PDF: 七月度月次祭_真明様ご挨拶

「愛のみ」

於:本部ご神前

 

皆様、こんにちは。
 今日は雨ですけれども、雨の中を教主様のもとにってくださいまして、ありがとうございます。
 可能であれば、やはり月に一度は、教主様のもとにある祭典に参拝をさせていただいて、この厳粛さ、緊張感の中に身を置くということが、何か私たちの心と体に必要なことであり、良いことなのではないのかなということを思いながら、今、参拝をしておりました。

私たちは、明主様がたびたび仰せになった「最後の審判」とか、「立別け」ということについて、一人ひとり、どういうけじめをつけているのだろうかと、最近そう思わされます。
 地上天国祭の時にも触れましたけれども、『文明の創造』の「序文」の、「そうして審判の最後にっては、罪き者はび、罪浅き者は救われるのは決定的であるから、を信ずる者こそ永遠の生命を獲得すると共に、将来に於ける地上天国の住民として残るのである」という明主様の聖言。
 これは『文明の創造』の「序文」のほんの一部ですけれども、もうこの一部の中に、本当に、明主様が私たちにお伝えになりたかったことの神秘が、その奥義がめられていると思えてなりません。
 明主様は、「これは誰も気がかない事と思うが、恐らく私の文章難かしいものはあるまい。ず文字が出来て以来がないであろう」とおっしゃっていますね。「文字が出来て以来例がない」ほど難しいのが、明主様の聖言である、そういうことですね。
 だから本当は、明主様の聖言と言っても、本来は、人間の知恵でそんな簡単に理解できるものではない。というのは、今引用した一部だけでも大変な内容ですよ。
 明主様は、永遠の生命を獲得した人が地上天国の住民となるとおっしゃっていますね。ということは、明主様は、当然、永遠の生命を獲得されて地上天国の住民として残られていますよね、絶対。いや、このことは地上天国祭でもお話ししたんですけれども、あまりにも大事なことだなと思って繰り返してるんです、今。
 だって私たち、「地上天国建設」とずっと言ってきましたよね。でも、「永遠の生命を獲得した者が住むのが地上天国」だとしたら、もう、私たちの持っている「地上天国」という言葉に対する認識、理解が根底からりますよ。ここ、明主様は大変なことをおっしゃっていると思いますよ、私は。
 だから、もう、普通なら、この聖言の意味は分からないですね。「永遠の生命を獲得した者が住む場所が地上天国だ」。これは普通は分からないですよ。
 では教主様はどのようにお導きくださっているのか。私たちは、地上天国というと、周りの世界を見て、「まだ混沌としている。だから地上天国はまだまだだ」と単純に思いますけれども、教主様は、地上と言っても、本来、「私たち自身」が地上にいるじゃないか。「わたし」という感覚を持って、いるじゃないか。地上というのは、この「わたし」という感覚のことじゃないかとおっしゃる。つまり、生命のことですね。
 だから、この「わたし」という生命が、永遠の天国と一つになって、「永遠の生命を獲得」することができれば、それが明主様のおっしゃる地上天国の姿となるのではないかと、そう教主様はお説きくださっている。明主様は、端的に、「神性人間のる所──それが地上天国でなくて何であろう」ともおっしゃっていますよ。だから、この「文明の創造 序文」で、明主様は、本当は、大変なことをおっしゃっている。
 そして、「罪深き者は亡び、罪浅き者は救われるのは決定的である」。では、私たちの中で、神様に対して、「私は罪浅い者です」「救われる権利がある者です」と言える方はいますか?「あの人は罪深いが、私は罪浅い者です」「救われる権利があります」と神様に対して言える方はいらっしゃいますか?
 まあ、「言える」とお思いになる方もいらっしゃるかもしれませんけれどもね、でも、少なくとも、明主様は、ご自分のことを罪深いとおっしゃっていますよ。「罪深き此身尤め給はずて」、あるいは「罪多き我身我を赦しませ」とおっしゃっていますよ。明主様ご自身が、ご自分のことを罪深い、罪多いとおっしゃっている。
 だから、もしそうだとするならば、「罪深き者は亡び、罪浅き者は救われるのは決定的であるから、之を信ずる者こそ永遠の生命を獲得する」という言われ方ですから、明主様は、「私は罪深いので亡びの運命にある」ということを信じられたのではないですか?「私は悔い改めなければならない存在だ」ということを信じられたのではないですか?だから明主様は永遠の生命を獲得されるに至った。
 ということは、明主様は、神様から、「無罪」と言っていただいたということですよ。亡びの運命にあったんですけれども、神様から、「あなたの罪は赦されたよ」「無罪だよ」と言っていただいた。
 これも明主様の聖言ですけれども、「最後の審判とは何か」の中で、明主様は、最後の審判の「根本は、善と悪との立別けであって、善人は無罪となり、悪人は有罪者となる訳で、決定的審判が行われるのである」と、こういう言われ方をされていますよ。「善人は無罪となり」ですよ。そして、「従って現在地上にある人間くは、裁きの前の動物にしき運命に置かれているのだから大問題である」と、こう明主様はおっしゃっておられます。
 明主様は善人か悪人かと言ったら、最も善人なお方ですよね。でもその明主様はご自分の罪深さを自覚していらっしゃった。ということは、「善人は無罪となり」ということの意味は、どんなに罪深い身であっても、神様に無罪としていただくことが「善人になる」ということですね、間違いなく。
 でも私たちは、明主様から、私たちは裁きの前の動物に等しい存在なんだから大問題なんだよと言われても、このことを大問題だと思っていないんじゃないのかなと思いますね。「善人は無罪となり」ということを聞いても、「これは大変なことだ」「大問題だ」と思わないぐらい、私たちには──私も含めてですけれどもね──神様に対して思い上がった姿がありますね。
 でも、もし明主様が無罪になられたんだとしたら、これは、本当は大問題ですよ。そして、私たちも無罪宣告を受けたほうがいいですよね。
 いやそれはね、確かに教主様は、「もうすべて赦されている」とおっしゃる。というように、確かに、「無罪」という判決は用意されていますよ。神様が全人類に対して無罪という判決をご用意くださったという事実はありますよ。でも、ご自分の意志によって、「無罪としていただきたい」と神様に言わない限りは、ずっと有罪者のままということになりますよ。「有罪者」というように、罪が残る。明主様から「悪人」と言われるような存在のままになってしまいますよ。
 ということは、私たち一人ひとりがどうやって無罪となるか、その方法が一番の問題ですよね。
 ということで、聖言「り近づけり汝等悔改めよ」。そこに、最後の審判と言ってもその大審判の執行者は神様である。そしてこの神様が人間の生命を握っておられる。だから、その「神の手にって罪を許されるより難関を切り抜ける方法は絶対ないのである」、こういう言われ方ですよ、明主様は。「神の御手に縋って罪を許されるより外に此難関」──私たちは難関と思っていないかもしれないけれども──「此難関を切り抜ける方法は絶対ないのである」。そして、「即ち人類が負える罪の重荷を神の御手によって取除かれ清められる以外救われる道はないからである」。もうはっきりおっしゃっていますよ。これ以上ないくらいはっきりおっしゃっていますよ、明主様は。
 神の御手に縋る以外この難関を切り抜ける方法はないし、救われる道もこれしかない、そう仰せですよ。
 縋るしかないということは、私たちは、先程の聖言にもありましたように、裁きの前の動物に等しい状況ですね。
 私は、「裁きの前の動物に等しき運命に置かれている」という聖言を読ませていただいた時、「まな板の鯉」という言葉を思ったんですね。私も、私たちも、皆、本当は「まな板の鯉」なんじゃないかと、そう思いました。
 「まな板の鯉」という言葉の意味は大体分かりますけれども、正確にその意味を見てみようと思って調べたら、こう書いてありました。「相手に生死の鍵を握られ、どうあがいても逃げ場のない、絶体絶命の状況」。これが「まな板の鯉」。
 ここでの「相手」というのは、私たちの場合は神様ですね。神様が私たちの「生死の鍵を握って」おられる。そして、神様に対しては、「どうあがいても逃げ場がない」はずである。それなのに、私たちはずっと、まな板の上であがいてきたんじゃないのかなと思うんですね。
 信仰の名のに、進歩向上の名の下に、実践の名の下に、参拝・浄霊・奉仕の名の下に、私たちは、これをしなきゃいけない、あれをしなきゃいけない、少しでもいい人にならなきゃいけないと言ってあがいてきた。いや、確かにそれは悪いことではないですよ。でも私たちは、まず自分が罪人であることを認めて、無罪としていただかなければ、どんなにいことをしても、それは結局、自分がよりった者になるためだけ、自分の優越性を確保するためだけの行いということになってしまうんじゃないですか?
 でも私たちは、長年あがいて、あがいてきた。本来は、「裁きの前の動物」に等しいんですから何もできないんですよ。もう「まな板の鯉」なんですよ。その状態なのに、魚がまな板の上でぴちぴちあがくようなことをずっとしてきた。でも神様は、そのような私たちの姿さえ、今日までは、慈悲の心によって忍耐強く見逃してくださってきた。
 で、ここの、「神の手に縋る」の御手とはどういう御手なのだろうかと、そう思いますよね。
 明主様は、御歌に、「大いなるメシアの手に地の上の一切万有救はるるらん」。「メシアの御手」ということですね。
 あるいは、「万人の命を手に握りますメシアに縋る人ぞ賢し」。明主様は、「縋る人が賢い」とおっしゃっていますよ。
 私たちは普通、縋るというと、それは愚かなことだと思いますよね。人間には知恵がある、人間には力がある、自分には知恵がある、自分はこれができると言って、縋ることなんて愚かだと思っている。
 でも、人間にとって愚かだったことが、神様にとっては賢かったんですよ、実は。そして、人間にとって普通は賢いと思われていることが、神様の目から見たら本当は愚かだった。
 私たちは、人間の力を誇って、自分はこれもできます、こういう行いをしてます、こういう信仰してますと言って賢いかのようにしてきたけれども、神様から見たらそれは本当は愚かなことだった、そういうことですね。そして、本当の賢さというのは、一見、人から見たら馬鹿にされるような愚かなことだった。
 だって、自分には神様しかいない、神の手に縋るしかないというのは、世の中的には愚かとされていることですよ。でも、その愚かなことが、神様、明主様にとっては一番賢かったんですね。
 それで、この、神の御手に縋りなさい、という「夜の終り近づけり汝等悔改めよ」の聖言ですけれども、この聖言の結論はこういうふうに締めくくられています。
 神様は、最後の審判を告げ知らせる最後の救いを明主様に託しておられる。その、明主様の悔い改めなさいという声に耳をいでしまうと、「愈々の時になって悔改むるも最早取返しのつかない事を警告する」と、そのようにこの聖言は終わります。明主様は、警告していらっしゃるわけです。いよいよの時になって悔い改めてももう遅いよと警告していらっしゃる。だから、早く縋りなさい、メシアの御手に縋りなさいと、そう警告していらっしゃる。
 明主様がこの聖言をご発表になったのはいつかというと、昭和24年の1231日。大晦日です。昭和241231日に──昭和24年の一番最後の日に──この聖言を『光』新聞においてご発表になった。人類に警告をして、その年を締めくくられた。
 で、翌年、年が明けて何が起こるんですか?翌年、昭和25年、1950年。年が明けてすぐの立春、24日、皆様ご存じのように、世界メシア教の開教。前年の大晦日、1か月ちょっと前に厳しいメッセージを出されて、そのあと、年明けてすぐの立春に世界メシア教を開教された。表看板を「世界メシア教」とされた。
 「メシア」という言葉を拒絶する人は、絶対世界メシア教の信徒とはならないですよね。ということは、明主様は、メシアの御名を通して救いにりたいと思う人をご自分のもとに集められて、そしてそれらの方々を、ご自分を通して神様におえになりたいと思われたから、厳しい聖言を出された翌年すぐに世界メシア教を開教されて、そして、メシアの御名を通しての救いを世界大で──救いが及ぶのは日本人だけではないですからね──メシアの御名を通しての救いを本格的に進めていこうとされた。
 だからそう考えると、「世界メシア教」なのか、いや「世界メシヤ教」だとか、「ヤ」なのか「ア」なのかとか、「救世」という漢字に「メシヤ」のルビが振ってるとか振ってないとか、そんなことは、どうでもいい──どうでもいい、というとちょっと語弊がありますけれども──そんなことは本当に些細な問題だと思いますよ。
 人類が救われるか否か。これが一番の問題ですよ。ですよね?
 教団名も大切ですけれども、最も大切なのは「人類の救い」。神様、明主様にとってこれ以上に大切なことがあるんですか?ということは、私たちにとってもそうだということですよ。
 ではね、私たちは、明主様が「世界メシア教」を表看板にされたんだから、「メシアであられる明主様に縋ります」「明主様が教えてくださったメシアの御名に縋ります」ということで話が完結するのかというと、完結しないんですね、いつも言うように。
 それはなぜかというと、「イエス・キリスト」という存在が絶対に残る。「メシア」という名前を表に出す以上、「イエス・キリスト」という存在からは絶対にれられない。
 でも明主様は、世界メシア教を開教された時、ご自分の言われるメシアの御名による救いの中には、イエス・キリストという存在も含まれていますよということを、たびたび、繰り返し繰り返し、仰せになっていますよ。
 もう何度もお話ししておりますけれども、メシア教を開教された時、明主様はインタビューをたくさんお受けになるんですけれども、その中で、「世界メシア教の世界的な意義は?」と問われた明主様は、世界人類を信仰によって幸福に導くのがメシア教の使命なんだ、でも、「西洋にはキリスト教があります」とおっしゃって、キリストの「人類救済の神力や偉大」なんだ、「遺訓まことに立派」なんだ、だから、「私はわが新教はこのキリスト教と呼応し. . .人類の善導と救済に全智全能をあげて働いてゆきたい」、こう仰せになりました。
 ここ、「キリスト」とか「メシア」という言葉の意味の問題ではないですよ。「キリスト教」とはっきりおっしゃっていますね。「キリスト教」ということは、その創始者はイエスですね。イエス・キリストが創始したキリスト教と呼応して「人類の善導と救済に全智全能をあげて働いてゆきたい」とおっしゃっている。イエスとご自分のことを、人類救済の中で、完全に一つのものとして見ていらっしゃいますね。
 あるいは「世界平和が宗教の力で実現可能ですか?」との問いに対しては、「絶対可能と信じている」。すごい自信ですよね、「絶対可能」ですからね。そのあと、「前にも述べた通り」とおっしゃいます。「前にも述べた通り」ということは、「もうこのことは繰り返し言っていることですよ」という意味ですね。
 で、なんとおっしゃるのかというと、「前にも述べた通り、西洋にキリストあり、東洋にメシアあり、この二大勢力が東西相呼応して平和のために全信徒が、真面目にたたかってゆくなら必ず永遠の平和がもたらされるものと思う」、こう仰せです。これは、すごい聖言ですよ。そう思いませんか?
 西洋のキリスト教の信徒も、東洋のメシア教の信徒も、明主様にとっては「全信徒」、神様のもとにいる一つの信徒だと、そういうことです。
 あるいは、メシアというと普通イエス・キリストに冠されておりますけども?と問われた明主様は、メシアの定義は実はまだ定まってない、だけど二十世紀になっていよいよこれから神様の力が現れる、西洋ではさぞやキリストが本来の実力を発揮するであろう、東洋ではメシアだと思う、だから、従来の宗教的観念ではとうてい理解できない、もっとすごい力が出るんだと、そうお答えになりました。もう、完全に、ご自分をお使いになっている神様のもとに、「イエスと明主様は二人で一つ」と認識していらっしゃいますね。
 御歌には、もっとはっきりと、「ハレルヤの歓呼直中に静かに天降るメシアキリスト」とあります。これは、メシアとキリストという二つのものが別々にってくるわけではないと思いますよ。「メシアキリスト」と、もう一つのものとしておっしゃっている。
 そもそも明主様は、メシアというのはキリストの再臨だとおっしゃっていますね。キリストが再び臨むということは、最初に臨んだキリストを受け入れなくて、どうやってキリストの再臨となりるんですか?なりないですよ。
 だから、今触れた数々の聖言を見れば、明主様のおっしゃる「メシア」の中には、明主様だけではなく、イエス・キリストも含まれている。
 イエス・キリストと明主様の両方を受け入れて初めて、本当の意味でメシアの御手に縋って救いを得られるんだということを、明主様は、はっきり──もう間違いないと思いますよ──はっきりおっしゃっておられます。
 聖書のこともありますね。聖書。明主様は、聖言でもたくさん聖書を引用されています。明主様は明らかに聖書を読んでいらした。世界中の宗教書籍の内で罪を悔い改めるのに最も力あるのが聖書だと仰せですよ。
 アメリカの大統領が、就任式の時、聖書に手を置くのをテレビか何かでご覧になった明主様は、「んともいえない感に打たれた」とおっしゃいましたね。すばらしいな、アメリカの今の繁栄のもとはここから出ているんだ、と思われるんです、明主様は。
 そもそも明主様は、「今日聖書を通覧してみる時」とおっしゃっているじゃないですか。聖書を読んでいらっしゃるじゃないですか。イエス・キリストという存在、聖書という存在を、完全に受け入れていらっしゃるじゃないですか、明主様は。
 だから、そう考えると、このたびね、教主様が尾行・盗聴・盗撮をされて、結局何が分かったか。キリスト教の友人がいて会っていらっしゃる。キリスト教の学びの集いに行っていらっしゃる。聖書を学んでいらっしゃる。これは、どう考えても、問題となりることではないですよ。
 今日まで私たちは、明主様の世界メシア教当時のいろんなことを知らずに来ましたね。キリスト教と呼応しなきゃいけないとか、今触れた御歌とか聖言に焦点を当てずに今日まで来た。でも、このままだったら、明主様の本当のみ心は成し遂げられないままで行きかけていた。明主様ですらイエス・キリストのことを「い主」と認めていらっしゃるのに、私たちはイエスのことを「贖い主」と認めたことなんて一度もなかったじゃないですか。
 でも、明主様の救いが本当に完結するためには、明主様がおっしゃる「メシア」という言葉の中には、イエスと明主様の両方がいるということを知らなければならない、そして、そのメシアの御手に縋って、そのメシアの御名を通して無罪としていただかなければならない。であれば、このことは、本来、明主様につながるすべての人が知らなければならないことだということになりますね。
 だから私は、確かに、教主様を批判された方たちの目的は、教主様を誹謗中傷することでしたけれども、でも、あちらの方々が、尾行・盗聴・盗撮をして得た情報を宣伝したのは、本当に良いことだと思っていますよ。
 だって、もしその宣伝を通して、一人でも二人でも、「あっ、本当はこうだったんだ」「イエス・キリストという存在が明主様の救いには絶対欠かせなかったんだ」ということに気づけたとしたら、明主様にとってこんなうれしいことはないですよ。
 だから、あちらの方々が宣伝してくれて、助かっちゃった(笑声)。まあ、助かっちゃったとまでは言いませんけれども、でも、そういうふうに、いづのめ教団も、МОA・東方之光も、自分たちは教主様への攻撃のつもりだったんでしょうけれども、本当は、明主様が彼らをお使いになって、そして、所属している人たちの中で、本当の明主様の救いを求めている人たちに真実をお知らせになったと、そういうことですね。だって、「一人でも多くの人を救いたい」というのが明主様のみ心ですからね。
 明主様は、最晩年に、「最後の審判で立別けがあった場合、生き残るのはメシア教の信徒でも3分の1ぐらいだ」というようなことを側近奉仕者の方におっしゃるんですけれども、人間的な見方をすれば、現在メシア教に残った方たちの数を考えると、今回の教団浄化を通して立別けが行われて、明主様が予言されたことが起きたと、そうも思うんですね。
 ではね、じゃあ、明主様とイエスを受け入れなかった人たちはこのままんでいって、受け入れた私たちは無罪となってそれで話が終わりなのかというと、本当は終わらないんですね、これが。「受け入れなかったあなたたちは裁かれて、もう亡びの運命ですね」と、「私たちは救われますよ」と、そういうことで話が終わるのかといったら、終わらないんですね、実は。
 だって、私たちがこの道を知ったのは、そのように批判してくださった方たちがいたおかげですよ、絶対。もしそれがなければ、イエス・キリストのこととか、キリスト教と呼応することなんて、一生思わないまま、受け入れないまま終わってましたよ、私たちは。
 確かに、尾行・盗聴・盗撮による教主様と母の精神的苦しみはありますよ。でもね、私たちは、彼らがいなければ、本当の救いを知って、無罪とならせていただく道に入ることもなかった。無罪となるか否か、これは大問題ですよ。だから、言葉のあやではなくて、私たちは、そういう人たちに心から感謝せざるを得ないと思いますよ。
 あちらの方たちは、私たちのことを邪魔だとか批判したとしても、私たちはそれはしない。だって、彼らがいなければ世界メシア教が復活することも絶対なかったし、イエスを贖い主として受け入れることもなかったし、キリスト教と呼応しなければならないと思うこともなかった。
 であるならば、私たち一人ひとり、彼らに対しては感謝してもしきれない。だから、私たち皆で、彼らに感謝させていただかなければならないし、そうさせていただきましょう。
 「いや、そうは言っても、尾行・盗聴・盗撮という行為を実行・容認した人たちが神様に救われるなんて無理だ」と、確かに思われるかもしれませんけれども、そんなこともないんですよ、本当はね。
 だって明主様は、「如何ならむ罪も赦させ如何ならむ罪もむる天地の神」。「如何ならむ罪も赦させ」ですから、神様は、どんな罪もお赦しになるんです。もちろん、ただ「赦す」というだけではなくて、「如何ならむ罪も尤むる」ということは、悔い改めなければいけない、という状況はありますね、確かに。で、彼らはまだ「悔い改め」というところには至ってない。至ってないけれどもそれは用意されているんです。「悔い改めれば赦してあげるよ」という神様の愛はそこに用意されているんですね。
 そもそもね、私たち一人ひとりの人生もそんな誇れるものですか?私自身も含めてですけれども、何十年か生きてきた中で、何かあると思いますよ。何か経験させられたんだと思いますよ、私たち一人ひとり。人には言えなくても、「これは赦されないことなんじゃないんだろうか」という罪を経験させられているはずだと思いますよ、一人ひとり。でもそれは、神様の赦しを知るためですよね。
 また、自分だけではなくて、自分の家族とか、自分の親戚とか、あるいは、知人の中に、本当に、テレビで取り上げられてしまうようなとんでもないことをした人もいるかもしれない。でも、そういうことに対しても、本当は、赦しが待っているんです。だって、「如何ならむ罪も赦させ」ですから。例外がないんですよ。というように、神様の愛というのは、本当に、私たちの想像を遥かに超えて大きいものである。
 最後の審判が迫ってきて、私たちが「まな板の鯉」の状態になっても、まだまだあがいて悔い改めなくても、神様はずっと待っていてくださる。そして、本当に悔い改めれば、どんな罪をも赦してくださる。
 本当に、「大空の広きを仰ぎてふかな限りも知らぬ大御心を」というように、神様の愛というのは限りがないんですね。人間の立場で神様の愛の心を推し量ることはできないぐらい大きい愛を神様はお持ちである。
 私は最近、「いやはての裁きの廷に打曳かれ悔改むるともせんすべなけれ」という御歌に繰り返し触れておりますけれども、「いやはての」というのは最後ということですから、最後の審判のその裁判所に連れて行かれて、その時に悔い改めてももうどうしようもないですよ、という厳しい御歌ですね。
 この御歌のになると思われる御歌があるのですが、それは、「いやはての審判の日にぞ大神の愛のでなん」。最後の審判の日に神様の愛が現れますよ、という御歌です。
 それはどんな愛なんですかというと、それは、もちろん、何でも赦してくださるという愛でもあるし、また、子に対する親の愛でもある。
 「垂乳根の子を如億兆まふ神のし」、ですね。子を愛するように、億兆を──というのは、全人類と、また、万物も含めてのすべてということだと思いますけれども──そのすべてを親心でもって愛していらっしゃる神様の御心はなんと尊いんだと、そういう御歌ですね。
 でね、「でも私は神様に親になっていただいた記憶はありません」みたいなことになりますね、普通。自分が生まれたのは昭和何十年の何月何日で、私の親はこの人です、ということになりますね。でも本当は、霊主体従というように、地上で生まれる前に、まず最初に、天上で神様に生んでいただいていたんですよ、私たちは。
 それで、地上の親でも、我が子が生まれた時に、「なんてかわいいんだ」「この子のためなら何でもしてあげたい」「何があっても守りたい」という思いを持つ時もありますね。でも神様は、私たちを天上でお生みになった時、そのような人間の愛よりも遥かに大きい愛の心を私たちに対して持たれた。
 だって、もとはお一人だったんですよ。神様お一人。それを、「もっと喜びの世界に生きたい」ということで、たくさんの子供をお生みになって、その子供と共に住もうとされた。いや、私たちは、自分の人生が苦しい時にはね、「何でそんなことをされたんだ」と思うぐらいですよ。「生んでくれなければよかったのに」と思うぐらいですけれども、でもね、神様は、私たちを生んだ時に、本当に「かわいい」と思われたんだと思いますよ、きっと。人間の親が子に対し愛情を持つように、神様も私たちに対し、「こんなかわいい子供はいない」「何があっても守りたい」「何があっても赦してあげたい」と思われた。
 だから、私は、神様は、その時に決められたんだと思います。「何があっても自分の子供を赦す。愛しているから」ということを決められた。
 だから、「最後の審判」ということで、「最後」「最後」と言うけれども、本当は、もう「最初」に、一番最初に、「あなた方を赦すよ」という審判を下してくださったんです、神様は。「赦す」「何があっても赦す」という審判を下してくださったんです、本当は。
 でもそれがね、「最後の審判」とか、「警告」とか、「生き残る者は少ない」という厳しいお言葉になってますね、今。それはなぜか?だからそれは、本当は、神様は、最初のうちは優しいお言葉できっと私たちに語りかけてくださっていたんだと思いますよ。「私が本当の親だよ」「私のほうを向いてくれないかい」と、優しくおっしゃってくださっていた。
 でも私たちは、自分が中心で、どこまでも人間の世界を主体としている。この世界で繁栄したい、この世界で成功したいといつも思っている。だから、優しく言われても、全然神様の声に聞く耳を持たなかったんじゃないんですか?
 だから、ついに、少しね、厳しいことを言われなければいけなくなってしまって、「最後の審判」とか、「警告」とか、「立別け」とか、「ぶ」というようなことを神様から言われている。本当は、ご自分の子供に対して神様がそのような言葉を使われたいはずないじゃないですか。
 でも、私たちがそうさせているんですよ。私たちが神様に、そういう厳しい言葉を使わせているんです。
 神様が、「こっちを向いてほしい」「私が本当の親だよ」とずっと言ってくださっていたにもかかわらず、私たちが人間の世界での繁栄を求めて生きているがゆえに、今、神様に厳しい表現をさせてしまっている。だからこれは、神様に対して、本当に申し訳ないことであると思っております。
 ですから、神様の私たちに注いでくださっている愛を考えると、明主様が、「神のし」とおっしゃるように、私たちは、神様に対して、もう何も言えないですね。
 だって、最初から愛してくださってたんですよ、生んでくださった時から。そして、私たちに──私たち全員に対してですよ──もうあふれんばかりの愛情を持ってくださっていたし、今も持ってくださっている。
 先日の地上天国祭の時に発表しましたけれども、「あなたの愛を知ったから」という曲の作詞をさせていただきました。そこで、「求めません、これ以上」「求めません、これからは」という歌詞を作ったんですけれども、でも本当はね、そんな無理ですよ、求めないのは。
 私だって、自分のことはこうしたいとか、自分の子供が病気になれば良くなってほしいとか、これしたい、あれしたいと思っている。私たち一人ひとり、そのように、自分の求めることに生きることが、生きる原動力みたいなものではないですか?
 私たちは、どうしたって求めますよね。だから、私の歌詞に触れて、「自分はずっと求めてきたけど、これからはもう求めてはいけないんだ。求めてしまう自分はだめなんだ」というふうには捉えていただきたくないんです。
 そうではなくて、そうやって求めてしまう私たちですら神様は十分理解して赦してくださっているんです、本当はね。神様が私たちの中にいらして私たちは完全な存在であるはずなのに、私たちはいつも求めてしまう。でも神様は、その私たちの姿すらも赦してくださっている、ということに心を向けることができたらいいなと、そう思うんですね。
 でも、では何であのような歌詞にしたのかというと、本当は神様が私たちをあふれんばかりの愛で満たしてくださっているのは間違いないわけですから、だから、あの歌を聞いた時や歌う時、ほんの一瞬でも、「あっ、自分はずっと求めて生きてきた」「神様のことなんて全然関係なく、今日まで、ずっと求めて生きてきてしまった」と思って、それで、「でも本当は、神様、あなたはここにいらっしゃるんですね」「もう求めません」という心を、私たちがほんの一瞬でも持てたら、神様は、「よく分かったね」「私の愛はあなたの中に完全に存在しているんだよ」と言ってくださるのではないのかなと思うんです。
 私たちは、たくさんのことを求めていますね。こうなりたい、ああなりたい、これがほしい、あれがほしい。それを求めてはいけないのかというと、そういうことではない。本当は、実は、ほんの一瞬でも、心底、「求めません、これ以上」「求めません、これからは」と思うことができれば、神様は、「あなたの求めているものをえてあげるよ」とおっしゃってくださるのではないのかなと思います。
 私たちが求めているもの、いっぱいありますね。本当に求めるべきはもちろん「新しく生まれる」ということなんですけれども、人間的にも求めているものがたくさんありますね。だからそれを、「もし心であれば、これを叶えていただきたいのです」ということを神様にお願いすることは悪いことではないと思いますよ。
 もちろん、「これも、これも、これも、これも、これも・・・」とね、あまり多くなりすぎるとどうなのか分かりませんけれども、でもそれは、「もし御心であれば、こういうふうにしていただきたいのです」と言わせていただいて、もし叶ったとしたら、「神様、ありがとうございます」と言えるじゃないですか。逆に、もし神様に求めていないと、何かが叶った時に、「ああこれは自分の手柄だ」ということになってしまいますよ。
 確かに、「新しく生まれる」ということはありますね。だから、「新しく生まれる道を歩ませていただいております」。でも、人間的な願いもありますね──と言っても周りの人に迷惑をかけるような自分勝手な願いはだめですけれども──人間的な願いについても、素直に、「御心であれば叶えていただきたいのです」と言わせていただいてもいいんじゃないのかなと思います。
 そして、もし叶わなかったとしても、神様は、私たち、また、周りの人たちの幸せを考えてそうされたわけですから、「何か必要があってそうしてくださったんですね、ありがとうございます」というふうにさせていただけばいいんじゃないのかなと思うんですね。
 そう考えると、私たちは、神様に対して、もう、言うことないですよ。本当に、神様の愛は畏れ多いですね。神様の愛。
 私たち人間の愛は、「如何ならむ罪」も許せないですよ、全然。「あの人はとんでもない」とか、すぐそうなりますよ。でも、神様の愛、その計り知れない愛を少しでも知ったら、もうありがた過ぎて、神様の前において話すこともできないと思いますよ。
 あまりにもありがたいがゆえに、教主様は「誠に畏れ多いことではありますが」と表現しておられるのではないのかなと思うんですね。ただ、「怖い」という意味での「畏れ多い」ということではないと思いますよ。そうではなくて、私たちのことをどこまでも恵んでくださる神様というご存在がもったいない、あまりにもありがたいから、「誠に畏れ多い」と言われていらっしゃる、と思います。
 だから、私たちは、その神様の御前に立ち尽くすのみですよ。言う言葉は何もないですよ、神様に対して。
 明主様の御歌に、「迷はずて吾にかれよちに天国楽土に救はるるなり」というのがありますね。だから、この「吾」というのは明主様であり、明主様の中にいらっしゃる神様のことでもあるんですね。「抱きしめられなさい」「神様に抱きしめられなさい」と、そういうことですね。
 私たちは立ち尽くしている。目の前には神様がいらっしゃる。そこで迷うじゃないですか。「いや、こんな自分が」「神様の御心をこんなにろにして生きてきた罪人の私が」と思うけれども、神様は、「迷はずて」とおっしゃる。「迷わなくていいんだよ」「私に抱きしめられなさい」とおっしゃる。そうすれば、「忽ちに」ですよ、たちまちに「天国楽土に救はるるなり」ですから、一瞬にして天国に救ってあげますよと、そういう御歌ですね。
 「救い」という言葉も宗教的な響きがありますね。でも、それを難しく考えるのではなくて、私たちは、この世のことで、喜びとか安らぎとか幸せを感じますね。それよりももっともっと大きくて強い喜び、安らぎ、幸せ、それが「救い」ですよ。
 もし神様に抱きしめられたら、その喜び、安らぎは、もう本当に、この世での喜びや安らぎを遥かに上回るものですよ。
 でね、私は、たとえまだその喜びとか安らぎを味わっていなかったとしても、そういうすばらしいことが用意されている、約束されているということを知っただけで、自分の心に、「こんなありがたいことがあるんだろうか」「これが救いでなくて何であろうか」という思いを感じます。
 だから、私たちではとうてい神様の愛に応えることはできない。でも、もう神様の愛を知ったし、神様の声を聞いたんですよ。だって、天上で生まれた時に、赤ちゃんが「オギャア、オギャア」というように私たちはしてた。その私たちに対して、神様は声を掛けてくださっていたと思いますよ。「愛しているよ、お前のことを」とおっしゃってくださっていた。
 だから、本当は、自分の目で神様のことを見て、お声を聞いて、抱きしめられていたんですよ、その時に。そうではないですか?そして私たちは、その時感じていた計り知れない喜びを、今、再び味わわせていただける道に入っている。だから、こんなにありがたいことはないですよ。
 私たちでは神様の愛に報いるはないけれども、でも、私たちのすべてをお捧げして、神様の、言葉にできないほど大きな愛のもとに生きていく、それしか私たちの生きる道はないのではないですか?
 確かに、私たちは、一瞬一瞬、いろいろありますね、生きている中で。でも、すばらしいものが約束されていることを知った喜びの中で生きる一瞬一瞬のほうが幸せな日々ではないですか?だから、神様の愛に触れることが約束されたこの一瞬一瞬を、大いなる喜びを持って歩んでいきたいと思います。
 ありがとうございました。

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