PDF: 祖霊大祭_真明様ご挨拶

 

於:ヒルトン福岡シーホーク(アルゴス)

 

今度は何処かと言うと、九州です。未だ時期が来ませんが、いずれ九州に地上天国が出来るのです。其次が支那に出来るのです。それからエルサレムです。あそこでお終いです。ですから西へ西へと行くわけです。エルサレムに地上天国が出来た時が、世界の地上天国の初めになるのです。それからが世界が統一されるのです。
 之は私が言うのではなくて、昔ユダヤの方でそういう予言があるのです。エルサレムでは、将来世の中を救う人が此処に来られるという事で、四つの門があって、四つの門の内三つは常に出入りは出来るのですが、一つの門丈は〝開かずの門〟と言いまして出入りが出来ない。段々西へ行って、あそこに行く時に初めて開いて、開かずの門というのは消えて了うのです。そんな様なわけで一種の予言ですが、予言というより確言と言った方がよいでしょう。間違ありません。若し嘘を言ったら、私は嘘吐きになりますから、殴られはしないでしょうが、全然信用を無くしますから、嘘は言いません。

御講話 昭和271018

 

いずれは外国にも立派なものが出来ます。支那でも、北京城に立派なものを造ろうと思っている。それからエルサレムですね。それは神様が二千年前から用意してあるんですからね。

御講話 昭和2741

 

それでだんだんやって行くと、宗教つまりキリスト教と対抗する様な形になって行くわけです。一番脅威を感ずるのはカトリックです。こっちが発展して来るに従って、これが大変だろうと思います。本元はローマ法王ですから、このローマ法王を押さえる方策と言いますか、それはこっちにありますから、最後に行ってローマ法王にうんとお辞儀をさせるつもりです。それはもう大丈夫です。なにしろ神様のやる事は早いです。早いと言っても二年や三年では駄目ですが、とに角十年以内には実現すると思ってます。

御講話 昭和28327

 

皆様、こんにちは。
 今日は、九州ですね、九州。
 箱根、熱海、京都、九州、中国、そして、エルサレム。
 箱根、熱海、京都、九州、中国、そして、エルサレム。というふうに、明主様は進んでゆかれる。
 明主様は、「エルサレムでおい」と仰せですので、私たちとしては、東から西に進んで行って、エルサレムに到着したら、それで完成だ、終わるんだと思うかもしれませんけれども、明主様は、それが「世界の地上天国の初め」とおっしゃる。ということは、「今はまだ始まってもいないのか」ということになりますね。エルサレムが初めで、それから、ようやく「世界が統一される」、そう明主様はおっしゃる。
 そして明主様は、これは私が言っていることではない、ユダヤのほうでそういう予言が昔からあるんだ。世の中を救う人がエルサレムに来る──ここの「世の中を救う人」というのは、明主様は、ご自分のことをおっしゃっているんだと思いますけれども──世の中を救う人がいつかエルサレムに来る。
 そして、エルサレムを囲んでいる壁に4つ門があって、3つは出入りができるけれども、1つだけは出入りができない。そういう「かずの門」がある。そこにご自分が行かれると、「開かずの門」はその時に初めていて、そしてその門は消えてしまうと、そう明主様は仰せです。明主様はその消えてしまった門のところから中に入られると、そういうことですね。
 しかも明主様は、これは予言ではなくて、「確言」だとおっしゃる。私は嘘つきではない、これは絶対に起こる、もし起こらなかったら、殴られはしないだろうけれども、全然信用を無くす、だから私は、「嘘は言いません」と、そうおっしゃっていますね、明主様は。
 だから、今、箱根、熱海、京都とか言っているこの地上天国のひな型、これを、私たちは最終的にどこに建設しようとしているのかというと、それは、エルサレムである、そういうことですね。エルサレムが、私たちの地上天国建設の最終地点である。
 そして明主様は、私たちがエルサレムに建てようとしているこの地上天国は、「神様が二千年前から用意してある」とおっしゃっていますよ。二千年前。
 二千年前に何があったのかと言ったら、イエス・キリストのことしかないですね。神様が、イエスを通して二千年前に用意されたエルサレムの地上天国のひな型。
 私たちは、聖地を拡大するとか、地上天国を拡げるとか言っていますけれども、その最終的なものは、二千年前、神様が、イエスを通してエルサレムに用意されたものである、明主様はそう仰せです。
 これ、重大問題ですね。私たちは、聖地というと、箱根とか熱海とか京都のことを思いますけれども、私たちにとって、最後に建設すべき最も大切な聖地は、二千年前、イエスによってエルサレムに用意された聖地であること、そして、このエルサレムに打ちてられる地上天国のひな型に連なる箱根であり、熱海であり、京都の聖地なんだと今まで一度でも思ったことがあったのでしょうか。
 まあ、ないですよね。ない。
 だから、今拝見したビデオのタイトルは「メサイアの神秘」でしたけれども、明主様のこの聖言もまさに「神秘」であり、一種の謎である。まあ、謎なのか、謎じゃないのか。
 こういう予言ということに関して、少し似たこととして、明主様は、メシア教として宗教的にどんどん進んでいくと、キリスト教というかカトリックと対抗する形になっていく。そうすると、いつかローマ法王の問題が出てくる。でも明主様は、私は「ローマ法王を押さえる方策」を持っていると仰せです。「押さえる方策」。
 そして、最終的には、ローマ法王に「うんとお辞儀をさせる」とおっしゃる。この場合の「うんと」は、「たくさん」という意味ですね。しかも明主様は、このことを10年以内には成し遂げると仰せです。これをおっしゃったのは1953年、だったと思いますけれども、そうだとすると、1963年までには、ローマ法王は、明主様にうんとお辞儀をする、つまり、頭を下げてくる、ということですね。そう明主様はおっしゃる。
 この明主様の気迫、自信、ご自分のご神業に対する自負心の大きさはすごいものだなと思うんですね。それに比べて、明主様ご昇天後の私たちの歩みを考えると、私たちは、社会に対してぺこぺこ頭を下げ、政治家に対しても──今日は室井先生も来ていらっしゃるのでちょっと言いにくいところもありますけれども(笑声)──政治家に対しても、「受け入れてください」「私たちの活動を認めてください」ということでずっとぺこぺこ頭を下げてきたんじゃないのかなと思うわけですね。それで、社会の人々とか、政治家とかがこちらの活動をサポートしてくれたら、「自分たちの活動は認められた」「明主様が認められた」としてきた。
 でも、明主様は、ローマ法王に──今は正式にはローマ教皇と言うみたいですけれども──ローマ法王に頭を下げさせるんですよ。この明主様の姿勢と私たちの姿勢の差。本当に、私たちは、いつかの時点で、何かに魂を売ってしまったのではないのかなと思ったりしますね。
 私たちがすることと言えば、例えばものすごい発展して、ものすごいお金を積んで、ローマ法王との謁見の時間を1分だけ許されて、それで、一緒に写真か何かを撮ってもらって、それで、「ローマ法王に会うことが許された」「明主様のご神業が認められた」というようなことはしそうですよね、私たちは。
 でも明主様は、向こうが──ローマ法王のほうが──こちらに対して「うんとお辞儀をする」、頭を下げてくるんだとおっしゃる。
 だから、私たちの姿勢と真逆ですね。明主様の持っていらしたこの自負心とか自信を私たちは継承していると言えるのだろうかと、そう私は思ったりします。
 で、冒頭より引用している明主様の聖言ですね。「二千年前に用意された」エルサレムの聖地とか、「開かずの門」とか、その門が消えてしまうとか、これらの聖言は、知っている方はよく知っている聖言ではあると思うんですね。でも、では私たちが表立ってこの聖言を世に対して提示しているかと言ったら、してないですよね。
 だって、これらの聖言をそのまま世の中に出したらどうなるか。それは、「開かずの門に行く前にもうその明主様という方は亡くなってしまっているじゃないか」「開かずの門が消えるどころの話じゃないじゃないか」と言われてしまいますね。
 「1963年までにローマ法王にうんとお辞儀をさせると言っておいて、全然実現してないじゃないか」「あなたの信じている教祖は嘘つきじゃないか」「世の中から全然信用を無くしてしまっているじゃないか」と言われてしまいますね。だから、多くの人にとっては、これらの聖言は世に対しては出せないと、そうなってしまっていると思います。
 じゃあね、私たちも、世の中の人が言うように、「明主様が予言ではなく確言とおっしゃったことは結局叶わなかった」「ローマ法王に頭を下げさせることができなかったから明主様は嘘つきだったんだ」ということで終われるんですか?終われるわけないじゃないですか。
 明主様を、嘘つきとか、全然信用を無くしたというご存在にできないじゃないですか。だから、明主様がああいうことをおっしゃった真意は何なのかということを求めなければいけない。では、誰がそれを求めるのか。それは、教主様ですよ。
 明主様のされた聖言の一言一句のすべてに責任をお持ちなのは誰なんですか?明主様が遺されたご神業のすべてに責任をお持ちなのは誰なんですか?教主様ですよ。
 だから、私は、教主様は、「明主様を嘘つきのままで終わらせるわけにはいかない」「絶対に明主様の名誉を守らなければならない」というふうに思われたのではないのかなと思うんですね。そして、「キリスト教のことを学ばないとあれらの聖言に込められた明主様の真意をつかむことはできない」と思われた。
 いや、私は今、教主様の後継者というふうに言っていただいておりますけれども、私が教主様のお立場でも、「絶対にキリスト教のことを学ばなければならない」と思うと思いますよ。そうでなければ明主様は嘘つきのままで終わってしまうではないですか。
 で、教主様がお受けになったさまざまな批判。最初は、キリスト教化しているということで始まりましたけれども、でも、明主様は、キリスト教に関して色んなことをおっしゃっている。「メシア教はキリスト教と呼応する」とか「メシア教はよほどキリスト教に近くなる」とおっしゃっている。そもそも「ハレルヤコーラス」ですよ?ヘンデルの「メサイア」ですよ?今ビデオで流れた歌詞を見ましたか?そのような歌詞の「メサイア」を歌いなさいと明主様は言われているんですよ?ですので、キリスト教化しているという批判は長続きし得なかった。
 そうなると、教主様に対しての批判はあと一つだけしか残らない。それは、「キリスト教化しているならまだいいが、教主様は、根本的に、明主様を見捨てて、キリスト教の信徒になってしまったんだ」というこれ、教主様に対しては、もはやこの批判しか残っていないんですね。
 いや、そんなね、もし教主様が明主様のことを捨ててキリスト教の信徒になっていたら、誰よりもまず、私が一番最初に抵抗しますよ。教主様と大げんかしますよ。一体どういうことなんだと、一番最初に私が言いますよ。
 それでもし、教主様が一切聞く耳を持ってくださらずに、自分はもう決めたんだと言ったら、もう、教主様のもとから離れるしかないですよ、当然。だってもし教主様が明主様を見捨てていらしたら、教主様に付いていく意味は何もないわけですから。
 あるいは、私より、私の母のほうが断固として反対するかもしれませんよ。母は、明主様時代からの大教会長であった堀内子先生の孫であった。そんな育ちですよ。もし教主様が明主様を見捨てていると言われたら、絶対に許されないですよね?(まゆみ奥様に語りかけられるように。まゆみ奥様も参拝席より、大きな声で「はい、許しません」ととしたお声でお応えになった)
 私の妻も、信仰三世で、子供の時から明主様の信徒でした。教団配布物をドアからドアへ配布したり、街中に出て道行く人に渡すような人でした。そして最終的には専従の道も歩むわけですけれども、その妻が、もし、教主様が明主様のことを見捨てておられて、しかも私がそのことを認めているとしたら、そんなことで結婚生活がうまくいくはずないじゃないですか。夫婦の間で、何かごまかしながらずっと生きていくんですか?
 また、私の聞いているところによると、教主様がキリスト教のことを学んでおられて、キリスト教の集いに行かれてるのは、教主様のお父様とお母様も当然ご存じであった。そして、何の問題もなく、快く送り出しておられた。認めていらした。
 教主様のご両親というのは、お父様が、明主様の事実上のご長男であられた三穂麿様。お母様は、明主様の一番弟子のお一人であった中島一斎先生の娘であった。そのお二人がですよ、もし教主様が明主様のことを見捨てていらしたら、許すはずないじゃないですか。当たり前のことですよ。
 だから、もし教主様がおかしいと言うんだとしたら、明主様のご長男の三穂麿様もおかしい、孫である教主様は当然おかしい、ひ孫である私も当然おかしい。さらには、そこにいだお嫁さんたちも全員おかしいということになりますよ。
 いや、そんなことね、常識的に考えて、「ない」ですよ。
 また、私の妻と私の間には子供もいますけれども、もしその子供たちも、教主様が今導いてくださっている道に歩んだ場合、もう、明主様の子供、孫、ひ孫、玄孫、全員おかしいんだということになりますよ。
 でも、もし、教主様はおかしい、明主様を見捨ててもうキリスト教徒になったんだというふうに批判するのであれば、そういうことになりますよ。明主様の子孫はみんなおかしい、ということになりますよ。
 いや、だからね、もしそんなことを本当に信じているのだとしたら、それを世の中の人に言ったら、「いや、あなた方は、そんな変な子孫しか遺さない教祖のもとで本当に信仰がしたいんですか?」と、口には出さないかもしれないけれども、そう思われてしまうような、そういう種類のことじゃないのかなと思うんですね、私は。
 また、「ハレルヤコーラス」もありますが、「主の祈り」もありますね。
 で、「主の祈り」を上げているのはおかしい、あなた方はキリスト教徒だから「主の祈り」なんか上げているんだ、という批判をされる方もいますね。
 いやね、「主の祈り」は、明主様がおっしゃったヘンデルの「メサイア」に比べたら、もうなんてことのない内容ですよ。「天にいますわれらの父よ」から始まる「主の祈り」。明主様は、天の父がご自分の神様であるとおっしゃっていて、その天の父に対する祈りの言葉ですよ、ただの。イエス・キリストも出てこなければ、イエスのいうんぬんの話も一切ない。
 でもヘンデルの「メサイア」というのは、今のビデオの内容ですよ。あのような歌詞の「メサイア」を明主様はすばらしいと思われた。それに比べたら、「主の祈り」なんて、もうどうってことのない内容ですよ、本当に。
 「「主の祈り」には「アーメン」という言葉があるじゃないか。「アーメン」という言葉を発するなんてとんでもない」、そういうことを言われる方がいますね。
 もしそういうことを言うんだとしたら、じゃあそういう方々は、明主様があんなにお好きであった「ハレルヤコーラス」はどういう気持ちで歌ったり聴いたりするんですか?
 だって、「ハレルヤコーラス」を歌って、そのままずっと歌っていけばそのうち「メサイア」の最後の曲である「アーメンコーラス」に行き着きますよ。
 しかも明主様は、「メサイア」を演奏するために、現存しないメシア会館にオーケストラボックスまで用意されていたんですよ?まさか、34分の「ハレルヤコーラス」をやるためだけにオーケストラボックスは造られないですよね。ということは、明主様は、23時間くらいの長さのヘンデルの「メサイア」全体を演奏するためにオーケストラボックスを用意されたのは間違いない。
 で、「ハレルヤコーラス」を歌って、そのあとずっと続けていって、最後の「アーメンコーラス」のところまでいったらどうするんですか?「いや、「アーメン」という言葉はダメだからもう歌えない」ということで、急に最後の曲だけは歌わないんですか?そんなおかしな話はないですよね。
 そもそも私たちは、「ハレルヤコーラス」をどういう気持ちで歌っているのでしょうか。
 もし、「この曲は明主様を讃えている曲だ」「明主様だけを讃えている曲だ」ということで歌うのだとしたら、そういう人たちは、事実上、世の中からはカルト集団と見なされてしまいますよ。世界のキリスト教徒20億のみならず、世界中の人に対して、聖書の歌詞で作られたヘンデルの「メサイア」であり「ハレルヤコーラス」を、「この曲は、実は、明主様を讃えている曲なんだ」と言ったら、それはもうカルト集団と見なされますよ。
 世界のたった数万人くらいでそのことを主張しているからそういう扱いをされていないだけですけれども、もしこれを大々的に世に問うたらどうなるか。だから、してみたらいいと思うんですよ。「ヘンデルの「メサイア」は明主様だけを讃えている曲だ」と、世に問うてみたらいいと思うんですよ。「何言ってるんですか?」となりますよ。
 では、私たちは、この「メサイア」という曲をどう捉えているか。
 それは、明主様のことはもちろん讃えているんですよ。でも、明主様だけではなくて、イエス・キリスト──最初にメシアの御名を体現したイエス・キリスト──も讃えている。イエスと、イエスのの願いを二千年の時を超えて受けられた明主様を讃えている。
 でもそれだけではなくて、私たち一人ひとりの中には「メシア」と名の付いた魂があって、これも讃えているんだと言ったら、それは、カルトになりようがないですよ。誰か特定の人を讃えているとしたらカルトになりますよ。でも、この「メシア」という存在は、誰の中にでもあるんですよ。全人類もれなく、誰の中にでもある。
 だからそう考えると、冒頭に引用した聖言の「開かずの門」の話、あれは一体何なのか。
 この「開かずの門」は今もエルサレムにあって、今ももちろん閉じている。で、明主様は、4つの門のうち、3つはいているけれども、1つだけが──最後の1つだけが──閉じていると、そう仰せですね。
 ということは、最後に何か残されている、ということですね。最後。最後の試練と言いますか、私たちが最後に決断しなければいけないことが何かあると、そういうことですね、最後の1つの門が残っているわけですから。
 だからそれは何かというと、最後の審判。これが残されている。
 では最後の審判は何ですかというと、それは、御歌に、「信ずる者は救はれ信ぜぬ者は救はれぬこれぞ最後の審判なりける」。信じるものは救われて、信じないものは救われない、これが最後の審判ですよと明主様は仰せです。
 そして、この最後の門はエルサレムにあるわけですから、エルサレムまで行って何を信じるかと言ったら、エルサレムということはユダヤ教であり、キリスト教の最も大切な場所ですから、それは、「メシア」ということしかないですよ。「メシア」。
 いや、これはね、私たちは「メシア」と言っていますけれども、エルサレムにおいて、ユダヤの人は「メシア」とは言わないですよ。発音が正しいかどうか分かりませんけれども、「メシャハ」とか「マシャハ」とか、そういう言葉になる。
 ユダヤ人が、「メシャハ」とか「マシャハ」とか言うもの、日本語にして言えば「メシア」、それが自分の中にあると信じるか信じないか、これが最後に残されている。だって最後の門が閉じているわけですから。
 しかも、もう一個忘れてはならないことがあります。エルサレムに行けば、「神様が二千年前から用意してある」ものがあるんです。ですよね?明主様はそう仰せですよね?
 では二千年前に神様がエルサレムに用意されたものが何かと言ったら、イエスの贖いの血しかないですよ、それは。エルサレムで二千年前に何があったんですか?イエスが十字架にかかって死んだんですよ。それしかないじゃないですか。
 だから、エルサレムにある最後の門まで行って、「自分の中にメシアの御名があることを信じます」「二千年前に神様が用意されたイエスの血を受け入れます」とすれば、その「開かずの門」が開いて「消えてう」、ということではないのですか。
 だから、明主様は、それをされたんですよ。「予言」ではなくて「確言」だと仰せになって、私たちは一体それはいつ実現するんだろうと思っていたし、今もそう思っている。だけど、実は、もう実現したんですよ。
 明主様は、エルサレムに行かれて──と言っても地上のエルサレムではなくて、天のエルサレムですよ—天のエルサレムに行かれて、そして、神様に対して、「メシアの御名をお受けします」「あなたが二千年前に用意されたイエスの血を受け入れます」とされた。そしたら、天国のドアが、「開かずの門」が、消えてしまって、明主様は中に入られて天の父にお目にかかって、そして、新しくお生まれになってしまわれたんですよ。それが、195465日の辺りでもう行われた。
 だから、冒頭の明主様の聖言、あれはもう終わっている話ですよ。明主様は全然嘘つきではないんですよ。「確言」だとおっしゃったように、明主様は、「開かずの門」を通られて、天の父にお目にかかり、そして、神様の子供となられた。
 明主様は、「初めていて」とおっしゃる。でも、イエスは、二千年前、エルサレムに行った時そこを通ったみたいですよ。しかし、そのあと閉じられた。でも、イエスのあと、ずっと閉じていたのを明主様が初めて開かれた。そして明主様は、「地上天国の初め」というご存在になられた。
 では、私たち一人ひとりはどうしたらよいのか。「開かずの門」は、現時点では今も閉じていますよ。で、世界の多くの人は、いつかすばらしい人が来て、その門が物質的に取り除かれるということを信じている。でも、私たちは待たないんですよ。
 確かにその門は今も閉じていますけれども、それを閉じていると見るのか、そうではないと見るのか。だって、閉じてはいるけれども、「本当は閉じてません」とさせていただくところに私たちの信仰の価値があるのではないですか?
 閉じている門が現実的にいて、それを見た上で、「信じます」と言ったって何の価値もないじゃないですか。でも、本当は、閉ざしていたのは私たちなんですよ。神様が閉ざされたのではない。
 だから、私たちは、天のエルサレムに行って、「メシアの御名を受け入れます」「二千年前に神様が用意されたイエスの血を受け入れます」とすれば、皆様お一人おひとりにとっても、その天国のドアが、その「開かずの門」が、「消えてう」かもしれないですよ。
 だいたい、門が「消えて了う」という表現がこの世の表現ではないですよね。物質が消えるというのはおかしな話ですから。だから、地のエルサレムではなくて、天のエルサレムの話ですよ、絶対に。
 いや、そうではないと言ってもいいですよ。あの聖言はこの地上の話だと言ってもいいですよ。でも、そうしたら、明主様は嘘つきだということで終わりですよ、だってそれはこの世では実現しなかったんですから。
 明主様は、私は嘘は言いませんとおっしゃっている。それを、でもあなたはもう亡くなったからこれは実現しませんでしたね、で終わりにしていいはずないじゃないですか。
 また、明主様は、ご自分のことを「東方の光」だとか、西から来た文化とか文明が東まで来て、そしてそれがまた西に返る、ということを仰せになりますね。その西に返っていったおいの地点がエルサレムだということは、最初に出たところもエルサレムだということになりますよ。
 エルサレムから出た。そしてそれがだんだんだんだん東にきて、世界の極東と言われる日本で、明主様がメシアの御名をお受けになった。だって明主様のご神業はメシアの御名を中心にして行われていますよ。ヘンデルの「メサイア」にしても、教団名にしても。
 というように、世界の極東、世界ので明主様がメシアの御名をお受けになった。一番端のご存在がお受けになったということは、人類の誰もが受ける権利があるという、そういう象徴的な意味があるからではないんですか?
 だから明主様は、東の端の端の端でお生まれになったのではないですか?しかも貧しいご家庭にお生まれになった。そういう、本当に、人類の一番端のようなご存在のお生まれだったんですよ、明主様は。その明主様がメシアの御名をお受けになったということは、メシアの御名は人類の誰もが受けるべきものだという意味ではないのですか?
 いや、もしそうでないとしたらどうするんですか。箱根、熱海、京都を維持するだけでも大変なのに、いつか九州の土地を買うんですか?中国の北京城、買えますかね。中国共産党との戦いみたいになって、なかなか大変だと思いますよ。他にも色んなところに造るとおっしゃっていますよ、モンゴルとか。
 そうだとして、私たちは、そういう土地を全部買って聖地のような場所を建設しなければ、「世界の地上天国の初め」にならない、世界が統一されないと、そういうことをずっと言っていくんですか?でも、本当は、私たちが今日まで持っていた信仰というのはそういう信仰だったんですね。
 だけど、明主様の、浄霊とか自然農法とか芸術というような活動の結論は、メシアとして新しく生まれるということだし、地上天国建設ということも、メシアとして新しく生まれるということに集約されるんですよ。
 だから、今日の御歌にもありましたね。「イスラエルの民も歓呼の声挙げむあくがれ待ちしのメシアに」。ユダヤの方々もずっと待ってらっしゃるんですよ、メシアを。
 そしたら、この「真のメシア」は誰ですか?とユダヤの方は聞かれる。それは、「あなた自身の中にいるじゃないか」ということなんです。外側にいる、誰か特定の人だけがメシアだとすれば、「それはなかなか受け入れられない」となりますよ。でも、そうではなくて、最高の存在があなた自身の中にいるじゃないか、ということなんです。これを、イエス・キリストのみが真のメシアだと言えば、ユダヤの方々は簡単には受け入れませんよ。
 でも、私たちが、ユダヤの方々に対して、「明主様がおっしゃっているのは、イエス・キリストは、『私だけがメシアだ』ということを言っているのではない。誰の中にも、メシアという存在であり神様の最高の魂があるじゃないか」というふうに言ったら、ユダヤの方々も、「そうなんだ。何か外側の誰かを仰ぐということではなくて、私自身の中に、私が長年めてきたその神様の魂でありメシアが存在しているんだ」ということで喜ばれると思いますよ。本当に喜ばれると思いますよ、その真実を知ったら。

 

追記:ただし、ユダヤの方々も、明主様と同じように、また、メシア教の皆様と同じように、最初にメシアの御名を体現されたイエス・キリストのことは受け入れなければいけない。そこに、ユダヤの方々にとっての難しさがあると思います。

 

キリスト教徒の方々も、イエスが二千年前その「開かずの門」を一度通った。それで、その後閉じたのは、「閉じたと見るのか、いていると見るのか」ということを神様は突きつけているのに、キリスト教徒の方々は、それを、いつかイエスが戻ってきてその門を物質的に開けてくれるとして待っている。
 そのキリスト教徒の方々も、「本当はもういているんですよ」「神様に通ずる道はもうあなたの心の中にあるじゃないか」ということに目覚めることができれば、それはキリスト教徒の方々も喜ばれると思いますよ。
 だから、メシア教の私たちは、そういうことをユダヤ教徒とかキリスト教徒の方々に知っていただくことを託されているんです。なんて重大な使命を持たされているんだろう、このメシア教の私たちというのは、ということなんですよ。そんな政治家とかにぺこぺこ頭を下げるどころの話じゃないんですよ、本来は。
 だから、ローマ法王のことも、「明主様は1963年までに頭を下げさせることができませんでした」ということにはなりますけれども、「押さえる方策」があると仰せですね。「押さえる方策」と言ったら、今話していることですよ。
 イエスの本当の願いを託されているメシア教の偉大性にもしローマ法王が気づいたら、それは、ぺこぺこ頭を下げてくるというより、「本当にありがとうございます」という意味で私たちに頭を下げてこられることはあるんじゃないのかなと思うんですね。そういう自負心を明主様はお持ちだったんじゃないんですか?
 だから、本当に、明主様が新しくお生まれになった時が「世界の地上天国の初め」だったんですよ。「初め」。そして、「それからが世界が統一される」。ですね?私たちは、これをいつになったら始めるんですか?
 本当は、1954年からその歴史がもう始まっていたんですよ。「地上天国の初め」「世界が統一される」ことが始まっていたんですよ、その時から。
 だけど私たちは、明主様の本当に偉大な業を何十年も無視して、「地上天国の完成はまだまだ先のことだ。その日がいつ来るかな、いつ来るかな」とずっとしてきたんですよ。でもそれは、もう、明主様のご人生の中で完結されたんです。
 地上天国とは何かということをご自分の身をもって示された。二千年前神様が用意されたイエスの血を受け入れられて、「開かずの門」を通られて、そして、世界がメシアの御名にあって統一される、人類が神様のもとにメシアの御名にあって一つとなる、という道を切りいてくださった。
 だから、このあと「ハレルヤコーラス」を聴かせていただきますけれども、これは、本当は、大変なことなんですよ。「ハレルヤコーラス」を歌わせていただいたり、聴かせていただいたりすることは大変なことなんですよ、本当はね。
 だから私たちは、私たちに託された使命の重大性に目覚めないといけない。今まで私たちがしてきたような、明主様をこの世のほうに落とす、人間の世界に落とすという、そういう小さい業に私たちはお仕えしているわけではないんですから。
 だから、もう、「時が来た」ということで、圧倒的な誇りと自負心を持って共に進んでまいりたいと思います。
 ありがとうございました。