PDF: 春季大祭_真明様ご挨拶

「もちいてください」

於:グランドニッコー東京台場(パレロワイヤル)

 

皆様、こんにちは。
 明主様がメシア降誕の言葉をべられた時、ご自分のことを「生まれたての赤ん坊」とおっしゃいましたね。「生まれたての赤ん坊」。これはちょっと特殊な表現ですね。
 この言葉を、私たちは──私もですが──「明主様は新しくお生まれになって、生まれたての赤ん坊になられたんだ」と漠然と捉えていたと思うんですけれども、改めて思うと、「生まれたての赤ん坊」とは一体どういうことだろうかと思うわけですね、私は。
 というのは、明主様が「生まれたての赤ん坊」とおっしゃったのは、明主様が71歳の時ですけれども、では、それまで生きてらした明主様はどこに行かれてしまったのか。だって、明主様は二重人格になられてしまったわけではないですよね。明主様の中に「生まれたての赤ん坊」である明主様がいらして、同時に、それまで生きてこられた明主様もいらっしゃった、ということではないですよね、きっと。
 そう考えていくと、私は、やはり明主様は、それまで生きてこられたご自分の命を神様にお捧げになって、そしてそれを神様はお受け取りくださった。そして明主様に新しい命を授けられた、ということだと思うんですね。
 ということは、そこまで生きてこられた明主様は、その時に、いわば、死なれたということですね。
 教主様は、「命と意識と魂を神様に委ねなさい」とおっしゃいますけれども、私は、明主様は、メシア降誕の時、それをされたのではないのかなと思うんですね。
 いや違う、明主様は特別でいらっしゃるんだ、そんなことはないという思いもあるかもしれませんけれども、明主様の御歌にこういうのがあるんですね。
 「身もも神にねてひたすらに救世神業す吾はも」。
 私という存在は、自分の身もも神様に委ねて、そしてひたすらに世を救うという神様の業にくします、という御歌ですね。
 これを私たちは、単純に、響きの良い御歌だなと思うかもしれませんけれども、内容としてはすごい御歌ですよ、これは。明主様は、身も魂も神様にお委ねになりながらご神業を進めていらしたということですから。
 それで、この御歌は、初期の昭和11年ごろの御歌です。明主様は、この思いでずっとご神業をお進めになって、そして、昭和30年にご昇天になるわけですけれども、私は、明主様は、最晩年、最後の最後で、神様から、最後の試練を与えられたのではないのかなと思うんですね。神様は、明主様に、「私に身も魂も委ねるということは、あなたは私の永遠の命に生きるということだな。ということは、あなたは『死』を克服したということだな」と問われた。
 そして神様は、明主様に脳溢血のご浄化を与えられた。脳溢血というのは、厳しければ命を奪う病気ですね。その脳溢血をお受けになった時、明主様は、きっと、心のどこかで、「死んでしまうかもしれない」と思われたんだと思います。
 そしてその時に明主様は、「あっ、『死んでしまうかもしれない』と思ったということは、私は、命を自分のものとしてしまっていたんだ」「神様の永遠の命に生きていれば『死』は存在しないはずなのに、自分はそう思えていなかった」「私は、身も魂も神に委ねると言っていたけれども、本当は、命を自分のものにしていたんだ」ということで明主様は、深く悔い改められたのではないのかなと思います。
 このご浄化の後、明主様は、周りの方々に、「これからはお詫びではなく悔い改めなんだ」ということを繰り返しおっしゃったようですけれども、きっとそれは、明主様ご自身が、この時、「自分は命を自分のものとしていたんだ」「悔い改めなければいけない」「神様、申し訳ございませんでした」ということを強く感じられたからではないのかなと思うんですね。
 ということで明主様は、昭和11年の時に「身もも神に委ねて」とされていたんですけれども、この脳溢血のご浄化の時、昭和29年に、「この命は、確かにあなたのものです」と思われて、改めてご自分の命を神様にお捧げになった。そして神様はその明主様の心と姿をご覧になって、「よし」「受け取るよ」とおっしゃって、明主様の命を受け取られてしまった。
 これは、大変なことですよ。というのは、普通、命を神様にお返ししてそれを神様が受け取られたらもうそれで終わりですよ。それで死んでしまうということになりますよ。
 私たちは、簡単に、「命と意識と魂を神様にお委ねします」と言えると思っているかもしれませんけれども、もしそのセリフを発して、神様が本当に私たちの命をお受け取りになってしまったら、私たちは、次の瞬間、死んでしまいますよ、本当はね。
 ということで神様は、明主様の命をお受け取りになった。ということは明主様は、形の上では死なれていないけれども、やはり、この時、一度、死なれた。
 そして神様は、改めて、ご自身の永遠の命を、明主様に、新しい命としてお授けになった。全く新しい命が明主様のもとに来たと、そういうことですね。
 しかもその命は、名無しの権兵衛ではなくて、なんと、名前が付いていた。それが「メシア」という名前であったと、そういうことですね。
 だから明主様は、メシアとして新しく生まれた、とか、メシアが生まれた、と言わざるを得ないですよね、命にその名前が付いていたわけですから。
 もちろん、当然、命は一つですよ。神様の永遠の命しか存在しない。だから、新しく生まれられる前の明主様の命と、新しくお生まれになった後の明主様の命は、本来は別々のものではないんですよ。でも、明主様が、「新しく生まれる」とか「生まれたての赤ん坊」とおっしゃったということは、明主様にとっては、本当に、その命は、今までと全く違う新しい命として感じられたということですよね。
 ということで、「生まれたての赤ん坊」ということは、明主様は、られて、全く新しい命に生きられる明主様になられた、そういうことですね。

 

この「命」ということと非常に密接な関係があるものとして、呼吸というものがありますね。息。
 私たちは、息が途絶えれば死んでしまいますね。ということは、命と息というのは一体ですね。
 そうだとすると、もし明主様が「生まれたての赤ん坊」になられたならば、それまで生きてこられた明主様の命が終わって全く新しい命に生きられることになったわけですから、明主様の息も、その前までにされていた人間の息ではなく、全く新しい息になられたということですね。
 しかも明主様は、「生まれ変わるというんじゃないですね」とおっしゃっていますよ。生まれ変わりということだったらずっと命は続いているわけですから、同じ息が続いているということになりますけれども、わざわざ「生まれ変わるというんじゃない」とおっしゃるということは、明主様は、新しくお生まれになって、それまでとは違う、全く新しい永遠の命の息を授けられたと、そういうことになりますね。
 生まれたての赤ん坊は「オギャア、オギャア」と泣きますね。ということは、明主様がメシア降誕の時に「生まれたての赤ん坊」とおっしゃったということは、明主様は、全く新しい息の中で「オギャア、オギャア」と泣かれた、そういうことですね。そして今、明主様は、その息をしていらっしゃる。
 私たちは、「明主様は私たちの中に生きていらっしゃる」と言って、これは素晴らしいことだなと漠然と思っておりますけれども、明主様が私たちの中で生きていらっしゃるということは、明主様は今、私たちの中で呼吸をしていらっしゃるということですよ。
 「もし明主様が私たちの中に生きていらっしゃるとしたら、その明主様は私たちの中で呼吸をしていらっしゃる」──これは絶対否定できないことだと思いませんか?
 だって明主様は、メシアとして新しくお生まれになった翌年、昭和30年にご昇天になるわけですけれども、その明主様の息は、ご昇天の時に途絶えたんですか?途絶えてないですよね。ずっと続いている。そしてその息が──明主様の全く新しい息が──私たちの中にある。
 私たちは今、呼吸をしていますよね。この呼吸は、もう数年か数十年したら途絶えて終わっちゃうような呼吸ですよ。どんなに呼吸法だなんだと言ったって、止まったら、「はい、死にました」という、それだけの呼吸ですよ。
 でも、もし明主様が私たちの中に生きていらして呼吸をしていらっしゃるのだとしたら、私たちは、その明主様の呼吸と一つにならせていただきたい、その息に自分の息を合わせたいと思ったほうがいいんじゃないですか。
 だって私たちの息というのは、もうこれは、枯れゆく息ですよ、死にゆく息。
 でも、明主様の息は全く新しい息。今日、教主様が奏上された祝詞にもありましたように「甦りの生命の息」、これですね。この甦りの生命の息を、明主様が、私たちの中でしていらっしゃる。
 そうだとしたら、私たちは、その息に私たちの息を合わせたい、その息と一つになりたいと思ったほうがいいと思いますよ。自分で一生懸命呼吸をするより、その甦りの息の力を受けたほうが、よっぽど私たちは活性化するんじゃないんですか。
 ということで、私たちは、明主様と息を一つにしたほうがよいんですけれども、実は、明主様の中にいらっしゃるご存在というのがありまして、私たちは、本当は、その方の息と一つにならないといけないんですね。
 どういう意味かというと、明主様の御歌に、「断崖の行手にあるが知られけり光のみてより」とあります。
 断崖、ですから、崖に向かって落ちてしまうような自分であることを知った、光のんでより、そういうことですね。
 ということは、明主様が拝んでらした「光の主」というお方がいらっしゃった、そういうことですよね。
 あるいは、「御面夕べに仰ぎますに悩みは消えてゆくなり」。
 その方のお顔を朝夕仰ぐごとに悩みは消えてゆくと、そういう御歌ですね。
 あるいは、「有難し救主御声を聞く我体魂は力増すなり」。
 明主様が誰かの声を聞いていらっしゃる。明主様に語りかけていらっしゃるお方がおられる、そういうことですね。
 そして、ここ、「」を「きみ」と読ませていますよ。普通私たちは、明主様が救い主だとか、イエスが救い主だとかいうことで議論していますけれども、明主様が「きみ」と呼びかけていらっしゃる「救い主」、その「救い主」が明主様の中にいらっしゃった。
 そして最終的には、「喜びの涙へし目にうつる神々しさの姿」。
 明主様は、ご自分の中にいらっしゃる方のことを、もう、単純に「君」と言われてますね。「あなた」ということですね。あなたの姿が神々しくて私は喜びの涙をえていると、そう明主様がおっしゃっている。というお方がいらっしゃるんですよ。明主様が拝んでらした方、「光の主」と呼んでらした方、それが明主様の中にいらっしゃった。
 私たちはね、「では一体全体その『光の主』って誰なんですか」と思うでしょうけれども、でも、少なくとも、私たちは、明主様が拝したその「光の主」を拝したい、その方のお声を聞いてみたいということは願ってもいいと思いますよ、だって明主様の中にその「光の主」がいらっしゃったんですから。
 でね、結論的に言えば、その「光の主」というのは、当時明主様はそれは観音だというふうにおっしゃっていたんですけれども、最終的には、観音が衣を取ったらメシアとなったわけですから、明主様の中に、そのメシアという存在がいらしたと、まあ、そういうことになりますね。
 ですので、もちろん、メシアというご存在は明主様と一体ではあるけれども、明主様はその方を拝していらっしゃるわけですから、やはり明主様とは別々のご存在ですね、メシアというのは。
 イエスも、「イエス」とも呼ばれているけれども、「イエス・キリスト」とも言われていますね。「イエス」の中に「キリスト」というご存在がいらっしゃる、そういうことですね。
 「明主様と共にあるメシア」「イエスと共にあるキリスト」。この、メシアとかキリストと呼ばれる「光の」というお方が私たちの中にもいらっしゃるんです。
 私たちは、「明主様と共にあるメシアの御名にあって」と申し上げる時、この「メシア」というご存在を、何か、そういう一つの言葉として捉えているようにも思いますけれども、明主様は、非常に情的に、「」とおっしゃっていますよ。私たちの言葉で言えば「あなた」と、そういうふうに呼びかけておられて、そして、そのお方の声を聞いていらっしゃる。そのお方が私たちの中にもいらっしゃるんです。
 だから、もし呼吸をさせていただくとしたら、明主様と共にある「メシア」というその「光の主」、「その方の呼吸と一つとならせていただきたい」と思わないといけないのではないのかなと思います。
 だから「明主様と共にあるメシアの御名にあって呼吸をさせていただきます」と、そういうことになるんですけれども、実は、私たちの中に生きていらっしゃる方が、他にもいらっしゃるんですね。
 それが誰かというと、私たち一人ひとりは「祖先の綜合体」というように、私たちの中には、私たちのご先祖様も生きていらっしゃるわけですね。
 この、「祖先の綜合体」ということも、私たちは漠然と捉えているように思いますけれども、私たちの中にご先祖様が生きていらっしゃるということは、私たちの中で、ご先祖様が呼吸をしていらっしゃると、そういうことですよ。
 そして、その多くのご先祖様は、まだ新しくお生まれになって甦ったわけではないですよね?ということは、死なれてはいないけれども、私たちの中で、本当に枯れたような呼吸をしていらっしゃるわけです、今。
 だからそれを、もし私たちが、「私たちの中で、明主様と共にある『メシア』であり『光の主』が呼吸をしています。その方の甦りの息が私の中にあります。ですので、私の中で枯れた息をしているご先祖様にもこの甦りの息を分け与えたいのです」というふうな思いで呼吸をしたら、どうなってしまうか分かりませんよ。
 私たちは「祖先の綜合体」ですから、もし私たちにつながるご先祖様が枯れた存在であったとしたら、それが私たち自身のあらゆる体の不調、心の不調となって現れざるを得ないじゃないですか。
 だけどもし、私たちの中にいらっしゃる枯れた呼吸をしていらっしゃるご先祖様が甦りの息に触れて甦ることができれば、それは、私たちも甦りますよ、だって私たちは「祖先の綜合体」なんですから。私たちの体も良くなるかもしれない。心も良くなるかもしれない。
 私たちはよく、「教主様は、ご先祖様は私たちの中に生きていらっしゃるとおっしゃっている。だから、私のお父さん、お母さん、おじいちゃん、おばあちゃんは私の中に生きているんだ」ということで、それを、一種の心のめのようにしておりますけれども、「おじいちゃん、おばあちゃんは今も生きて私の中にいる」というようなこと、これは世の中でも一般的に言っていることですよね。
 でも教主様は、そういう意味でこのことをおっしゃっているのではない。慰めにしてほしくておっしゃっているのではない。そうではなくて、教主様が、「ご先祖様は私たちの中に生きていらっしゃる」とおっしゃる意味は、私たちには、その方たちに命の息を分け与えるという責任があるんだよと、そういう意味ですよね。
 私たちの中には、枯れた息をして、息絶え絶えみたいになっている方が多くいらっしゃる。その枯れた息が私たちの心と体にありとあらゆる不調をもたらしている。
 でもそれは、本当は、救いのためにそうなっているわけなんですね。だから、もし私たちが、その方たちに、明主様が「生まれたての赤ん坊」となった時に神様から授けられた甦りの息を分け与えることができて、そして、その方たちが甦って、本当に生き生きとなったら、そしたら、「祖先の綜合体」である私たちも自動的に生き生きとしてこざるを得ないじゃないですか。
 だから、呼吸ですね、呼吸。「明主様と共にあるメシアの御名にある甦りの息をお受けします」「私の中にいらっしゃる多くの枯れた者たちの上に分け与えてほしいのです」ということで呼吸をされたら、本当に、どうなるかわかりませんよ。
 今抱えている悩みが一発で解決するということも、あり得ないことではないですよ。大いにあり得ますよ。

 

というように私たちは、この、無意識のうちにしている呼吸ですらも神様の救いのために使っていただかなければならない。
 御歌に、「行ひも心も言葉も美はしき人こそ天国天人なりける」というのがありますね。これを私たちは、「立派な存在になるために、少しでも善い行いをしなければいけない。心も美しい心でないといけない。言葉も美しい言葉を使わなければいけない」としてきたじゃないですか。
 でも本当は、その「天国天人なりける」の「天国天人」というのは、私たちの中にいらっしゃる「光の主」のことですよね。「光の主」という、行いも美しくて、心も清くて、言葉も美しい言葉をしゃべられるお方、その完全なお方が私たちの中にいらっしゃる。
 確かにね、「何とか」「より良く」ということで努力すること自体は否定すべきことではないですよ。だけど、それだけでは、いつまで経っても「光の主」に現れていただけない。だって私たちは、「光の主」に現れていただきたいんじゃないんですか?私たちではなく、この方にこそ現れていただきたいということじゃないんですか?
 だから、「人の力いとど弱きを知りてより心に宿る神の生魂」、これですね。「自分の力では行いも心も言葉も美しくすることができませんでした」「私ではなく、『光の主』に現れていただきたいのです」「私の中にいる『天国天人』という完全で美しくて光あふれるお方に現れていただきたいのです」とすれば、それは、もちろん私たち自身のためにもなりますし、また、私たちの周りには色んな方がいらっしゃいますね、その方たちのためにもなる。
 例えば誰かに話しかける時に、何か、自分が良い言葉、美しい言葉をかけなければいけないとか、何か善いことをしないといけないと思うよりも、「私の中にいる『光の主』に現れていただきたいのです」と思わせていただく。
 今日も、このあと「もちいてください」を歌ってくださいますけれども、私たちは、日々の生活の中で、「私の言葉ではなく、あなたの言葉が現れるようにもちいてください」「『光の主』にもちいていただきたいのです」とさせていただければ、そちらのほうがよっぽどいいんじゃないですか?
 というのは、「光の主」と言っても、それは、究極的には神様ですよ、神の生魂とあるように。だから、そのお方が私たちを通して現れてくだされば、本当に、たった一言、たった一つの行動、ただ、「こんにちは」とか「おはよう」という言葉だけでも、その言霊に触れた方が、何か悩みを抱えていたけどそれがすっ飛んじゃうということもあり得ないことではないんですよ。だって、神様は何でもされるお方ですよ、全智全能のお方ですから。
 でも、私たちがその「光の主」というお方を知ったのは、明主様を通してなわけですから、私たちの立場としては、「『明主様と共にある光の主』『明主様と共にあるメシア』にお使いいただきたい」というふうにさせていただくのが順序、礼節ですね。
 当然、「光の主」が現れれば光の世の中になるわけですから、私たちは、その「光の主」にお仕えして、そのお方に現れていただくように努めるという使命がある。
 でも本当はね、私たちは、私たちの中に「光の主」がいらっしゃったのに、ずっと、必要ないと言ってきたんですよ。自分が現れたい、自分が活躍したい、自分が行いたい、自分の言葉を美しくしたいとしてきたんですよ。
 でも、「光の主」は絶対に私たちをあきらめずに、ずっと私たちの中にいらして、静かに時を待っていらっしゃる。「私はここにいるよ」「絶対あなたから離れないよ」とおっしゃってくださっているんです、「光の主」は。
 だから、その方をないがしろにしてきたことを本当に悔い改めて、そして、「光の主」は、24時間ずっと、私たちの中で、私たちと共にいてくださって、ずっと呼吸をしていらっしゃるわけですから、私たちは、「日々の生活のすべてをその方と共にさせていただきます」ということで歩ませていただく。
 どこに行っても、何をするにしても、「『光の主』が私を通して現れてくださいますように」と思わせていただいて、また、常に、息についても、「『光の主』の息と自分の息を合わせさせていただきます。枯れているものが甦りますように」ということで呼吸をさせていただく。
 そのようにして、共に、「光の主」にお仕えしてまいりましょう。
 ありがとうございました。