PDF: 御生誕祭_真明様ご挨拶
2020年「世界メシア教 御生誕祭」真明様聖言のポルトガル語朗読版は、こちらからご覧いただけます。

於:グランドニッコー東京台場(パレロワイヤル)

 

皆様、こんにちは。
 ただ今の、「朗読 私の歩んだ信仰生活」ですが、明主様は、本当に大変なご人生でしたね。大本との出会いということですけれども、実際には、明主様にとっての神様との出会いのお話だと思います。
 私たちにとって、明主様というと、メシアとして新しくお生まれになったすごいご存在ということになりますけれども、でも、あんなに苦労された明主様が、私たちと同じように、いや、私たち以上にこの世のあらゆる苦しみとかつらさ──最初の奥様に先立たれたり、病気とかお金のことで苦しまれたり──というその明主様が、最終的に、このお話の中で出会われたその神様の子供となられたということは、同じようにこの世での苦しみを抱えている私たちにも、そのごとくならせていただける希望がある、と思って拝聴しておりましたし、また、今明主様が示してくださっている道に、これからも皆様と共に歩んでまいりたいなということを強く思わされました。

 

先程の成井理事長のご挨拶にもありましたけれども、この「主の祈り」ですね。「主の祈り」。これをメシア教の全専従者、全教会長が上げたい、上げたいのでそのお許しを教主様からいただきたいというお話でしたね。そして教主様に、お許しをいただきたいと申し上げて、それを教主様がお受けくださったと、そういうお話でしたね。
 この「主の祈り」をお上げすることについて、皆様はどのように受け止めておられるのでしょうか。
 メシア教は「キリスト教と呼応」する、「よほどキリスト教に近くなる」んだから当然のことじゃないかと思われる方もいらっしゃると思いますし、一方で、そうは言っても抵抗があると、そのように思われる方もいらっしゃるかもしれません。
 明主様と「主の祈り」と何の関係があるのか、「主の祈り」が明主様の救いと何の関係があるのか、抵抗があると、そのように感じている方もいらっしゃるかもしれません。
 まさに、そこが大切ですね。皆様が「主の祈り」を上げられるとして、明主様と「主の祈り」と一体何の関係があるのか、そこが大切な点ですね。
 「主の祈り」はどのように始まるのかというと、「天にいますわれらの父よ」と始まります。抵抗がある人は、もうこの一行目から、「天の父」と明主様と何の関係があるのかという思いを抱かれるかもしれませんけれども、実際は、関係ないどころか、以前にもお伝えしましたように、明主様の御歌に、「キリストの父なる神は主の神と知れよ信徒吾と併せて」、ですから、キリストの言う父なる神、天の父は、主の神──この場合の「主の神」というのは、明主様のおっしゃる神様のことだと思いますけれども──は同じなんだ、私の言っている主の神という神様と、キリストが言っている天の父、これは同じなんですよ、そのことをあなた方私の信徒は知りなさい。そして、「吾と併せて」ですから、私はそのように認識しているんだから、私の言っている神様は、天の父のことであるとあなた方も認識しなさいとおっしゃっている。また明主様は、聖言の中で、「天の父があります」、天の父のやることが私のやることなんだと、はっきり仰せになっています。
 であるならば、「天にいますわれらの父よ」という言葉は、本来、私たちが抵抗を覚えるべきものではないはずですね。むしろ、「天にいますわれらの父よ」、これは、明主様と大いに関係がある一行目ですね。
 そのあとは、「御名があがめられますように」と続きますが、この「御名」というのは、一般的には神様の御名ということで、これが、「エホバ」とか「ヤハウェ」という名で尊称されている、ユダヤ教やキリスト教の神様のお名前のことですね。しかし、ユダヤ教等では、「エホバ」とか「ヤハウェ」という神様のお名前をみだりに口にしてはならない、畏れ多い存在だから、ということで、神様のお名前そのものではなく、「御名があがめられますように」と表現をしているのだと思います。
 これも明主様は、メシア教の神様、「これはキリスト教のエホバです」とはっきり仰せですよ。ということは、私たちの信仰対象は「エホバ」であり「ヤハウェ」なんですよ。例えば、「大光明」とか御神体を拝する時、私たちは、天の父であり、「エホバ」を拝しているんですよ。今日もそうですけれども、本来私たちは「エホバ」「ヤハウェ」のもとに祭典を行っているんですよ。
 私たちは、できるだけ多くの人にこの救いの福音を知っていただいて、信徒になっていただいて、そして「大光明」の御神体をいただいてほしいと思っていますよね。できるだけ多くの人に御神体の前でお参りをしてもらい、神エホバをあがめてほしいと思っていますよね。そうだとしたら、私たちの信仰対象である「エホバ」「ヤハウェ」の「御名があがめられますように」と言わせていただくことは、拒否するどころか、本来、私たちの思いもこの言葉通りの思いですね、この言葉通りの思いであるはずですね。
 そのあとは、「御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように」というふうに続いていきますけれども、この、天上の栄えが地上にもありますようにというのは、明主様のご神業のあり方そのものではないんですか?
 夜昼転換によって、霊界にもう日の出が来た。そしてそれをこの地上にも投影させて、天国といわれる素晴らしい世界をこの地上にも造りたいというのが明主様の願いですから。
 御歌にも、「花笑ひ百鳥歌ふ天国の苑を此土に移す神業」とありますね。天国の苑と呼ばれる美しい世界をこの地上に移すのが私の仕事であると、そういう神業を私はしたいんだということですから、「御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように」、これも明主様と大いに関係がある言葉ですね。
それで、ここで一つ重大なことを考えなければならないのですが、ここに「天」と「地」という表現がありますけれども、私たちは、「みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように」「御国がきますように」と言う場合、自分は地上にいるのか、それとも天国にいるのか、どっちですか?というこの問題があるんですね。
 「地」にいながらにして、この地上にも「御国がきますように」、みこころが天に行われているように、この地でもみこころが行われますようにとお祈りするのか、それとも、すでにみこころが行われている天国というところに自分はいるのか、どっちですか?これは重大な問題であると思います。
 そしてこれが、想像もできなかったようなことなんですけれども、私たちは、実は、天国のほうにいるんですよ、本当は。天国に私たちの本当の存在があって、私たちはそこに心を向けなければいけないんだということを、明主様はおっしゃってますよ。
 「本教救いの特異性」の中で、明主様は、人を天国へ救うには、まず、まず自分が天国に上がって天国人となり救い上げるんだとおっしゃってますよ。あるいは、「天国に世人救はむ望みもて吾先づ天国の人となるなり」。素晴らしい天国に世の人を救いたいと思って、「吾先づ天国の人となるなり」ですよ。「吾先づ」ということは、まず、明主様が天国の人となるわけですが、あなた方信徒も私に続いて天国の人となりなさい、ということですよね、「吾先づ」ですから。
 だから、「御国がきますように」「みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように」というのは、地上にいて、なんか天国という上のほうにある世界から、そういう素晴らしい世界が自分がいる地上にも来てほしいなと願うのとは違うんですよ、本当はね。
 で、明主様は、この、「まず天に上がって人を救う」というあり方は、「あらゆる宗教と異なる点で、それはむしろ反対でさえある」と仰せです。
 では、キリスト教も含めたあらゆる宗教のあり方はどういうものかというと、それは、地上にいて、何とか天国が来ないかな、「御国がきますように」と待ち望んでいる。
 でも私たちは、地上にいて、「天国がきますように」、じゃないんですよ。そうではなくて、天国にいる天国人という立場において、今いるこの素晴らしい天上の栄えが、地上にももたらされますように、というふうに思って、「御国がきますように」というところを上げさせていただく。
 「みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように」。「私がいるこの地上は混沌としている。だから、何とかより良くなってほしい」、という思いでこれを上げるのではなくて、みこころが行われている天国にいる立場として、このことを思わせていただいて、上げさせていただく。
 「天にいますわれらの父よ」というのも、この地上にいて、なんか上のほうに向かって、「天にいますわれらの父よ!」と叫ぶわけじゃないんですよ、本当は。だってもう私たちは天にいるんですから。だから、天にいらっしゃる父に対して、面と向かって、「天にいますわれらの父よ」と言わせていただくんです。
 また、実は、私たちが日々お上げしている「祈りの言葉」も、「神さま、あなたは生きています」と地上で思うわけではないんですよ。「わたしの中で、生きています」というのも、何か、地上にいながらにして、地上にいる自分の中に神様が生きていらっしゃることを確認しているわけではないんですよ。
 そうではなくて、私たちが神様から賜っている魂というのは、天上にある。その中に神様が生きていらっしゃるわけですから、その私たちの魂が存在する天国にまず上がらせていただいて、そして、その立場として、「わたしの中で、生きています」と祈らせていただく。
 「このみ恵みがすべての人びとにありますように」というのも、この地上にいながらにして、「何とか多くの人々が神様の恵みに与ってほしいな」、ということではないんですよ。そうではなくて、これは、私たちは、天上にいる立場として、「この天上での恵みが世の人びとにもありますように」と思わせていただく。
 そして、「み心のままにお使いください」。これも、私たちが日々地上でやること、それがみ心のままにお使いください、ということも確かにありますけれども、それだけではなくて、本当は、神様は、天上において人類救済を進めていらっしゃるわけですから、「その天の御用にお使いください」というのが、「み心のままにお使いください」ということだと思います。だから、「祈りの言葉」も、本来は、天上の立場で祈らせていただくお祈りです。
 だから、世界中で20億とも言われるキリスト教徒の99.9パーセントの方々は、「主の祈り」を、「天上の立場で祈らせていただくお祈り」ということで上げてはおられないと思いますよ。
 「主の祈り」をそのような思いで上げるのは、世界中で、メシア教の信徒である皆様方のみですよ。だから、「主の祈り」を上げることによって、何か、キリスト教に近づいていってしまう、ということと全然違うんですよ、本当はね。
 で、「地にも行われますように」のあとは、「わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください」というふうに続いていきますけれども、これは、もちろん、私たちは、毎日の食事、これも何とか神様から与えていただきたいですよね。日ごとの食事、何とかいただきたい。だから、もちろんそれも神様にお願いさせていただくわけですけれども、本当は、「霊主体従」ですから、体の食事があるように、霊の糧、命の糧がある。そして、私たちの命を本当に養い、育てているのは、その霊の糧なんですけれども、このようなことは、キリスト教の方々も言っていることだと思います。聖書にも、神様から出る言葉、パンが本当の食事なんだという表現もありますのでね。
 しかし、私たちメシア教信徒は、ただ毎日、神様に対して「お食事ください、お食事ください」とお願いするのではなくて、私たちは、霊の糧によって養い育てられて、どこに向かっていくのかというと、私たちにはそのゴールがはっきりとしている。それが、「神様の子供たるメシアとして新しく生まれる」というゴールですね。私たちは、そこに至るために養い育てられていて、そして神様からの霊の糧をいただいている。
 キリスト教では絶対こんな説き方はしていませんよ。だって、イエス・キリストのみがメシアですから。だから私たちは、「私たちの日ごとの食物をきょうもお与えください」と言う時に、「あっ、神様、あなたの子供たるメシアとして新しく生まれるための霊の糧を与えていただきたいのです」と思わせていただく。でも、現実的な食事も与えていただきたい。だから、「メシアとして新しく生まれる業にお仕えさせていただくために、現実の食事も与えていただきたいのです」と思わせていただく、お願いさせていただく。
 キリスト教の方たちはこのようには思っていませんよ。だから、もし、ここのフレーズをこのような思いで上げるとしたら、これもメシア教の皆様方だけですよ。地球上で、皆様方だけが、今言ったような思いで、この、「わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください」のところを上げられることになる。
 そのあと、「わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください」ということですけれども、これも、神様は、私たちに対して罪あるもの、この方たちは赦してくださった。神様は、私たちの周りの方々はすべて赦してくださった、そういうことです。でも、あなた自身はどうなんですか?神の赦しを受けるんですか、受けないんですか、ここの問題が残っているよと、それを神様は私たちに問うてきておられる。
 そして、ここ、「わたし」と言っていないですよ、「わたしたち」と言っていますよ。ということは、私たちが今教わっているように、「わたし」という存在の中に、全人類とそのご先祖様が入っているわけですから、その「わたしたち」と思わせていただく。だから、「主の祈り」のここの箇所は、今、「お委ね」とか「想念の実践」と言っている、まさにそのことではないのですか?
 私たちは、日々色々な思いを感じますね。憎しみだったり、妬みだったり。それは、自分だけの思いではなくて、「わたし」につながるご先祖様の思い、全人類の思いをキャッチして、それを感じさせられている。本当は、すでにすべてを赦していただいているんですよ、でもね、それを、当たり前のこととして「もう赦していただいたんだから謝る必要はない」と横柄になるのではなくて、改めて、神様に、「わたしたちの負債をもおゆるしください」という思いで、ここの箇所を上げさせていただく。
 日々、誰もが、例外なく、色んなことを感じ、思いますよね。憎しみだったり、「あの人をやっつけたい」とか、焦りだったり、色んな思いがある。でもそれらが、自分の思いではなくて、全人類とその先祖の思いであって、それが自分の中に来ている。救われるために来ている。それを、神様に、「おゆるしください」ととりなすこと、そしてそれが救いの御用になる、ということを、キリスト教の方たちは全然思っていませんよ。
 だから、「わたしたちの負債をもおゆるしください」。これは、ただ赦しを乞い願う祈りの言葉ではなくて、私たちにとっては、救いに至る言葉ですよ。全人類であり、全人類の先祖の救いに至る言葉。そのような思いでここの部分を上げるのも、メシア教の信徒である皆様方だけですよ。
 そして、そのあと、「わたしたちを試みに会わせないで、悪しき者からお救いください」。これは、当然、この地上で、色んなことがないように私たちを守ってください、という意味でもあると思いますけれども、それだけではなくて、私たちは、本当は「天」に属しているのに、この地上の誘惑が強いがために、「地」のものに心が囚われますね。テレビとか、地上の様々なものによって、自分の思いが「地」に引きずり降ろされてしまう。だから、そうならないように、「「地」の試み、「地」の誘惑に負けないようにさせてください」「私の本当の住まいである天国に、わたしの心を常に置かせてくださいますように」という思いで、「わたしたちを試みに会わせないで、悪しき者からお救いください」と思わせていただく。これも、キリスト教の方々がこのように思っているとは思えませんけれども、もし思っているとしたら、それは私たちと共に歩むべき方々ではないですか。
 そして、最後、「アーメン」。これは、「そのごとくありますように」という意味ですけれども、この言葉も、地上で言うのではなくて、天上にいる者として言わせていただく。

 

というように、「主の祈り」に関して、今私が言ったすべてのこと、これは、キリスト教では、全然こんな思いでは上げておりませんよ、「主の祈り」を。だから、これは、決してキリスト教の方々に言うことではないですけれども、要は、「雲泥の差」なんですよ。キリスト教の方たちが「主の祈り」を上げている思いと、私たちが今、教主様を通して教えられている明主様のみ心の中で上げる「主の祈り」、これはもう「雲泥の差」なんですよ、本当はね。
 だけれども、私は、二千年前、イエスが最初にこの「主の祈り」を弟子たちに授けた時に込められたみ心、願われていた思いというのは、私が今言ったような思いであったと私は信じておりますけれども、それが、二千年間継承されずに来た。もちろん、キリスト教の方々が、二千年もの間この祈りを継承してくださってきたことは間違いないんですけれども、イエスが「主の祈り」に込めた本当の願いは、今日まで継承されずに来た。だけど、神様が、イエスを通して「主の祈り」を人類に託された本当の願い、それを今、明主様のみ心をお受けになる教主様を通して、私たちが知るに至ったということなんです。
 だから、「キリスト教と呼応」するとか、「メシア教はよほどキリスト教に近くなる」というと、何か、今までの明主様信仰はどうなってしまうのだろうと思ってしまうかもしれませんけれども、そういうことでは全くない。
 そうではなくて、神様は、ご自身の本当の願いというのを今、私たちメシア教に託そうとしていらっしゃるんです。
 だからそういう意味において、私たちメシア教は、実は、キリスト教の方々を目覚めさせなければならない。いや、これはそんな偉そうに言うことではないんですけれども、でも、本当に、私たちがキリスト教の方々を目覚めさせて、キリスト教に大革命を起こして、そして、キリスト教の方たちを本当の意味で救って、また人類を救うということが、皆様に──私たちに──託されているんですけれども、でもこれも、明主様は、「キリスト教を救う」とおっしゃっていますよ。キリスト教の信徒は全部メシア教の信徒になるとおっしゃっていますよ。これは、夢物語なのか、夢物語じゃないのか。私は、その日が来ると信じておりますし、そういう意味においては、私たちが、キリスト教の方たちと全然違う活動をしている中で、キリスト教の信徒が、いきなりメシア教の信徒になるということはなかなか難しいことだと思います。
 だから、そのために、キリスト教徒が親しんでいるもの、「主の祈り」──ハレルヤコーラスもそうだと思いますけれども──そういうものを通して、今、神様、イエス、明主様が、キリスト教の方々を何とか本当の道に導きたい、ということで、この「主の祈り」を一つの手がかり、取っ掛かりとして、キリスト教徒の救いであり、人類の救いを進めていかれたい、ということなのではないでしょうか。
 だから、「主の祈り」を上げることについて、何か、専従者と教会長の総意でそうなったんだとか、教主様がお受けくださったからどうだとか、そういうふうに思うのではなくて、今こういうことになっているということは、明主様が、私たちに、「「主の祈り」を上げなさい」「キリスト教を救うために上げなさい」と思っていらっしゃって、そしてまた、「あなた方の信仰のためにも上げなさい」ということを望んでいらっしゃらなければ、今起きている流れというのは起きるはずはないのではないでしょうか。
 だから、私たちメシア教の「主の祈り」というのは、「本当の意味でキリスト教徒を救うための「主の祈り」」であり、また、「自分が天国に属する存在だということを思い出させていただくための「主の祈り」」であり、また、自分に結ばれたご先祖様を含めた「わたしたち」の、その負債をもおゆるしください、ということですから、「ご先祖様を神様にとりなして救うための「主の祈り」」であり、また、神様の子供となるために霊と体の「食物」によって養い育てられているわけですから、「メシアとして新しく生まれるための「主の祈り」」であるということだと思います。
 私は、明主様が、皆様方メシア教の信徒に託されている思いというのは、本当に強いものがあると思いますよ。だから、「主の祈り」を上げて、どんどんキリスト教に近くなってしまってどうなってしまうんだろうと、確かに、そのようなことを思われるかもしれませんけれども、だけど、そういうことよりももっと大事なことがあるじゃないですか!それは、「人類の救い」ということですよ。人類を救う。キリスト教を本当の意味で救って、そして、人類を救うことが、私たちの──皆様方の──使命ではないのですか?
 もしキリスト教の方たちが、私たちの上げている「主の祈り」の思いに触れて、「ここにある「わたしたちの負債をもおゆるしください」というのは、実は、自分の心にご先祖様の思いが来ているんだ。そして救いを求めているんだ。この思いは神様にお委ねすべきなんだ」と、もしキリスト教の人が一人でも目覚めたら、これは大変なことですよ。そして「食物」も、「メシアとして新しく生まれるための食物なんだ」と思う人が一人でも出てきたら、大変なことだと思いますよ。
 だから私たちは、本当に、すべてをかなぐり捨てて、救いのために、この「主の祈り」を上げさせていただいて、そして、何とか明主様の期待にお応えしたい、と思うべきではないでしょうか。
 そういう意味においては、私たちには重大な責任があると思います。だから、もし「主の祈り」を上げるとしたら、何と言いましょうか、今の明主様の「私の歩んだ信仰生活」にもありましたけれども、燃えるような思いをもって、人類を救うという燃えるような思いをもって──もちろん、落ち着いた環境で上げていただいていいんですけれども──心の中は、燃えるような思いをもって、上げるなら「主の祈り」を上げさせていただきたいと思います。
 そういう責任が私たちにはありますし、また、そんな素晴らしいことに私たちは携わらせていただいているわけですから、その大いなる誇りをもって、上げさせていただく。ですから、責任と誇り。皆様には、その責任と誇りをもって、この「主の祈り」を上げていただきたいですし、また私も、皆様とそういう思いでこの「主の祈り」を上げさせていただきたいと思っておりますので、よろしくお願いいたします。
 ありがとうございました。

 

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