※英語とポルトガル語でなされたビデオメッセージの和訳
4年前、2017年9月、私たちは、教主様と奥様が、プライベートな時間に尾行・盗聴・盗撮をされていたことを知るに至りました。
そして、そのようなとんでもない行為をするよう指示、実行したのは、現在、日本において「世界救世教責任役員会」と名乗る方々につながる人たちであることも知るに至りました。
言い換えれば、そのような信じがたい行為をするよう指示、実行したのは、「自分たちは明主様の信徒である」と主張している方々である、ということです。
明主様は、他人を愛することの大切さを説かれたお方。すべての人々が、恐れることのない、幸福に満ちた地上天国を造ろうとされたお方。秘密や闇がなく、善人が栄え、正義が行われる水晶世界をこの世に打ち樹てようとされたお方。それが明主様です。
明主様の信徒であると主張したいのであれば、また、明主様の信徒となりたいのであれば、このような恥ずべき行為を認めることなど、到底あり得ないことです。
尾行・盗聴・盗撮という行為を、実行することは言うまでもなく、容認するということは、他者を愛し、美しく正しい世の中を打ち樹てようとされた明主様の信徒となるのを放棄するのと同じことです。
尾行・盗聴・盗撮という行為を容認するということは、明主様が私たちにみ教えくださったすべてのこと、明主様が守ろうとされたすべてのことに反しているのです。
尾行・盗聴・盗撮という行為を容認しながら、どうやって私たちは地上天国を造れるというのでしょうか。
このような、臆病者がする行為が容認されている「地上天国」とは、どのような地上天国なのでしょうか。
そうです、「尾行・盗聴・盗撮は臆病者のする行為」。私は、この表現が適切であると感じます。
当時、この行為が明るみに出た時、私は、「明主様の信徒であれば、誰もこのような行為を容認することはないだろう」と思いました。
しかし、驚くべきことに、世界中の「私たちは明主様の信徒である」と名乗る多くの方々がこの行為を容認し、また、その行為を実行・容認した、「世界救世教責任役員会」と名乗る方々を受け入れました。
ブラジル、ヨーロッパ、アフリカ、アメリカ等にいる多くの信徒が、現在日本で「世界救世教責任役員会」と名乗る方々を受け入れています。すなわち、人のプライベートな時間を尾行・盗聴・盗撮するという臆病者のする行為を受け入れている、ということです。
その方たちはきっと、「教主様が明主様の御教えに反することを説いていたのが問題なのだ」と言いたいのでしょう。
では、教主様は何を説いておられるのでしょうか?教主様は、私たちも、明主様に倣い、メシアとして新しく生まれなければならないこと。手を掲げるご浄霊は確かに大切だが、それ以上に重要なのは、私たちの感じるさまざまな思いや感情を、想念を通して神様に捧げなければならないこと。そして、全世界を救うために、キリスト教の方々とご一緒に歩まねばならないこと。教主様は、このようなことをお説きくださっています。
明主様はなんとおっしゃっているのですか?私たちの最も尊むべきひな型であられる明主様は、メシアとして新しく生まれたとおっしゃったのではないのですか?ご浄霊は二の問題でこれから想念の世界であるとおっしゃったのではないのですか?キリスト教と呼応して人類を救うために、全智全能をあげて働いてゆきたいとおっしゃったのではないのですか?
もし教主様が教義違反であると主張したいならば、それは、教義上で論じられなければなりません。教主様のおっしゃっていることが、明主様の教えの方向性に則っているか否かで論じられなければなりません。
しかし、教主様を追い出したと主張している方々は、それが出来なかったのです。メシアとして新しくお生まれになった明主様を信じ、それに倣うこと──それがどうすれば教義違反となり得るのでしょうか?私たちは明主様を信じる明主様の信徒ではないのですか?
だから──教主様を教義違反として追い出すことが出来ないから──彼らは、教主様と奥様を尾行・盗聴・盗撮し、教主様を攻撃する材料を何か、なんとしてでも、見つけなければならなくなったのです。
しかし、キリスト教の友人がいること、ですか?『聖書』を学んでおられること、ですか?彼らは、本気で、これらのことが教主様を批判する材料となり得ると思ったのでしょうか?にわかには信じがたいことです。
尾行・盗聴・盗撮を実行したことにより、彼らは、教主様を、教義違反という理由によってでは追い出せなかったことを自分たちの手で証明してしまったのです。そうでないならば、なぜ、教主様を隠れて付け回さなければならなかったのでしょうか。
そして皆様は、明主様が、尾行・盗聴・盗撮という行為をほんの少しでも容認されると思われますか?もし容認されるならば、私たちは、即座に、明主様信仰を辞めたほうがよいのではないでしょうか。そのような臆病者のする行為を認める教祖のもとで信仰する価値など一切ないのではないでしょうか。
いまだに尾行・盗聴・盗撮という行為を、また、教主様の追放というあり得べからざることを容認している方々に、本日、私は、「目覚めなさい」と申し上げたいと思います。「目覚め、悔い改めよ」と申し上げたいと思います。あなた方は、最初、なぜこの信仰の道に入ったのかを忘れてしまったのですか?罪で汚れた古い着物を脱ぎ去り、明主様がご用意くださっている新しい霊なる着物を着るにふさわしい存在になろうとしていたのではなかったのですか?神様は、必ずすべての人々の心を正し、清いものにされます。私たちは、その神様のみ力を、決してみくびることのないようにしなければなりません。
隠れて誰かを付け回し、盗撮すること。これは卑劣なことです。そして、そのような行為をする人たちを容認すること。これも卑劣であり恥ずべきことです。
しかし、私たちは考えねばなりません。私たちは、尾行・盗聴・盗撮を実行・容認する方々を裁くことはできるのでしょうか?「彼らは悪い人たちで、私たちは正しいのだ」と言えるのでしょうか?私たちは、あのような臆病者のする行為を実行・容認している方々よりも優ったものなのでしょうか?
断じてそうではありません。
そもそも、彼らは、なぜあのような行為を実行・容認し、教主様を追放したかったのでしょうか?
ひと言で言えば、彼らは、自分たちのやりたいようにやりたかった。だからではないでしょうか。
彼ら自身は、「違う!私たちは明主様のご神業をお守りしたかったのだ!」と言いたいのでしょう。
しかし、世界救世教に属するものであれば、誰でも、教主様が明主様のご聖業を継承されるお方であることは知っている、はずです。いきなり、教主様無しの世界救世教になるとでもいうのでしょうか?二代様と三代様についてはどうするのでしょうか?私たちは、教団の歴史そのものを否定しようとでもいうのでしょうか?
自分たちのやり方でやりたい人たちは、自分たちが勝手に「教主様」になり、教主様から離れていったと言われた渡辺先生のことを覚えていますか?明主様のみ心は、世界救世教教主の胸に映ると言われた二代様のことを覚えていますか?教主様の座を守られるため、自分たちの都合で進めたい人たちと必死に戦われた三代様のことを覚えていますか?
ですから、やはり、尾行・盗聴・盗撮をした方々は、現界での明主様の代理であられる教主様の願いのもとではなく、自分たちのやりたいやり方で歩んでいきたかったから、あのような行為をされたのでしょう。
では、私たち自身はどうなのでしょうか?私たちの神様に対する姿勢とはどのようなものなのでしょうか?
ひと言で言えば、私たちは、神様の願いのもとではなく、自分たちのやりたいように今日まで歩んできたのではないでしょうか。
神様の願いは薄っすらと感じながらも、こういう理由がある、ああいう理由があると言い、時には神様のことさえもだしに使いながら、自分たちの思いのままに今日まで歩んできたのではないでしょうか。
神様からご覧になれば、そのような私たちの姿こそ、卑劣であり、恥ずべき姿だったのではないでしょうか。
目覚め、悔い改めなければならなかったのは、本当は、私たちだったのではないでしょうか。
私は思います、教主様への尾行・盗聴・盗撮という恥ずべき行為をした方々は、私たちのためにそのような行為をしたのだと。「彼らの教主様に対する姿勢が、私たちの神様に対する姿勢である」──神様は、私たちに、このことを気づかせるために、彼らをお使いになったのです。
神様の御心のなんと計り知れないことでありましょう。
ですから、決して、尾行・盗聴・盗撮をした方たちを裁き、そして、私たちのほうが優っているなどと思ってはなりません。
明主様は、人を裁く前に自分を裁きなさいと仰せではありませんか。イエスは、「あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ」ると言っているではありませんか(「マタイによる福音書」第7章2節)。
裁かないどころではなく、本来私たちは、神様に対する私たちの赦されざる姿勢を教えてくれた彼らに、否、そのような彼らをお使いになった神様に、感謝をしなければならないのです。
私は、彼らをお使いになった神様に心から感謝をさせていただいて初めて、尾行・盗聴・盗撮という恥ずべき行為を実行・容認している方々をお使いになった神様の目的が完結すると思うのです。その目的とは、私たちを目覚めさせる、ということです。
神様、あなたがご用意くださっている霊なる着物を着させていただくことをお許しください。そして、あなたのあふれんばかりのみ光が、すべてのものと共にありますように。