PDF: 立春祭_教主様お言葉
2021年「世界メシア教 立春祭」教主様聖言のポルトガル語朗読版は、こちらからご覧いただけます。

於:ホテルオークラ神戸(平安の間)

 

皆様、本日は、「世界メシア教 立春祭」おめでとうございます。
 本日の祭典行事につきましては、「ホテルオークラ神戸」の皆様のご理解とご協力、また、格別のご配慮をいただきまして、開催させていただくことができました。ここに、「ホテルオークラ神戸」の皆様に、厚く御礼申し上げます。誠にありがとうございます。

 

昨年の立春祭は、明主様が開教された世界救世(メシア)教のみ心を、何としても受け継ごうとされる皆様が、70年の時を超えて、その尊い世界メシア教の名をもって宗教活動を開始された記念すべき日でありました。
 私は、その日を皆様とご一緒に希望に胸をらませながら、謹んでお迎えさせていただくとともに、世界メシア教の復活をお許しくださった明主様に感謝申し上げ、明主様のみ心の実現に努めてまいる決意を新たにして出発させていただきました。
 その出発から一周年を迎えた本日、この一年を振り返って思いますことは、明主様は、ご自身が本来願っておられた全く新しい救いのみ業を世界的に展開していくために、私どもを力強く導いてくださったということであります。
 それは、明主様が世界メシア教の将来に大きな期待を寄せておられ、私どもを全人類の代表として、先駆けとしてお使いくださっているからであると思います。
 皆様は、その期待に応えられて、明主様が導いてくださるご神業に勇気をもって飛び込まれ、精一杯励んでくださいました。
 そうした皆様のひたむきで純粋なお姿を明主様がご覧になって、大変喜んでいらっしゃることを思いますと、私も感動で胸がいっぱいであります。
私は、この一年、皆様と歩ませていただく中で、主神が万物を私どもと一体の存在としてお使いくださっていること、そして、明主様とイエス・キリストとが相呼応して唯一の父なる神にお仕えになり、全世界の人々を漏れなく救いの源である天国に立ち返らせるために、私ども一人ひとりの中でお働きくださっていることをはっきりと感じさせていただきました。
 今までの私どものように、救いと光と力をひたすら求めて歩み続けている人々を主神は顧みてくださり、天国に迎え入れるために私どもの中に集めてくださっています。
 今後とも、私は、皆様と心一つに、そうした人々を主神にとりなすための祈りを捧げさせていただくとともに、多くの人々に先駆けて、真実の恵みを知らされた者であるとの自覚をもって、その恵みをすべてのものに分け与える御用に、主神のお許しを賜りながらお仕えさせていただきたいと思っております。

 

さて、本日の祭典会場の正面中央に掲げられている教団マークは、明主様が昭和25年立春、世界救世(メシア)教を開教された折にお作りになり、お使いになったマークを基に作製されたマークであります。
 私は、明主様の世界救世(メシア)教開教のみ心が込められたこのマークを、明主様が愛されたこのマークを、皆様が大切にされ、本日を期して新しい教団マークとしてお使いになることをお伺いし、明主様の明るい笑顔が目に浮かんでまいるようで、私も大変嬉しく思っております。
 私は、明主様がこのデザインのマークをお作りになったということは、このマークがご自身の中に存在していたからであると思います。
 そして、このマークを、当時の教団機関誌である『地上天国』誌などでお使いになったということは、このマークが、ご自身だけではなく、すべての人の中に存在することを知らせたい、と強く思っておられたからではないでしょうか。
 このマークは、主神の創造のみ旨が成就していることを示すものであると思います。
 ヨコ()の棒は、時間と空間を含め、創造されたすべてのものを示していると思います。
 そのヨコ()の棒に対してタテ()の棒が貫いているということは、創造されたすべてのものを主神の創造のみ旨が貫いている、ということであると思います。
 重要なことは、このマークに中心があるということです。
 中心にある丸は、大光明燦然と輝く主神を表現していると思います。
 このマークは、主神の創造のみ旨が、すなわち、主神がご自身の子を生むというみ旨が、すべてのものを貫き、そのすべてを治めておられるのが主神であることを示していると思います。
 私どもにとって、自分の中心であり中心軸は、この〝わたし〟という自分ではなく主神であります。
 私ども人類は、世に遣わされる前、主神のみもとである天国において、メシアの御名と共に、このマークを魂に印刻されました。
 私どもは、このマークを印刻されて世に遣わされているのですから、私どもの意識の中心には、主神の創造のみ旨が成し遂げられている天国が、今も存在しているのです。
 このマークは、私どもの中で生きています。すべてのものの中で生きています。
 私どもの中には、大光明燦然と輝く主神が生きておられ、神の子たるメシアとして新しく生まれるという道が成し遂げられているのです。
 畏れ多いことではありますが、これは事実です。
 何という大きな救いの福音を、明主様は私どもに知らせてくださっていたのでしょうか。
 この事実を認めるのか、それとも否定するのか、信じるのか、それとも架空のものとするのか、私ども一人ひとりが今、決断しなければなりません。
 この重大な事実を、この千載一遇の救いを、私ども人類が思い出し、その恵みに応えることができるようにと、主神は明主様を世に送ってくださったのではないでしょうか。

 

主神は今、私どもに対し、ご自身がなぜイエス・キリストを世にお遣わしにならなければならなかったのか、なぜ十字架にかけなければならなかったのか、その思いを少しでも知ることができるように導いてくださっていると思います。
 神をないがしろにした私どもであっても、主神は私どもを等しくご自身の子供とするために、私どもをい、浄め、救い出してくださいました。
 私どもの中で救いは成し遂げられているのです。
 明主様は、救いがご自身の中で成し遂げられていることを信じられました。
 明主様は、昭和5年にご発表になった「私の歩んだ信仰生活」と題する聖言の中で、ご自身が度重なる悩み苦しみに深く嘆き悲しみながらも、絶望のどん底から立ち上がられ、信仰の道にお入りになった頃のことを振り返られて、次のように述べておられます。
 「勃然と、の心はこの時信仰を求めました。信仰! 信仰! 信仰によるよりほかは心の悩み身の悩み、生活の悩みは救われる道がないと思いました。深く──深く、人生の無常が氷の壁のように私の心も身も包んでしまったのです。せめて、信仰の暖かい光を彼方の空のどこかに仰ぐだけでも仰ぎたかったのです。それだけでも私には救いとなりました」
 明主様が絶望のさなかにあって、信仰の暖かい光を求めて仰がれた空のどこかという、その「空のどこか」とは、ご自身の意識の中心におられる主神だったのではないでしょうか。
 主神が全人類に立ち返ってくるようにと呼びかけておられる、その呼びかけに明主様が応えられ、主神に心を向けられたからこそ、救いの源である主神の愛がご自身の心の中にひっそりと流れ込んできたのではないでしょうか。
 そう考えますと、私は、明主様が夜昼転換の到来をお受けになったのも、また、罪穢れのない世界、病貧争のない世界、闇のない大光明世界が「確かに出来る」「必ず出来る」「絶対に出来る」と仰せになったのも、そして、最終的に、メシアとして新しく生まれ、永遠に生きる者となるという、この上ない喜びをお感じになったのも、主神がご自身の中で生きておられることを信じ、目に見えるような現象として現れなくても、ご自身の意識の中心に存在する天国において、救いがすでに成し遂げられている、と確信しておられたからであると思います。
 この明主様のお持ちになった信仰こそ、の信仰であります。

 

信仰は、人間の思い思いの望みを叶えるためにあるのではありません。
 信仰は、主神がご自身のみ旨を成し遂げるためにあるのです。
 主神は、たとえ私どもが、いまだ目に見えなくても、感じられなくても、思えなくても、み旨が成し遂げられていることを信じる心を持つことができるように、信仰という営みを用意してくださいました。
 明主様は、「見えざるものを信ずる」ことがいかに大切なことであり、また、それがいかに難しいことであるかを、繰り返しお述べになり、それが信仰であるとお説きくださいました。
 また、「人の眼に見えねど神の経綸はに成りけりの世界に」という御歌をお詠みになりました。
 主神が明主様を通してこのように仰せになっているのに、どうして私どもがそれを否定することができるでしょうか。
 私どもの本体は天国に属しているのですから、主神が天国というの世界で救いを成し遂げられたことを確信し、栄光を主神にさせていただくことが、主神に対する礼節なのではないでしょうか。
 明主様がお詠みになった御歌、「信仰の真髄こそは礼節を守るにありと知れよ信徒」という御歌は、このことをおしくださっているように思われます。
 私どもは、天国に立ち返って、主神に対し、〝あなたはわたしの中で、すべてのものの中で、救いを成し遂げてくださいました〟とご奉告申し上げ、〝すべてのものを新しくする創造のみ業にお使いくださいますように〟と自らを捧げさせていただく務めがあるのではないでしょうか。
 信仰と申しましても、それは想念の営みであります。
 私どもは、明主様がなされたように、見えざるものを信ずる信仰を主神に捧げさせていただき、明主様がご昇天を間近にして、「これから想念の世界である」と仰せになったみ心にお応えさせていただきましょう。
 そして、このようにして、主神のみ旨の成就のために、想念をもってお仕えすることを許してくださっている主神に対し、全人類とその父母先祖の方々と共に、万物と共に、心から感謝させていただきましょう。
 メシアの御名と共にあるの安らぎと希望が、皆様の中に、すべてのものの中に満ちますように。
 ありがとうございました。

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