PDF: 立春祭_真明様ご挨拶
「愛の手」
於:ホテルオークラ神戸(平安の間)
皆様こんにちは。
「感謝が感謝を生み、不平が不平をよぶとは正に真理だ」
「感謝の心は神に通じ不平の心は悪魔に通ずる」
4年前の、ちょうど今日ですね、2月4日、教主様は、明主様のため、明主様の遺された真実のため、明主様の遺された本当の救いのため、その先にいかなる困難が待ち受けていようとも、たったお一人で立ち上がられました。それは明主様のためでもあり、また、明主様のことを真に愛しておられる信徒のためでもあったと思っております。
そして、教団が置かれている実情について、ご自分のお気持ちを私たちに明らかにしてくださいました。
そして、そのことが納得いかない、気に入らないということで、皆様ご存じのように、東方之光・MOAグループが、教主様のことを、尾行して盗聴して盗撮したと、そういうことですね。
それは、教主様が、そのようにご自分のお気持ちを明らかにされるのを防ぎたい、弱みのようなものをつかんで、はっきり言ってしまえば、脅して、そして教主様を黙らせたいと、そういう意図であったと思います。
そして、尾行して得た情報をあちらの方々は教主様に突きつけた。これで教主様はびびって黙るだろう、これからは自分たちの言うことを聞くだろう、ということだったんですけれども、それが、教主様はそのようなことには屈されず──当時、白澤先生や川谷先生のご尽力もありましたけれども──むしろ、東方之光・MOAグループが尾行・盗聴・盗撮をしたということが表に出ました。
しかし、改めて、あちらが尾行してつかんだ情報は何だったのかというと、これが、教主様にキリスト教の友人がいらっしゃる、そして『聖書』の学びをしていらっしゃる、ということだった。
あちらは、これは使える、これは脅しの材料として使える、と思ったんでしょうけれども、でも、明主様は、明主様はですよ、メシア教はよほどキリスト教に近くなるとか、メシア教はキリスト教と呼応して人類救済を進めるとか、あるいは、イエスの予言を実行するのが我々メシア教である、とおっしゃっている。『聖書』のことについても、世界の宗教の本の中で罪を悔い改めるのに最も力ある本が『聖書』だ、アメリカでは一家に一冊『聖書』があるのが羨ましい、刑務所に『聖書』を置くべきだ、とおっしゃっている、ということがあるから、尾行・盗聴・盗撮をして得た情報は、全然脅しにもならなかったわけです。拍子抜けするような内容なわけです、本当は。
もちろん、今言ったようなことを明主様が一切おっしゃっていなければそれは問題ですよ。でも、今言ったこと全部、明主様は確かにおっしゃっている。
ですので結局、脅しが全然効かずに、MOAの方々としては想定外だったんだと思いますけれども、むしろMOAが尾行・盗聴・盗撮をしたということが表に出た。そうすると今度、MOAやMOAと同調する方々としては、教主様は、尾行・盗聴・盗撮を実行・容認している自分たちよりももっとひどい存在なんだということを証明しなければいけなくなった。
ということでどうしたかというと、教主様への誹謗中傷を大々的にした。尾行して得た情報を曲解して伝え、盗撮した映像そのものを拡散し、あるいは、教主様に関する虚偽の情報を流し、教主様を貶めようと必死になった。
そして最終的には、教主様はとんでもない教義違反をしている、ということで、まず、今は世界メシア教ですけれども、当時、主之光教団に対して、主之光教団はもう世界救世教ではないと言い出した。包括・被包括関係というのがありまして、それをもう切ったんだから、主之光教団は世界救世教につながらない団体であるということを言い出した。
また、教主様につながるいづのめ教団の多くの専従者に対しても、教団の言うことを聞かなければ研修だぞ、というように迫り、しまいには退職に追いやり、首にしたり、あるいは皆様が長年親しんできた拠点──これは、建てたばっかりの拠点もあったんですよ、これからここでご神業をしようと思っていた、建てたばっかりの拠点もあったんですよ──そこから皆様を追い出したりして、そして最終的には、教主様に対して、あなたはもう教主ではない、ということを一方的に主張していると、まあ、そういうことですね。
で、結局、これらすべてのこと、この4、5年に起きたこれらすべてのことについて、私たちは、神様から、「これについてあなたは感謝しているか。それとも文句があるか。どちらか」と訊かれたらどうするのか。この二択ですよ、間の答えはない。「感謝しているか。不平があるか。どちらだ」と訊かれたら、それは、私たちは、「感謝しています」と、そう言わざるを得ないのではないですか?神様が私たちのことを愛してくださっていることは間違いがない。ですね?ですので私たちは、「神様、感謝しています」と、そう言わせていただく以外にはないと思います。
もしそうでないならば、それは、あちらの方々がされたように、4年前の立春の時にご自分のお気持ちを明らかにされた教主様に対して、教主が自分の気持ちを言うなんてとんでもない、気に入らない、不満だ。教主が自分たちの言うことを聞かない、不満だ、不平だと言って、その不平が積もりに積もって、明主様が、「不平の心は悪魔に通ずる」とおっしゃっているように、その不平の心が、悪魔の所業とも言える尾行・盗聴・盗撮という形になって現れたと、そういうことになってしまうのではないですか。
明主様は、根本的に「利他愛」を説かれたお方ですよ。「地上天国建設」、汚れのない「水晶世界」をこの地上に打ちたてようとされたお方ですよ。
もし教義違反があるとしたら、それは、絶対に、尾行・盗聴・盗撮という行為が一番の教義違反ですよ。
本当に、明主様を信じる私たちの仲間が、そのような姿にまで堕ちてしまったのは非常に残念ではありますけれども、でも、いつの日か、必ず、神様、明主様は、彼らに対して、「本当に自分たちは明主様のことを汚す大変なことをしてしまったんだ」といって悔い改めることができる日を用意してくださっていると、そう私は信じております。
今お話ししたことと、もう一方で、今度は、世界メシア教が去年復活してからのことがありますね。今日教団マークも新しくなりましたけれども、いろんな変化がありますね。ものすごいスピードで変わっていく。今は天津祝詞をお上げしないとか、「主の祈り」をお上げするとか、また、「アメイジンググレイス」という歌が出たり、いろんなことが常に変化しておりますね。
このことを、私たちはどう思っているのか。
いやもうそれは素晴らしいことだ、と思われる方もいらっしゃると思うし、あるいはそうではなかったりと、いろいろだと思いますけれども、でも、もし神様から、このいろんな変化について、「あなたは感謝しているのか、それとも、どんどん変わっていって付いていけない、不満であると思っているのか、どっちなのか」と尋ねられたら、私たちは何とお答えするのでしょうか。
私たちが考えなければならないのは、この激しい変化、たった一年で、このスピードで、これだけ多くのことが成し遂げられるというのは、これ、人間の力でできるものではないですよ。神様、明主様の絶対力をもってしなければこんなことは起こり得ないですよ。だから、いろいろ起きてくることについて、やはり、神様に対して感謝をしなければならない、と思います。
もしそうでないならば、「また変わるのか」とか、「何でこんなことをしなければいけないんだ」というように、その不平の思いをずっと自分の中に残していたら、「不平の心は悪魔に通ずる」と明主様がおっしゃるように、その気持ちがどういう形になって現れてくるか分かりませんよ。
確かに教主様は、いろいろ感じさせられることを委ねることの大切さについてお説きになっていますね。だから、いろんな思いが湧いてくるのを委ねました、とか、納得がいかないけれどもその思いをお委ねしました、とか、また変わるのかと思ったけれどもそれをお委ねしました、ということは確かに大切ですよ。
でも、決めなきゃいけないことというのはあるんです、決めなきゃいけないこと。一人ひとりが決断をしなければならないことはあると思うんです。決断することの大切さ、これを忘れてはならない。
冒頭に申し上げた明主様の聖言は、「人間は想念次第」ですね。感謝が感謝を生み、不平が不平をよぶ、に始まり、感謝の心は神に通ずる、常に感謝する人は幸福者となるんだと続いて、この聖言の明主様の結論は、「大本教のお筆先に曰く「喜べば喜び事が来るぞよ」とは正に至言である」と、そうおっしゃっていますね。
「喜べば喜び事が来る」ですよ。喜び事が来たから喜びなさい、ではないんですよ。喜べば、喜び事が来ますよ、とおっしゃっていますね、明主様は。だから、今ね、メシア教になっていろいろ変化がある、それが、「なぜ変わるのか分からない」「付いていけない」という思いが湧く中で、「でも私はそれをお委ねしています」ということだけでは先に進めないと思うんですね。
やはりまず、「世界メシア教の道は喜びの道である」ということ、これは一人ひとりが決めなければいけない。
「喜べば」とおっしゃっているということは、これは、一人ひとりに、「もしあなたが喜べば」ということで、選択の余地を残していらっしゃいますね。それは、皆様お一人おひとりが、一見喜び事が来ていないと感じられる中にあっても、「私は喜びます」「今、私の歩んでいる道は光の道であり、喜びの道です」と決めるか否か、私たちは、この決断はしなければならないのだと思います。
その「喜び事」とは何なのか。人間の喜び事というのはありますけれども、神様の思われる喜び事、これはどういうことか、私たちには分からないですよ。でも私たちの考える喜び事よりも遥かに素晴らしい喜び事であることは間違いがない。だから、「このメシア教の道は喜びの道です」と、まず、決めなければいけないと思うんですね。
でもこれは、メシア教のことだけではなくて、あらゆることにおいても同じなんですね。「メシアとして新しく生まれる」ということも、皆様がよくおっしゃるのは、「実感がない」。でも、実感がないから喜ばないんだとしたら、新しく生まれるという喜び、実感はずっと来ないですよ。
「神様の魂が私の中にあります。新しくお生まれになった明主様は私の中にいらっしゃいます。そして私の中には、新しく生まれる喜びがあります」というように喜べば、その喜び事が、もしかしたら来るかもしれない。
それを、「なかなか実感が湧かないけれども、明主様の聖言を一生懸命勉強して、少しずつ何とかそこに到達したい」ということだけでは、その喜び事は来ないと思いますよ。
あるいは、明主様とイエス・キリストが相呼応しているといっても分からない、分からないから、その気持ちをお委ねしながら、聖言とか教主様のお言葉とか『聖書』とかを少しずつ学んでいって、いつか分かるようになりたい、ということは確かに大事ですけれども、それだけではいつまで経っても分かるようにはならない。
そうではなくて、「明主様とイエス様は確かに私の中にいて、お二人は、主神に喜びの中で仕えていらっしゃる」、そして、「私の中にも、明主様とイエス様と同じ喜びがあります」ということで決めて、そして、「私も喜びます」と言えば、もしかしたら、喜び事が味わえるかもしれない。
でも私は、こういうことをお話ししながら、何も、この世の中で一般的に言う、「何事にも感謝しなければならない」とか「何事も喜びで受けとめなければならない」ということを言わんとしているのではないんですね。
というのは、明主様は、「感謝の心は神に通じ」と仰せですよ。私たちは、人間への感謝は、得意と言いますか、好きと言いますか、そのことを大切にするということは思えたりしますね。「あの人に感謝するのを忘れていた」とか、「長年こういうことをしてくれたから、あの人に感謝しよう」とか、あるいは、「自分は誰かから感謝をされると嬉しい」とか、そういうことはありますね。
でも明主様は、「感謝の心は神に通じ」とおっしゃる。ということは、結局、感謝と言っても、感謝が帰されるべき方は、神様お一方であるということですね。
で、この神様が、いわゆる神道とかでいうその神様ではなくて、私たちの神様というのは、明主様が「主の神」とか「天の父」とか「エホバ」──ヤハウェとも言いますが──とおっしゃる唯一の神様ですよ。私たちの本当の親である、唯一の神様。このお方にすべての感謝が帰されるべきなんですね。
というのは、明主様は、この唯一の神様のことを何としても知ってほしい、すべての人がこの神様と出会って、そして、その喜びを感じてほしいと一番願っておられたと思いますよ。
確かに明主様は、「超宗教」という言葉をお使いになって、ご自分の業が宗教の枠組みを超えた業だとおっしゃいましたけれども、私たちは、それを、「宗教隠しは神様隠し」という意味だと勘違いしてきたのではないでしょうか。しかし、明主様は、神様というご存在をお隠しになるつもりは一切ないですよ。
御歌にも、「全人類神ある事を信ぜずばやがて平和は夢となりなん」。全人類が神を信じないならば、この世の平和というのは成し遂げられないであろうと、そういうことですね。
あるいは、「吾は今有神論を振り翳し無神謬論打砕くなり」。「有神論」ですから、「神が有る」ということを明主様は振りかざしておられるんですよ。そして、「神が無い」という考え方を打ち砕かれたいとおっしゃっていますよ。だから明主様は、何としても、すべての人が、神様というご存在に目覚めてほしいと願っておられたと思います。
ご自分の業は既成宗教とは違うということもおっしゃいましたけれども、その意味も、普通の宗教というのは、道徳的な教えを説くみたいなことで終わってしまっているじゃないか、でも、神様の力はそんな道徳的なことなのか、本当は、神様は、ありとあらゆるところにいらっしゃるじゃないか。人間は、自分の体が悪くなったら、薬を飲んだりして維持しようとする。でも明主様は、「薬毒」ということを訴えられることを通して、「本当にあなたの体を維持しているのは誰なんだ、それは神様じゃないか」「神様があなたの体を維持しておられるじゃないか」「本当の宗教とは、道徳的な教えではなくて、あなたの中に生きて働いていらっしゃる神様のことじゃないか」ということを伝えられたかった。
あるいは農業ということも、普通は、なかなか作物ができない、じゃあいっぱい肥料をやろう、人間の力で何とか育てようということですけども、明主様は、「本当に作物を育てているのは誰なんだ」「神様じゃないか」と言われたかった。
あるいは芸術ですね。いろいろな芸術作品がある、でも、「本当の創造主は誰なんだ。それに気づきなさい」ということで、芸術作品を通して、何としても、私たちに神様という存在に目覚めてほしかった。
要は、明主様のおっしゃる「宗教」とは、一般に世の中で考える「宗教」という小さな枠組みではなくて、神様というご存在はすべてにいらっしゃる、という業に仕えるのが本当の宗教であるよとおっしゃりたかった。
だから、それは、世の中で普通に言う宗教の枠組みを超えているわけです。だって、科学も含めて、いわゆる「宗教」ではないものも用意されたのも神様なんですから。
というように明主様はご神業をお進めになったんですけれども、最晩年、これが、「御浄霊は二の問題である」「これから想念の世界である」とおっしゃった。ということは、確かに、神様は、世の中のすべてのことの中にいらっしゃる。神様は、人間の体を常に維持していらっしゃるし、土の中にもいらっしゃるし、あらゆる芸術品も神様が本当の造り主である。そして明主様は、浄霊、自然農法、芸術というような活動を通して救いを進めておられた。そういう活動を通して、人類に神の存在に気づいてほしかった。だけど、最終的に、「御浄霊は二の問題」であって「これから想念の世界である」とおっしゃったということは、最初は形ある世界での救いだったけれども、今度は、目に見えない世界での救いに入った、そういうことですね。
神様は、実に、私たち一人ひとりの心の中にいらっしゃるじゃないか。本当に救いを進めておられるのは私たち一人ひとりの心の中じゃないか、ということを明主様はお示しになりたかった。
私たちは、日々、いろいろ思いますね。人間関係とかの中でいろいろ思う。その心の動きを通してこそ、神様は救いを進めておられるじゃないかと、それをお示しになりたかった。
最初私たちは、形ある世界での救いの業を学ばされましたね。だけど、最終的に明主様は、「これからは、人類の心を通して世界を救うんだよ」ということを教えてくださった。そうではないですか?
だって今、世の中、ほとんどの人は、この心の問題、持て余していますよ。家庭内のこととか、職場のこととか、人間関係とかで、皆、何かを抱えている。そして、この心の問題については、誰も、解決策を持っていないんです。お酒を飲んで気を紛らわせたり、趣味の世界に走ったり、あるいはもう忘れようとしたりと、皆、心の問題を持て余している。でも私たちは、それが救いであるということを知らされている。ですね?
ですから、もし、世界中の人たちに──と言っても、それは私たち一人ひとりの周りにいらっしゃる方々ということになりますけれども──そういう人たちに、私たちが知らされたことを伝えることができたら、それは素晴らしいことだと思います。
心の中で苦しんでいらっしゃる方、たくさんいますね。皆、何かを抱えている。でもそれは、ただの苦しみではなくて、実は、神様がね、私たちの心の中においでくださって、そして、ご自身の「愛の手」によってその苦しみを受け取ろうとしていらっしゃる。
だから、これが浄霊ですよ。絶対にこれが浄霊だと思いますよ。本当の浄霊。全人類の心の中にいろんな思いがある。でも、神様が、私たち一人ひとりに、「その思いを私のもとに返しなさい」とおっしゃってくださって、手を差し伸べてくださっている。これが浄霊ですよ。そしてその救いの手は、誰の中にもあるんです。
だから、もし私たちが、出会う方々にこのことを伝えることができたら、世の中の人は本当にたくさんの悩みを抱えていらっしゃるわけですけれども、その苦しみの心をきっと神様が受け取ってくださって、そして、必ずや、喜びの世界を造り出してくださる。神様が、皆様を通して、その喜びの世界を造り出してくださる。
ですので、私たちは、「喜びます」「喜びの道を歩んでおります」と決心させていただいて、そして、神様は、世の中の人の悩みを受け取り、本当に光に満ちあふれた世界を造ろうとしていらっしゃるわけですから、その神様の救いの御用に、大いなる喜びのうちに歩む時が来た、と思います。ですので私たちは、世界メシア教復活一周年の今日、「私の歩んでいる道は喜びの道です」と決心して、ここを出発させていただきたいと思います。
ありがとうございました。