〔明主様〕
人が一度信仰に入ると神は御恵みを下さろうとするが汚れたものがある場合、それを浄めて下さる。それは幸せになる資格を与えて下さるのです。信仰に入ると必ずいきなり幸せになるとは云えない。先ず汚れを取り除かねばならない。
「御光話録」1948年6月18日
今日迄の凡ゆる学説は一様に──病患なるものは「健康の破壊」となし、窮極に於て生命を失うものとされていた。又宗教に於ては「神の戒告」或は「罪穢に対する刑罰」ともされていた。従而病気とは恐るべきもの、悲しむべきもの、呪うべきものとされていたのである。然るに私の説は「病気とは祝福すべきもの、喜ぶべきものであって、全く神が人間に与えた最大なる恩恵であり、又自然の生理作用でもあるというのである。故に病気によって人間の健康は保持され寿齢は延長される」のであるから感謝すべきものである。
此説を読まれた如何なる読者と雖も、その意外なるに驚歎せずには措かないであろう。
『天国の福音』1947年2月5日
〔聖書〕
あなたがたは、罪と取り組んで戦う時、まだ血を流すほどの抵抗をしたことがない。また子たちに対するように、あなたがたに語られたこの勧めの言葉を忘れている、
「わたしの子よ、
主の訓練を軽んじてはいけない。
主に責められるとき、弱り果ててはならない。
主は愛する者を訓練し、
受けいれるすべての子を、
むち打たれるのである」。
あなたがたは訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを、子として取り扱っておられるのである。いったい、父に訓練されない子があるだろうか。だれでも受ける訓練が、あなたがたに与えられないとすれば、それこそ、あなたがたは私生子であって、ほんとうの子ではない。その上、肉親の父はわたしたちを訓練するのに、なお彼をうやまうとすれば、なおさら、わたしたちは、たましいの父に服従して、真に生きるべきではないか。肉親の父は、しばらくの間、自分の考えに従って訓練を与えるが、たましいの父は、わたしたちの益のため、そのきよさにあずからせるために、そうされるのである。すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる。
「ヘブル人への手紙」第12章4節~11節
教会誌『グローリー』No. 15, 2021/4月号掲載
出典:『口語訳聖書 1954年/1955年改訳』(日本聖書協会)