PDF: 地上天国祭_真明様ご挨拶

 

於:ホテルオークラ神戸(平安の間)

 

明主様は、御歌に、「いやはての裁きの廷に打曳かれ悔改むるともせんすべなけれ」とお詠みになりました。「いやはて」というのは「最後」ということで、「いやはての裁き」ですから、最後の審判。「廷」は、裁判所。
 あるいは、「審判の火の凄じさ天仰ぎ神に祈るも已に遅かり」。
 あるいは、「大峠の最中となりて悔むとて已に遅かり心せよ今」。
 これらの御歌は、「いざとなって悔い改めても、もう遅いですよ」ということですけれども、明主様は、これらの御歌を通して、何をお伝えになりたかったのか。
 大峠の最中となって悔い改めてももう遅い、だから、今、心しなさい、ということは、要は、「悔い改めなければならない」という実感があってから悔い改めてももう遅いですよ、ということではないでしょうか。
 そうではなくて、自分が罪人だという実感がない、悔い改めなければならないという実感がない、その中にあって、「実感がないうちに悔い改めなさい」「今、悔い改めなさい」と、そういうことをおっしゃっているのではないのかなと思います。
 そうだとして、悔い改めるべき材料というのは、人それぞれだと思います。あるいは、自分は悔い改めるべき材料が思いつかない、思い当たらない、という方もいらっしゃるかもしれませんけれども、でも、明主様の信徒である私たちにとって、少なくとも、一つ、絶対に悔い改めなければならないことというのが私はあると思うんですね。
 それは、何度も言っておりますように、MOA・東方之光グループによる教主様と母への尾行・盗聴・盗撮。
 この行為を、ただ、「とんでもないことだ」と批判することが目的だったら、このように何度も触れる必要はないと思うんです。でも、あの行為の本質とは何なのか。
 それは、結局、自分たちの都合で物事を進めたい、人に自分の言うことを聞かせたい、そういうことですよね。
 では私たち──私たちはというか、私ですね、私──私は、神様のご都合というものがあって、そして、自分の都合がある。どっちを優先して生きているかといったら、それはもう日々、毎日毎日、自分の都合を優先して生きております、私は。
 朝起きた時から、これをしなきゃいけない、これをしなきゃいけないと忙しくして、その中で、ふとした時に神様に心を向けるぐらいです。すべてのことを、自分の進めたい方向でしている。しかも、今までそう生きてきたことに対して、罪悪感もなく、むしろ「これが当たり前だ」「自分は一生懸命生きている」と思って私自身が今日まで来た。
 そんな私に対して、神様は、「お前は、本当は、私ではなく、自分の都合を優先して生きているじゃないか」ということを伝えてくださるために、そういう私の姿を集約した行為として、尾行・盗聴・盗撮という行為を神様、明主様は私に見せてくださって、そして、神様は、「悔い改めなさい」とおっしゃってくださった。私に対して、ですよ。「あなたが悔い改めなさい」とおっしゃってくださった。
 そもそも、私たちは、「浄霊実践何十年もしてます」「毎日参拝してます」「聖言毎日拝読してます」「参拝・浄霊・奉仕一生懸命頑張ってきました」「お導きしました」「献金しました」と言っても、根本的に、もし尾行・盗聴・盗撮という行為をしてしまったら、もうすべて水の泡じゃないですか。「なんだ、今までいろいろしてきたことは、結局、何てことはない、自分の都合のための信仰実践だったんですね」ということになってしまうじゃないですか。
 それについても、神様は、私に対して、「あなたはいろんな行いとかをしてきたつもりかもしれないけれども、それらは、本当に、私のためにやってたのか」ということを私に突きつけてくださった。私に、ですよ。
 逆に、もし私たちが、尾行・盗聴・盗撮ということを他人事として、ただそれを批判して、自分とは関係ないことだとしていたら、どうなってしまうか。
 これも明主様の御歌ですけれども、「恐ろしの劫火は遠近燃え初めぬやがて人の世焼き尽さんかも」、というように、あちらこちらで燃えているその火に対して、本当は、神様は、それを見聞きした私たちに悔い改めてほしいのに、それを、「これは他人事で、対岸の火事ですね」「私のことではないですね」「私は同罪ではない」として、「悔い改めない」「悔い改めない」としていたら、いつか、どんどんどんどんその火は迫ってきますよ。「悔い改めなさい」「悔い改めなさい」というのがどんどん強くなっていきますよ。
 確かに、最後の審判は終わってますよ。「全人類を赦す」ということは決定してますよ。だけど、私たちが、本当に自分の罪を悔い改めて、赦しを受け入れなければならないんだ、ということを先延ばしにしていると、「最後の審判的状況」が、どんどんどんどん、私たちの周りに、というか、私、ですね、私の周りに起きてしまうかもしれないと、そう私は思っているんですね。
 一方で、現実的には、この尾行・盗聴・盗撮という行為について、MOA・東方之光は、教主様と母にお詫びもしてなければ、悔い改めもしてない。
 ということは、今も尾行とか盗撮のようなことが続いているかもしれないんですよ。だって、「もうやめました」ということを言ってきてないわけですから。今もしているかどうか分からないし、いつまたされるかも分からない。MOA・東方之光は、教主様と私の母を、そういう精神的状況に今も置いているわけですね、いつまた彼らに尾行されるか分からないという。
 いまだにお詫びもしていないということは、彼らとしては、尾行・盗聴・盗撮という行為は正当化できると思っている、ということですね。
 確かに、警察に捕まるのかといったら、警察にはギリギリで捕まらないことなので、あちらとしては、これはセーフだという見方なのかもしれませんけれども、信仰者としてはもうアウトですよ、それは。当然、アウトですよ。
 しかも、明主様の孫でいらっしゃる教主様に対してですらそのような行為をするわけですから、彼らのもとにいる信徒に対してはなおさら、ね、と思いますよね。彼らの言うことを聞かない信徒や専従者がいたらどうなってしまうんだろうと思うと、そういう信徒を何とか救ってあげたいと、そういう思いが湧いてくるんですね。
 しかもこれは日本のことだけではない。今、世界中の多くの明主様信仰の団体が、尾行・盗聴・盗撮という行為を認めている。だから、そのような団体のもとにいる世界中の多くの信徒を何とか救いたいと、そう私は思うんですね。
 教主様がお説きになっていることは真理、ですね。ですので、「審判の火の凄じさ」というように、神様の真理というのは厳しい。だから、教主様のご教導を受け入れられないと思われる方が一部いるのはやむを得ないことだなとは思うんですね。
 だから、そういう方々は、教主様のもとに来ることができないとしても、他の明主様信仰の団体、世の中にたくさんありますね。少なくともそういう団体に行っていただいたほうが、尾行のような行為を実行・容認しているグループのもとにいるよりよほどいいんじゃないのかなと思うんですね。でも、すべてのお力は神様がお持ちですので、きっと神様が、一番いいように導いてくださると、そのように信じております。

 

そう考えますと、私たちは、明主様のご神業を考える中で、この「悔い改め」ということをあまり考えてこなかったように思うんですね。
 でも、冒頭から引用している御歌の数々、これらは、どれも、「悔い改めなさい」という明主様からの強烈なメッセージが込められていますよね。
 あるいは、聖言のタイトルにも、ストレートに、「夜の終り近づけり汝等悔改めよ」──これは、『聖書』の一節をもじっているわけですけれども──というのもあります。
 最晩年には、脳溢血のご浄化をお受けになった後、明主様は、「これからはお詫びでなくて悔い改めなんだ」ということを繰り返しおっしゃった。
 また、明主様は、ご晩年には、『文明の創造』という本をお書きになろうとしていまして、それは非常に大切な本ということでおっしゃっておられましたけれども、その本の「序文」というのがありまして、そこに、「悔改めを私は神に代って勧告するのである」とあります。
 明主様がこの地上に来られた目的が、神様に代わって悔い改めを勧告しに来られたのだと、今までそういうことをあまり考えてこなかったのではないのかなと思ったりしますね。
 で、この「文明の創造 序文」には、これから素晴らしい世界を造る、だけど、人類の長年の罪に対しての浄めの働きがある、大浄化作用がある、「それを前以て人類に知らせ、悔改めを私は神に代って勧告するのである」。そして、「之ぞ神の大愛でなくて何であろう」とおっしゃるわけです、明主様は。悔い改めを勧告すること、「之ぞ神の大愛でなくて何であろう」、ですよ?
 そして、「従って之を知った以上、一時も早く頭の切替えは固より、心の準備に取掛るべきである」。「一時も早く」とおっしゃってますよ。「一時も早く」。さっきの御歌では、「心せよ今」。そしてここでは、一時も早く心の準備に取り掛かりなさいと仰せですよ。つまり、「一時も早く悔い改めなさい」と、そういうことですね。
 続けて明主様は、「そうして審判の最後に到っては、罪深き者は亡び、罪浅き者は救われるのは決定的であるから、之を信ずる者こそ永遠の生命を獲得すると共に、将来に於ける地上天国の住民として残るのである」と仰せです。
 「之を信ずる者こそ永遠の生命を獲得すると共に、将来に於ける地上天国の住民として残るのである」──ここで明主様がおっしゃる「地上天国」の意味、分かる方いらっしゃいますか?
 明主様は、「永遠の生命を獲得した人が住む場所が地上天国である」とおっしゃってますよ。じゃあ当然、明主様は、永遠の生命を獲得されて、「将来に於ける地上天国の住民」となられているはずですよね。
 だとしたら、「地上天国」は、少なくとも「ここ」じゃないですよ。「この地上」ではないですよ。だって明主様は今この地上にいらっしゃいませんよね。
 私たちは、「地上天国」というと、当たり前のように、この地上という世界が素晴らしい世界になっていくと思っている。もちろん、それはそうなるんですよ。神様のお力によって一歩一歩そうなるんですけれども、でも明主様は、「永遠の生命を獲得した人が住む場所が地上天国だ」とおっしゃる。
 だから、「地上天国」という言葉は、響きは一見簡単なことのようですけれども、これは、私は、明主様がお説きになったことの奥義だと思っております。
 でも、教主様がおっしゃってくださっているのは、地上というのは、私たちの身の回りの世界の、この「地上」ではなくて、本来は、私たち一人ひとりが「地上」じゃないか。私たち人間のこの「わたし」という意識、これが地上じゃないか。私たちは、長い進化を経て、この「わたし」という意識を持つに至った。この「わたし」こそが地上じゃないか。だから、この「わたし」という「地上」と、「天国」という神様がいらっしゃるところとが一つになって永遠の生命を獲得することができれば、それこそが「地上天国」という姿ではないのか、ということを教主様はお説きくださっていますね。これは、奥義、ですね。
 「罪深き者は亡び、罪浅き者は救われる」ということも、こういう言葉を聞いた途端、自分はどっちに属しているんだろうか、罪浅いほうに入りたいな、というふうになりますけれどもね、本来は、罪が浅い人なんて一人もいないんですよ。
 明主様は何とおっしゃっているか。「罪深き此身も尤め給はずて大いなる幸豊に恵まふ」ですよ。「罪深き此身も尤め給はずて」ですよ、明主様が。
 あるいは、「罪多き我身我家を赦しませ大慈大悲の大御心に」。
 明主様ですら、ご自分のことを罪深くて、罪が多いと認めていらっしゃるじゃないですか。私たちは、明主様より罪が浅いんですか?自分のことを「罪浅い」と言えますか?だから、全人類、罪の重さによって滅ぶべき運命だったんですよ。
 ここで明主様は、「罪深き者は亡び、罪浅き者は救われる」と仰せです。「罪浅き者が永遠の生命を獲得する」とはおっしゃっていませんよ。ここの差は大きいですよ。
 「罪深き者は亡び、罪浅き者は救われる」「之を信ずる者こそ永遠の生命を獲得する」と、そういう言い方をされてますね。
 だから、「罪深き者が亡ぶことを信じます」「私がまさにそうでした」「亡ぶべき運命にありました」「でも大慈大悲の大御心によってお赦しいただきたいのです」とすれば、永遠の生命を獲得させていただけるかもしれない、そういうことですね。
 だから私は、明主様のご神業の土台に、「悔い改め」があると、そう思いますね。
 ご浄霊とか薬毒ということも、人間の体というのは、薬とか人間の努力によって維持されているのか。それとも、神様のお力によって維持されているのか。
 自然農法。作物を育ててるのは誰なんだ。肥料とか科学や人間の技術によって作物ができるんですか?そうではない。神様がすべてのお力をお持ちじゃないか。
 芸術。人間がものすごい努力をしてどのようなものを作ったとしても、本来、創造する力は神様しかお持ちではない。
 だから、こういう活動の土台に、悔い改めがなければ何の意味もないですよ。「神様がすべてのお力をお持ちなのに、自分の力でできると思ってた。なんて自分は思い上がっていたんだ」ということがなければ、何の意味もないですよ。
 もし悔い改めということがなければ、そしたらもう、世の中でオーガニックファーミングとか有機農法とか言って、もう、そんなものと一緒ですよ。そんなことに対して、私たちは、「世の中がようやく明主様に追いついた」「認めてくれた」みたいに思って、そんなことでは何の意味もないじゃないですか。
 やはり私は、明主様が私たちに遺してくださったものは、そんな世の中でやっていることとは全然違うと思いますね。
 浄霊が科学的にどうだとか、医療の世界でも浄霊を認めてきたとか言って、それに取り込まれて、それで終わりじゃないですか。
 そういうあり方で進んでいって、人類は悔い改めるんですか?有機農法とか世の中でそういうことをやっている方たちは、神様に対して心からの悔い改めの思いを持ってそういうことをしているんですか?明主様は、神に代わって悔い改めを勧告しに来られたんですよ。
 あるいは光。今日は地上天国祭ですけれどもね、夜昼転換によって光が出た。この光ということも、私たちは、簡単に、素晴らしい光の世界を広げたいということを思いますけれどもね、本来私たちは、光を賜れるような存在じゃないんですよ。
 私たちは、簡単に、「少しでも自分の光を分け与えたい」と思いますけれどもね、やはり、根底に、「私はとても神様の光を賜ることができるような存在ではありませんでした」という悔い改めの思いがなければならない。
 息のこともありますよ。教主様や、また私も、息のことについて少し話しておりますけれども、確かに、それを実践するのは非常に大切なことですよ。
 でも、基本的に、「息は人間のものではなくて神様のものだったんだ」という悔い改めの思いが最も大切なんですよ。それをね、「今日は忙しくてなかなか実践できませんでした」とか「ずっと呼吸のことに心を向けるのは難しい」とか──いや、確かにね、実践をしようとする心は大事ですけれども──でも、本当は、もしね、ふと、「あっ、自分は、息や呼吸は自分のものだと当たり前のように思ってた。呼吸法だとか、健康上だとか、そういうことだけが大事だと思ってた。私は、神様の息を、本当に自分のものとして生きてきたな」「私は神様に対してなんて傲慢だったんだ」ということで、「私は本来、呼吸をさせていただくような存在ではありませんでした」と思って、そしてね、神様に、「申し訳ございませんでした」ということで、呼吸も含めてすべてお返し申し上げたら、もしかしたらですよ、そのような一瞬の思いだけで、神様が、「あなた、よく分かってくれたね」「ではあなたに、私の新しい息を授けよう」「新しい命を授けよう」とおっしゃってくださって、そして、「あなたは私の子供だよ」と、もしおっしゃってくださったら、その一瞬の思いだけでも、新しく生まれるというところに到達してしまう、ということも不可能ではないんですよ。
 というように、一生懸命実践するのは大切ですけれども、根底に、神様は私たちのことを情的に見ていらっしゃるんだということが欠けてはならない。
 息について、教主様は、意識の中心から息を吸ったり吐いたりするということをおっしゃいますね。でね、これも、この意味は簡単に分かり得ないですね。ただ、この目に見える吸ったり吐いたりしている息とは何か違う息のことをおっしゃっているんだろうな、ぐらいのことはなんとなく分かりますよね。でも、「何か難しいことをおっしゃってるな」ということで、そのまま置いておいているんじゃないのかなと思うわけですね。
 これ、分かる方いらっしゃいますか?意識の中心から息を吸ったり吐いたりするということ、分かる方いらっしゃいますか?
 でもね、それを「分からない」ということで置いておくのではなくて、教主様は、そのことを、「心に定めなさい」とおっしゃっておられますよ。そうだとしたら、「意識の中心から息を吸ったり吐いたりすること、吸う時は全身の細胞に、吐く時は、主神のみもとに立ち返る思いで呼吸することを心に定めさせていただきます」とするだけでいいじゃないですか。
 確かに、分からないことはありますよね。でも、「分からない」ということは希望じゃないですか。これからもっと知らせていただける、もっと進化させていただけるという希望がある、ということじゃないですか。
 だから、「私はまだ分からないことがあるけれども、きっと神様が必要な時期に私にそれを教えてくださるんだ。何とありがたいことだろうか」、それでいいじゃないですか。
 それなのに私たちは、自分の理解できることは理解する。理解できないことは分からない、としてね。教主様ですよ?教主様は私たちの理解している範疇よりももっと大きなことを言われるに決まってるじゃないですか。だって、「継承の時」のビデオにもありますように、教主様は明主様ですよ。明主様が私たちに臨んでおられるんですから。
 だから、この後も私たち皆で教主様のお言葉をお受けしますけれども、分かっても分からなくても、「100%お受けします」。分からないことについても、それは神様が希望を残してくださっているわけですから、「この先、必要な時期に必要なことを教えていただけるんですね。ありがとうございます」ということで終わらせておかないと、「これは分からない」「これは理解できた」、というあり方で行くと、この先ずっとそれで行きますよ。毎祭典、毎祭典、「これは理解できたけど、これは分からない」というぐずついた感じでずっと行くことになりますよ。
 というように、本来私たちには、悔い改めるべき材料がたくさんある。
 で、明主様が「文明の創造 序文」で悔い改めを「勧告」されたのはもう70年くらい前のことですけれども、それから約70年経って、注意から勧告、勧告から警告、ではないですけれども、今明主様は、もっと強く、私たちに、「悔い改めなさい」と臨んでおられるのではないのかなと思います。

 

明主様が、繰り返し仰せになったことの一つに、「爾、世界を得るとも、生命を失わば如何にせんや」というのがあります。
 これは聖書の一節なんですけれども、それを明主様は繰り返し引用された。
 当初、明主様は、これを、全世界を得ても、この世の命、この世の健康を失ったら何の意味もないじゃないか、ということでこのことを仰せになっておられました。
 でも、『文明の創造』の「序文」にもあるように、私たちにとって最も大切な命は、結局、永遠の生命ですよ。明主様は、メシアとして新しくお生まれになった。「新しく生まれる」とおっしゃるんですから、命のことですよね、絶対。だから、全世界を得ても、永遠の生命を失ったら何の意味もないじゃないかと、そういうことですよね、この聖言は。
 ですからね、冒頭の話のように、尾行・盗聴・盗撮のような行為をして、もし明主様からお綱を切られたら、それでおしまいですよ。私たちは、明主様から永遠の生命について教えていただいているわけですから、もし明主様からお綱を切られたら、それは、永遠の生命へのお綱も切られるということですよ。としたら、待ち受けているのは「死」。「死」のみですよ。
 だから、そういう尾行・盗聴・盗撮という行為だけではなくて、私たちね、この世の欲というものがありますね。この世の富もいろいろありますね、お金とか土地とか。でも、それにあまりにも執着して、本来すべきでないことをした場合、どうなるか分かりませんよ。
 というように、やはり私たちは神様に対して畏れの思いを持つべきであると、そう思います。だって、明主様からお綱を切られたらもうそれでおしまいですよ、本当に。
 それで、「爾、世界を得るとも、生命を失わば如何にせんや」ということは、逆に言えば、「たとえ全世界を失っても、命を求めなさい」と、そういうことですね。
 教主様は、今回の教団浄化の中で、執行部の方たちから、私たちの言うことを聞きなさいと言われて、それを黙って聞いていれば、世界救世教の教主としての立場は安泰ですし、聖地、美術館、というように、この世の富と言われるものに属していることは可能だったんですよ。
 あちらの方々としては、きっと、我々は教主を追い出して、聖地持ってる、美術館持ってる、世界を得ている、と思い込んでると思いますよ。でもね、尾行・盗聴・盗撮のようなことをしたら、本来それはもう、おしまいの姿ですよ。どんなに世界を得ていると思い込んでいても、明主様からお綱を切られたらもう終わりですよ。
 でも教主様は、明主様が、「生命を失わば如何にせんや」とおっしゃっているように、立場とか、この世の富とか宝より遥かにる生命、永遠の生命、明主様がメシアとして新しくお生まれになった時の命、これこそが何よりも大切なんだと思われて、そしてそのことを信徒にも伝えたいと思われた。どのような目にあってもそうされたいと思われた。
 ですから、教主様は、立場とか、聖地とか、美術館とか、そんなものは歯牙にもかけられなかったと思いますよ。永遠の生命という本当の富、宝に比べたら、そんなものは本当に些細なことなんだ、ということで教主様が立ち上がってくださったから、今、私たちはこの道を歩むことができている。
 確かに、永遠の生命は目には見えないですよ。聖地とか美術館のように目に見えるものとは違いますよ。でも、永遠の生命というのは、そういうものを遥かに勝る宝であり富なんですね。
 先月の月次祭で、私は、「神様の道は栄えの道。人の道はの道」と言ったんですけれどもね、でも、人によっては、神様の道のほうが荊の道じゃないかと思われるかもしれない。神様のことを知らない世の中の人のほうがよっぽど楽しそうに生きているし、こちらは宗教だということで周りからはうがった目で見られるし、神様の道のほうがよっぽど厳しいじゃないかと思うかもしれないですけれども、本当はそうではなくて、明主様が、「将来に於ける地上天国の住民として残るのである」とおっしゃっているように、神様の道というのは、実は、その先に、約束された輝かしい未来が待っているんですよ、本当はね。
 この世の喜び、この世の富、この世の宝とは違いますよ。でもそういう輝かしい未来が待っているんですよ、本当はね。
 でね、いや、自分ではそのようなことは到底無理です。明主様と同じようにとか、イエスと同じようにとか、到底無理ですと思うかもしれない。確かに、私たちの日々の生活というのは、取るに足らないようなことでめ尽くされているように感じますのでね、到底無理だと思われるかもしれませんけれども、でも、二代様が、今の「継承の時」のビデオでおっしゃっていたように、永遠の生命の道を貫かれた教主様と本当に一つとなって歩めば、どんなことでもできないことはないと、私はそう思います。
 だって私たちは、皆で、永遠の生命を獲得して将来における地上天国の住民として残りたいじゃないですか。その場所に、ここにいらっしゃる方々全員、私たちに連なる方々、皆で住みたいじゃないですか。そして最終的には、全人類にもこの救いの福音を知っていただいて、共に住みたいですよね、地上天国に。
 というようなことが、私たちは教主様と一体となるならばできないことではないと思うんです、私は。
 だから、地上天国祭の今日、私たち一人ひとりは、「自分は全世界を失っても、何を犠牲にしても、永遠の生命の道を歩みたいのか、歩みたくないのか」、これを決心しなければいけない、と思います。
 歩むと決心すれば、私たちでは想像もしない宝、幸せ、それを神様が、明主様が、私たちのために、きっと、用意してくださっていると思います。
 ありがとうございました。