PDF: 教主様との出会い_中島鐵雄
前・中国教区長
中島 鐵雄
私の両親は、特に母は、明主様ご在世当時、教団名が世界メシア教の時に入信しており、メシア教の信仰を心から愛しておりました。そんな母の思いが、私に、目には見えない神様との出会いをもたらし、そしていつしか私を、専従の道へと導いていったのだと、長い間思っていました。
しかし、違いました。本当は、神様が母を使ってそのようにさせられたのだと、ご教導を通して思わせていただきました。どこまでいっても、私は人間主体の信仰なのだなぁと思います。
幼いころに、星空を見上げながら、ふっと思ったことがありました。〝どうして「自分」という意識があるんだろう? どうして自分は、他の人の意識ではなく、「自分」という意識なんだろう?〟と、とても不思議さを感じたことがありました。私の中では、ずっと疑問でしたが、聖言を読んでも、人間主体の私の理解では、その深さ故に分かるはずもなく、この疑問は終生分からないままだと思っていました。
しかし、教主様のお言葉に触れることで、〝あっ! そうなんだ!〟と思わせていただくことができました。〝神様がご自分の意識を与えてくださったからだ! その神様が自分の中心におられるから、自分という意識があるんだ〟と思えました。
真明様から、今年の五月度月次祭で次のようにご教示いただきました。
この「わたし」という感覚、これは、私たちが自分たちで造ったものではないですよね。意識とか心の動きとか、これらのものはとうてい私たちでは造れない。
ということは、私たちの意識は、本当は私たちの意識ではなく、神様の意識だということですよ。
私たちは今、「生きている」と感じますね。そのように感じるのは、私の中で神様が生きておられるから、「生きている」と感じるんです。だから、私たちが今「生きている」と感じていること自体、神様がいらっしゃる何よりの実感であり、証拠ですよ、だって、人間の力では生きることはできないんですから。
私たちは、神様のみもとにいたけれども、神様は私たちをご自身の子供にすべく、一人ひとりに自我意識を与えてくださり、この世に派遣してくださったからなんだと、ご教導とご教示を学ばせていただき、幼いころからの疑問が解消しました。
教主様のご教導と真明様のご教示なくしては、聖言の神髄を知り得ることはできないと思わせていただいています。
昭和52年に救世専門学院に入らせていただき、ありがたいことに、専従者にならせていただくと、神様から、私の思い上がりや、至らなさ、自己中心さといったものが、信徒の方々の前で大きく照らし出されていきました。
謙虚さがなく、思い上がり、なんの根拠もなく自分を誇らしく思っていた自分を、神様は、周りの方々を通して、私に徹底的に教えてくださいました。みっともない自分の姿を認めるまで、神様は決して手を緩めることはありませんでした。
とうとう、〝そうなんだ! 自分は自分のことしか考えられない自分であり、今まで、どれだけの人を、信徒さんを傷つけてきたのか! どれだけつらい思いをさせてきたのか〟と、数え上げれば切りがありませんが、そんな自分を認めざるを得ませんでした。申し訳ないかぎりです。
楽しい出会いもあれば、養い育てのための出会いもありました。養い育てのための出会いは、私にとっては、理不尽以外の何物でもありませんでした。
例えば、昔、教区内の、ある専従者が強い発言権を持っており、その人の言うことを聞かないと、どんな仕打ちをされるか分からないというような時がありました。その専従者の圧力によって、私も信徒さんもその人に従わざるを得ない状況を見た時、これも神様がなさっておられるとはなかなか思えませんでした。
明主様から、病気も人間関係の悪化も浄化であるとの聖言をいただいていても、そのことを受け止めきれないままでいました。どうしても養い育てとは思えませんでした。
そこで気づかせていただいたことは、私は、常に自分の立ち位置からしか物事を見ず、神様からの見方をしていないということでした。神様が何を願っておられるのかなど、考えておりませんでした。
教主様からいただいた「誓いの言葉」に、「私たちの心も、日常生活のすべても、神さまの現れであると認めることに努めています。私たちは、このように努めることが、神さまの子ども、つまりメシアとなるための大切な訓練だと信じています」とあります。
どんなことも神様がなさっておられると本当に認められるのかどうか! その人を通して、神様の御心を求めることができるのかどうか?「誓いの言葉」に触れ、これを問われていると思わせていただきました。
そのことを思わせていただいてから、事はだんだんと思わぬ良い方向へ進展していきました。そうなって初めて、私は、このことは神様からの養い育てだと認めることができたのですが、本来、事が良い方向に進まなくても、すべてを神様からの養い育てであると思えるようにならなければならないのだと思わせていただいています。そのために、この時は、目に見える形で私に見せてくださったのだと思います。
2016年、四国ご巡教の教主様への事前奉告会の際に、つたないながら、教主様ご巡教に対しての自分の思いをご奉告申し上げました時、教主様が、私にご下問くださいました。
「中島さん、さっき、発展型ご巡教とおっしゃいましたね。中島さんは、発展ということについてどのように思っていらっしゃいますか?」
私は、口から心臓が飛び出しそうな緊張の中で、ご教導を分かってもいないのに、「常々教主様からお言葉をいただいておりますように、根本は神様に立ち返らせていただくことだと思います。しかし、体的においては、明主様のお役に立つ人が増えていくことだと思います」と申し上げました。
教主様からは、「中島さん、霊主体従ってあるでしょう。神様がおられるから、私たちがいるってことだよね」「発展ということも、神様にとっての発展があるから、私たちの発展があるっていうことだよね」とお言葉をいただきました。
私は教主様から直接お言葉をいただいて、天にも昇るようなありがたさとともに、そのお言葉の意味が分からず、ご無礼なことに、いつしかそのお言葉を横に置いて、それまで通りの人間主体の考え方で日々を過ごしておりました。
そんな時、2017年(平成29年)の立春祭で、教主様からのお言葉をいただきました。執行部は、「教主中心の神業体制の確立」という基本理念を事実上破棄したという内容のお言葉でした。
私は、このお言葉は執行部に対してのものだと思い込んでいましたが、現場へ帰ると何人もの専従者や、信徒さんから「あなたは本当に教主様中心なのか?」と問われました。
私は、自分は教主様中心だと思っていましたから、「教主様中心に決まっている」と申し上げたものの、何人も何人もそのように言われるので、これは、明主様から「お前は本当に教主様中心なのか?」と問われていると思いました。
そこで、教主様のご教導に求めようと、平成28年11月30日の教主様といづのめ教団教区長との懇談会の記録を手にしました。教主様の、「理解できないとか、消化しきれないものがある、というのはそれは誰だってたくさんあるに決まってますよ。僕もそうですよ。でも、そこを、分からないけどお受けするのか、しないかだけですよね」というお言葉に触れた時に〝あっ!〟と思いました。私は、四国ご巡教の事前奉告会の時に、教主様から直々に発展についてお言葉をいただいておきながら、自分が理解できないからずっと横に置いてきたことに気づかせていただきました。お言葉をお受けしようとせず、「教主様中心」と言ってきたことを本当に申し訳なく思いました。
分からないという理由でご教導を受け入れないということであれば、ずっと分からないままです。分からなくても、お受けしますと意思表示をした時、はじめて尊い神様の道を歩ませていただけるのだと思わせていただきました。
大本の御筆先に「神界の事は分らんと思う人民は、判ったのであるぞよ」とありますが、私の人間主体の理解で「分かったら受け入れる」というのは、どこまでも人間中心で、人間のおごり高ぶりで進もうとしている古い信仰だと思わせていただきました。
私は、昨年10月で定年を迎え、専従者という立場から退き、約20年の単身赴任を終え、家族のもとに戻り御用にお仕えさせていただいています。帰ると同時に、妻の母が大腸がんというご浄化をいただいて、妻の両親と共に生活をするようになりました。
義母は、がんという命がけの浄化を目の前にして、いろんな疑問を私に投げかけてきますが、私もどう受け止めていいのかと悩み、教主様のご教導と真明様のご教示を求める日々です。
今年の春季大祭で教主様、真明様から、息についてご教導賜り、私は、息も愛もすべてを自分のものとしてきたことに気づかせていただきました。
真明様は、次のようにご教示くださいました。
教主様が、「ご先祖様は私たちの中に生きていらっしゃる」とおっしゃる意味は、私たちには、その方たちに命の息を分け与えるという責任があるんだよと、そういう意味ですよね。
私たちの中には、枯れた息をして、息絶え絶えみたいになっている方が多くいらっしゃる。その枯れた息が私たちの心と体にありとあらゆる不調をもたらしている。
でもそれは、本当は、救いのためにそうなっているわけなんですね。だから、もし私たちが、その方たちに、明主様が「生まれたての赤ん坊」となった時に神様から授けられた甦りの息を分け与えることができて、そして、その方たちが甦って、本当に生き生きとなったら、そしたら、「祖先の綜合体」である私たちも自動的に生き生きとしてこざるを得ないじゃないですか。
だから、呼吸ですね、呼吸。「明主様と共にあるメシアの御名にある甦りの息をお受けします」「私の中にいらっしゃる多くの枯れた者たちの上に分け与えてほしいのです」ということで呼吸をされたら、本当に、どうなるかわかりませんよ。
今抱えている悩みが一発で解決するということも、あり得ないことではないですよ。大いにあり得ますよ。
というように私たちは、この、無意識のうちにしている呼吸ですらも神様の救いのために使っていただかなければならない。
このような聖言の神髄を教えてくださって、本当にありがたいことです。
明主様が最終的に私たちに示してくださったこと、それはメシアとして新しく生まれること。このことを目指さず、愛も息もすべて自分のものとしていたことに気づかせていただきました。
真明様がご教示くださったように、私の中に生きておられる、明主様と共にあるメシアの甦りの息をお受けし、「光の主」が私を通して現れてくださることを願って、〝「光の主」の息と自分の息を合わせさせていただきます。枯れているものが甦りますように〟と呼吸をさせていただきます。
ありがたいことに、義母は疑問に思っていることを、そのつど、私に投げかけてくれます。そのたびに、私自身が神様に真向かうことになり、義母と共に教主様のご教導、真明様のご教示を学び合い、語り合わせていただいています。最近は義母も、この浄化は救いの御用にお使いいただいていることと認めるようになり、感謝の日々を過ごさせていただいています。
義母とご教導を共に学ばせていただくと、義母が「あっ! そうなんだよねぇ」と自ら気づく時がありますが、その時のうれしそうな表情を見ながら、思わせていただいたことがあります。
今までの古い信仰では、いつしか明主様の神髄から離れてしまい、浄霊によって病気を良くすることが目的のようになっていましたが、病気によって湧き起こる、やるせない思いや、どうしようもない思いなど、人間であれば誰でも湧き起こってくる思いを、メシアの御名にあって神様に委ねさせていただくことで、そして、ご教導を学ばせていただくことで、その思いの中心にある、神様の思いに気づかせていただくことが信仰なのではないかと思わせていただきました。
ありがとうございました。
教会誌『グローリー』No. 18, 2021/7月号掲載