちとご一緒に、最高の歓喜の中で、永遠に神様にお仕えする、というその未来が私たちには待っているんです。その未来が約束されているんですよ、私たちには。
私たちは、「ゴールできないかもしれない」とか「自分では到底無理だ」と思っていたとしても、もう約束されているんですよ。私たち一人ひとりがその未来に到達することは、もう神様のほうで定めていらっしゃる、約束してくださっている。
確かに、王冠をいただくとか、そういう素晴らしいレースを走っているということは、私たちの日々の色んな細かなこととかけ離れているように感じますよね。私たちの日常というのは、本当に、朝から晩まで色んな思いを感じさせられたり、また肉体的にも拘束されて、これもしなきゃいけない、あれもしなきゃいけない、仕事もある、家事もある、といって拘束されているけれども、その中にあって、ほんの一瞬でも、「あっ、自分はこの未来が約束された命のレースを走っているんだ」「王冠をいただくレースに参加させていただいているんだ」ということを私たちは忘れてはならないと思います。それくらい大きな恵みを神様から賜っているということ、これを、日常の中で、ほんの少しでも思い出させていただけると良いなと思います。
私たちには、私たち人間が普通感じている喜びというものを遥かに超えた、計り知れない喜びが待っているんです。そして、そのレースを今走っている。確かにその喜びはまだ来ていませんよ。まだ見えないし来ていない。見えない、来ていないけれども、それが来ることは約束されている。だから、それを信じるところに私たちの「信仰」の価値があるのだと思います。ですから、その来るべき素晴らしいものを確信して、大いなる希望を持ってご一緒に歩んでまいりましょう。
ありがとうございました。