PDF: 教主様との出会い_アフォンソ本部長

 

教主の座 アンゴラ世界救世教
 アフォンソ本部長

 

私は、アフォンソ・キフタ・ペレイラと申します。53歳。信仰歴24年です。アンゴラ北部にあるウイジェ州に、キリスト教を信仰している家族のもとに生まれました。
 私と私の兄弟は、小さいときから、祈ること、教会に参拝すること、教会での説教をきちんと聴くこと、良い行いをすること等が大切であると両親から教えられてきました。
 私は敬けんなキリスト教徒でしたが、私の家族──特に両親──は、長年病気に苦しめられていました。
 私は10人のうちの4番目の子でしたが、1980年代の中頃、私を含めた5人の兄弟は、より良い生活環境を求め、首都であるルアンダに移住しました。ルアンダでの新たな生活を始めるとすぐ、兄が体調を崩すようになりました。肋膜炎でした。
 この肋膜炎は慢性的なものであり、完治しないと医者に言われ、絶望した兄は、ありとあらゆる治療法を探し始めました。心霊療法を試したり、有名な民間療法士の家を訪ねたりするなど、できる限りのことをしましたが、病気は一向に改善しませんでした。
 次第に兄は、自殺を考えるようになりました。病気の苦しみに耐えられなくなっていたのです。しかし、私たち兄弟は、キリスト教の教会で、自殺をすることは大変な罪であると教えられてきたので、兄はどうしても自殺をすることができないようでした。
 そこで兄は、病の原因が分かるまで、断食することを決断しました。断食を開始してから3日目の夜、兄は夢を見ました。すでに他界していた祖母が現れ、「ルアンダ市内のローシャ・ピント地区に行きなさい。そこに、新しい教会があります。そこには、日本語で書かれた書物と、お花があります。あなたの病の解決の糸口は、そこにあります」と言ったというのです。
 早速、翌日──それは19953月のことでしたが──兄はローシャ・ピント地区に行き、日本に関係していると思われる教会を探し当てました。それは、明主様の教会でした。そこで兄は、最初のご浄霊をいただきました。その日の夜、兄は久しぶりにぐっすり眠ることができ、その教会にまた行きたいと思うようになったようでした。約2週間教会に通ったところ、兄の症状はだいぶ改善したのでした。
 兄が元気になっていくのを間近で見ていた私は、自分もその教会に行きたいと思うようになりました。私は、マラリアと胃腸の病気で常に苦しんでいたからです。教会に行くようになって間もなく、私の病気も治ってしまったのでした。
 当時、アンゴラの明主様の教会では、開拓布教が積極的に行われていましたが、入信できるのは、フランシスコ・フェルナンデス先生(シッキーニョ先生)が、入信式のため、年に一度だけアンゴラに来られるときでした。ですので、私と兄は、1996年の3月まで待ち、ようやく入信を許されたのです。
 入信が許され、すぐに頭に浮かんだのは、体調が優れない両親のことでした。1997年、アンゴラは激しい内戦の最中にありましたが、私は、両親と、また、両親につながる多くの方々に明主様のことを伝えようと、故郷のウイジェ州に戻ることにしました。しかし、翌1998年、内戦の余波がウイジェ州にも及んだため、私と両親を含め、ウイジェ州に残っていた家族全員で、首都のルアンダに移らなければならないことになりました。ルアンダに来てしばらくした199811月、両親と4人の兄弟、合わせて6人が入信のお許しをいただきました。
 私の父は、脳性マラリアをっていましたが、その苦しみがあまりにも長く続いたことにより、精神が錯乱状態にありました。しかし、入信後、その病は完治しました。それだけではなく、私たちは、私たち一家が長年苦しんでいたあらゆる健康上の問題から、神様と明主様の恵みにより解放されたのです。
 私は、より積極的に御用に打ち込むようになりました。1999年には、ルアンダ市内にあるサンビザンガ教会の副教会長に、そして2000年には、同教会の教会長の御用をいただきました。
 2004年、私は、アフリカにおける第二回資格検定において助師の資格を賜り、同時に、アンゴラ北部の布教区長の御用をいただきました。
 アンゴラの内戦は、20022月ごろから収まり始めたため、多くの地域で開拓布教をすることが可能となりました。幸運なことに、私は、アンゴラ北部のいくつかの教会の開所に関わることができました。
 そのころ、私をこの信仰に導いてくれた兄も、ウイジェ州の州都で開拓布教を始めました。私の両親はというと、ようやくウイジェ州の田舎にある故郷に戻ることができました。両親は読み書きができませんでしたが、そこで開拓布教にいそしみました。両親の布教によって信徒は次第に増え、ついにはその地域に教会を建設することができました。
 2007年、私はコンゴ民主共和国に派遣され、宣教担当の御用にお仕えさせていただくことになりました。翌2008年、再びアンゴラに戻り、今度は、アンゴラ西部の教区長の立場を拝命しました。
 2010年には、アンゴラの宣教部長とコンゴ民主共和国の副本部長に任命されました。同時に、教師補の資格も得ることができました。
 そのころから、コンゴ民主共和国の首都・キンシャサで研修を受けた布教師を通して、コンゴ共和国での布教も可能となっていきました。
 当時私は、アンゴラに住んでいましたが、コンゴ民主共和国での布教に積極的にわっていました。コンゴ民主共和国で最初に専従者となった5名に、直接「光明」をかけることも許されました。その中には、今年3月に帰幽した、コンゴ民主共和国ヴィキトル前本部長も含まれていました。布教は、首都のキンシャサで始まりましたが、明主様のみ光は、少しずつ近隣の地方へと広がっていきました。
 2017年、コンゴ民主共和国での本部建設の話が具体的に進むにつれ、私は、コンゴ民主共和国での御用をメインにしなければならなくなりました。アンゴラでいただいていた御用からは退き、コンゴ民主共和国に移住し、すべての時間をコンゴ民主共和国での布教に費やすことになりました。

 

アフリカ布教について語るならば、その先駆者であり、アフリカ布教の象徴でもあるフランシスコ・フェルナンデス先生(シッキーニョ先生)について触れないわけにはまいりません。私たちは、シッキーニョ先生のことを語るだけではなく、先生の理念を体現していかなければならないと考えています。
 私たちアフリカ信徒の信仰は、シッキーニョ先生によって形づくられました。そして、そのシッキーニョ先生が私たちにされた最も大切なもの、それは、「教主様の座を通して明主様にお仕えする信仰」です。シッキーニョ先生は、この信仰のことを私たちに繰り返しお説きになると同時に、教主様中心の信仰から外れることの危険さについて、ご自身の著書の中で、次のように、さまざまな形で私たちに警告をしてくださいました。

 

もし私が教主様を否定するようなことがあれば、それは私の気が狂ったときである。そのような私には絶対に従わないように。

 

教主様がいらっしゃらない明主様信仰は、明主様信仰ではない。教主様は、天界からのメッセージの伝達者であり、私たちに天国の福音を宣べ伝えてくださるお方です。天界にいらっしゃる明主様と私たち信徒をつないでくださるお方──それが教主様です。

 

教主様のお言葉は、明主様のお言葉そのものである。そこに、一切の差異は存在しない。

 

2018年に入りしばらくすると、私たちアフリカ信徒も、日本で内紛が起きていることを知るに至りました。それは、東方之光・МОAといづのめ教団が教主様を追い出そうとんでいる、というものでした。
 これは、アフリカの信徒にとっても極めて重大な問題でしたが、アフリカの執行部は、このことは大したことではないと信徒に思わせようとしていました。当時の本部長であったクラウジオ氏は、日本のことについて質問をされると、決まって、これは日本の問題であってそのうち解決する、私たちアフリカ信徒にとっては関係のないことだと、繰り返し話していました。
 日本からの情報が次々と明らかになるにつれ、私を含めた多くのアフリカ信徒は、自分たちの立場を明確にしなければならないと感じ始めました。しかし、クラウジオ氏は、日本で起きていることの事実を、あらゆる手段を使って隠そうとしていました。
 クラウジオ氏は、専従者や信徒が多く集まる全体会合のような場においては、私たちはこれからも教主様とつながっていくと言いながら(多くの専従者や信徒が教主様中心であることを察していたため)、その裏で、理事のメンバーには、「かに、教主様をめるようなことを専従者、本部職員や教会長に伝えていくように」と指示し、教主様の中傷キャンペーンを展開していたのです。
 そのような中、20187月、私はマラリアにりました。マラリアの症状は、何をしようと、まったく改善の様子が見られませんでした。マラリアがここまで長引くのは初めてのことでした。
 そのとき私の脳裏に浮かんだのは、「私は、いづのめ教団ではなく、教主様中心のいづのめ教区とつながらなければならないのだ」ということでした。そして私は、日本で何が起きているのかについてより詳しい情報を得るため、当時、いづのめ教区に所属していた日本の専従者と電話で話すことにしました。
 驚くべきことに、その専従者との会話を終えた後、マラリアは治ってしまったのでした。私は思いました。「これはきっと、教主様中心のいづのめ教区を通して、教主様のお心に触れさせていただいたからだ」と。
 20188月、私はコンゴ民主共和国からアンゴラに戻ることになりました。アンゴラに戻ってすぐ、クラウジオ氏と一対一で会うことにしました。私は彼に「アフリカは、特にアンゴラは、教主様を通して明主様につながる信仰がその基本である」ということを分かってほしかったのです。しかし彼は、私の話に聞く耳を持ちませんでした。
 そのとき私は、アンゴラの、専従者を中心としたグループから会ってほしいと言われていました。彼らが私に確認したいことはただ一つでした。それは、私が、「いかなる犠牲を払ってでも教主様に付いていく覚悟があるかどうか」、彼らはそれを私に確認したかったのです。
 クラウジオ氏とその執行部のもとでもはや信仰を続けることができないことがはっきりした以上、私たちは、教主様のもと、断固として歩んでいくことを決断しました。
 そして2018107日、「教主の座 アンゴラ世界救世教」として初めての月次祭を執り行うことになったのです。首都ルアンダ市内の5つの教会と、近隣の4つの州で同時に祭典を行うことができました。
 私たち「教主の座」の執行部は、ルアンダ市内の教主様中心の信徒の多さに驚きました。当初、私たちは、大体500名、多くても700名くらいの信徒が参拝に来るだろうと予想していました。しかし実際は、3500名を超える信徒が集まったのです。近隣の州と合わせると全部で6000名以上の信徒が「教主の座」の月次祭に参列しました。これは、私たちの予想を大きく上回るものでした。
 その後も、クラウジオ氏が、明主様信仰の基本である「教主様の座を通して明主様につながる」信念を捨て去り、また、数々の嘘をついていることが知られるにつれ、多くの専従者と信徒が教主様と共に歩む道を選択しました。
 アフリカにおいては、その布教のごく初期のころから、シッキーニョ先生が、「教主様を通して明主様につながる」ことの大切さを、繰り返し繰り返し、口を酸っぱくして私たちアフリカ信徒に教えてくださいました。
 「教主様を通して明主様につながる」。これは、アフリカ信徒のDNAに刻まれていることなのです。そしてこれは、いかなることがあろうとも取り除くことはできないのです。
 その現実を知っているクラウジオ氏は、教主様が「尾行・盗聴・盗撮」されたことなどの事実を、とにかく信徒から隠そうとしました。また、シッキーニョ先生がお伝えくださった理念をもはや捨て去ったことも、なに認めようとしませんでした。「教主様の座はメシアの座である」という理念です。
 クラウジオ氏は、地方の州に行くと、現実を知らない信徒が多くいることに乗じて、あろうことか、「私たちのほうこそ教主様を捨てた」という、事実とは正反対の嘘を伝えていました。しかし、真実は、常に、明らかになります。その後事実が異なることを知った信徒は、皆クラウジオ氏を見限り、教主様のご教導を通して明主様につながる道を歩むようになりました。
 このようにして、私たち「教主の座」グループに加わる信徒は増え続け、今、アンゴラ全土で、教主様の聖言を通して明主様のの救いを求める信徒は、約45000名います。全国18の州に183の教会があります。
 また、アンゴラ以外のアフリカ諸国11か国にも、「教主の座」につながる信徒がいます。コンゴ民主共和国、モザンビーク、コンゴ共和国、サントメプリンシペ、南アフリカ、ザンビア、シエラレオネ、ガーナ、リベリア、ナイジェリア、ベナンです。アンゴラと合わせ、アフリカ全土で、現在、約5万名の信徒が教主様のもとにおります。

 

忘れもしない201812月、アンゴラからの2名の教師、コンゴ民主共和国からの1名の教師と私を合わせた4名で日本にき、教主様に拝謁する許しを賜りました。
 このことが実現したのは、私たち4名だけではなく、アフリカ全土の信徒にとり、極めて意義深く、歴史的なことでありました。私は、今までの信仰生活の中で、このときほど感動したことはありません。説明し難い感情が湧き起こってきたのです。
 教主様に拝謁するのは、紛れもなく、明主様に拝謁することと同じである、そのように感じました。
 教主様、まゆみ奥様、教主様の後継者であられる真明様の持たれる、率直さ、親しみやすさ、謙譲の心、内側からあふれ出る喜びに触れさせていただけたことは、本当に、説明し難い思いを私の心にもたらしました。私はい思いに満たされたのです。
 私は、教主様にお会いしながら、「教主様のお言葉は、明主様のお言葉そのものである」「教主様の思い、想念、お姿は、明主様の思い、想念、お姿そのものである」というシッキーニョ先生のご指導が思い出されました。
 私は、まさに、教主様を通して明主様ご自身にお会いしていたのです。明主様ご在世当時、明主様に直接お会いした先達の方たちが、明主様に対して抱いていたのと同じ思いを経験することができたのです。
 明主様の信徒として、私が長年抱いてきた最大の悩みは、熱心なキリスト教徒である私の兄弟4人を、なんとしても明主様信仰に改宗させたいことでした。彼らとは、信仰の話になるといつも話がかみ合わず、会話をすること自体が難しくなっていきました。
 教主様とのご面会の場で、私は、明主様の救いの真の意味を、はっきりと理解することができました。それは、「聖なるメシアの御名をお受けし、神の子たるメシアとして新しく生まれること」です。そして、「いかなる宗教であっても、イエス・キリストと明主様を模範として仰がなければならない」ということです。
 今、教主様によって、万教帰一の道は大きく開かれ、今まで会話もままならなかったキリスト教徒の兄弟たちとも、普通に話せるようになってきました。それだけではなく、彼らとは、信仰上のことにつき、さまざまな点で同意することができるようになってきたのです。教主様のお導きのおかげで、私は、キリスト教の方々と、人類の救いに向かって、共に歩めるようになってきたのです。
 教主様により、「布教」というものが根本的に変わったとも感じています。今までは、すべてが人力によってなされた布教でした。そのような人間中心の信仰にわれていた私を救い出してくださった教主様には、感謝のしようもありません。
 以前の私は、浄霊等によって良い結果がもたらされたり、奇蹟をいただけることだけで満足していました。あたかも、自分が奇蹟を起こしているという錯覚にっていました。反対に、自分の願うような結果がいただけない場合、落ち込んだりしていました。
 今私は、そうではありません。教主様のご教導により、目覚めさせていただけたのです。私が何かをするのではない。あくまでも、神様が──天の父が──私たちをご自身の道具として使ってくださるのです。
 リーフレット「神様の子どもとなるために」は、明主様とイエス・キリスト、そして、私たちの宗教とキリスト教の関係について、明確にしてくださっています。このリーフレットに込められたメッセージがいかに大きなものか、心底実感しています。
 以前の私たちは、イエスを受け入れないもの、イエスに反対するもの、という目で見られ、開拓布教を行うことが非常に困難でした。今、この状況は完全に変わり、開拓布教が進めやすくなりました。これもすべて、教主様のお導きのおかげです。
 教主様は、明主様が示された真実の道を教えてくださり、私たちは、その明主様に倣うべき存在であるとご教導くださいました。
 私たちアフリカ全土の専従者と信徒は、教主様のご教導と真明様のご教示を、次のような想念で学ばせていただいております。「教主様のご教導と真明様のご教示を通して、明主様のみ心をお受けし、明主様が今、私たちに何を実践してほしいのかを理解する」ということです。このようなことができますのも、すべては、四代様であられる教主様のおかげです。
 今私たちは、ご神業の在り方を根本的に変えています。以前は、手をげるご浄霊が主でした。一週間に一度は、教会で、朝から晩まで浄霊をし続ける実践をしていました。目的は、大抵、問題解決のためでした。
 しかし教主様は、明主様が、浄霊は二の問題であって、これからは想念の世界であるとおっしゃったことを私たちに思い出させてくださいました。アフリカの私たちは今、この明主様の言葉を実践するよう努めています。明主様のみ心が、ここまではっきりと私たち信徒に伝えられたことが今まであったでしょうか。
 明主様の真実を明らかにしてくださる教主様に、明主様のみ心を理解させてくださり、その実践の道もお示しくださる教主様に、永遠なる感謝をお捧げします。
 今私は、改めて決心しています。これから、いかなることがあろうとも、教主様のお心から決して離れず、教主様と共に歩ませていただくことを。
 私の使命、それは、アンゴラの、そしてアフリカ全土の信徒が、教主様のご教導を心から理解し、実践すること。このために、これからも一心不乱に歩んでまいります。
 ありがとうございました。

 

『グローリー』No. 10, 2020/11月号掲載