PDF: 豊穣祈願祭_真明様ご挨拶
「秩序ある世界」
於:本部ご神前
皆様こんにちは。
私たち明主様の信徒にとりまして、非常に重要な問いがあると思います。
それは、明主様は、今も生きていらっしゃるのかどうか。
生きていらっしゃるのか、生きていらっしゃらないのか。生きていらっしゃるのか、はっきり言えば、死んでいらっしゃるのか。どちらですか、という問いがあると思います。
皆様の中にはこれを聞かれて、それはそんな重要な問いじゃない、明主様は今当然生きて働いておられる、当たり前じゃないかと、そういうふうに言われたい方もいらっしゃると思うんですけれども、私は、これはそんな簡単な話ではないと思っております。
というのは、私たちは、私たちの願っている明主様、この明主様には生きていていただきたいですよ。私たちの創り上げる明主様像通りの明主様、この明主様には生きていていただきたいですよね。
だけど、もし明主様が今も本当に生きていらっしゃるんだとしたら、私たちは今さまざまな信仰活動をしておりますけれども、その善し悪しについて、明主様から、はっきりと言われてしまう可能性がある、ということですね。
そして、その明主様とはどういうお方なのか。明主様は、教団名の「観音」「ミロク」という名前をいきなり降ろされて「世界メシア教」とされたり、あるいはご浄霊についても、最晩年には、「御浄霊は二の問題である」とおっしゃったりされた。しかもそのような変革を、たった数年のうちになされたお方、それが明主様ですよ。
その明主様がご昇天になってもう何十年も経っておりますけれども、今現在、明主様は本当は何を願っていらっしゃるのか。これは計り知れないものがあると思います。
ですから、どんなに私たちが、自分は明主様のみ心通りに歩んでいる、自分はこれをしているから明主様のみ心に適っている、というようなことを言ったとしても、もし明主様が本当に生きていらしたら、「それは私の願いではない」と、はっきり否定されてしまう可能性がある、ということですね。
ご存じの方もいらっしゃると思いますけれども、明主様は、非常に分派が多いんですね。明主様を教祖と仰ぐ宗教団体はいっぱいある。そうすると、もし明主様が本当に生きていらしたとしたら、当然明主様の願いは一つなわけですから、例えば10くらいそのような団体があったとして、明主様は、「10の中でこの9つは私の心に適っていない」と言われてしまうかもしれない。「私の心に適う教団はこれだ」とはっきり言われてしまうかもしれない。ま、あるいは、その10個、全部駄目かもしれませんよ。「どれも私の心に適っていない」と明主様に言われたら、私たちはどうするんでしょうか。どうすることもできないですね。
どんなに、「一生懸命聖言通りにやっているんです」「私たちの活動は社会に受け入れられているんです」「世の中の人と協力してやっているんです」「多くの人に認められているんです」と言っても、明主様から、「そのありようは私の願っているものではない」と言われたら、それでもうおしまいということになってしまいますよ。
だから、そう考えると、私たちは、「明主様には当然生きていらしてほしい」「生きて働いていていただきたい」と思うかもしれないけれども、本当にそう思っているのかというと、実際は、怪しいものがあるんじゃないのかなと思います。
だから、実は、私たち一人ひとりが問うべき問いというのは、明主様が今生きていらっしゃるのかどうかという問いではなく、「自分は本当に明主様に生きていらしてほしいと願っているのか。それとも願っていないのか」という、この問いではないのかなと思います。
自分の思い描く明主様像の明主様、この明主様にはいくらでも生きていらしてほしいですよ。自分の行動を承認してくださって、応援してくださる、この明主様には生きていらしてほしいですけれども、絶対的権威をお持ちの明主様、私たちはこの明主様に本当に生きていていただきたいのか、いただきたくないのか。
「あなたの信仰姿勢は全然私の心に適ってない」とはっきり言われたら私たちどうするんですか?もうおしまいですよ。でも、本当に生きていらしたら、そう言われてしまう可能性があるということですね。
だから私たちは、明主様は生きていらっしゃる、生きていらしてほしいと、当たり前のように思っているようですけれども、本当に生きていらしてほしいのかどうか、これは、一人ひとり、考えなければいけないことだと思います。
ここで、世界救世(きゅうせい)教の話に入っていくわけなんですけれども、世界救世教としては、明主様は生きて働いておられる、ということになっているんですね。
どういうことかと言うと、世界救世教には「教規」というものがありまして、そこにそう定められている。
細かく言いますと、世界救世教信徒が従うべきルールというのは「規則」と「教規」で定めてあるわけなんですけれども、そのうちの「規則」は、国のほうに出すものですね。「教規」は、国に出すというより、むしろ、私たちの信仰のルールを定めたものなんですね。私たちはどういう信仰の道を歩んでいくのかというルールを定めたものが「教規」。
その「教規」に、世界救世教の教主とはどういうご存在なのか、何をされるのが教主なのかということが定められているんですけれども、その中の一つに、「教主は、教祖の聖業を継承し」とあるんですね。つまり、明主様のご聖業を継承されるのが世界救世教の教主であるということが定められている。
教祖の聖業を継承すると言ったら、それは、他に取りようがないですよね。要は、明主様は1955年にご昇天になってこの地上にはおられなくなったけれども、じゃあそこで明主様の現界でのご神業は終わりなのかというと、そうではない。明主様を継承されるお方がいらっしゃるんだ、それが教主様であるということですね。
ということは、世界救世教としては、「明主様は、ご昇天後は、『世界救世教教主』というお立場に生きてお働きになります」というルールを定めている、ということですね。だから、このルールが気に入らなければ世界救世教の信徒でなくていいと、そういうことですね。
ということで、明主様ご昇天後、まず、ご夫人であられた二代様が明主様を継がれた。二代様の後は、明主様のご息女でいらした三代様。そして、三代様の後は、明主様のお孫様であられる現・岡田陽一四代教主様ということになっているわけなんですけれども、今ね、ここでちょっともめ事が発生していると、そういうことですね。
で、この、「教規」の「教祖の聖業を継承し」の後に重要な文言が来るんですけれども、それが、「教義に基づき世界救世教を統一する」となるわけです。世界救世教の教主は、「教祖の聖業を継承し、教義に基づき世界救世教を統一する」と、こういうことですね。
ではその「教義」は一体何なのか、ここが問題ですね。というのは、結局、今言ったように、明主様の聖言、またご事蹟、これらのものの解釈はいろいろ可能ですよね、だからたくさん分派ができているわけですから。
だから、その「教義に基づき」の「教義」とは何なのか、世界救世教の教えの方向性は誰が定めるのかというと、これも、世界救世教としては、「教規」にはっきりと、「教義を定める」「教義の大綱を定める」のは教主様であると、そう定められている。
これは皆様もよくご存じだと思いますけれども、今言った「教規」の内容と類似しますが、二代様は、「教主教権」ということをおっしゃいましたね。
二代様は、「明主様ご昇天後は、明主様は霊界から、時の教主にご自分のみ心を伝えられるんですよ。聖言、御教えの解釈の『最高責任者』、また、どうやって信徒を教え導くかという『最高責任者』は『教主』なんですよ。そして、明主様の聖言を拝読する時は、教主教権の下にあってそれをさせていただいていることをちゃんと心に刻みなさい」と、そのようなことを二代様は仰せですね。
これは、ある意味では当たり前の話ですね。膨大な量の聖言があって、その解釈はいくらでも分かれる。だから分派がたくさんできているわけですよね。
だから、教団の教えの方向性を定めることについて、あの人はこう言っているけど、この人はこう言っている、というように、誰が責任者であるかが定まっていないと、全然信仰活動が進んでいかないですよね。この人が言ってることのほうが正しい、いやあの人が言ってることのほうが正しい、ということではずっとまとまらない。軍隊とかでも指揮系統がはっきりしていなければ非常にややこしいことになりますよね。上司が二人いて、こっちの指示を聞けばいいんですか?それともこっちの指示を聞けばいいんですか?ということになってしまいますので。
だから、世界救世教のルールとしては、まず、教主様ご自身が教義の方向性を定められて、そして教主様が、ご自分で定められた教義に基づいて世界救世教を統一されると、そういうことですね。
ということで、明主様ご昇天後は二代様。二代様は、大本との関係もありましたし、また、明主様というご存在と同時に、神様というご存在、これを非常に打ち出されました。もちろん、二代様の説かれたことを一口でちょっと言うのは大変難しいですけれども、どちらにしろ二代様は、神様というご存在の大切さについて説かれました。
三代様は、二代様の方向性を継承されつつも、芸術という側面を大事にされた。もちろん明主様も二代様も芸術については触れておられますけれども、その時代時代の教主様が定められる方向性で世界救世教は歩んでいくことになっていますのでね、三代様はそのようにされた。
そして、今の四代教主様になるわけですけれども、教主様は、私たち明主様の信徒にとって大切なのは、明主様が最晩年におっしゃった「メシアとして新しく生まれる」ことじゃないか。世界救世(きゅうせい)教という名前になってしまっているけれども、明主様は世界救世(メシア)教とされてたじゃないか。明主様は「御浄霊は二の問題で、これから想念の世界である」とおっしゃっている、これはどういうことなんだろうか。あるいは、明主様が「祖先の綜合体」とおっしゃっているということは、私たち一人ひとりの中に多くのご先祖様がいらっしゃるのではないか、というようなことを大切だと思われて、そして、それを私たちにお伝えくださっている。
このようなことを、私たちは、今まで歩んできた方向性と違うと感じるかもしれませんが、これらは全部、明主様がおっしゃったことですよ。「キリスト教と呼応」とか「世界メシア教」という名前も、「これから想念の世界である」ことも、すべて明主様がおっしゃっているがゆえに、教主様は、明主様の信徒にとって本当に大切なのはこのことではないのかと感じられて、そしてそれを私たちに伝えてくださっている。
だけれども、それが納得いかないということで、「世界救世教責任役員会」と名乗る人たちが、教主様は教義違反だ、追い出してしまおうと一方的に主張しているということですね、流れとしては。
でも、世界救世教のルールとしては「教義を定める」のは教主様ですからね、彼らにその権限はない。そもそも世界救世教にとって、教主様は、明主様の聖業を継承していらっしゃるお方ですからね。
だから、「世界救世教責任役員会」と名乗る人たちは、「明主様の聖業を継承しているのは教主ではなくて、自分たち責任役員会なんだ」と認識した、ということですよね。教主様のことを教義違反だと言えるということは、彼らは、「自分たちは明主様の教義とは何かを知っている」「自分たちこそ明主様のみ心が分かる」と思ったということですし、ということは、「自分たちの中にこそ明主様が生きて働いておられる」と、そのような認識であるということですよね。そうでなければ、彼らがしたようなことはできない。
で、世界救世教としては「教主」という存在がありますのでね、あちらとしては、自分たちの「教主様」を立てましたね。世界救世教の「五代教主」。それが、渡瀬信之氏という方なんですね。東海大学の名誉教授でヒンズー教の学者、また、MOAの関連団体の理事である渡瀬信之氏。この「渡瀬信之氏が現・世界救世教の教主様である」とあちらとしては主張している、ということですね。
渡瀬信之と言いますか、あちらとしては、「岡田信之」と名乗っているということで、これは──岡田家の一員としてはちょっと迷惑な感じもありますけれども──でも、きっと、あちらの方向性としては、渡瀬信之氏が「教祖の聖業を継承し」とか、「教義に基づいて世界救世教を統一する」ということではないんだと思います。きっと傀儡の教主と言いますか、おかざりと言いますか、ルール上教主という立場が必要なので一応定めているだけで、渡瀬信之氏を担ぎ上げている方々としては、自分たちの中にこそ明主様は生きて働いておられるんだと、そういうことなんだと思います。
そこで、立春祭の時にも少し話したんですけれども、結局、尾行・盗聴・盗撮ということがありまして、これは事実なんですね。東方之光・MOAグループ──事実上現在「世界救世教責任役員会」を名乗る方々のことですが──が教主様のことを尾行・盗聴・盗撮して、そしてこのような行為を多くの人たちが容認している、これは事実なんですね。
ということは、MOAグループや「世界救世教責任役員会」を名乗る方々の中にもし明主様が生きて働いていらっしゃるとしたら、明主様は、それらの方々に、「尾行・盗聴・盗撮せよ」と命じられたということになりますね。もし彼らが明主様の聖業を継承しているとするならば、「尾行・盗聴・盗撮せよ」というのが明主様のみ心であると、そういうことになりますね。
でも、もし、私たちの最も大切なご存在である明主様が、尾行・盗聴・盗撮を命じられたり、そのような行動を容認されるようなお方だったら、もうね、それは、私たち、即刻この信仰を辞めたほうがいいですよ。そんな教祖のもとで信仰をしていたってどこにも行き着かないですよ、それは。
だって私たちが信仰活動をするということは、清い存在、汚れのない存在になって、少しでも神様に近づかせていただきたいのに、もし、私たちの教祖そのものが尾行・盗聴・盗撮を容認するような存在だとしたら、もう私たちは何のために信仰活動をしているんですかということになりますよ。
あるいは、あるいはですよ、教主様はどうでいらしたのか。キリスト教の方とお会いになって、『聖書』のことを学んでおられたのが問題になっていますけれども、これ、教主様、何も、公の時間でしていらっしゃったんじゃないんですよ。ご神務本当にお忙しい中にあって、週末、遊んでいらしたっていいんですよ。リラックスされてね、ゴルフに行かれるとかされてもいいところを、休日ですら、信仰のためにお時間を使われている。
それは、きっと、明主様が「メシア」という言葉を遺されたりとか、「ハレルヤコーラス」とか、キリスト教と呼応するとか、『聖書』の重要性についても説かれていますのでね、何とかそのみ心を、ということで教主様は、もう24時間、毎日、休みの日でも関係なく、キリスト教や『聖書』のことを学んでいらっしゃる。
どっちに明主様が働いていらっしゃるんですか?尾行・盗聴・盗撮を実行・容認する方々の中なのか、それとも、寸暇を惜しんで、お休みの日のプライベートな時間まで、明主様のみ心を求めるためにキリスト教や『聖書』に触れておられる教主様の中に生きて働いておられるのか、どっちなんですか?
答えはあまりにも明白ではないでしょうか。
そして、教主様がそういうことをしてくださっているのは、明主様のみ心のためでもありますし、また、私たち信徒を何とか明主様の本当のみ心に導かれたいと、そのためなのではないでしょうか。
だから、やはり明主様が、教主様に対して、「こういうことを勉強せよ」「学びなさい」「私の本当の願いを知って、少しでも私に近づきなさい」と、そう命じられたのではないのかなと私は思っております。
ではね、今の話の流れからして、私たちは、尾行・盗聴・盗撮という行為を一方的に裁いていいんですかというと、これは、決して裁けるものではないんですよ。
私たちが偉そうに、あの人たちは悪い人たちだ、とんでもないと言って裁けるかというと、そんなことはないんですよ。
明主様も、「裁く勿れ」ということで、人を裁く前に自分を裁きなさいとおっしゃっていますね。また、この「裁く勿れ」というのは、イエスが、『聖書』で、あなたがたが裁くその裁きで自分も裁かれますよ、あなたがたの量るそのはかりで自分も量られますよ(「マタイによる福音書」第7章2節)とおっしゃってますよ。
尾行・盗聴・盗撮というのは、非常に卑怯で卑劣な行為ですよね。ではね、なぜそのような行為を、私たちは単純に「悪」として裁けないのかというと、私たちはまず、なぜ彼らがそのような行為をしたのかを考えなければならない。
なぜと言って、それは確かに色んな理由があるとは思いますけれども、突き詰めていくと、やはり、教主様がお示しになる方向よりも、自分たちに都合のよい方向性、自分たちの願い、これを優先して生きていきたい、ということではなかったのでしょうか。
では、もしそうだとして、私たち自身、神様に対してそういう思いを持ったことはないんですか?
神様の御心があるのは分かる。だけど私たちは、それを求めるよりも、この世の喜びとか、自分の都合とか、いや自分の家族がこうだとか、自分がこうだとかいうことで、自分の都合を優先した生き方──これは私も含めてですが──そういう生き方をしていませんか?
そして、そのように生きていながら、その自分自身の思いとか行動を正当化するようなことを神様に対してしていませんか?していると思いますよ、きっと、私たちは。
だから、そのような私たちの姿というのは、神様からご覧になったら、きっと、卑怯で卑劣なんだと思います。神様は、「あなた方は、本当は私の言うことを聞かなければいけないのに、自分の都合を優先して生きているじゃないか」「そしてそのことも、『神様がこうおっしゃったから』とか『明主様がこうおっしゃったから』と言いながら正当化して生きているじゃないか」と、このように神様は思っていらっしゃる。
いや、だってですよ、そんなね、尾行・盗聴・盗撮という行為なんて、普通、したくないですよ。だから、もし私たちが、ずっと前から、私たち自身の神様に対するとんでもない姿に気づくことができていれば、彼らもあのようなことをしなくてよかったんです。でもね、神様があの方たちをあのように使われなければならなかったのは、私たちが、あまりにも私たち自身の神様に対する姿に無知であったから、だからですよ。
だから神様が、分かりやすい形でああいうことを彼らにさせて、私たちに対して、「彼らの姿を見なさい」「これがあなたの姿じゃないのか」「あのような卑怯・卑劣な姿が本当はあなたの本性じゃないのか」ということを形に表してでさえ私たちに教えてくださろうとしていらっしゃるんじゃないのかなと、そう思います。
そして私たちがそういうことに気づくことによって、ああいうふうに使われた人たちが神様から仰せつかったお役を、私たちが、本当の意味で全うさせてあげることができると思うんですね。
これをですよ、ただ私たちが裁いてね、あの人たちは悪いんだ悪いんだと言っていたら、神様がその人たちを使った役目がずっと完結しないことになりますよ。
だから、決して裁くことではない。むしろ、「彼らの姿は私たちの姿である」ということを深く胸に刻んでおく必要があると思います。
ということで、では明主様は誰の中に生きて働いておられるのかというと、これは、私たちとしては、それは教主様であると、そういうことですね。だけどこの教主様は何とおっしゃっているのかというと、これが、実は、特殊な人だけではなくて、明主様は、実に、あなた方一人ひとりの中に生きて働いておられるんですよとおっしゃる。教主という特殊な立場の人の中だけで生きて働かれているのではないとおっしゃる。
明主様は教主様の中に生きて働いておられる。だけど、その教主様は「明主様は、皆様方お一人おひとりの中に生きて働いておられる」とおっしゃっている、そういうことですね。
明主様ですよ。明主様ご自身が私たちの中に生きて働いていらっしゃる。これは大変なことですよ。私たちはこれを当たり前のことのように思っているかもしれませんけれども、明主様そのものが私たちの中に生きて働いていらっしゃる、これは大変なことですよ。
そしてこの明主様はどういうご存在なのかというと、明主様は、最終的にはメシアとして新しくお生まれになった。そのメシアとして新しくお生まれになった明主様が私たちの中に生きていらっしゃる。これは大変なことですよ。
もしこれが事実だとして、ではどうやったら一番明主様のお役に立てるか、どうやってお仕えさせていただくのが一番いいかというと、それは、明主様と一つにならせていただくことですよ。それが一番、明主様のお役に立てることですよね。
明主様の本当の願いを進めるのに、明主様たったお一人では限界がありますよね。だけど、明主様の本当の願いと一つになって、明主様のご神業を進める人たちがたくさんいれば、それは明主様にとってこれほど心強いことはないわけですよね。だから私たちは、自分の中にいらっしゃる明主様と一つにならなければならない。ということは、メシアとして新しく生まれなければならない、ということですよ。だから、「明主様は私の中にいらっしゃる」というのは簡単な話のようですけれども、これは、大変なことだと思いますよ。
大体、普通、どんな宗教でも──キリスト教であれ、仏教であれ──その信仰の目的は、本来、自分が教祖と仰ぐその存在に少しでも近づきたい、ということのはずですよね。だって、なぜ私たちは、ずっと、浄霊とか、自然農法とか、芸術活動とかしてきたんですか?明主様ご自身がされていたことを私たちもさせていただいてきたのは、それは、少しでも明主様に近づかせていただきたいということのはずでしたよね。
教主様がお説きになっていることも、突き詰めれば、この一点ですよね、明主様に近づかせていただくか否か。だとしたら、結論としては、あなた方も明主様に倣ってメシアとして新しく生まれるのか否か、ということになりますよ。
だから、これ、教義違反になりようがないですよね。明主様と一つになること。これ、教義違反になりようがないんですよ。なりようがないから、だから、結局、尾行みたいなことをせざるを得なかったんじゃないんですか。
というのは、もし教主様が本当に教義違反であったとしたら、それは、教義上で、御教え上で論じればいいことのはずですよね。
明主様、「メシアとして新しく生まれる」ということをおっしゃっているかどうか。おっしゃっていますよ。
教主様は、思いを神様にお捧げすること、想念の大切さを説いておられますが、明主様はおっしゃっていないんですか?おっしゃっていますよ。「御浄霊は二の問題でこれから想念の世界である」、おっしゃっていますよ。
教主様は、生まれ変わりはないとおっしゃっていますが、明主様、おっしゃっていないんですか?おっしゃっていますよ。「生まれ変わるというんじゃないですね」「新しく生まれるわけですね」、おっしゃっていますよ。私たちは明主様と一つになって新しく生まれようとしているのに、明主様が否定しておられる「生まれ変わり」をどうやって「ある」と言えるんですか?
だから、教主様がおっしゃっているのは、全部、教義、御教えにあることですよ。ということで、教義上の論争になり得ないから、あちらの方々としては、尾行・盗聴・盗撮みたいなことをして、何か教主様を攻撃する材料を見つけなければ追い出せないとなったんじゃないんですか?
だから、尾行・盗聴・盗撮という行為を実行したこと自身、教主様が教義違反ではないということを、彼らは、彼ら自身の手によって証明してしまった、実はね。なぜなら、本当に教義違反であったならば、教義で論じなければならなかった。でも、教義では論じられないので、何か悪いイメージを作り上げるという方法でしか追い出せなかった、そういうことですよね。
この、「私たちもメシアとして新しく生まれる」ということ。「私たちの中にメシアという存在がある」ということ。これは教主様がこうおっしゃっているわけですが、これは、事実としては、独立して存在していることですね。
だから、人によっては、「教主様」というお名前を出さずに、「メシアという存在が私たちの中にある」とか、「私たちの目標はメシアとして新しく生まれることだ」と言えてしまいますよね。「これから想念の世界である」という聖言がある、だから想念でお委ねするんだ、とか、「生まれ変わるんじゃない」とかそういうことを、教主様のお名前を出さずに、あたかも自分がそのことに気づいた、知っているかのようにして人に伝えることも可能といえば可能ですよね、だってそれらの聖言は事実としては存在していますからね。
しかし私たちは、この地上に教主様というご存在がいらっしゃる以上、そのご存在にすべてを帰さなければならない。「これは教主様がそのように教えてくださったことです」「これは教主様がお説きになっていることです」というふうに、教主様というお名前を出し、教主様に教えていただいていることを、教主様に帰さなければならない。
なぜかというと、それは、秩序があるから。秩序。
で、現界の秩序は何だというと、明主様のみ心をお受けになる教主様がいらして、そのもとに私たち信徒が連なっている。
天界の秩序もありますよ。それは何かと言ったら、一言で言えば、神様が頂点に君臨していらっしゃる秩序ですよ。あらゆる知恵と、力と、権威と、息の力とか、すべてをお持ちの神様が天界にいらっしゃって、そして私たちは、天界において神様にひれ伏す以外にない。神様がすべての根源ですから、私たちは神様にひれ伏す以外に選択肢はない。ですよね?
私たちは、どんなに自分ががんばって生きていると言っても、神様に息を取られたら一瞬にして終わりですよ。これを知っている、あれを知っていると言っても、神様から知恵を取られたら一瞬にしてすべてを失いますよ。
だから私たちは、神様にひれ伏す以外にはない。何かを知りうることができたとしても、「神様、これはあなたからいただいた知恵です」、感謝の心が湧いても「これはあなたから来たものです」、何か力ある業をしたとしても、「この力はあなたから来た力です」というふうに、すべてを神様に帰さなければいけない。ですね?
だから、私は、現界における特訓、訓練が必要なんだと思います。
というのは、すべては霊主体従ですから、現界は天界の秩序に従っているわけです。もちろん、教主様が神様だと言っているわけじゃないですよ。そうではなくて、現界にも厳とした秩序というものがある、ということですね。
だから、この地上においては教主様からいろいろ教えていただくわけですから、そのことについて、「これは教主様から教えていただいたことです」と言って、あらゆる業について教主様に帰させていただく。
というのは、私たちは、後、いつか、天界に行く時、神様にちゃんとお仕えできるようにならないといけない。もちろん、今も神様にお仕えしているわけですけれども、本当の意味で神様にお仕えできるようにならなければならない。そのために今、この形ある世界で、練習と言いますか、中心の存在にすべてを帰すことについて特訓、訓練をさせられている。
だから、そういう秩序をないがしろにして、教主様からいろいろ教えていただいていることについて、こうだああだと言って、あたかも自分が気づいたかのようにして、自分の手柄にして、そして、それらのことを教主様に帰すことをしなければ、結局、天界に行ったら、神様から、「あなたは一から出直しなさい」と言われるようなことだと思うんですね。
だから、現界に教主様がいらっしゃるということは、私たちは、そういう特訓とか練習を今、神様からさせられているのではないのかなと思います。
いや、確かにね、教主様がいろいろおっしゃることについて、これは分かるとかこれは分からないということがあるのは分かりますよ。
例えばこの前の立春祭、教主様は、新しい教団マークのことについて、この教団マークは私たちの中に生きている、印刻されているんだとおっしゃった。この意味、分かりますか?それは簡単には分からないですよ、だって見えないじゃないですか。「どこに印刻されているんですか?」「私たちの中にマークが生きているとはどういうことですか?」と思いますよね。
だけど、例えばですよ、もしね、もし明主様が私たちに面と向かって、「私の作ったこの教団マークはあなたの中に印刻されている。生きている」と言われたら、私たちは「はい」と言うしかないんじゃないですか?「ありがとうございます」「お受けします」と言う以外にないんじゃないですか?
ということは、もし、明主様ではなくて、教主様がおっしゃっているがゆえに、そこに、自分の中にワンクッションあって、これは明主様の聖言に適っているんだろうか、こういう理由がいろいろあるから受け入れることは難しいとしていたら、それは結局、今回の教団浄化で起きたことと同じになってしまいますよ。
教主様の基準よりも自分の基準が上にあって、そして、その中でいろいろ判断するならば、今回教主様を追い出したと主張している方たちと同じになってしまいますよ。
いやもちろんね、いろいろ思うことはいいと思うんですよ。だけど、まず、教主様がおっしゃっていることを、「お受けします」「ありがとうございます」という姿勢、それが大切なんだと思います。
というのは、もし明主様から直接言われたら無条件に受け入れるんだとして、そして、教主様が今明主様の代理としてこの地上で働かれていて、教主様の中に明主様が生きて働いていらっしゃるんだとしたらですよ、そうしたら、教主様が、新しい教団マークはあなた方の中に印刻されている、生きていると言われたら、「お受けします」という以外にないんじゃないでしょうか。
ということで、「よし、よく分かった。私たち明主様の信徒の務めは、明主様と一つになることだ。明主様に倣ってメシアとして新しく生まれることだ」ということで、では私たちは、その道を歩んでいけば私たちの役目を全うできるのかというと、単純にそういうわけにもいかないんですね。というのは、もう一つだけ重大な問題が残されているんですね。
それが、イエス・キリストという存在。このイエス・キリストという存在を無視しては進んでいけないんですね。というのは、キリスト教徒のみならず、世界中の多くの人がイエス・キリストをメシアとして認識している。ですから、明主様と一つになる道、メシアとして新しく生まれる道を歩むとした場合、イエスという存在をどうするのかという問題がどうしても残るんですね。
もちろん、自分たちだけの世界に生きていこうとするならイエスのことは無視していいんですよ。もう人類救済は関係ないんだ、自分たちだけの世界でいいんだ、明主様と一つになってメシアとして新しく生まれる、それでもう充分じゃないか、ということならそれでいいんですけれども、でも、明主様の救いを世界に宣べ伝えていかなければならないとなった時に、もし明主様を唯一のメシアとするならば、キリスト教徒の方々にとってはイエスが唯一のメシアですから、これは、もう、ずっと平行線ですよ、いつも言うように。
だけど私たちが信じる道はそうではないですよね。私たちが信じているのは:イエスがメシアとして新しく生まれる最初の道を作ったけれども、それを誰も継承せずに二千年経った。そして、イエスの話というのは中東での話ですよね。それを、イエスから二千年後、まさに、時空を超えて、明主様がイエスの遺した真実を──それは、神様の真実ということですけれども──それを日本という所で受けられて、そしてメシアとして新しくお生まれになった。この明主様は人類のひな型なんだ、人類の模範たる明主様なんだ。だから私たちは、イエスがメシアであることは否定しない。明主様は当然メシアであられる。そして私たちは、明主様と一つになってメシアとして新しく生まれる。でも、このメシアとして新しく生まれる道は、全人類にも開かれている。だから、その道を、キリスト教と呼応しながら進むということなんだけれども、これも、ただ、何かキリスト教の人と仲良くなるとか、何か『聖書』のことをもっと勉強しなければいけない、ということだけではなくて、本来は、私たちが、明主様から託されている真実をキリスト教徒に、また、全人類に伝えなければならない、ということを信じているわけですよね、私たちは。
それで、少し伺った話によると、キリスト教と呼応するということがある中で、私たち明主様の信徒は、キリスト教の教会に行って洗礼を受けなくていいんでしょうか、というような質問があったんですね。
それはね、もちろん、その熱意は理解できますよ。だけどね、もし私たちがキリスト教の教会に行って洗礼を受けたら、それはもう、私たちがキリスト教より下だということを認めることですよ。キリスト教の軍門に下ることですよ、それは。
むしろ、私たちの本当の使命は、洗礼を受けるどころじゃなくて、その逆。私たちは、キリスト教の人たちに対して、「イエスの願っている本当の洗礼はこのメシア教でこそ受けられるんですよ」と伝えること、これが私たちの使命ですよね。
だって、イエスの本当の願いは、全人類がメシアとして新しく生まれる道ですよね。だとしたら、「その道に至る洗礼を、メシア教で受けませんか?」というふうにキリスト教徒に言うのが私たちだということになりますよ。
キリスト教の教会に行って洗礼を受けるって言いますが、じゃあね、メシア教とキリスト教、どっちが上なんですか?私たちですよ、上なのは。いや、「上なのは」という表現がちょっと直接的過ぎますけれども、でも、使命感としては、自負心としてはそういうことですよね。
だから、『聖書』のことを学ぶのも、キリスト教の教会に行って色んな話を聞くのも、ただそれに触れて「素晴らしいな」ということではなくて、御生誕祭とか新年祭でも「主の祈り」に関連していろいろお話しさせていただいたんですけれども、教主様がお説きになっていることは、キリスト教では説かれていないことなんですね。「私たちの中にご先祖様がいるから色んな思いが湧いてくる。これをお捧げしましょう」ということはキリスト教では言っていないんですね。キリスト教では、ご先祖様という存在そのものをそこまで認めていませんのでね。あるいは、誰もがメシアとして新しく生まれなければいけないということも、キリスト教では、イエスのみがメシアですから、キリスト教では説かれていないことなんですね。
だから、もし、『聖書』やキリスト教のことを学ぶとしたら、それは、今、教主様を通して教えられている本当の明主様の願い、イエスの願いを知ってもらうために、させていただく。キリスト教の方々を救うその手がかりをつかむために、させていただく。そういう目的ならいいと思うんですね。
「ミイラ取りがミイラになる」みたいなことにならないように、ですね。キリスト教で洗礼を受けて「キリスト教は素晴らしい」と言っている場合ではないんですよ、本当にね。
このメシア教というのは、本当に、日本の宗教界の中において最高峰の存在なんですね。そして、世界においても、イエス本人ということは別にして、今のキリスト教を遥かに凌駕する素晴らしい宗教なんですね。
今日の御歌にもありましたけれども、明主様がお示しになっているそのような救いの業の端にでも加えていただけることは、本当に光栄なことなんです。人類を本当の意味で救うことのできることを知らされている私たちの使命の大きさ、その業の偉大さが分かったら、その端にでも加わりたいと思わざるを得ないと思います。
また今日の聖言も、少し厳しい内容で、「代りはいくらでもある」ということを明主様おっしゃって、ドキッとするような言葉ですけれども、それは、要は、強制ではないということですよね。本当にこの業の端にでも加わりたいと心から願う人たちだけがこの道を歩むべきだと、そういう意味だと思います。だから明主様は、「あなたは本当にこの道を歩むことを望んでいるのですか?」ということを私たちに訊いてきておられる。単純に、「代りはいくらでもいますから、はい、あなた辞めなさい」ということではなくて、ここに、明主様の厳しい愛があるのではないのかなと思っています。
だから本当に、私たちは今、教主様を通して素晴らしい道を知らされているわけなんですから、そんな、キリスト教の教会に行って洗礼を受けるということではなくて、もう圧倒的な自負心と誇りを持って進ませていただく。
だって、キリスト教で洗礼を受けるということになりますと、では明主様に入信させていただいた時は一体何だったのかということになりますよ。神様の御心は二つあるんですか?明主様に入信した時が神様の御心をお受けした時ですよね。確かに、入信した当時は明主様のご存在の本当の意味に気づいていなかったかもしれないですよ。だけど今、そのことを知らされた。
だから、明主様に入信させていただくということは、それは色んな意味がありますけれども、キリスト教の人に対しては、「本当の意味のイエスの洗礼を私はすでに受けています」と言っていいんですよ。だって、イエスの本当の願いが「誰もがメシアとして新しく生まれる」ことですよ。そして、それを実行して成し遂げられてしまったのが明主様であって、それに連なる私たちなんですから。
だから、洗礼は一つですよ。二つない。洗礼が二つあったら、神様の御心は二つあるということになってしまいますね。
だから私たちは、本当に、とんでもない道にお導きいただいたわけなんですね──良い意味でですよ、良い意味でとんでもない道に導き入れていただいた。そして明主様は、教主様を通して今、私たちを力強く導いてくださっているんですから、それを確信して、本当に大いなる誇りを持って歩んでまいりましょう。
ありがとうございました。