「愛のみ」
《明主様》
世間よく神様の罰があたるという言葉があるが、之は邪神系の神様である。何となれば、罰という事は人を苦しめる事であるから、人間に対し、絶対愛より外にないのが正神であるから、そのような事はない訳である。…正神は、人間からの報酬や条件などに関わらず、無我愛に救わせ給うのである。…
そうして正神とは至正至直、至公至平にして、絶対愛そのものである事を知るべきである。丁度、子に対する親の愛の一層拡充されたものといえるのである。故に、罰をあてるという事は正神には決してないのである。然し乍ら正しき信仰から放れ、邪神邪教に迷うか、又は不正の行為のあった場合、当然の結果として災害を受けるという其事が、罰が当ったように見えるのである。
(1943年10月23日 神と悪魔)
《教主様》
「最後の審判」ですが、審判とは「裁く」ということですね。例えば、裁判所で判決が出た時、全部が有罪ですか? 無罪もあるでしょ。ですから「最後の審判」とは、神様が私たち全員を審判してくださるということですね。神様は、本当は「赦す」ことが前提なんです。赦さなければ、神様の子供として立ち返らせることができませんからね。
私は、明主様が「夜昼転換」の啓示をお受けになったということは、私たち全員が神様の審判を受けて、全員が赦されたということだと思います。だから「最後の審判」とは、「悔い改めて、わたしの赦しを素直に受けてほしいんだよ」という意味なのだと思います。人間の中には、それを認めたくない姿があるから、明主様は、「最後の審判」という言葉で警告しながら、私たち信徒が素直に認められるように促してくださっていると思います。
でも、「裁く」ということは、神様が私たちを無視するのではなく、相手にしてくださっている、ということなんですよ。「裁判所に来る必要がない」と言われているわけではないのです。「裁判所に来なさい」とおっしゃっている、呼んでくださっているのですよ。私たちが「はい」と言って裁判所に行ったら、「赦す」と言ってくださるのです。それをしないで、私たちは、行こうか行くまいか、うじうじしてためらっている姿になっていたのです。
どうしても私たちは、経験的に、良い人、悪い人、というように、人間は裁かれないといけないという発想をします。神様はそういう発想じゃないのです。神様は、わが子のすべてを赦そうとする人間の親のように、私たちのすべてを赦すというお気持ちなのです。そして「赦しを受けてほしいんだよ」と臨んできていらっしゃる。でも、赦しを受けるかどうかを選ばせるようにしてくださっているのです、私たちの思いが大切ですから。
明主様の御歌に、「いやはての審判の日にぞ大神の愛の御力顕れ出でなん」という御歌があります。審判の日に、神様の愛のみ力が現れるとおっしゃっているのです。「赦したことを受け入れてほしい」という強い思いですよね。
(2017年5月14日 教主様ご巡教 京都・滋賀布教区信徒大会)
《真明様》
どんな浄化の中にある方であっても、やはり、どうしても我々一人ひとりに何か気づいて欲しいことがあるから、神様としては本当におつらいところを、様々な形で我々全人類を使っていらっしゃることは間違いないと思うんです。
だから「弱者」という言葉も、そういう言葉で神様の栄光の現れの強弱をこちらで判断して、人間の立場として神様を裁いてしまうのではなくて、やっぱりどのような方であっても、神様の栄光と愛が最も強い形で現れていらっしゃる、というように思い直す必要があると思います。そうじゃないと神様に対して本当に無礼なことになってしまいますから。
目の前に、自分の知らないような大変なご苦労をされた方を神様が連れてきてくださった意味は何か。それはやっぱり、全て、我々一人ひとりが神様をないがしろにしてきた結果だと思います。相手のためではなく、自分のために、そのような方に出会うようにさせてくださった。神の愛の現れの強弱を自分で判断して、神様を裁いていたような我々の姿。神様の栄光の強弱を人間の思いで限定していた姿。本当に今までの人類の歩み全てが、いかに神様に対して無礼だったか、思い直す必要があると思います。
だから、どのような方と接しても、まず、「私こそお赦しいただきたいのです。神様は寝ておられるかのような大変な勘違いをしてきてしまいました。でも、私も、相手も、神様の愛で満ちています。すでに全人類は救われています。その、本当の意味での全智全能の神様にお仕えしますのでお使いください」と、その姿勢こそが大切だと思います。
(2016年6月24日 岡田真明様と若手専従者との懇談会)
教会誌『グローリー』No. 15, 2021/4月号掲載