PDF: 教主様との出会い_中村博
元・理事兼宣教部長
中村 博
世界メシア教の信徒として、教主様の尊いご教導のもとに、日々生活をさせていただいておりますことを、心より感謝申し上げます。
私は、長年専従者として御用を許され、一昨年の12月に退職いたしました。その後非常勤の出仕者として今年の3月まで御用をさせていただきました。
教主様を初めて拝しましたのは、私が20代から30代にかけて本部職員であったころです。当時教主継嗣であられた教主様は、瑞雲郷内で遠くからお見かけさせていただく方でした。誠に不遜なことではありますが、当時の私は、継嗣でいらした教主様に明主様のお身内の方という尊崇の念を抱きつつも、自分とは関わることのないお方という思いでありました。
昭和59年に教団浄化が始まり、和平合意を経て平成12年に世界救世教は包括・被包括体制によって進むことになりました。このことは四代教主に就位された教主様のご存在があって初めて可能なことでありました。平成22年の三被包括法人の統合によって一つの教団を目指すべく、各種プロジェクトも発足し、話し合いが行われました。その一番の論点は、つまるところ教主様のお心をお受けして一つの教団になるか否かということでありました。
このことは、それぞれの教団が組織としてお受けするということでもありますが、一人ひとりが教主様をお受けさせていただくということがなければなりません。
私が初めて教主様のお心を感じさせていただいたのは、平成15年、箱根の光明神殿で行われた主之光教団の秋季大祭でのことであります。私はこの時、舞台の幕を開閉する係でした。教主様ご登壇となり、お言葉が終わりました。私は、舞台の横で閉幕のボタンを押そうとしました。ところが教主様はご退場になりません。じっと参拝席の信徒のほうを向いて立ち続けておられます。私は幕のボタンを押すことができず、〝どうされたのか〟と思っているとこちらも緊張してきました。すると教主様は再びお話を始められました。お言葉の原稿はありません。信徒にお顔を向けてまっすぐにお言葉を発せられました。
その時に教主様は、お言葉の中で「神の子」ということを何度も仰せになりました。私は、〝明主様は確かに御教えの中で「神の子」と言われているが、教主様はどうしてここまで繰り返して言われるのだろう〟と思いました。
また教主様は、私たちは浮世の名前で生きるだけでよいのだろうか、小さな夢で生きるだけで大きな夢を持たずに生きなければ何の人生だろうか──という意味のことをおっしゃいました。〝あなたは浮世の名前だけで生きるのですか、小さく生きるだけでいいのですか、そこに本当に生きがいはあるのですか〟と問われたような気がしました。
教主様は、静かな口調ではありましたが、力強く語りかけてくださいました。私はとても大事なことを教主様がお伝えくださっているような思いがいたしました。
私は、この時の秋季大祭を境に、教主様のお言葉を学ばせていただく心を持たせていただきました。
平成22年、世界救世教は三つの被包括教団を統合するに至りませんでした。
主之光教団においては、その年の秋季大祭で仲泊理事長(当時)より、「教主様のお姿とお言葉に倣う」ことを徹底する旨が発表されました。主之光教団は、教主様のご教導のもとに進ませていただくことを宣言しました。
教主様は、ご神務ご多用の中を慈愛あふれるお心をもって、数多く信徒、専従者にご面会くださり、お言葉をくださいました。誠にありがたい極みであります。
私は、教主様とのご面会の折に、司会の御用をいただきました。平成27年に全布教区の布教所長が教主様とのご面談の場を順次いただきました。ある布教区の所長が、感謝をノートに書くことに努めている信徒について奉告させていただきました。
教主様は、次のような主旨のお言葉をくださいました。
感謝する材料を探そうとするとちょっとおかしくなってしまいますよね。要するに、「こういう良いことがあった」ということで、自分で、感謝する材料を選んでしまう可能性があるということですね。それでは、自分の思いが先立ってしまう。
でも、私が思う感謝というのは、基本的に一つしかないと思うんですね。それは、神様に対して、〝私を子供として生んでくださって、ありがとうございます。あなたの子供としてくださるんですね〟というこの感謝、これしかないと思うんです。
色んな人間関係の中の感謝も、この唯一の感謝に気が付くために存在していると思うんです。
(平成27年10月11日 教主様と布教所長との懇談会)
教主様は、このようにご教導くださいました。人間の側が感謝する材料を探して決めるのは違うのだということを教えてくださいました。感謝は基本的に「一つしかない」ということを、私の心に深く打ち込んでいただいたように思いました。
直接にご教導をいただいた所長も、大きな感動をもってお言葉をお受けさせていただきました。
私たちが最も大切に受け止めさせていただく聖言「メシア降誕御言葉」があります。教主様の後継者であられる真明様が「時空を貫く明主様の聖言」の玉稿の中で「至聖言」とお伝えくださっている聖言であります。
「至聖言」の中で、明主様は「生まれ変わるというんじゃない」「新しく生まれる」と言明しておられます。
平成29年5月に京都南布教所で行われました京都・滋賀布教区信徒大会で、信徒から教主様に、「新しく生まれる」ことについてお伺いがありました。
教主様は丁寧にお答えくださいました。この日のお言葉、お伺いとお答えが、後日冊子として発行されました。教主様は、当日のお答えの中に「追記」も記してくださり、さらに内容を深めて懇切にご教導くださいました。
ところがです、私に問題が生じました。「私たちは、本質的に、輪廻転生のように、生まれ変わる存在ではない」と教主様が明言されていることに、初めてこのことを知る信徒はびっくりするのではないか、これまで教えてもらったことと違うと混乱するのではないか等々の思いが、私の中に湧いてきました。
そうした私の懸念を教主様に申し上げました。教主様は、即座に「新しく生まれる」ことをどう受け止めているのかということを、大変厳しい口調で厳然とご下問になりました。教主様は、それまでご面会の折に、幾度も「新しく生まれる」ことに言及してくださっていました。私は、教主様が〝私の話すことを本当に聞いているのか〟と本気で問うておられることを感じ、身の縮まる思いでした。
京都での信徒大会の追記の中で、教主様は次のように仰せになっています。
私たちの魂は、創造されたものではありません。創造主であられる神様ご自身の魂です。私どもの本質である神様の魂は、決して生まれ変わるものではありません。私たちは、この世を去った後、再びこの地上に戻ってくることはないのです。
ですから、今まで魂を自分のものとしていたことに気付かせていただき、明主様がなされたように、私たちも悔い改めて、メシアの御名にある神様の赦しをお受けし、天国に立ち返って、魂をお返し申し上げ、改めて神様の魂としてお受けさせていただくことが「新しく生まれる」ことであり、永遠の生命を獲得することでもあると思います。
私たちの魂は「創造されたもの」ではなく「創造主であられる神様ご自身の魂」であり、生まれ変わるものではないとご教導くださっています。
信徒の受け止めではなく、他の人の考えではなく、自分が教主様のこのお言葉をどう受け止めさせていただくのか──そのことです。自分がどうなのかということです。
生まれ変わるのではないということは分かっていたつもりでしたが、もうこの世に生まれることはないと思ったとき、何か寂しい思いが湧いてきました。私のこの時の気持ちは、形ある現世が主であったのでした。眼に見えない世界、神様ということが主ではなかったということになります。まだまだ眼に見える世界のことが中心となっている自分であるということです。
明主様がハッキリと聖言になっていることが主ではなく、自分の心の中のこだわり、執着している事柄が優先していたということです。
教主様はそのことに鉄槌を下してくださったのだと思います。
私は以前に、明主様の側近として御用をされていた山本慶一先生の講義録を読んだことがあります。昭和45年、ブラジル・ハワイ参拝団へ「明主様のご生活」と題されたお話でした。
その中で山本先生は、明主様の「印象に残っている生活態度」として、神様に「絶対素直な態度でのぞまれておられた」とおっしゃっています。神様に絶対帰依の姿勢であられたこと、そして「法に叶った生活」であられたことを伝えてくださっています。
そして自分たちを「筋の通った信仰者」へと有形無形のうちに導いてくださったと述べておられます。
私はこのお話の中で、「絶対素直」ということが心に残りました。
「生まれ変わるというんじゃない」「新しく生まれる」という聖言に対する教主様のご態度は、この明主様の「絶対素直」のお姿なのではないかと思わせていただきました。教主様は、明主様が聖言くださったことに対し、「絶対素直」であられます。
私は、その教主様のお姿をこそ倣わせていただかなくてはならぬ立場の者です。自分の傲慢な態度をお詫び申し上げ、「絶対素直」に教主様のご教導をお受けさせていただくほか道はありません。
私は在職中、機関誌『真善美』の編集発行にも携わらせていただきました。
教団の機関誌は、明主様がご在世中はご自身が編集長でありました。明主様のみ心がそのまま反映された『栄光』紙であり、『地上天国』誌でした。ですから明主様がそうであられたように、本来、教団機関誌は教主様が編集長なのではないでしょうか。しかし私は、機関誌の御用をいただきながら、その意識がありませんでした。厚顔の極みであります。不明を恥じるばかりです。
しかし、今、私たちは『Glory』を、世界メシア教の教会誌としていただいています。『Glory』と私が担当していた時の『真善美』との違いは歴然としています。『Glory』は、最も大事なのは、神様のご存在であり、その神様のみ旨をお受けになった明主様であり、その明主様の真のみ心を伝えてくださる教主様であることを、明確に発信しています。大切な中心は何かということを私たちに伝えてくれる教会誌であります。本当にありがたいことであります。
その『Glory』に、教主様はお歌を掲載してくださっています。お歌の拝誦によって、教主様のお心に接しさせていただく思いがいたします。お歌によってご教導をいただく喜びがあります。
「願はくは父母先祖がまづ先に神の子メシアと甦らむを」
昨年の『Glory』9月号(8号)に掲載された教主様のお歌の一首です。先祖の方々に対する教主様のお気持ちを教えていただいたように思いました。このお歌のように、私も願わせていただきたいと思いました。
後のほうに、「神の子メシアと甦らむを」とお詠みくださっていますが、このことが、明主様がご自身のお姿と聖言をもってお伝えくださった最も大切なことであります。その大事を、私は全く知らずに長い年月を過ごしてきました。しかし、教主様によってこの明主様の救いの核心を教えていただきました。
父母先祖をはじめ、自分につながるすべての方々に、「神の子メシアと甦らむを」の祈りをもたせていただきたいと思います。
私は今日まで明主様の聖言を学んできました。しかし、教主様のご教導がなければ聖言を理解することはできません。「神の子」の真意も、「メシア」の真義も、神様が自分の中に存在することも、その一端たりとも受け止めることはできなかったのですから。
人間としても専従者としても、私の歩みは、自分の思いに囚われた堂々巡りの迷いの中にありました。知ったようなつもりで、実は本当のことを知らなかった無知な人間でした。教主様はその私を啓いてくださいました。
今の私の現実は、教主様のお導きがあっての自分であります。教主様のご教導をお受けするに足る者にならせていただくよう歩ませていただきます。
教会誌『グローリー』No. 15, 2021/4月号掲載