PDF: 新穀感謝祭_真明様ご挨拶_「決断の時」
2020年新穀感謝祭真明様聖言のポルトガル語朗読版は、こちらからご覧いただけます。

「決断の時」

於:本部ご神前

 

皆様、おはようございます。
 今日は121日ですけれども、今年もあと1か月ということで、今年も色々ありましたね。コロナはまだ続いておりますし、本当に色んなことがあった一年でした。
 ご神業においては、目覚ましい進展というのでしょうか、本年24日には、明主様が70年前にお付けになった「世界メシア教」という名前が復活しました。これは明主様が、人類を救うためにどうしても必要があってこの名前を付けられて、しかし明主様ご昇天後、たった2年で世界救世教に変わってしまったわけですけれども、それから63年経った今年、その世界メシア教が皆様方の手によって復活した。
 そういう意味において、今年は、メシア教の私たちだけではなくて、人類の救いにとって本当に人類史に残る一年であったと言っても過言ではないと思います。
 これを成し遂げられた皆様方の功績は、地上ではもちろんですけれども、天上において永遠に残るものであると思います。ですので、年末の今、本当にそのような素晴らしいことにわった皆様方に、改めて、お祝いの言葉を述べたいと思います。本当におめでとうございました。
 もちろん、世界メシア教という名前も大切なんですけれども、私たちが求めているのは、そこに込められた明主様のみ心、世界メシア教を開教された明主様のみ心、これが最も大切なものであるということで、これが何なのかというと、世界メシア教開教の時に、私は何度も言っておりますけれども、明主様がインタビューをお受けになって、この時に、世界メシア教の世界的な意義は何ですかと明主様は問われるわけですが、これは、大きな質問ですよ、世界メシア教が世界で存在する意義は何なのかという問いですから。この問いに対する明主様のお答えというのは、世界メシア教にとって中核をなすもの──以前私は、これはいわば教団方針とも言いましたけれども──中核をなすべきものですね。
 で、明主様は何とおっしゃったかというと、私は信仰によって人類を幸福に導きたいんだ、しかし西洋にはキリスト教があって、イエス・キリストが言っていることは自分が言っていることと最も近い、だから私は、わが新教は、このキリスト教と呼応して人類の善導と救済に全智全能をあげて働いてゆきたいんだ、とおっしゃった。明主様は、人類を救って良い方向にもっていく、これをキリスト教と呼応して成し遂げたい、そして、それに全智全能をあげて働いてゆきたいんだとおっしゃった。
 これは、当時の世界メシア教の教団方針とも言うべきものであったのかもしれませんけれども、今の私たちもそのごとく受け止めなければならない、重大な言葉だと思います。
 ということで今年一年、世界メシア教が復活してから、一見コロナでご神業がげられていたようですけれども、色んなことが進んで、本当に、キリスト教と呼応するということが目に見える形でどんどん進んで、そして、皆様は、「メシア教というのはキリスト教に近づいていってるじゃないか」というふうに思うかもしれないけれども、これが実は、私たちの思いで勝手に進めているのではない。
 なぜかというと、これも明主様が、メシア教を開教されたころですが、一番弟子の中島一斎先生が突然亡くなられるんですけれども、その時明主様は、「メシア教はよほどキリスト教に近くなる。いずれはそうなるべきだが、ようやく時期が来たのである」とおっしゃったんですね。
 メシア教はキリスト教によほど近くなる。いずれはそうなるべきだが、ようやく時期が来たのである。明主様は、このことを70年前におっしゃったわけですが、70年経って、今の私たちは、果たしてどれほどキリスト教に近づいたと言えるのでしょうか。むしろ、下手をすると、キリスト教に近づくどころか、何か、社会に受け入れられる活動が重視されて、そもそも宗教でもないかのようになりかけていたのではないですか?
 そしてまたこれが、教主様が一方的にされたというより、教団の色々な混乱の中で自然とそういう状況になったということは、やはり、明主様はもう70年も前にそのことをおっしゃっていたんだけれども、私たちはそのみ心にお応えしていない、でも明主様は、なんとしてもご自分のみ心をご自分の信徒に託されたいということで、今年メシア教が復活することもできたし、また、「キリスト教と呼応する」とか「キリスト教に近くなる」というような形でご神業がどんどん進んでいる、もの凄いスピードで進んでいると、そういうことではないのでしょうか。
 しかし私たちは、長いことそのようなあり方で歩んでこなかったがゆえに、今の進み方が、私たちが今まで理解してきた明主様信仰、明主様のご神業のありようと違うということで、今進んでいる方向に対して、受け入れがたい、納得いかない、ついていけない、という思いも私たちの中にはあるのかもしれません。
 確かにそれは、今日まで、今進んでいるようなご神業を私たちはしていなかったので、やむを得ないことだと思います。
 でも今、教主様のもとで、明主様の本当のみ心を成し遂げるべく歩んでいる、これは本当に幸運なことであり、また、その一年を皆様と共に過ごせて、本当にありがたいことであったなと思っております。
 その、受け入れがたい、納得がいかないという思いが湧く中にあって、特に、この聖言をご存じの方もいらっしゃると思いますけれども、明主様は、イエスはい主で、自分は赦し主である、とおっしゃったものがあるんですね。
 贖い主というのは罪の赦しをうほう。神様に、赦してくださいと言うほう。明主様は、赦しを乞うほうではなくて赦すほうだから、赦し主。だから私はイエスより上なんだと、そういう表現ですね。こういう聖言が確かにあって、これに引っかかられている方もいるのではないのかなと思うわけですね、私は。
 今日まで私たちは、この聖言を「イエスやキリスト教と呼応するといっても、明主様は赦し主でイエスはただの贖い主なんだから、明主様のほうが上なんだ」ということを主張するためだけに利用してきたのではないでしょうか。
 でも、そもそも、ここで明主様は、少なくともイエスを贖い主と認めていらっしゃるのに、私たちはこの聖言を、単純に、明主様のほうが上なんだという意味でしか受けとめずに、「イエスは贖い主なのですね。受け入れます。認めます」ということを言わないままここまで来てしまったんだけれども、今年、教主様によって、明主様がそのように認めていらっしゃるんだから、まずはイエスを贖い主として認めなさいと、そこに至ることが許されつつありますね、私たちは。
 そうなると私たちは、「イエスを贖い主として認めました。明主様は赦し主ですね。これからは、贖い主のイエスと赦し主であり救世主の明主様の二人が手を取り合って人類救済は進んでいくのですね!」と言えるのかというと、単純にそういう話でもないんですね、これが。
 というのは、キリスト教徒はイエスをただの贖い主だとは思っていませんよ。キリスト教徒は、イエスのことを、贖い主であり赦し主であり救い主であると信じている。
 皆様もご存じだと思いますけれども、よくテレビとか映画で、「懺悔」と言って、罪の告白を神父さんとかにする。そうすると神父さんは、「イエス・キリストの名によってあなたの罪は赦された」みたいなことを言うわけですが、ということは、キリスト教徒はイエスを赦し主だと信じているから、自分の罪を打ち明けてそれを赦してもらおうとしているわけですね。
 『聖書』にも、イエスが赦し主だと示すちょっと劇的なエピソードがあるんですけれども、それは、イエスがある街に行った時に、イエスが来たということで、イエスが居た家に色んな人が集まってきた。そこでイエスは教えをべたりしておられて、その時に、中風という──半身不随になる病気みたいですけれども──その病気を持った人とその周りの人たちとが話し合って、「イエスが来たなら病気を治してもらえるかもしれない」ということで、半身不随なのでベッドに寝たまま、その人をイエスのもとに4人掛かりで連れて行くんですね、ベッドごと、布団ごと。
 それで、ようやくイエスがいる家までたどり着いて、イエスにしてもらおうと思ったら、イエスの周りの人だかりが多すぎて家の中にも入れない。それでどうしたかというと、具体的にどういう方法を取ったのかは分かりませんけれども、とにかく、ベッドごと、ベッドごとですよ、半身不随の人を屋根の上まで持ち上げて、そして、イエスはだいたいこの辺りにいるだろうというめどをつけて、そこの瓦とかをはがして、そしてその人物をつり下ろしたんですよ、イエスのもとに。
 イエスがたくさんの人を癒したり教えを説いたりしていたら、突然、上から、半身不随の人がベッドごとつり下ろされてきたということで、すごい状況ですね。
 そこでイエスはどうしたかというと、「子よ、あなたの罪はゆるされた」と言うんですね、その人物に対して。そうしたら、そこに、パリサイといって、ユダヤ教の教えに詳しい人が何人かいて、「罪の赦しを与えることができるのは神様だけだ、イエスは神を冒涜している」と心の中で思うんですね。するとイエスは、パリサイ人が心の中でそう思っているのを感じ取られて、その人たちに対して、「私がこの人に対して、『あなたの罪はゆるされた』と言うのと、『起きて歩いて家に帰りなさい』と言うのとではどちらが楽だと思うのか」と言うんですね。で、イエスは、「でも、あなたたちが、人の子は」──というちょっと特殊な表現なんですけれども、これはイエスのことです──「あなたがたが、人の子は地上で罪をゆるす権威があると知るために」と言って、半身不随の人物に向かって、「立って、歩いて家に帰りなさい」と言うんですよ。すると突然、そのベッドで寝ていた人物がすっくと立ち上がって、そのまま神を讃えて家まで帰っていく、そしてそれを見た人たちが、いやなんと素晴らしい権能を神様はイエスに与えたんだろうという、そういうエピソードです、『聖書』にあるのは。
 何を言いたいかというと、とにかく、キリスト教徒にとっては、イエスは絶対に「赦し主」ですよ。だって、「あなたの罪はゆるされた」と言ったら、長い間寝たきりだった人物が、突然立って歩いて帰っちゃったんですよ、自分の家に。目撃した人はみんな本当にびっくりしたみたいですけれども。
 だから、どんなに私たちが、「イエスは赦し主ではなく、ただの贖い主なんですよ。赦し主は明主様なんですよ」と言ったとしても、キリスト教徒は絶対受け入れませんよ、それは。というのは、『聖書』というのはキリスト教徒にとっては絶対ですから、「『聖書』のこのエピソードは嘘だと言うのか」ということになって、もし私たちのほうも、「いや聖言にこう書いてある」ということになれば、もうずっと平行線ですよ。お互いがお互いに「いや違う」「いや違う」と言い合うだけで、何百年、何千年経っても交わり合うことはなく、明主様がおっしゃっている、キリスト教と呼応するとか万教帰一とか人類救済とか、それらのことは絶対に成し遂げられません。何百年も、お互いがお互いの主張をずっとしていくだけでね。
 だから本当は、明主様が、一方で、「イエスは贖い主で私は赦し主である」とおっしゃって、もう一方で、「キリスト教と呼応する」とか「よほどキリスト教に近くなる」とおっしゃっているということは、実はそこに矛盾があるわけです。他にも明主様は、「地上天国建設」とおっしゃりながら「地上天国が心に在り(地上天国在吾心)」という御書を書かれたように、二つのことをおっしゃっている。だから私たちには、自分にとって理解しやすい聖言だけを取捨選択するのではなく、この一見矛盾とも取れることをどう理解するのかということが実は求められているわけですね。
 でも今まで私たちは、このような矛盾が存在しているにもかかわらず、実際は、「キリスト教と呼応する」という聖言は一旦置いておいて、「とにかくイエスより明主様のほうが偉いんだから」ということで、「イエスは贖い主で明主様は赦し主である」というこちらの聖言だけしか存在していないかのようにして、そして、自分たちの信仰を正当化してきたと思います。また、キリスト教圏においては、そういうことを打ち出して布教していたし、しているかもしれない。ただ、日本においては、キリスト教徒の方たちがそもそも少ないから、イエスは誰で赦し主は誰、という話題になること自体があまりなかったと思います。
 さっき言った矛盾に対してどうするのかという中で、これが一つの選択肢ですね、「キリスト教と呼応する」というのを一旦横に置いておいて、もう一つだけの御教え、聖言を取る、これですね。
 しかし、一つ言っておかなければならないのは、この方法で進む場合、私たちは、キリスト教徒に対して、「『聖書』は間違ってるんですよ」「懺悔をしてイエスに罪の赦しを求めてきた人たちの行動は全部意味がなかったんですよ」「イエスを赦し主だと認識しているキリスト教の歴史、これは全部間違いなんですよ」と言わなければならない。
 皆様方は、世界に20億いると言われるキリスト教徒全部が、「『聖書』は間違いでした」「イエスが半身不随の人を癒したエピソードは嘘でした」「イエスに罪の赦しを乞うてきたキリスト教の歴史は全部嘘でした」というふうになると本当に思っていますか?私は、そういうふうになるとは、到底思えません。
 今話している矛盾に対するもう一つのあり方としては、それらに全部触れない、というあり方ですね。要は、赦し主とか贖い主という問題については、ただ、内部的に、イエスはただの贖い主で明主様は赦し主なんだ、明主様はイエスより上なんだということにしておいて、外の社会に対してはそのことを隠す。そして、浄霊の奇蹟だとか、農業の活動とか芸術活動とか、それが明主様信仰なんだとする、こういうあり方ですね。贖い主とか救い主とか赦し主とか、その話題はややこしいし、キリスト教とも軋轢を生みたくないからこの話題は避けようと、そういうあり方ですね。実際日本においては、ほとんどそういうふうにしてきたのではないのかなと思います。
 それで、今話している二つの聖言のこの矛盾と言いますか、それに対してどうするのかということについて、私が信じる道というのがあります。
 これはもちろん、教主様のご教導によってそれを信じるに至ったんですけれども、私は、その道を信じていると同時に、それが絶対の真理であると確信しています。
 それは何かというと、贖い主とか赦し主とか救い主と言っても、その「」というのは、結局、神様のことである、ということです。
 赦すのも神様であり、救うのも神様であり、また、贖い主だから神様にお詫びすると言っても、お詫びする気持ちを起こさせるのも神様ですよ。だから、贖い主と言っても、救い主と言っても、赦し主と言っても、それは、神様お一人のことです。
 明主様が、イエスが贖い主で自分は赦し主だとおっしゃったとしても、お二人とも神様のもとに一つなわけですから、「イエスと明主様、二人は神様のもとに一つ」「キリストとメシア、二つは神様のもとに一つ」ですね。だから、そこに本当は上下はないわけです。
 そんなことを言うけど証拠はあるのか、とおっしゃりたいと思いますけれども、証拠はあるんですね。証拠はある。
 それは、先月も話したように、明主様がメシアの定義を聞かれた時に、それは、二十世紀前半までははっきりと定まっていなかった、だけど、いよいよこれから神様の力が発現される、現れてくるんだ、西洋では、キリストもさぞや本来の実力を発揮するだろうとおっしゃった──神様が力を発現すると、キリストもさぞや本来の実力を発揮するであろう、ですよ。
 そして、東洋ではやはりメシアだと思うとおっしゃって、その後に、「従来のような宗教的観念ではとうてい理解できない」とおっしゃった。「従来の宗教的観念」でのメシアの定義は何かと言ったら、「誰々だけがメシアである」とか、「誰が上で誰が下だ」とか、そういうことですよ。
 だけど明主様は、「従来のような宗教的観念ではとうてい理解できない」とおっしゃって、そして、神様が力を現したら、キリストも力を発揮するし、メシアも力を発揮するんだとおっしゃるということは、これは明主様が、イエスとご自分は、神のもとに二人で一つであると思っていらっしゃるからですよ。
 あるいは、明主様の御歌で、これは、『朝夕拝の御讃歌』にあるので皆様もご存じかもしれませんけれども、「ハレルヤの歓呼の直中に静かに天降るメシアキリスト」というのがあります。
 これは私は、「メシア」と「キリスト」という二つの存在が、それぞれ別々に天からってくる光景をお詠みになったものではないと思いますよ。そうではなくて、メシアでありキリスト、二つ合わせて一つである神様の霊が天から降っていることを聖言くださっているのではないですか?そのように明主様は認識していらっしゃったから、静かに天降る「メシアキリスト」とおっしゃったのではないですか?
 だからこれは、大変な御歌だと思います。
 ではその「メシアキリスト」という神様の霊がどこに降っているのかというと、私たちは、それは私たちの中に降っているということを今教主様からお聞きして、そしてそれを信じている、ということですね。
 ではもし私たちが、キリスト教徒などに、「メシアでありキリストである神様の魂が自分に降っている」と言えば、これはどういう話になるかというと、「ということはあなたは『キリストの再臨』ですか?」と、こうなるわけです、普通。
 「キリストの再臨」というのは、日本人にとってはあまりなじみがないかもしれませんけれども、明主様は「キリストの再臨」について様々べておられます。
 その一つひとつの聖言の意味というのは、いわば「奥義中の奥義」になりますので、この場でそれを一つひとつ紐解いていくと少し時間がかかってしまうんですけれども、でも、少なくとも、「キリストの再臨」に関わる御歌の中でこういうのがあるんですね。それは、「キリストの信徒達も慌てなむ待ちに待ちたる再臨の時」。キリストの再臨の時がいよいよ来た、だからキリストの信徒たちも慌てるだろうと、そういう御歌ですね。
 明主様は、「キリストの信徒達『も』慌てなむ」とおっしゃっていますよ。キリストの信徒たち「も」驚くということは、まず、最初に誰かが驚いたことを想定していらっしゃいますよ。それは誰かというと、私たちしかいないんじゃないですか?キリスト教の信徒たち「も」慌てるけれど、まず、誰が慌てるんですか?私たちですね。自分たちの信徒は当然驚くけれど、キリスト教徒「も」一緒に慌てますよ、とおっしゃっている。
 私たちは、教主様から、「あなた方一人ひとりの中にメシア、キリストの魂がある」と言われて、今まで一度でも慌てたことがあっただろうか。慌てるということよりも、何か、このことは自分は受け入れられるとか受け入れられないとか、明主様の聖言にあるのかないのかとか、信じられるとか信じられないとか、それくらいの感覚だったのではないでしょうか。
 しかし本当は、「キリストの再臨」ということは、キリストの魂──キリストとメシアは一つということですが──キリストの魂が再び自分にってくる、宿っているということ、これは本当は慌てるべきことなんですね。
 確かに、「キリストの再臨」について明主様は種々おっしゃっております。キリストはイエスの前に出た存在だとか、特殊な霊が、ある人間に降るとか、様々おっしゃっておりますけれども、でも、キリスト教徒も慌てるとおっしゃるわけですから、もし明主様のおっしゃる「キリストの再臨」が、キリスト教徒の言う「キリストの再臨」と全然違う内容だったら、キリスト教徒は全然慌てませんよ。
 私たち独自の「キリストの再臨観」みたいなものをただ持っていても、キリスト教の人たちとしては、また一般の世の中の人にとっても、何かそういう変わった思想を持った、変なグループがあるんだな、ということで終わりですよ。
 でももし、キリスト教徒に、「あなた方の言う、その『キリストの再臨』がまさにもう来てるんですよ、来たんですよ」と言ったら、それは少しは慌てると思いますよ。
 でもそういうことを言うと──話が色々展開して申し訳ないんですけれども──次の流れとしては、「キリスト」の問題があるんですね。誰かが、「自分はキリストの再臨だ」と言うと、それは普通、「偽キリスト」であると、そういうことですね。
 だから、世の中に対して、キリスト教徒に対して、「キリストの再臨は明主様である」と言えば、「いやそれは偽キリストですね」と確実になってしまうんですけれども、私たちは、明主様だけが「キリストの再臨」だと言っているんじゃないんです。
 明主様だけではなくて、明主様の信徒である私たちも、そしてまたキリスト教徒も、みんな「キリストの再臨」なんだ、ということなんですよ。だから、特定の人物が「キリストの再臨」だと言えば、当然それは「偽キリスト」ということになりますけれども、全人類、全人類漏れなく、一人ひとり、全員の中で「キリストの再臨」が成し遂げられていて、今、天から降った霊──明主様が「メシアキリスト」と呼ばれた霊──が宿っている、静かに天降っている。私たちが気が付かない間に天降ってしまったわけです、「静かに天降る」だから。「静かに天降る」というのは独特の表現ですね、私たちが気が付かない間に来ていらっしゃるよということだと思いますけれども。
 でもそのことも、普通で言えば、「いや、キリストの再臨は明主様だけだ」と私に言いたい人にとっては、今私が言っていることの証拠はあるのか、明主様だけではなく、私たちにもキリストが再臨している証拠があるのか、というと、これがあるんですね。証拠はある。
 皆様もよくご存じだと思いますけれども、明主様が信徒との御面会の折に、信徒は色々お伺いをしますね、明主様に。その時に、ある信徒が、イエスのことに関連してお伺いをするのですが、その時明主様は、キリストの贖罪というのは、万人の罪を一身に引き受けてわれたので、その大愛に対して、私たちはイエスに感謝して礼拝し祈るのだ。だけど、今まではそれでよかったが、もうその必要はなくなった、特に、メシア教の信者になれば、もうその必要はなくなった。なぜなら、キリストはもはや再臨されたからであるとおっしゃるんですよ、明主様が。そして明主様は、これには深い神意がある、いずれ詳しく説く、とおっしゃっているんですね。
 明主様は、普通私たちは、キリストの贖罪に対して、「私たちの罪を引き受けて償ってくださってありがとうございます」としなきゃいけないんだけれども、メシア教の信者になったらそれは必要ないんだ、なぜならキリストはもはや再臨されたからであると、こうおっしゃった。
 だから私たちは、普通、イエス・キリストの贖罪に対して、感謝してんでお祈りしなければいけないんだけれども、もし自分が「キリストの再臨」という姿であることを受け入れるならば、もう拝んで祈る必要はないですよね。だって自分が、そのものですよ。自分の本体そのものが、もうキリストの魂となるわけだから、もう、「罪をお赦しください」ではないんですよ、だって私たち自身が、そのものなんですから。
 しかも、明主様は、「私だけは拝む必要がない」とおっしゃっているのではなくて、「メシア教信者になれば、その必要はない」とおっしゃっているんですよ。ということは、メシア教信者の中にキリストが再臨していなければ、そのようなことをおっしゃるはずがないじゃないですか。明主様だけに再臨しているなら、「私を拝みなさい」とか、「あなた方は拝む必要があるけど、私は拝む必要はない」ということになりますけれども、そうではなくて、「メシア教信者になればもう拝む必要はない。なぜならキリストは再臨されたからだ」とおっしゃっているんですよ。そして、「これには深い神意がある」から、「いずれ詳しく説く」とおっしゃって、これは昭和26年の聖言ですけれども、結局、詳しく説かれないまま、今日まで来たんだけれども、この「深い神意」について、今、私たちは、教主様のもとでその手がかりをつかみ始めているのではないですか?
 本来、キリスト教徒にとっての「キリストの再臨」というのは、いつかキリストが再び戻ってきて、その時に、人間を、この人は善い人、この人は悪い人と言って分けて、悪い人を滅ぼして、そして、善い人だけで素晴らしい神の国を樹立するという、これが「キリストの再臨」なんですけれども、キリスト教徒はこれを待っているわけです。いつかキリストが再臨して、善い人たちだけの天国が樹立されるのを待っている。
 でも、私たちは、もう待ってないんですよ。もう自分の中には最高の神様の魂があって、そして、天国はもう樹立されたんだと、それを信じている。
 だから私たちは、キリスト教徒に対して、「確かにイエスは贖い主であり、救い主であり、赦し主です」と言っていいんですよ。でもそれだけではなくて、私たちがキリスト教徒に言わなければならないのは、「だけどあなた方には『キリストの再臨』の問題が残されていますよ」「天国樹立の問題が残されていますよ」と、そういうことになるわけです。
 「メシア教徒の私たちはこれを信じてるんだ」「私たちの中に、もうキリストは再臨した、天国は樹立している。そして、あなた方キリスト教徒の中にも、あなた方が待ちに待っている『キリストの再臨』、待ちに待っている天国、それはもう来たんだ」「だから、何か自分の醜い思いがあったとしても、それを赦していただかなければいけない、ということをずっとしなくていいんです」「なぜそういう醜い思いが湧くのかというと、もう天国が来た、来たから、それを知らない多くの人たちが私たちの中にいて、『天国の救いにりたい』として、私たちの心に集まってきているじゃないか」「私たちは、これから、より良い世の中を造っていくのではないんだ。もちろん最終的にはそうなるんだけれども、ただ天国を待ち望みながら、世の中には色々な問題があるなと言っているだけではないんだ」「なぜなら、すでに、私たちの中に、理想世界であり、地上天国であり、最高の世界ができているんだ」「できているから、そこに何とか入りたい、その天国の救いに触れたいと思って、世の中の色々な問題も起きているし、また、私たちの心に多くの思いが集まってくるんだ」「私たちの中には、すでに最高の救いであり光がある。最高の救いがあるなら、それを求めて多くの人が来るに決まっているじゃないか、きれいな場所には誰でも行きたいじゃないか」と、こうキリスト教徒に私たちは言えるんです。
 だから、キリスト教徒も含めて、普通、世の中の人たちは、「いや、世の中、少しずつ、だんだん調和ある世界にならないかな。そのために努力をしていかなければいけない」と思っている。でも私たちはそうではないんです。明主様がおっしゃっているように、私たちの中に、神様の大調和がある、神様の調和ある世界がうち立てられている、ということなんですね。
 というように、本当に、キリスト教徒では到達し得なかった、成し遂げられなかった、最高で最後の救い──人類にとって最高で最後の救い──を私たちは知らされて、そしてそれを今、神様から託されている。
 だからそう考えると、なぜ明主様は、「イエスは贖い主で私は赦し主である」と言われたのかというと、それは圧倒的な自負心からそうおっしゃったんだと思いますよ、私は。最高で最後の救いを託されたご自分の使命の大きさへの自負心からそうおっしゃったのだと思います。
 確かに、キリスト教では成し遂げられなかったかもしれないけれども、でも本当は、イエスご自身は、赦し主のひな型をされていた。だから、イエスが上だとか、明主様が上だとか、そういうスケールの小さな話じゃないんです、本来は。
 だから、本当に、「キリスト教と呼応する」とか「よほど近くなる」とか、その他キリスト教に関わることで色んな思いが湧いてきたとしても、明主様は「従来のような宗教的観念ではとうてい理解できない」とおっしゃって、また、神様が力を発現するとイエス・キリストも力を発揮するとか「メシアキリスト」という表現とか、そのような聖言を私たちは今まで全然理解できなかったんだけれども、今、教主様によって、私たちは明主様の本当の願いを知るに至ったわけですから、今年も残すところあとちょうど1か月、なんとなく年を越してしまうのではなくて──キリスト教と呼応するとか、キリスト教に近づくということにモヤモヤした思いを持ったままなんとなく年を越してしまうのではなくて──もうそういう思いに、今日終止符を打っていただけたら一番良いんだけれども、今年もまだあと1か月ありますので、自分の気持ちを見つめて、整理して、そして今年中にぜひ終止符を打っていただきたいと思います。
 というのは、そうでなければ、私たちは、また昔の信仰に戻りたいんですか?戻らないですよね。私たちは、もうこの道を歩くことは決心した。そうであるならば、自分の中にある中途半端な思い──積み残してある思い、心の中にある迷い、納得いかないとか、なかなかついていけないという思い──そういうものを引きずったまま年を越してしまうのではなくて、また来年から素晴らしいご神業がどんどんどんどん進んでいくわけですから、自分の中で、はっきりと、「今歩んでいる道が明主様のの救いの道です」と断言して、大いなる希望をもって歩んでいくということを決心していただきたいですし、また、その皆様と、今日から、また来年も、歩んでいくことを本当に楽しみにしております。

 

私たちは、最初、誰もが、ご浄霊の奇蹟によって明主様とご縁をいただいて、今ここにいるわけですよね。そして、それは絶対否定するものではない。なぜなら、神様がそのような恵みを与えてくださったわけですから。
 でも、明主様が最晩年にメシアとして新しくお生まれになった時、これを明主様は何と表現されたのかというと、これは「奇蹟以上の奇蹟」なんだとおっしゃったんですね。碧雲荘に幹部の方たちをお呼びになってメシア降誕の言葉を宣べられた時、「奇蹟以上の奇蹟」とおっしゃった。でも、その時苦しまれていた脳溢血という症状に対しては、別に奇蹟は起こってなかったんですよ。その痛みは続いていらしたし、またその脳溢血も治らないまま、翌年ご昇天になった。
 だから、私たちがいただいたご浄霊による最初の奇蹟、これは要は、人間の命の奇蹟でしたよね。命を失いかけていたり、身体が苦しかったりしたけれども、それが治って、人間の命、人間の健康をいただいた。この世の命、この世の健康をいただいた。だけど、「奇蹟以上の奇蹟」ということは、今度は、人間の命ではなくて、永遠の命をいただいたということなんです。
 最初のご浄霊による奇蹟は、人間の命への奇蹟。「奇蹟以上の奇蹟」は、永遠の命への奇蹟。明主様は、その「最高の奇蹟」を最晩年に私たちに遺してくださったんです。その「最高の奇蹟」が起こっても、明主様のご病気が治らなかったように、私たちも、このことを聞いても、何も変化を感じないですよね、ただ、「そういうことなんだ」と思うくらいで。でも、それを明主様は「奇蹟以上の奇蹟」とおっしゃった。
 私たちは、最初のご浄霊の奇蹟をいただいた時、本当に喜んだと思います。ノルマだとか、どうやって人に伝えたらいいですかとか、そんなことは考えもしなかったと思いますよ。命をいただいたあふれる喜びで、「こういう素晴らしいことがあるんです」ということで、みんなに知ってほしい、伝えたい、と思ったと思います。
 でも今は、それを遥かにる永遠の命の「奇蹟以上の奇蹟」を知らされたんです、私たちは。最初の肉体の奇蹟をいただいた時の喜びを遥かにしのぐ奇蹟、最高の奇蹟をいただいているんです、本当はね。「キリストの再臨」とか、ハレルヤの歓呼の中にってくる神様の霊とか、それが自分の中に、あるんですよ。神様の魂が、天国が、来てしまったんです、私たちの中に。人類が求めてやまないもの、キリスト教徒が求めてやまないもの、それがもう私たちの中に、全人類の中に、あるんです。
 私たちは、それを知らされた。だから、これはもう、どうやって伝えるかということを超えて、もう「何としても伝えたい」というふうな思いが湧くべきものなんだけれどもね、だけどそれは、本当に、もうこの救いを全人類が受けることは定まっている、定まっているので、本当の奇蹟を知らされた私たちの喜び──「キリストの再臨」はもう来た、天国はもう来た、という喜び──その喜びの波動によって、多くの人を、一人、また一人と神様がきっと引き寄せてくださって、そして本当に、人類すべてが、メシアの御名にあって、明主様と、またイエスと、また私たちと共に、神様の御許で一つになるという日が、必ず、必ず来る、というふうに私は確信しております。
 ありがとうございました。

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