PDF: 五月度月次祭_真明様ご挨拶

「あなたの愛を知ったから」

於:本部ご神前

 

皆様、こんにちは。
 教団の歴史は争いの歴史であった、と言っても過言ではないと思います。世界救世教の今日までの歩みというのは争いの歩みであったと、そう言えると思います。
 皆様ご存じのように、明主様ご昇天後、三代様の時には、裁判はもちろんですけれども、聖地を奪い合い、拠点を奪い合い、警察が出動するようなこともありました。その後、一応和解ということになるんですけれども、また主導権争いのようなことがあったり、最終的には、教主様がいらっしゃるのが都合が悪いということで、尾行のようなことをして追い出してしまおうということになった、そういうことですね。
 私たちはよく「教団浄化」と言いますけれども、本来この表現は、外部の方とか、あるいは神様、明主様が、私たちに対し、「いや、これは浄化ですよ」「このもめごとは本当は良いことのためなんですよ」と言われるなら分かりますけれども、救世教の争いはただの内紛ですからね、本来私たちが、「これは浄化だ」と言う立場にはないのではないのかなと、最近そう思いました。
 ある家族が家の中で争って周りの家や住民に迷惑をかけた時、おおっぴらに、「いやこれは浄化なんだ、良いことのためなんだ」とは普通言うべきではないですよね。やはり、「家族内の争いでご迷惑をおかけして申し訳ございませんでした」と周りには言うべきことなのかなと思うわけですね。
 ということで、教団の歩みは争いの歩みであったと、そう言わざるを得ないと思います。
 そんな私たちに対して、明主様が一体何とおっしゃるのか、ここですね。
 「大乗愛」という聖言があるんですけれども、そこで明主様は、愛を唱える宗教には必ずと言いたいぐらい宗団内の争いがあると、こう仰せになっています。ヨーロッパで言えば十字軍、日本で言えば仏教の僧侶同士が兵隊になって争ったこともあったと、そう書いておられます。
 この十字軍というのは、本来、キリスト教徒が、聖地のエルサレムを奪還するためにイスラムに対して仕掛けた戦いですので、細かく言うと宗団内ということとは違いますけれども、ユダヤ・キリスト教という大きな枠組みの中では、そのように言ってもいいのかなと思います。
 で、明主様は、「としたら争いのある宗教は、最早宗教人としての資格を喪失した訳である」と、こうおっしゃっておられます。
 「争いのある宗教は、最早宗教人としての資格を喪失した訳である」。
 これ、私たち、どうしますか?
 いや、だって世界救世教ですよ。その歩みは、外部の人も含めて、誰もが、争い、内紛の歴史だと思ってますよ。そして明主様は、「争いのある宗教は、最早宗教人としての資格を喪失した」と、こうおっしゃっているんですよ?
 ということは、私たちは、争っている時や、今も、「明主様のみ心はこうだ」とか「いや自分こそ明主様のみ心が分かるんだ」とか「明主様のみ心を求めて」ということを簡単に言いますけれども、明主様に言わせれば、私たちは本来、明主様の「め」の字も言う資格がないんですよ。
 あるいは、御教えとか聖言ということについても、私たちは、「御教えに書いてある」とか「書いてない」とか、「明主様の御教えは本来こうだ」とか簡単に言っていますけれどもね、私たちは「最早宗教人としての資格を喪失した訳」ですから、本来、御教え、聖言の、「み」の字も言う資格はないんですよ。
 あるいは私たちは、「自分は明主様の信徒だ」と当たり前のように思っていますけれども、もう私たちは宗教人ではないんですから、本当は、世界救世教に属する信徒すべては──もちろん私も含めてですけれども──もはや明主様の信徒と呼ばれる資格はないと、そういうことになりますね。
 しかもこれは、明主様の今の聖言だけではなくて、世の中の人からも同じように思われているんだと思いますよ。新宗教というものは、特に日本においてはそもそもうがった目で見られますよね。その新宗教である私たちが教団内で争いをしていたら、どんなに私たちが「自分たちは正しい。悪いのは相手だ」というふうに主張したとしても、世の中の人から見たら、「どっちもどっちじゃないか」「宗教でありながら争いなんて何をしているんだ」と、そういうふうに思われてしまうのではないですか?
 だから、確かにね、色んな活動、ありますね。芸術活動とかお花の活動とか、あるいは社会に対して良いことしてます、と言ったって、それは、明主様の御歌に、「うたてきは」──気の毒とか情けないという意味ですね──「うたてきは文化の衣に包まれて野蛮を行ふ人にありける」ということになってしまっていると思いますよ。
 どんなに、世の中の人と同じようなことをして「文化の衣に包まれて」いる振りをしてても、結局私たちの本性は、尾行・盗聴・盗撮という「野蛮を行う人」だと、そういうことになってしまったのではないですか?
 いや、あの尾行・盗聴・盗撮ということ、あれを私たちは自分たちとは無関係だと思っているかもしれませんけれども、あの行為は、明主様を信仰する私たちの仲間がしたことですから、私たちも完全に同罪ですよ。「あの人たちがした」という種類のことではなくて、いかに文化の衣をまとって、普通の人みたいにしていても、結局私たちの本性というのは、尾行・盗聴・盗撮するようなものじゃないんですか?そのような姿が私たちの中にあるがゆえに、明主様は、具体的に、それを一部の人たちに担わせて、ああいう行いをさせたんじゃないんですか?そしてそれは、それを通して、私たちが、私たちの本性を知るためだったんだと、そう思います。
 確かに私たちの心の中には、「自分は関係ない」と思いたい気持ちはあると思うんですね。大体30年以上も前の三代様のご浄化の時のこともよく知らない、とか、尾行・盗聴・盗撮というような行為と自分は関係ない、というふうに私たちは思いたい。でも、教団内でずっと争いを繰り返してきたことについて、今まで誰が、明主様に対して、「私は宗教人としての資格を喪失した存在です」ということで心からお詫び申し上げたことがあるのだろうかと思うわけなんですね。
 明主様の御歌に、「罪多き我身我家を赦しませ大慈大悲の大御心に」というのがあります。明主様ご自身が、「我身我家」は罪が多いんだとおっしゃる。そしてその罪を、神様の慈悲の大御心によって赦していただきたいとおっしゃる。
 私たちとしては、明主様はそんなにたくさんの罪を犯したんだろうかと思うくらいですよ。しかも明主様は、ここで、ご自分の罪のことだけではなくて、自分の家のご先祖様のことについてもその罪をお赦しくださいとおっしゃっていますよ。ご自分のことだけではなくて、ご自分に連なる方たちについても、代表してお詫びなさってる。
 もし明主様がそういう姿勢でおられるのだとしたら、私たちは、なおさら、世界救世教の私たちの先輩、先達の人たちがしたことについて、「自分とは無関係だ」とするのではなくて、やはり、「これは私の姿でした」「争いをするような、そんな私の姿でした」ということで、神様、明主様にお詫びしなければいけないと思うんです。誰かが、そういう思いを持たないといけないと思うんです。
 そんな、ずっとね、「自分たちは正しい」「自分たちこそ正しい」と言ってね、裁判だ何だとして歩み続けるのか──いや、それはね、確かにその必要性はありますよ、この世での秩序というものがありますから──でも、その必要性があるにしても、やはり信仰者としては、本当に、神様、明主様にお詫び申し上げなければならない、そう思います。
 明主様は、最晩年に脳溢血のご浄化をお受けになった後、繰り返し、「これからはお詫びではなく悔い改めなんだ」とおっしゃったということなんですね。で、ここで、明主様がおっしゃる「お詫び」と「悔い改め」の差は一体何だろうかと、そう思いますよね。
 私が思うのは、「悔い改め」というのは、命に関わること。これが悔い改めだと思います。「お詫び」というのはそこまでいかない。
 私は、明主様が脳溢血のご浄化をお受けになった時、きっと、命に関わる何かを感じられたのではないのかなと思います。明主様は、「ああ、本当に、命のことについて神様に心から悔い改めなければならない」と思われた、そう思います。
 それはね、教団の歴史のことについても、今まで、一種の言葉のあやでお詫びしてきた方もいらっしゃるとは思いますよ。「こんな争いごとをしてしまって申し訳ございませんでした」というように。
 だけど、本当は、私たちは、「宗教人としての資格を喪失」したら大変なことですよ。要は、もはや明主様の信徒ではなくなるということですけれども、私たちは、もし明主様から綱を切られたら、永遠の命に至る綱を切られるということと同じですからね、それは。ということは、それは死の宣告みたいなものですよ、本当はね。
 だから、今までの教団内の争いごとに直接関わっていても関わっていなくても、それは、明主様から、「あなたは宗教人としての資格を喪失した」と言われるぐらい大変なことなんだということに気づいて、そして、やはり、私たちは悔い改めなければならない。
 ただね、この「悔い改め」ということも、私たちは、それを甘く見て、赦されることを簡単に前提としているようですけれどもね、本来は、そんなに甘いものではないんですよ。
 教主様は、もちろん明主様も、ありとあらゆることについて悔い改めることの重要性についてお説きになっていますね。それを私たちは、最終的には赦していただけることが前提の悔い改めなんだと甘く見ているようなところもありますけれども、明主様の御歌に、「いやはての裁きの打曳かれ悔改むるともせんすべなけれ」というのがありますよ。「いやはての」、最後の、という意味ですね、最後の審判の廷、この「廷」というのは裁判所ということですね、そこに連れて行かれて、その時に悔い改めても、もうせんすべもない、もうどうしようもないですよと、そういう御歌です。
 あるいは、「審判の火のじさ天仰ぎ神に祈るもに遅かり」。これも明主様の御歌ですよ。神様の裁きの火があまりにも激しい。その時に、天を仰いで神に祈ってももうすでに遅いよという御歌です。
 どれも厳しい御歌ですね。だから、私たちは、赦してもらうということを簡単に前提みたいにしておりますけれどもね、実際に神様がどうされるか、本当は分からないですよ。
 少なくとも、明主様は、この御歌にあるような神様への畏れの気持ちをお持ちであったということは私たちは知っておかなければならない。だから私たちも、悔い改めるということを甘く見ないほうがいいと思うわけなんですね。
 いや、だって、「悔い改めます」と申し上げて、神様から「すでに遅い」と言われたら、それこそもうそこで終わりですよ。審判の火に燃え尽くされて滅びるのみですよ、私たちはね。
 というように、厳しい言い方をするとそういうことになってしまうんですけれども、本当は、燃え尽くされるどころじゃなくて、神様の赦しの思い、私たちへの愛の思いというのは、計り知れなく大きいんですね。
 でも、だからと言って、「赦される」と思って、神様から「赦す」と言われても何の感動もないじゃないですか。
 そうではなくて、「自分は下手をしたら燃え尽くされてしまうかもしれない」「赦されないかもしれないくらい神様からご覧になったら赦し難い存在なんだ」と思って、その中で神様に勇気を持って、「悔い改めます」と申し上げて、それに対してもし神様が「お前のことを赦すよ」とおっしゃってくださったら、その喜びはもう言葉にできない喜びだと思いますよ。
 でも私たちはね、教主様から、「神様は私たちのことを無罪としてくださっている」とおっしゃっていただいても何の感動も起きないじゃないですか、「私が一体どんな罪を犯したんだっけ」と思うくらいなものですよ。というように私たちは、私も含めてですけれども、自分たちが罪人であるという自覚があまりにも薄い。
 でも本当は、「神様から『ノー』と言われたら大変なことなんだ」ということを少しでも知って、そして、その思いで神様のみ前に立って、神様から「あなたを赦すよ」「無罪だよ」と言っていただいたら、その喜びというのは、何ものにも代えられない喜びであるのではないのかなと思います。
 でもね、神様からしたら、本来は、「赦す」も「赦さない」もないんですよ。今も少し言いましたように、神様は、私たちが想像するよりもかに大きな愛で私たちを包んでくださっているんです、今も。
 だって私たち、少なくとも、今、生きてますよ。
 生きて、そして呼吸をしてますよ、吸ったり吐いたり。
 で、呼吸ができるということも、私たちはすぐ、簡単に当たり前のことのようにしてね、何か「こんな呼吸法がある」「こういうふうに呼吸すると良いんだ」みたいなことで、呼吸もすぐ人間のものにしていますけれどもね、でも、これが、「ふぅー」と息を吐いて、また、「すーっ」と吸えますでしょう。吐いたら、当たり前のように息を吸えますよ、今。「ふぅー」と吐いて、吸えますよね。
 この、息を吸えること、これを私たちは当たり前だと思っていますけれどもね、息を吸えるということは、私たちが息を吐いたあと、神様が、「あなたに私の命を与えよう」ということで、一息一息、毎息毎息、私たちに臨んでくださっているからじゃないんですか?だから、吐いたあと、毎息、息が吸える。
 「いや、息をしているのは当たり前だ」と思ってもいいですよ。でもそれは、信仰者として正しい姿勢ですか?
 息を、「ふぅー」、吐いて、そしたら、「すーっ」。吸えますね。当たり前のように吸えますよ、当たり前のように。ということは、24時間、私たちの呼吸一呼吸、私たちが息を吐くたびに、「じゃあまた私の命を与えよう」とおっしゃってくださって息を与えてくださっているからじゃないんですか、神様が?だって、息を吸えるんですから。
 しかも、これは私たちに対してだけではないんですよ。神様は、正しい人の上にも、正しくない人の上にも、一律に、ご自分の愛の息を、毎呼吸毎呼吸注いでくださっている。だからね、そう考えると、神様の愛の大きさというのは、もうこれは、人智でとうていつかむことのできないほど大きな愛ではないのかなと思うんですね。
 明主様も「人間の愛」と「神の愛」があると仰せですね。で、その「神の愛」というのが大乗愛であり世界愛であり人類愛であり利他愛なんだとおっしゃる。
 でね、この「愛」ということについても、私たちは、明主様が「利他愛」とおっしゃると、世の中でも「利他愛」のようなことは訴えていますのでね、すぐに「愛」も簡単に自分のもののようにして、「周りの人のためになんとかしよう、それが明主様の説かれた利他愛なんだ」というふうになってしまいますけれどもね、でも明主様は、一方で、周りの人に対して持つそういう愛である「周囲愛」は、「人間の愛」であり「小乗愛」である、いかに強くとも、結論的には悪になると、そうおっしゃっていますよ。
 大体、私たちはずっと利他愛、利他愛と言ってきましたけれども、私たちの存在で神様のような利他の愛を持てるんですか?誰にでも分け隔てがないんですよ、神様は。私たちは、ちょっと誰かに親切をしても、その人から何か気に入らないことを言われたらすぐムッとする、それぐらいのものですよ、私たちは。
 でも神様は、私たちから見たら「あの人は絶対におかしい」と感じるような人にも──どんな人にも──分け隔てなく常にご自分の愛と命を注いで生かしてくださっている。
 「利他愛」ということは、他を利するということですが、その「他」というのは全人類のことですよ。その全人類を平等に利させるほどの愛を、私たち人間という存在で持てるのかと言ったら、それは、持てないですよ、私たちでは。
 私たちは今ここにいる。でも、地球の裏側では誰かが寝ていますよね。その方たちも神様は命を与えて生かしてくださっている、今。それほどの他を利する利他愛、それは私たちでは持てないのに、私たちは今日まで、愛を自分たちのもののようにして生きてきてしまったんじゃないのかなと思うんですね。
 そもそも私たちは、「神様」というご存在についても、「神様は生きている」ということを聞いても、すぐ「実感がない」「証拠がない」と言っていますけれどもね、私たち、今、生きていますよ。で、生きていますけれども、この命、この「わたし」という感覚、これは、私たちが自分たちで造ったものではないですよね。意識とか心の動きとか、これらのものはとうてい私たちでは造れない。
 ということは、私たちの意識は、本当は私たちの意識ではなく、神様の意識だということですよ。
 私たちは今、「生きている」と感じますね。そのように感じるのは、私の中で神様が生きておられるから、「生きている」と感じるんです。だから、私たちが今「生きている」と感じていること自体、神様がいらっしゃる何よりの実感であり、証拠ですよ、だって、人間の力では生きることはできないんですから。
 自分が今「生きている」。これが、神様がいらっしゃる何よりの実感であり、証拠、なんですね。だって、今私たち、生きていますでしょ?ということは、神様が私たちの中で生きていらっしゃるからですよ。
 でも、私たちはこんなに神様に恵んでいただいているのに、「私は神様を信じる」とか「私は信じない」とか言っていますけれどもね、大体、「信じる心」も「信じない心」もそれを与えてくださっているのは誰なんですか?絶対に神様ですよ。「信じる心」「信じない心」、どちらであっても、人間の力でその思いが湧くはずないわけですから、本来は。
 明主様の、昭和28年の御歌、「今年より荊の道を後にして栄えの道を進みゆかなむ」。
 これは昭和28年ですから、1953年の御歌ということになりますけれども、これは、「そういうこともあったんだな」という昔話ではないんですよ。「1953年だけのことで、今の私たちとは無関係な御歌だな」ということではないんですよ。
 そうではなくて、明主様がこういう御歌を私たちに遺してくださったということは、明主様は、私たちに対して、「あなた方は、荊の道に進むのか、栄えの道に進むのか今決めなさい」と、そう臨んできておられる。
 今というか、「今日」ですね、「きょう」。
 荊の道──それは、神様の愛を自分のものとして結局周りと争ったり、神様の意識を自分の意識としたり、自分が生きている、自分がやっている、自分が行っているとして生きていく。それは、当然、荊の道ですよ。だってすべての力は神様がお持ちなのに、人間の力でできると言ったら、それは荊の道になりますよ。人間の力で九分九厘までこぎつけても──と言っても、そもそも、九分九厘までも人間の力では行けないんですよ。九分九厘に行かせるまでの力は誰がお持ちなんですか?神様ですよ。
 というように、その荊の道を歩むのか。それとも「栄え」の道というように、栄え、栄光、神様の栄光。「すべては神様の栄光です」「私の命も神様の栄光の現れです」。どんな愛を持ったとしても、「それは神様の栄光の現れです」というその栄えの道を歩むのか、今日、荊の道を取るのか、栄えの道を取るのか、どちらか決めなさいと、そう明主様はおっしゃっている。
 だから、「きょう、み声を聞いたなら、神にそむいた時のように、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」(「へブル人への手紙」第315節)。
 「きょう、み声を聞いたなら、神にそむいた時のように、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」。
 本当は、聞いてたんですよ。聞いてたじゃないですか。聞いてたと思いますよ、私は。
 「神様が私たちの中にいらっしゃる」「光の存在が私たちの中にいらっしゃる」、これ、私たちは、聞いてたと思いますよ。
 でも私たちにとって、こんなに都合の悪いこと、ないですよね。だって私たちは、自分の力で生きたい、自分の力で成し遂げたい、そして、評価を得たい、徳を得たいと思ってるじゃないですか。
 だから、前に聞いた時は、「こんなに都合の悪いことはない」と思って、背いたんですよ、神様に。背いて、「自分は自分で生きていくんだ」としてね、「自分は信仰心を持っています」とか、「自分は神様のためにこういう行いをしています」として、荊の道を歩んできたじゃないですか、今日まで。
 でも今、もう1回チャンスが来たんですよ。それは、明主様が、教主様を通して、「神様はあなた方の中に生きていらっしゃる」ということを教えてくださっている。
 だから、今日、そのみ声を聞いたなら、以前神様に背いた時のようにね、また、私たちは心を頑なにして、「いや、自分はこれからも自分の力で生きていく」というふうにするのか、しないのか。どうしますか?
 で、「声」ということも、春季大祭で取り上げました明主様の御歌、「有難し救主が御声を聞く毎に我体魂は力増すなり」。明主様も、「救主」というお方の声を聞いていらっしゃいますね。
 だから、「きょう、み声を聞いたなら」とか「有難し救主が御声を聞く毎に」というように、神様のみ声というのが存在している。
 でも私たちとしては、「そのような声は聞こえない」「何も聞こえていません」となりますね。
 確かにね、簡単に聞こえるものではないですけれどもね、でも、本当は、私は、神様は、私たちに語りかけてくださっていると、そう思うんですね。そして、紛れもない事実として神様が私たちに語りかけてくださっていることというのがあると思うんです。
 それは、神様は私たちに対して、「わたしは、あなたを永遠に愛する」。
 「わたしは、あなたを永遠に愛する」。
 これはおっしゃってくださっているんだと思いますよ、少なくとも。
 それをね、「聞こえない」「いや、聞こえません」としてもいいですよ。でも本当は、今日、神様のみ声を聞いたんですよ。「あなたを永遠に愛する」という神様のみ声。それを今までもずっと聞いていたし、今日も聞いたんです、本当はね。
 だから「罪深き身もめ給はずて大いなる幸豊に恵まふ」という御歌、ありますね。
 私たちは罪深い。罪深いんだけれども、神様は、そんな私たちを、裁くとか裁かないどころじゃないんですよ。もはや「とがめない」とおっしゃってますよ。さらには「とがめない」どころではなくて、むしろ、大いなる幸を豊かに恵むよとおっしゃる。本当に、いかに神様の愛は大きいのだろうか。ですね?
 で、この「幸」とは一体何ですか?と思いますよね。「幸」というと、もちろん物質的な幸もありますけれどもね、でも本当は、この「幸」というのは命ですよ、命。
 しかも、この世の命、この世の息はいつかは無くなりますよね、誰にでも寿命がありますから。でも、私たちがいただいているこの「大いなる幸」というのは、永遠の生命ですよ。永遠の生命であり、永遠の息。
 私たちがどんなに罪深くても、神様はこの永遠の生命を私たちに豊かに恵むよとおっしゃってくださっている。
 「宗教人としての資格を喪失した」ということは、私たちは、神様のもとに置いていただく資格を失ったということですよね。
 でも神様は、そんな私たちに対して、「わたしは、あなたを永遠に愛する。だから、わたしの永遠の生命に生きなさい」とおっしゃってくださっているんです。
 もしそうだとしたら、私たちは、もうね、ありとあらゆるものを失ってでもその「幸」を手に入れたい。ありとあらゆるものを犠牲にしてでも神様の永遠の生命を賜りたいと思うべきではないのですか?もしそう思えたら、神様は本当にお喜びくださると思いますよ。
 こういう話を聞くと、私たちは、すぐ、「じゃあ具体的に何をしたらいいのか」となるんですけれどもね、本当は、それどころの話じゃないんですよ。具体的に何をするもしないも、もう神様が私たちの中にいらして、「おまえを愛しているよ」「おまえを使うよ。いいか?」とおっしゃってくださっているんです。
 だから私たちとしては、「こんな私が現れてもどうにもなりません。でも、あなたの御心が成し遂げられるようにお使いいただきたいのです」と、もうそれしかないじゃないですか。明主様が、「人間の愛は小さい」とおっしゃるように、私たちが現れたってどうにもならないですよ。でも、私たちを通して神様が現れてくだされば、こんなにありがたいことないですよね。
 本来私たちは、「具体的に何をしたらよいですか」ということを言える立場にはないんです。だって私たちは神様にお使いいただく以外にないじゃないですか。
 神様は、今も──この瞬間も──有り余るほどの愛と力を持って、全人類に命と息を恵んでくださっている。そして、私たちの中にいつもいらっしゃる。
 だとしたら私たちは、ありとあらゆるものを失ったとしても、その神様の愛に生きたいと思うしかないじゃないですか。「神様の愛のもとに生きたいのです」「そのような人生を歩みたいのです」と、そのように思わせていただくしかないじゃないですか。
 確かに私たちは、「宗教人としての資格を喪失した存在」ですよ。しかも、教団の歴史の中で、本当にそのことを自覚して悔い改めた人もいない。大変なことをしてきてしまったんですよ、本当はね。
 でも私たちは、「私は何を失っても明主様につながっていたい。明主様を通して知った神様の命と神様の愛、この命と愛に生きたい」と心底思えたとしたら、確かに私たちは宗教人としての資格を一度は──どころか本当はもう何度も──喪失した存在だとしても、神様はそれを一切とがめないで、「赦すよ。だってわたしはあなたを愛しているんだから」と、そうおっしゃってくださる。私はそう思います。
 というように、今日、神様のみ声を聞いたんです。「わたしは、あなたを永遠に愛する」というみ声を聞いたんです。
 だから、栄えの道を歩むと決心して、その神様の愛に、共に生きてまいりましょう。
 ありがとうございました。