PDF: 新年祭_真明様ご挨拶

 

皆様、あけましておめでとうございます。
 今日は、私たちにとって、教団にとって、大変な日になりましたね。
 ご神名、ですね。ご神名が、もう何十年ぶりかだと思いますけれども、何十年かぶりに変わる。
 これはやはり、教主様がいらっしゃるから、こういうことがあり得るのではないでしょうか。
 みんなで集まって、考えて、というあり方で、尊いご神名をそんな簡単に定められるのかというと、それはなかなか難しいことだと思います。
 やはり、教主様だからこそ、今回のように、ご神名を新たにするということができうるのではないのかなと、そのように思います。
 今までのご神名は、「みろくおおみかみ」。それが「主神な我等」となった。
 「みろく」というのは、仏教的な神様のお名前ですが、明主様がメシア教を開教された時、「観音」は「メシア」になった。「日本観音教団」が「世界メシア教」になった。同時に、「日本五六七教会」、これも、「日本観音教団」と同じく「世界メシア教」となった。
 明主様は、「観音」とか「みろく」という仏教的な看板を下ろされて、「世界メシア教」とされた。仏教的なものは東洋的であって、世界的ではないんだと、そう明主様は仰せですね。
 ただ、明主様が、今日まで、ご神名の中にこの「みろく」という仏教的な名前を残されていたのは、きっと、私たち日本人の中にまだ仏教的な要素が残っているということで、それをってそのようにしてくださっていたのかもしれません。
 でも去年、世界メシア教が復活して、いよいよこれからということで──と言っても、明主様は、もう71年も前、メシア教を開教された時に、「みろく」とか「観音」という看板は下ろされていたわけですけれども、ご神名で、少し、この「みろく」という仏教的なものが残っていた──でも、いよいよこれから本当の神様がおになるということで、今このタイミングで、ご神名が新たになったのだと私は受けとめております。
 そして、この、「主の祈り」ですね。「主の祈り」。これについては、御生誕祭でもさまざまお話しさせていただいたんですけれども、今日皆様とご一緒にお上げさせていただくということで、私が思わされていたのは、「ハレルヤコーラス」のことなんですね。
 明主様は、「ハレルヤコーラス」が非常にお好きでしたね。ヘンデルの「メサイア」、そして、「ハレルヤコーラス」がお好きだった。「主の祈り」を新年からお上げするということで、このことがしきりに思わされました。
 「ハレルヤコーラス」というのは、これは、キリスト教を象徴する曲ですね。でも、なぜ明主様はそれをお好きでいらしたのか。
 私も西洋圏に長く住んでおりましたけれども、クリスマスとかキリストの復活祭のイースターの時期とかになると、必ずこの「ハレルヤコーラス」がかかる。テレビをつけても、「ハレルヤコーラス」を演奏している。
 そして、世界中の誰に聞いても、「ハレルヤコーラスといったらキリスト教」というくらい、これは、非常にキリスト教を象徴する曲ですね。
 でもこの「ハレルヤコーラス」を、明主様は、これは、ヘンデルがメシア教のために作った曲である、神様がメシア教のために用意されていた曲である、とこうおっしゃるわけですね。そして、イエスを讃えすぎているからイエスは苦しいんだと、そうおっしゃる。
 要は、キリスト教徒が理解する「ハレルヤコーラス」というものと、明主様の理解される「ハレルヤコーラス」というもの、これは別である、「ハレルヤコーラス」にはその本当の意味がある、だからこのようにおっしゃっているのだと思います。
 では、普通、キリスト教徒は「ハレルヤコーラス」をどう理解しているのかといったら、それはもちろん、イエス・キリストを讃えている曲だということですね。「ハレルヤコーラス」を含め、ヘンデルの「メサイア」全編がイエス・キリストを讃えている曲であると、そういうことですね。
 「ハレルヤコーラス」の中の、「王の王、主の主」というところ、「キングオブキングス」というところ、その王であり主はイエスのことである、そういうことですね。というより、イエスのみを讃えていると、そういうことですね。
 では、私たちの理解する「ハレルヤコーラス」は一体何なのかというと、これは、まず、もちろんイエスを讃えている。これは否定するものではないんですよ。だけれども、それだけではなくて、イエスに宿った「キリスト」とか「メシア」という魂、これは、イエスだけのものではないんだ、私たち一人ひとりも、本当は、その「キリスト」、「メシア」という魂をいただいているんだ、そして、キリスト教徒が待ち望んでいる「キリストの再臨」、キリスト教徒がいつか来ると思っている「キリストの再臨」、これがすでに、私たちの中に来てしまったんだと、そのことを讃えている曲、これが、私たちメシア教の理解する「ハレルヤコーラス」であり「メサイア」なんだと思います。
 それはね、いや、「ハレルヤコーラス」を明主様が大切にされたのはそういう意味ではないとおっしゃりたい方もいるかもしれません。「ハレルヤコーラスは、イエスではなくて、明主様のみを讃えている曲なんだ。だから明主様はハレルヤコーラスを大切にされたんだ」と、そうおっしゃりたい方もいるかもしれません。
 では、もしそうだとすると、キリスト教徒が、クリスマスとかイースターの時にこの曲を聴いていること、これ自体が完全に間違いだということになりますよ。「本当は明主様のみを讃えている曲なのに、イエスのことを讃えていると思って勘違いして聴いている。間違っている」と、そういうことになりますよ。
 私たちは、キリスト教徒の方々に対して、「あなた方は間違えています。これは、本当は、明主様のみを讃えている曲なんですよ」と言うんですか?
 でも私は、20億とも言われるキリスト教徒の方々が、自分たちの歴史すべてを否定して、「間違えていました。この曲はイエスではなく、明主様を讃えていた曲でした」と言うとはどうしても思えないんですね。
 だけどもし、私たちが、キリスト教徒に対して、「ハレルヤコーラスというのは、イエス・キリストを讃えていることは間違いない。でも、あなた方があがめてあがめてやまないイエス・キリスト。そのイエスの中にある神様の魂、これが私たちの中にも来た、キリストはすでにあなた方の中に再臨した」と言えば、もしかしたら、キリスト教徒の中の誰かは、「「ハレルヤコーラス」の意味は本当はそういうことだったのか」と目覚める、ということはあり得ないことではないと思うんですね。
 そもそも、明主様は、あえて「ハレルヤコーラス」を選ばれなくてもよかったですよね。キリスト教と関係なく、ご自分を讃える曲を、例えば、ご自分でお作りになったり、あるいは、誰かに作らせて、それを、「これは私を讃えている曲だ」とされてもよかったと思うんです。
 でも明主様は、それをされずに、この、キリスト教の方々だけではなく、全世界の人が、これはイエスを讃えている曲だと思っている「ハレルヤコーラス」をあえて選ばれて、そして、これは、神様がメシア教のために用意した曲なんだと、そうおっしゃったわけです。
 でも、改めて思いますと、確かに、キリスト教と全然関係ない曲をご自分で用意されて、「これは私を讃えている曲だ」とした場合、キリスト教徒の方々を目覚めさせる、ということが起こり得ないじゃないですか。
 キリスト教徒からも、ただ、「あの人たちはああいう宗教だ」「メシア教というのはキリスト教と何の関係もない」「メシアという言葉を勝手に使って、変な人たちがいるな」で終わりですよ、それは。
 でも、「ハレルヤコーラス」というキリスト教を象徴するものを、明主様がご神意によってあえて選ばれて―そして、記録を見ますと、明主様は、最晩年には、もう毎日のように聴かれていますよ、この曲を—というように大切にされて、してくださった。そして、私たち信徒にも歌ってほしいと思われた。
 何で明主様は「ハレルヤコーラス」を私たち信徒に託されたのか、というと、これが、私たちは、キリスト教徒を救うんだと、そういうことですね。
 今日の聖言にもありましたけれども、「人類をく救わんが為に、我メシア教が出現した」んですよね、これが。人類全部ですよ。それは、キリスト教徒20億を含みますよ。
 そういう意味で、メシア教は「ハレルヤコーラス」を大切にしなければならない。そして、もし、キリスト教徒の方々がこの曲の本当の意味に気づくことができたとしたら、それは、明主様が、私たちに「ハレルヤコーラス」を遺してくださったみ心にお応えすることになるのではないですか?
 だから、「ハレルヤコーラス」は、ヘンデルがメシア教のために作ったというのは、ただ、「メシア教のために作った」のではなくて、キリスト教徒を、また全人類を救うという使命を持たされた、その使命を持ったメシア教のために、神様がヘンデルを通してこの曲を作られたと、そういうことではないですか?
 だから、「神様がメシア教のために「ハレルヤコーラス」を用意された。ああ、私たちはすごいなあ」、で終わりじゃないんですよ。メシア教には大いなる使命がある、そのためですよ。
 「ハレルヤコーラス」の本当の意味、イエスという存在の本当の意味、これを託されているんです、私たちは、神様から。
 今、イエスをい主として受け入れるとか受け入れないとか、イエスは赦し主、救い主なのか、いや違うと言って、大騒ぎしていますでしょう。
 で、結局、「受け入れました」と言ってしまったら、キリスト教徒と同じになってしまうのかといったら、そうではないんですよ。というのは、キリスト教徒の理解する「贖い主」と、私たちの理解する「贖い主」は全然違うわけです、本当は。
 私たちは、贖われてどうなるんですか?贖われ赦されたら、私たちは神様のものとなって、神の子たるメシアとして新しく生まれることになるのではないですか?そのために贖われるのであって、赦される。
 「救い主」ということも、「救い」とは何なのか。それは、本当のお父さん。私たちは、家出したような存在だったけれども、本当のお父さんのみに戻る、それが救いなんですよ。それはもう、本当に、感動の再会ですよ。ずっと離れて会えなかった親と会うわけですから。その出会いの喜びが私たちの救いなんです。
 だから、救いという意味も、贖いという意味も、赦しという意味もキリスト教のそれと全然違う。キリスト教徒が言う、「イエスを贖い主として受け入れます」と、私たちが言う、「イエスを贖い主として受け入れます」では、全然違うんです、これは。
 イエスを受け入れなければいけないと聞くと、「これからは何かキリスト教に近くなっちゃうんだ」、じゃないんですよ。キリスト教徒は、私たちの言う意味でイエスを贖い主とか、救い主とか、赦し主と捉えていませんよ、だってイエスただお一人がメシアですから。
 私たちは、そうではなくて、イエスに倣ってメシアとして新しく生まれる、これですね。そして、私たちにとって、ひな型は明主様ですよ。本当に尊いひな型を私たちのために遺してくださったわけです、明主様は。「メシアとして新しく生まれる」というひな型。ここに至るための贖いであり、赦しであり、救いなんだと、そういうことですね。
 だから、そう考えると、この「主の祈り」。これを何で私たちは今明主様から上げさせられているのか。
 「主の祈り」といったら、それはもう「ハレルヤコーラス」と並んで、キリスト教を象徴するものですよ。「ハレルヤコーラス」といったらキリスト教。「主の祈り」といったらキリスト教。ですね?
 これを上げるという流れになっているのは、ただ、キリスト教と呼応するから上げる、という単純なことではないと思いますよ。
 御生誕祭において、教主様も私も「主の祈り」についてたくさん触れましたけれども、「主の祈り」の本当の意味、これが、キリスト教の方たちが理解するものと全然違うわけですね。「ハレルヤコーラス」もそうです。
 でももし、キリスト教徒の方々が、「私たちがずっと上げてきた「主の祈り」。この、「天にいますわれらの父よ」というのは、地上から、「天にいますわれらの父よ」と呼びかけるということではないんだ。本当は、「天にいますわれらの父よ」、というのは、実は、私たちへの問いだったんだ。父は天にいる。でも、『あなたはどこにいるんですか?』という問いの一行目だったんだ」と、そう思うことができたら、大変なことだと思いますよ。でも今は、思っていないんですよ。そういうふうには思っていないんです、キリスト教徒は。
 あるいは、日ごとの食物をいただいて、養い育てられて、どこに向かっているのかというと、メシアとして新しく生まれる道に至るために日ごとの食物を私たちはいただいている。でも、キリスト教では、こう、説いていないんです。
 「わたしたちの負い目をもおゆるしください」。これが、「この『わたしたち』というのは、『わたし』に含まれている先祖すべての負い目なんだ」なんて、キリスト教徒は思っていないんです。
 でももし、キリスト教徒の方々が、私たちを通して、「主の祈り」に込められた本当の意味に目覚めることができるのだとしたら、私たちにとって「主の祈り」は、「ハレルヤコーラス」と同様、キリスト教徒、全人類を救うために本当に大切なものになるのではないですか?
 もしそうなら、明主様は、「ハレルヤコーラス」は、「ヘンデルがメシア教のために作った」とおっしゃいましたが、私は、「主の祈り」は、キリスト教徒をの道に導くために、イエスが、私たちメシア教のために用意してくださったお祈りであると、そのように言わせていただきたいと思います。
 というのは、「ハレルヤコーラス」、これは、キリスト教徒は、「これは自分たちのもの」と思っていますよ。当然のことですよね。でも明主様は、それを、「これは私のものだ」とおっしゃるわけです。
 「主の祈り」も、キリスト教徒は、「これは自分たちのものだ」と思っていますよ、絶対に。でも、もし私たちが、「主の祈り」の本当の意味を理解して、それをキリスト教徒や人類に伝え、そして、その救いに触れてほしいと願うなら、実は、「主の祈り」は、本当は、「私たちのもの」ですよ。イエスが私たちのために用意してくださったもの、神様がメシア教のために用意してくださったもの、それが「主の祈り」であると思います。

 

御生誕祭で教主様もおっしゃっていましたように、「主の祈り」は、昨年の段階で、メシア教につながる世界中のほぼすべての信徒が、すでにお上げしていた。
 私たちはこれをどう理解するのか。確かに、キリスト教圏が多い、ということはありますよ。でも一方で、例えばブラジルの場合は、ずっと昔は上げていたけれども、最近は長い間上げていなかった。でもそれを、教主様によって、明主様の本当の救いのメッセージである、キリスト教と呼応して人類を救うということを知るに至った、それにお仕えしたい、だから、ずっと上げていなかったものを改めて上げたい、ということで、「主の祈り」奉唱の願い出を、昨年の2月末、教主様に上げられた。そして教主様がそれをお受けくださって、ブラジルではお上げするようになった。
 もしブラジルメシア教が、そのような理由で「主の祈り」を奉唱するに至ったのであれば、本来、私たちも、ブラジルに倣って、もっと早くさせていただくべきだったのではないですか?
 だって私たちは、世界メシア教ですよ。「日本メシア教」じゃないんですよ。最初は、日本観音教団と日本五六七教会。日本。でもそこから世界メシア教。世界。
 だとしたら、世界の信徒が上げているものを、私たちも一緒に上げさせていただくのが当然ですよね。何か、仏教的、東洋的なところでまっていたら、ずっともう「日本メシア教」ですよ。
 確かに、世界メシア教という名前だけは復活しましたね、去年。でも、実体はどうなんですか?本当に世界の信徒と一つなのか、世界の救いに向けての歩みをしているのかというと、実は、まだまだ私たちの中に、世界メシア教ではなくて、日本メシア教的要素があったんじゃないですか?
 だけど、皆様がこれから「主の祈り」をお上げになることで、ようやく、世界中で同じ祈りを捧げることになるわけですから、今まで私たちは、名前だけは世界メシア教で、実体は日本メシア教だったのが、ようやく、名実共に、「世界メシア教」とならせていただけるんじゃないでしょうか。
 また、祭式ですね、祭典の式次第。これが、日本の皆様が「主の祈り」を上げられることになったので、世界中の祭式が統一されたと、そう伺っております。
 世界中で、教主様のお作りになった祝詞──これはもちろん各言語に翻訳されたものですけれども──これをまず、祭司の方がお上げして、そして、新しいご神名を皆でお上げして、そして、「祈りの言葉」「主の祈り」を上げて、御神影に拝礼する、というこの式次第が、今日からですよ、今日から、世界中で、世界メシア教につながる海外教会のすべてで、まったく同じ祭式、一つの祭式でこれからはご神業が進んでいく。
 普通、今までは、例えば、この国の場合はこういう事情がある、仏教圏だからこれは言えない、キリスト教圏だからこれは言えるとか、あるいは、宗教色はこの国では出せるとか出せないとか言って、祭式が世界中で統一されない理由はいくらでもあったわけです。
 でも、そういう中にあって、メシア教では、今日から、祭式が、全世界で一つとなった。これは大変なことだと思います。
 明主様の本当の願いが大切なのか、それとも、現地の都合に合わせて、人間の思惑で明主様の救いを伝えていくこと、そのどちらが大切なのかというと、もしかしたら、今までは、人間の都合のほうが優先されていたのかもしれません。こういうことを言うとこの人たちは受け入れないから、というような、布教の手段ということが、明主様の本当のみ心よりも優先されていたのかもしれない。
 だけど、明主様の結末は、もう、「メシアとして新しくお生まれになった」、これが絶対に明主様の結末ですよ。そして、明主様の信徒である私たちもその道を歩ませていただける。私たちの道は、これしかないじゃないですか。ですよね?
 であるならば、私たちの救いの道は一つ。だからこそ、祭式も一つに統一することができたのではないでしょうか。
 と同時に、祭式を一つに統一することができるということは、私たちが今知るに至ったこの救いの道が、それだけ普遍的なものであることの証拠でもあると思いますよ。要は、民族的なことに限定されない、ということですから。あらゆる民族、宗教、すべてを超えて、一つの祭式で進んでいけるということは、それだけ今、私たちメシア教に託されている救いの道というのが世界的であり、普遍的なものであり、真実であるということの証拠だと思いますよ。
 ですので、本当に、私たちは、小さい宗教団体なのかそうでないのか分かりませんけれどもね、でも明主様は、メシア教とキリスト教は、世界で「二大勢力」とおっしゃっていますよ。
 私たちは、メシア教は日本から出た小さい宗教だとか、信徒の数が少ないかもしれない、じゃなくて、もうこのメシア教というのは、キリスト教徒を救って、全人類を救って、そして神様の本当の願い、イエスの本当の願い、明主様の本当の願い、それを全人類に伝える──もちろんまず私たち自身がお受けしなければいけないわけなんですけれども──全人類に伝えるということを託されている、という本当に偉大な「世界宗教」なんですね。
 メシア教というのは、キリスト教と並ぶどころか、「二大勢力」どころか、本当は、私たちが、本当の救いを神様から託されている「世界宗教たるメシア教」なんですね。
 ですので、メシア教が復活してから2年目となる今年。今までは、日本メシア教的要素も多分にあったかもしれませんけれどもね、この2年目からは、名実共に、世界を救う世界宗教としてのメシア教の、その素晴らしいご神業が始まる。
 そして、きっと神様、明主様は、ものすごい力と、また権威をもってこのご神業を進められると思いますので、私は、そのご神業に、全身全霊をかけて付いていきたい、お仕えしてまいりたいと、そういうことを思わせていただいております。よろしくお願いいたします。
 ありがとうございました。

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