※英語とポルトガル語でなされたビデオメッセージの和訳
前回のメッセージで、私は、明主様がご昇天前に、繰り返しお宣べになったことについて触れました。
それは、「これから想念の世界である。御浄霊は二の問題で、まず想念である。お念じしなさい」という御言葉です。
ご神業と言えばご浄霊と長年思ってきた私たちにとって、これは受け入れがたい御言葉であると思います。しかし、私たちに選択の余地はあるのでしょうか?この御言葉を否定し、無視するという選択肢はあるのでしょうか?ありませんね。この御言葉を受け入れる以外、私たちにできることはありませんね。
ご浄霊は二の問題であると言っているのは教主様だ、教主様が浄霊より想念のほうが大切だと言っているのだ、教主様はご浄霊を否定している—これらの声が私の耳に届いてまいりました。間違ってはいけません—ご浄霊は二の問題だとおっしゃったのは、明主様です。
教主様のことを批判し、拒否してもよいでしょう。当然のことながら、私のことを批判し、拒否してもよいでしょう。しかし、明主様とその聖言は、いかなることがあろうと拒否することは許されることではありません。
私は、必要な限り何度でも言います。「これから想念の世界である。御浄霊は二の問題」である—これを仰せになったのは、明主様です。
私たちに残された唯一の道は、この御言葉に真正面から向き合うことのみであります。明主様に向き合い、明主様のみ心を真正面から受け入れるのみであります。
浄霊を宗教活動の中心とし続けたいという自分たちの身勝手な願いにより、この御言葉に都合の良い解釈を加え、明主様の御言葉と願いに反し続けること—私たちはこれだけは絶対にしてはなりません。
前回のメッセージにおいて、私はこうも言いました—神様は、常に私たちの心を照らしている。神様の光が私たちの心を照らしてくださっているがゆえに、私たちの心に影が生まれる。だから私たちは、負の思いや感情を抱く。そして、私たちの役目は、感じたことを、素直に、ありのまま、神様の御手にお捧げすることである。
素直になるのは難しいことではないですか?ありのままの思いを捧げるのは難しいことではないですか?少なくとも、私にとっては難しいことです。
しかし私は思います。教主様のお言葉に反発し、聞き従わないことは許されるかもしれません。明主様の御言葉に反発し、聞き従わないことも、もしかしたら許されるかもしれません。しかし、神様の聖言葉に聞き従わないこと—これは、決して許されることではありません。
私たちは、すべての人々に対して不従順になることが許されていますが、神様だけは別です。私たちは、神に対してのみ、すべてのことにつき申し開きをしなければならず、また、神に、絶対的に従わなければならないのです。
私たちが心に何かを感じ、思っている。これは、まさにその瞬間、神様が私たちに対し、「今あなたがそのように感じ、思っているのは、私が、それらの感情や思いを救うためである。だからそれを、素直に私に預けなさい。メシアの御名を通して、預けなさい」とおっしゃっている時なのです。
私たちは、神様に対し、完全に従順にならなければならないのです。
明主様は「お念じしなさい」と聖言くださいました。教主様は、この真意は、日々の暮らしの中で生じる私たちのさまざまな思いや感情を、神様にお委ねすることの大切さをお説きになったものであるとお導きくださっています。
ここで私たちが考えなければならないことは、「私たちは、私たちの力、意志によって、思いや感情を神様にお委ねすることができるのかどうか」ということです。お委ねは、私たちの手柄なのでしょうか?私たちは、信仰を始め、あらゆる「行い」をする力を持っているのでしょうか?
答えは、「否」です。
私たちは、神様のお許しがなければ、思いをお委ねすることも、何かを実践することもできないのです。神様の許しがあって初めて、私たちは、神様に心を向けること、また、お委ねをすることができるのです。さらに言えば、私たちは、神様のご許可がなければ、何もできない存在なのです。
考え、感じ、祈り、委ね、感謝し、信仰する—これらすべて、私たちは自分の力でなすことはできないのです。
私たちが神様を信じているのは、神様がそのように定められたから。神様を信じない方々も、神様がそのように定められたから。
それとも私たちは、自分はこれだけ実践している、とか、自分はこれだけ神様を信じていると言いながら、自分自身と他人を裁いていたあの古い信仰の時代に逆戻りしようとでもいうのでしょうか。
もちろん、神様にさまざまな思いをお委ねすること自体は否定されるべきものではありません。しかし、ひとたび「お委ね」を実践している主体が人間になり、神様のみ旨によってのみそのことが許されていることを忘れるならば、私たちは、「私はすべての思いをもれなくお委ねしている。皆さんはどうですか?」とか「私は想念を通しての浄霊をしっかりと受けている。あなたはいかがですか?」ということを言い出してしまうのではないでしょうか。
実践をしていない方々は、私たちよりも劣った存在なのですか?私たちは、お委ねをしていない方々よりも優った存在なのですか?私たちは、自分たちの行いを誇るのですか?実践していない方々を裁きの目で見るのですか?実践、行いをしている私たちは、より神様に近い存在なのですか?
実践している主体は、私たちではないのです。お委ねができるのは、私たちの意志によってではないのです。
もし私たちに、「お委ねをしなければならない」という気持ちが湧いてきたとしたら、それは、あくまでも、まず、神様が、私たちに対し、「今あなたの心にある思いを私に委ねてもよい」とおっしゃってくださっているからです。
しかし問題は、私たちには、その神様の声が聴こえないのです。聴こえないがゆえに、私たちは、あたかも自分の自由意志によってお委ねをしていると錯覚してしまうのです。
私たちは、自分はこういうお祈りをしているとか、一日に何度も神様にお祈りしているとか言いますが、そもそも、言葉は私たちのものですか?お祈りを捧げている心—これは私たちのものですか?これらは、神様に属するものではないのですか?
言葉は神様のものであると認めること。これが何より大切なことなのです。祈りがあたかも人間のものであると思い、美しい言葉で祈るより大切なことなのです。
また私たちは、朝夕拝を家庭や教会で行いますね。では、これらの参拝は、私たちの意志によって行われているのですか?参拝は、私たちが行いたいから行われているのですか?決してそうではありません。
毎朝、毎夕、神様は私たちに対して、「あなた方は私に心を向けてもよろしい」とおっしゃっている。だから私たちは参拝をしなければならないと感じるのです。だから私たちの足は、毎日、毎朝、ご神前まで—神様である天の父のところまで—私たちの体を運んでくれるのです。
神様が声をかけてくださらなければ、神様のお許しがなければ、私たちは、何一つ行うことはできない。
神に比べ人間の力がいかに弱いものであるか、明主様は私たちに繰り返し警告してくださったのではないですか?
私たちは、神様のみ前においてどこまでも無力なのです。神によって義とされるのは、私たちの行いによってではありません。神がすべてを治めておられると認めること、そして、心を尽くして神にお仕えすること—それこそが神によって義としていただくことです。
聖書にあるように、「あなたがたの言葉は、ただ、しかり、しかり、否、否、であるべきだ。それ以上に出ることは、悪から来るのである」(「マタイによる福音書」第5章37節)、つまり、私たちには、神様に対し、「はい」か「いいえ」を言うしか選択肢はないのです。
ですから、負の感情や思いが湧いてきた時、私たちは神様に対し、メシアの御名にあって、「はい」とお返事させていただくしかないのです。なぜなら、たとえ私たちにはその声が聴こえないとしても、神様は私たちに、「その感情や思いを私に委ねてくれるかい?」と訊いてきてくださっているのですから。
なんとありがたいことでしょう。神様は、私たちを、語りかけるに足る存在だと思ってくださっているのです。
もし私たちが神様のみ前に無力であるとしたら、私たちは力の限り生きる必要はないということでしょうか?もし神様がすべてをなさっているのだとしたら、手抜きをしたり、人間としてできる限りの努力をしないことは、許され、見逃されるのでしょうか?決してそうではありません。むしろ反対であります。
神様は、私たちのために、いつだって、力の限り働いてくださっております。常に私たちに語りかけ、私たちを正しい方向に導いてくださっております。
もし神様が力の限り働いておられるならば、私たちもそのようにすべきではないのですか?なぜなら、私たちは神に近づかなければならない存在だから。神と一つになり、真の救いを得なければならない存在だから。
皆様。神様のみ力を決して見くびってはなりません。神様は、必ず、必ず、私たちの心を新しくし、人は神様の子供として再び生まれることが運命づけられていることを、すべての人々にお知らせになるのです。神様は、これを、必ず成し遂げられます。
このたび教主様を非難し拒否した方々も、今、他の宗教を信じている方々も、また、神様という存在を全く信じていない方々も、すべての人々が、もれなく、今私たちが知るに至った福音を受け入れる時が来るのです。
私たち人間が今何をしていようと、何を信じていようと、神様は、必ずご自身のみ旨を成し遂げられ、全人類を、メシアの御名にあって一つとされるのです。その日は、必ず来るのです。
私たちにできること。それは、「はい」か「いいえ」のどちらかのお返事をさせていただくことのみであります。全人類を救うという、この神様の救いのプロジェクトに参加したいか否か、お返事をするのみであります。
ですから、今まで、自分たちの力で、祈り、実践し、委ね、浄霊し、人に話したり、人の話を聞いたり、考えたり、感じたり、生きることができると思っていたことを悔い改め、その悔い改めの心を持って、最も神聖で力ある御名であるメシアの御名を通して、神様に、心と力を尽くしてお仕えさせていただきましょう。
神様に、ただ神様お一方に、すべての賞賛が帰されますように。