PDF: 九月度月次祭_真明様ご挨拶

「ありのままで」

於:本部ご神前

 

皆様、こんにちは。
 教主様が、教主様にご就位になって、明主様の新しい信仰を私たちにご教導くださるようになり始めたのが、2003年とか2004年ごろのことです。それから、早17年、18年経ちました。
 折々の大祭でのお言葉、また、国内各地だけではなく海外も含めてのご巡教。そこでは、お言葉をくださると同時に、信徒の皆様からのお伺いにも直接、時間をかけてお答えくださる。
 また、最近では、月に1回、「教主様のお歌」ということでお歌をご発表くださっていますし、また、歌の歌詞ですね。「家路」とか「アメイジンググレイス」とか「別れの曲」とかの歌詞。教主様は、そういういろいろなことを通して私たちを教え導いてくださっている。
 そして、これらの情報は、基本、教団の刊行物に掲載されます。しかも、文字を読むのが苦手な方にはYouTubeもある。YouTubeで、実際のお言葉の映像を見ることができる。さらに、目が不自由な方や、耳から情報を得たい方には『グローリー』の朗読版というのもYouTubeで配信されている。
 というように教主様は、私たちを教え導くために、ありとあらゆる努力をしてくださっていますね。
 これは、表立ってはもちろん教主様お一人ですけれども、皆様が、まゆみ奥様と呼ばれる私の母が、常に教主様を支えて、お二人、一体となって、私たちのために努力してくださっている。
 それは、当然、明主様のされた真実、救いというものに、私たちが目覚めてほしいということでもあるし、また、やはり、私たちが、何か気づかなければいけないことがある、生き方を変えなければいけないことがあるんだと、そのために、教主様は、文字通り、身をにして、命を燃やして、私たちのためにご努力くださっているんだと、そう思います。
 では、私たちは、そのような教主様の長年のご努力に対して、17年、18年前の自分と2021年の今日の自分を比べた時に、何が変わったんだろうかと思うわけなんですね。
 もし、皆様お一人おひとりに、17年前の自分と今日の自分、何が変わりましたか?教主様のお言葉は皆様の生き方にどういう影響がありましたか?教主様のご教導はどのように受けとめていますか?ということを伺ったとして、皆様は何とお答えになるのでしょうか。
 それは、いろいろな答え方があると思いますけれども、人によっては、「すばらしいけれども難しい」「一生懸命理解しようと努めてますけれども難しい。ですので、今まで教わってきたことを大切にしています」というふうにお答えになる方もいらっしゃるかもしれない。
 あるいは、「お言葉はすばらしいけれども、教主様というのは雲の上の存在ですので、到底自分のような存在では簡単に理解することはできません」と言いつつ、実際は、今まで通りの信仰を続ける、という方もいらっしゃるかもしれない。
 というように、本音を言ったら、このように答える私たちの姿があるんじゃないのかなと思うんですね。
 でも、本来、17年、18年の長きにわたって大努力をしてくださっている教主様に対して、それを、「難しい」の一言で終わらせたり、あるいは、お世辞でもないんでしょうけれども、「雲の上の存在で」というようなことで終わらせるわけにはいかないんじゃないのかなと思うんですね。
 そのことでちょっと例えを思い付いたのですが、例えば、自分が結婚することになった。相手の人にとっては再婚。この場合は、自分が奥さんで、再婚のほうが旦那さんだとしますね。
 それで、奥さんは、この旦那さんのために一生懸命料理を作ろうと思って、そしてそれを旦那さんに出した。そしたら旦那さんは、「いやー、すごい手の込んだ料理だね」「見たことのない珍しい食材を使っているね」と言う。で、こういうことを言うだけ言って、結局、食事の時間になったら、その料理は食べずに、前の奥さんのところに行って、「やっぱり自分はこの慣れ親しんでる味が好きだから」ということで、前の奥さんの料理を食べてしまう。
 あるいは、こういうケースもあると思うんですね。料理を出した。そしたら旦那さんは、「すばらしい見た目だね」「最高の食材を使ってるね」「いや、これはもう、すばらしすぎて口に入れるのももったいない」と言って、それは食べずに、「じゃあ」と言って前の奥さんのところに行ってしまって、結局前の奥さんの料理を食べてしまう。
 例えて言うなら、こういった姿が、私たちの教主様のお言葉に対する姿勢の中にあるんじゃないのかなと思うわけなんですね。「難しい」「すばらしい」と言いながら、結局今までの信仰から抜け出せないという姿が。
 あるいは、奥さんが料理を用意して、そしたら旦那さんは、「すばらしいね」と言って食べてくれる。ようやく食べました。今まで食べなかったけど初めて食べました。だけど、食べっぷりがあんまり良くないんですね。で、腹六分目、七分目くらいでを置いて、「まだ食べたいものがあるから」と言って、結局、前の奥さんのところに行って、「この慣れ親しんでる味が自分は好きだから」と言ってそれも食べる。両方食べるというパターンですね。両方食べる。
 これは、奥さんとしては、旦那さんには自分の料理でお腹一杯になってほしいのに、そういうことをされちゃうのは悲しいし、また、作り甲斐もないですね。
 だから、教主様のお言葉のことに置き換えれば、「教主様のお言葉はすばらしい」と言って学ぶけれども、今までの信仰にも一種の未練みたいなものがあって、そっちも継続していこうと、そういう姿ですね。
 でも、教主様は、私たちに明主様の本当の信仰をお伝えになりたいのに、私たちはそれで満足するのではなくて、今までの信仰というのも継続していこうというのは、本来、努力してくださっている教主様に対して申し訳ないことなんじゃないのかなと思うんですね。
 で、今、「前の奥さんの料理」ということで例えた、この「今までの信仰」というのは一体何なのか。そして私が思うのは、食事の話でもないんですけれども、私たちは、結局、この「今までの信仰」というのが好きなんですね、根本的に。理屈を超えて、前の奥さんの料理が好きだし、今までの信仰が好きなんだ──本質的にそういう思いが私たちの中にあるんじゃないのかなと思うんですね。だから、何を言われようと、どうしても未練がある。
 では、この「今までの信仰」とは一体どういう信仰なのか、私たちがいまだに未練を持っているこの「今までの信仰」とはどういう信仰なのかというと、これが、いわゆる「利他愛」とか「感謝」という言葉に象徴される、「人のことを愛しましょう」「利他愛の実践をしましょう」「何にでも感謝させていただきましょう」「不都合に感謝しましょう」「誰のことも分け隔てなく愛しましょう」「こういう行いをしましょう」「悪いことをしてはいけません」「素直になりなさい」「物を粗末にしてはいけません」という、これですね。
 行いと、自分の心を使って感謝とか愛というものを持とうとする、これですね。これが私たちが持ってきた「今までの信仰」。
 そして私たちは、この信仰が好きなんです。なぜかというと、それは、自分はこういう努力をしているのでの人よりもっている、というように、自分を他人よりも優った存在に置けるから、ですね。あるいは、「なかなかできませんよね」と言って、謙虚な自分は立派だと心の中で誇ったりもしますね、私たちは。というように、こういう信仰は、人間の価値を高めるものですからね。だから好きなんです。
 感謝している、愛をすために努力している、と言って自分の徳を高めるということは、自分の姿と他人の姿を、目に見える形ではっきりと区別できる。だから私たちは、この信仰が好きなんだと、そういうことなんですね。
 だけど、こういうことを聞くと、そんなおかしな話ないじゃないか、利他愛も感謝も明主様がお説きになっていたことじゃないか、と言いたくなりますね、私たちは。
 いや、それは、明主様がお説きになっている、利他愛とか感謝ということの本当の意味というのはありますよ。それは、利他愛と言っても神様の愛のことであるし、また、感謝と言っても、本来人間の力で感謝の思いというのは簡単に持てるものではない。
 だけど私たちは、そういう明主様の聖言を、「人間の世界の利他愛」「人間の世界の感謝」という次元にまで落として、それが明主様のおっしゃっていることだとしてしまっている。思い込んでしまっている。
 だから、明主様がお説きになっていたことを、そんな古い奥さんの食事に例えるなんて失礼じゃないかと思うかもしれませんけれども、本当はそうではなくて、明主様は、そういう種類のことは、ただの道徳なんですよ、宗教より下の道徳なんですよ、ということをいろんな場面でおっしゃっています。
 明主様は、人間はこういう気持ちを持て、いい思いを持ちなさい、悪いことをしてはいけません、親孝行しなさい、物を粗末にしてはいけません、こういうことはことごとく道徳なんだとおっしゃる。
 私たちは、これらのことは、今まで、宗教だと思ってきましたけれども、明主様は、それは道徳なんだとおっしゃる。宗教より下のものなんだとおっしゃる。そしてご自分は宗教をやりたい、道徳を超えたものをやりたいと、そう思われていた。
 今日の聖言の「観音信仰」にも、小乗信仰とか戒律信仰のことがありましたね。私たちは戒律というと、何か、15回神様にお祈りするとか、そういう極端なことばかり考えますけれども、戒律というのはルールですからね。だから、例えば、利他の行いをしなさいという利他行とか、感謝行とか、何とかの実践とか、参拝・浄霊・奉仕しなさいとか、いい思いを持ちなさい、悪いことをしてはいけませんとか、これらも、本当は、全部戒律ですよ。
 で、明主様は、これらのこと、結局あなた方はできないじゃないかとおっしゃいましたね、今日の聖言で。どんなに立派な信仰を掲げても、できないから、それが虚偽になると仰せですね。
 要は、表立っては、自分はこういうことをしてますと言うんだけれども、私たちの心の中を見たらなかなかそうはいかない。明主様は、「表面が善で、内面は悪になる」というおっしゃり方をされていますね。
 いや、だってですよ、私たちの中で、誰でも分け隔てなく愛することができます、私は何にでも感謝できます、物を粗末にしたことは一度もありません、親不孝をしたことは一度もありませんと言える方が一人でもいるのでしょうか。
 それなのに私たちは、「いや、努力することに価値があるんだ」と言って、どんなに努力しても完全に行うことができないことを目標に定めているんですよ。だから、もう、その世界でがんじがらめですよ。いや、それは、神様ならお出来になりますよ。というように私たちは、自分自身を戒律でって生きている。
 そういうふうに生きていったらどうなるかと言ったら、明主様は、虚偽があるからいたがる──衒いたがるというのは、見せびらかしたりしたいということですね──そして、く見せたがる。その私たちの姿がいし醜いし、それは小人なんだとおっしゃる。
 当然ね、戒律信仰で説いていった場合、偉くなればなるほど、自分の偉さというのは、戒律を守っていることによる偉さだというふうにならざるを得ないですよね。私は利他の行いをたくさんしてます、何にでも感謝できます、だから自分はこの偉い立場になっているんですよと、そうならざるを得ないですよね。
 だから、明主様が、衒いたがるというように、見栄みたいなのを張って、自分はこれができる、あれができるというふうになって、それで偉く見えるのかと言ったら、明主様は、それは逆効果になりますよ、小人になりますよとおっしゃる。
 だからこういう姿は、もちろん私たち自身の姿でもあるし、また、明主様亡き後の教団で、そういうような姿にってしまった人というのは多分にいたのではないのかなと思うんですね。
 そして明主様は、私たちは、そういうふうに自分で型を作って、そして自らその型に入り込んで苦しんでいる、とおっしゃるように、自分で型を作るんですね、私たちは。こういう行いをしなきゃいけない、不都合に感謝しなきゃいけない、ああだこうだと言って型を作って、でも結局なかなか完璧にできないから、そこで悶々として苦しむ。しかも、それだけならまだいいけれども、私たちは、他人も自分の型の中に押し込んで苦しませていると、そう明主様は仰せですね。
 これ、私たちは、自分はそういうことはしていないと思うかもしれませんけれども、私たちは、良かれと思って、周りの方々に、例えば、いや自分はこういう病気になって、最初は、神様はなんでこんなことをするんだと思ったけれども、病気に感謝できるようになりました、というようなことを言う。そうすると、聞いているほうとしては、この人すごいな、自分も何にでも感謝できるようにならないといけない、となる。
 あるいは、謙虚になることは大切だ、ということを誰かに伝える。そうすると相手の方は、ああ、この人は謙虚ですごいな、自分はなかなか謙虚になれないな、つい自分を誇ってしまうなとその方に思わせてしまう。
 というように私たちは、戒律という型を自分で作って、その中に自分で入っていって、そして、その世界に生きることによって周りの人もその型に押し込んで苦しめている。その生き方、自分ではいいと思っているんですよ。戒律がいいことだと思っていますからね。
 で、こういう姿が私たちの姿だと思うんですけれども、一方で、じゃあ「戒律信仰ではない信仰」を誰が説けるのでしょうか?戒律信仰ではない信仰は、実際、世の中にほとんど存在していないのではないでしょうか?
 どんな宗教でも、ちゃんと挨拶しましょうとか、毎日神様に参拝させていただきましょうとか、こういう実践をさせていただきましょうとなってますよ、だいたい。戒律と言うように、あるルールに沿って生きるのが宗教だと、誰もが思ってますよ。だから私たちは、戒律信仰ではない信仰を知らないみたいになってしまっている。
 明主様は違っておられたと思いますよ、「観音信仰」の聖言を見れば分かるように。だけど、ひとたび明主様が亡くなられると、私たちは、明主様が遺されたものを戒律的にしか受け取れませんのでね、利他愛という言葉があれば、「周りの人を愛さなきゃいけないんだ」と言って、感謝という言葉があれば、「感謝が大切なんだ」と言って、明主様の聖言を、世の中で一般に言っていることに落としてしまってきた。せっかく明主様は戒律信仰ではないものをお説きになろうとしていらしたのに。
 でも今、教主様が、観音信仰とか大乗信仰と明主様がおっしゃった新しい信仰であり、本当の信仰であり、戒律信仰を超えた信仰をお伝えくださっているんだと、そう思います。
 だから救世教、メシア教で言えば、明主様と、そして教主様が、この、戒律信仰ではない新しい信仰を説いてくださっている。
 これはキリスト教も、もとはイエスもそれを説いていた。また、パウロという人がいて──この方は新約聖書の大部分の文章を書いた人ですけれども──この人もそれを訴えていたけれども、結局、今のキリスト教も戒律信仰に陥っていると思いますよ、ほとんど。こういうことをしてはいけません、こういうことはしてもいいですよと、そうなってしまっていると思いますよ、キリスト教においても。
 というように私たちは、皆で、この戒律信仰の型の中に入っていたんだと思うんですね。そして明主様は、そういう信仰を持った人は、臭くて醜いという強烈な表現をされていますけれども、そういう私たちになっていたんじゃないのかなと思うんですね。
 では、戒律信仰ではない信仰というのは一体何なのか?これが、明主様はこういうおっしゃり方ですけれども、「人間は神を認めて、神様が見通しだという事を知ればそれでよいのです。他の事は別に必要ないです。それが、ややこしい、『ああしろ、こうしろ』と言っているだけではんにもならないです」、そして、肝腎な「神が有る」ということは誰も言わないんだ──こう明主様はおっしゃる。
 だから、「ややこしい、『ああしろ、こうしろ』」としてきたじゃないですか、私たちは。不都合に感謝しなさい、こういう実践をしなさいとして、ああしろこうしろ言ってきた。でも明主様は、人間は神を認めて、神様がお見通しだということを知ればもうそれだけでいいんだ、他のことは別に必要ないんだとおっしゃる。
 神様がお見通しだということは、隠せない、ということですよ。普通は、「観音信仰」の聖言にもありましたように、「表面が善で、内面は悪になる」というように、できない自分を隠すからそうなりますね。
 でも、神様はお見通しなんですから、隠せないということです。隠せない。
 だから、私たちは、心の奥底まで素っ裸にされているんですよ、神様に。神様は、私たちの心の奥底、魂の奥底までご存知で、すべて見抜いていらっしゃる。
 だから、明主様が、観音信仰は大乗信仰であって裏表がないとおっしゃるように、自分の、そのまま、ありのままでいいということなんですね。
 だから、戒律みたいなことができなくても、それを無理に隠すのではなくて、「できない」という自分がいるだけですよ。「ああ、自分はできないなぁ」という自分がいるだけ。それを隠す必要はないんです。だから虚偽に陥る必要もないし、う必要もないし、誇る必要もない。
 でも、明主様は簡単におっしゃっていますけれども、本当は、勇気のいることですよ、これは。自分自身の心の奥底まで神様に見られているということを認める。これは勇気のいることだと思いますよ。
 で、本当に自分の心を見つめたら、気づくと思うんです。自分の中にある、本当は隠したいけれども神様に見通されている思いに。
 明主様は、裏の思いを隠す必要がなくなると明朗になると仰せですね。確かに、今までのように隠す必要がないわけですから、明るくはなりますよね。でも、同時に、「自分には実はこういう姿があったんだ」ということを知ったら、愕然とすると思いますよ。
 それを私たちは、普段、「臭いものにはふたをしろ」ではないですけれども、それを隠して、「自分は一生懸命こういう行いをしてます」「こういう思いを持ってます」ということで気を張っているのでそれに直面することはない。
 いや、それは複雑な話ではなくて、私たち一日一日、生きている中で、自分の知り合いとか、友達とか、家族とか、友人とお茶をするとか、どこかに買い物に行くとか、そういう時に、何か気に入らないことが起きて、何か思いが心の中に去来するじゃないですか。そのことですよ。それを神様は、「私はお見通しだよ」とおっしゃっているんです。
 だから、そういう思いに本当に気づいたら、そして、自分は今まで、何とか型に入り込んで一生懸命やってきたけれども、本当は、いろんな戒律的なことを守ることはできないんだということに気づいたら、自分は、もう、救いようがない存在だと思うかもしれないですよ。自分の中にはこんな思いがあるのか、信仰者でいることも恥ずかしいと思うかもしれないですよ。
 というように、自分はもう救いようがない存在だと思うかもしれませんけれども、実はそうではなくて、そのような救いようがない自分こそが、なんと、神様にとっては、救いの材料そのものなんだということなんですね。救いようのない自分こそが、神様にとっては、救いの材料そのものだ、そういうことなんです。
 「本教救いの特異性」。すごいタイトルの聖言ですね。メシア教の救いの特徴は何かということが書かれている聖言ですね。そしてそれは何か。それは、「本教の使命は地獄で苦しんでいる人達を、天国へ救う」んだと、こうありますね。ではそれをどうやって実現するのか。それは、「人を天国へ救うには、ず自分が天国にって天国人となり、大衆を救い上げるのである」、こうありますね。
 これを聞くと、いや、そう言われてもなかなか大衆を救い上げるということは大変です、知り合いもそんなにいないし、難しい、と思うかもしれないけれども、本当は違うんですよ。
 というのは、地獄で苦しんでいる人たちは、自分の中にいるじゃないですか。救いようのない思いが私たちの中にあるじゃないですか。明主様は、「大衆」という表現をされていますけれども、それは、私たちの中にいらっしゃるご先祖様のことでもあるわけです。
 だって、私たち、今、生き残ってますよ。ということは、言わば、勝ってきたわけです。当然、誰かを殺してきたわけですよ。だって、殺されていたら生き残っていないわけですから。私たちが今生きているということは、とんでもないものを抱えていると、そういうことです。もし穏やかで、人を攻撃してはいけないとか思っていたら、生き残っていないですよね。
 だから、戦争して、戦って勝ってきたというのが残された私たち人類ですよ。としたら、私たちの中には、救いようのない者たちがたくさんいるに決まっているじゃないですか。その方々が、私たちの中で、地獄で、苦しんでいる。
 だから、自分の中にどうしようもない思いがあったとしても、明主様は、「ず自分が天国にって」とおっしゃるように、まず、自分が一番最初に天国人にならないといけないんですよ。
 でも私たちは、そこで、「天国人になるためにはたくさん努力をしないといけない」とか、「頑張って天国人になりたい」となってしまっている。でも、「先ず」ですよ。明主様は、もう、一番最初に天国に上がりなさいとおっしゃっている。
 ですから、勇気を持って、まず、神様のところに行って、そして、自分の中に湧き上がるその思いを素直に認めて、そして、それをありのまま神様にお捧げすればいいのに、私たちはそれを隠して、「つらかったけれども、何とか感謝の思いを持てるようになりました」とか言っている。神様にとっては、その、「つらかった」ということのほうが大切なんですよ。あるいは、「あの人には憎しみの思いしか持てていなかったけれども、ようやく愛せるようになりました」とか言って、私たちは、「感謝の思いを持てた」とか、「愛せるようになった」ことのほうに主眼を置いて、自分の向上ばっかりを考えているんですよ。「自分が何とかいい人にならなきゃいけない」ということばっかりを考えている。生きている時間を、自分の向上のためばっかりに費やしている。でも本当は、私たちの中にある醜い思い、つらいとか憎たらしいとか、そういう思いこそを私たちは救いに来ているんです。
 でも自分がね、まさかいきなり天国人になれるとは思っていないですし、また、自分の中にはいろんな要素がありますからね、心の中にはいろんな思いが渦巻いている。だから、その中で、「自分はいい思いを持たなければならない」とか言ってずっと苦しんでいるんです、私たちは、毎日。
 でも明主様は、本教の使命は──ということは、明主様の信徒の使命は、ということですよ──それは、「地獄で苦しんでいる人達を、天国へ救う」ことだとおっしゃる。これが私たちの使命なんですよ。だとしたら、勇気を持ってまず天国に上がらなければ、その使命を果たすことは一生できないですよ。
 だから、これから先の一秒を、今までのように、自分の向上のために使うのか。それとも、「自分の中には地獄で苦しんでいる人たちがいます。その人たちの救いのために自分の時間を使いたいのです」と思って生きていくのか、どっちなのか。それを決めないといけない。
 今日の月次祭の御歌、5首ありましたね。
 1首目が、「牢獄をが作りて己が身をげ込む愚かな人の多かり」。
 
だから、自分たちで作っているじゃないですか、牢獄を。「こういう行いをしなきゃいけない」「愛さなきゃいけない」と言って自分で牢獄を作って、そして自分でその中に入って、生きている。しかも、それだけではなくて、他の人もその牢獄に押し込んでいる。
 今まで私たちは、それは牢獄だとは思ってなかったんですよ。むしろ、立派なものだと思ってた。いろんな戒律と言いますかね、そういうのを自分で定めてちゃんと生きていると思ってた。人を愛せて、優しくて、親不孝もしなくて、物も粗末にしない、そういうすばらしい城の中に生きていると思ってた。でも、明主様は、それは牢獄なんだとおっしゃる。自分で牢獄を作ってしまっているじゃないかとおっしゃる。自分も入って、他の人もそこにれてしまっているじゃないかとおっしゃる。
 2首目は、「いとさき声きこゆるも大いなる言霊入らぬ人の耳かな」。
 「いと小さき声」とは何だと言ったら、それは、要は、人の声ですよ。私たちは、人の声は本当によく耳に入ってきますね。ゴシップとかうわさ話を誰かがしてたら、何だろうと思って、もう耳のサイズが大きくなったんじゃないかと思うぐらい、よく聞こえますよね。いや、それは私も含めてですけれども、そういう声は非常によく聞こえる。
 で、「大いなる言霊」は何かと言ったら、それは当然神様の言葉ですね。神様は、「そんなことをしてないで、ありのままで私のところに帰ってきなさい」と私たちを常に呼んでおられる。でも、その声は私たちの耳にはらないんですね。というのは、私たちは人間の世界のことが大事ですからね。友達と会って何か悩みでも聞いているさなかに神様の声が聞こえたら、「神様ちょっと静かにしててください。この人は大変な問題を抱えているんですから!」と言ってね、私たちはもうそういうことに一生懸命になっていますよ。
 いや、それはね、確かに、友達のために尽くすのも大切ですよ。でも、神様が常に私たちのことを呼んでいらっしゃるということを忘れてはいけないんですね。
 3首目は、「水晶の世界となれば如何ならん隠し事とて表はるるなり」。
 もう現れているじゃないですか、私たちの中に。普通は、この現象の世界、地上にいろんな事件が起きてくるのかなと思いますね。確かにそれもありますよ。でも、私たちの心に、ありとあらゆる思いが、もう隠しようがないぐらい現れてきてるじゃないですか。「あの人憎たらしい」とか、嫉妬の思いとかそのようなものが。
 霊界ではすでに夜昼転換は成し遂げられたんですよね?だから、私たちの心の中を神様の光が燦々と照らしているじゃないですか。で、光に照らされたら影ができるように、私たちは、その影を見ているんです、猛烈に。自分の心の中のいろんなものが見えてしまう、ということですね。だから、もう、現れちゃっているんです、水晶の世界になっていますから。
 いや、それは、隠し事だとか恥だとか、そういう心の中のすべてを、現実的に周りにさらけ出す必要はないですよ。でも、少なくとも、神様に対しては違うと思うんです。だって神様は、「隠さなくていい」「私はお見通しだよ」とおっしゃっているんですからね。
 そして、「あなたの恥はもう全部取り除いてあげたよ」とおっしゃってくださっている。聖書にもあるように、神様は、私たちの涙をもうぬぐい去ってくださったんですよ。私たちが恥だとか隠したいとか思っているすべて、泣きたくなるような自分、恥ずかしい過去とか、そういういろいろなものを取り去ってくださったし、私たちの涙をぬぐい去ってくださったんです、神様は。だから、神様に対しては何も隠す必要はないんですね。
 4首目は、「いとやすき神の真道をよそにしてなやみつづくる人の愚かさ」。
 だから、神様は、ありのままでいいとおっしゃっているんですから、こんな簡単なことないじゃないですか。「ありのままのお前を私に捧げなさい」とおっしゃってるんです、神様は。それなのに私たちは、いや、自分はまだ神様のみ前に出られるような存在ではありませんとか、まず感謝の心を持てるようになってからとか、こういう行いができるようになってからとか言って、ずっと悩み続けている。なかなかできないけどいつかできる日が来るだろうと言って、悩み続けている。
 そして5首目は、結局、「地獄への道も天国への道も選ぶがままのこの世なりける」となってますね。
 地獄へ行くのも、天国へ行くのも、結局、あなた方一人ひとりの選択ですよ、ということですね。まあ、本当はね、本当は、選択権はないんですよ、本当はね。だけど神様は、慈悲のお心によって、「あなたが決心するまで待ってあげるよ」とおっしゃってくださっている、ということですね。
 私たちは、今までの戒律信仰は、地獄への道に通ずるとは思っていないかもしれないけれども、戒律信仰というのはこの世を主体にした発想ですからね。自分はどういう行いができたか、何をこの地上に残せたか、という発想。その生き方、人の世を主体としたあり方で行けば、待っているのは「死」ですよ。死ということは、もう救われようがない存在ということですから、それは、地獄ですよ。
 だからその道をこれからも歩んで行くのか。それとも、天国の道である、ありのままの自分を神様にお見せして、そして、あなたのもとに帰りたい、神様と一つになりたいという生き方で行くのか。その道を歩めば、待っているのは「永遠の生命」ですよ、「死」ではなくて。
 だから、「死」を選ぶのか、「永遠の生命」を選ぶのか、それを決めるのはあなた方一人ひとりに委ねられているよという御歌ですね、この5首目の御歌は。

 

で、今の話を聞くと、私たちの中には、それは話としては分かるけど、戒律というものがなくなったらこの世の秩序はどうなってしまうんだろう、というように思う方もいらっしゃるかもしれませんね。
 いや、それはね、この世のルール、常識的なことにはもちろん従わなければいけませんよ。
 でも、そういうことを超えて、戒律みたいなものがなくなったら、誰も人に感謝しなくなってとんでもない世の中になっちゃうんじゃないかという思いもありますね。戒律信仰のほうがいい。感謝と愛に満ちた人がもっと増えるべきだ、という思い。
 もちろんそれはそうなんですけれども、でも、私たちには忘れてはいけないことがある。それは、明主様の御歌、「只神の心に叶ふうにせよ人の目口に心かれそ」というように、私たちは、神様のことよりも、人からどう見られるかが気になる。あるいは、私たちは、「神様、神様」と言っているけれども、人から何か聞くと、私たちの思いは、一瞬にしてその言葉に心を惹かれてしまいますね。自分の思いが、すぐ、神様よりも地上のほうに主体性を置く状態になってしまいますね。
 似た御歌で、「只神の大御心に叶はむと努むる人こそ人なりけり」。
 「只神の」とおっしゃるということは、人間ではなくて、ただひたすら、神様の願いのままに生きる、そのように努める人がの人なんだよ、ということですね。だからそう考えると、私たちは、まだ「人」でもなかったのかということになりますよ、いや、本当に。明主様は私たちのことを「獣」という表現もされていますけれどもね。
 この2首の御歌は、御歌としては、「いや、すばらしい御歌だな」ということになりますけれども、でも、内容としては厳しいですよ、これは。人の目とか口に心惹かれないで、ただ、ひたすら、神様の心のみに生きなさい、ということですね。でも、これ、ほとんど不可能ですよ。
 だって私たちは、一日の時間のほとんどを「人」のために生きてますよ。参拝をするのも結局自分のためだったりしますよ。「参拝している自分」と思ったりしてね。
 だから、この御歌を、「今までは人間中心だったけど、これからは神様の大御心に叶うように頑張って生きていこう」というように、またこの御歌を戒律のようにして受けとめるのではなくて、やっぱり、私たちは、「できませんでした」ということを認めなきゃいけないと思うんですね。
 「大御心に叶う生き方はできませんでした」「人の目口に心惹かれる自分でした」「何事にも感謝できませんでした」「平等の愛を持つことができませんでした」「自分の力でできると思っていたけれども何もできませんでした」ということを認めることがスタートだと思うんですね。
 そうじゃないと、また元の木阿弥ですよ。だって私たちは、すぐ、何と言いますか、「教え化」「戒律化」しようとしますでしょ、なんでも。
 教主様のお言葉も、例えば、「息」のご教導があると言ったら、すぐ、「自分は実践しているだろうか」「何人の人がしているだろうか」「あなたしていますか、していませんか」となるし、「お委ね」にしても、すぐ、「あなたはお委ねしていますか、していませんか」となりますよ。「参拝していますか」「神様に悔い改めてますか、悔い改めてませんか」となって、そして、「自分はまだ心からの悔い改めができていないからだめだ」とかね、そうなっちゃうんですね。
 私たちは、それぐらい何でも戒律のほうに持っていってしまうんですけれども、そうではなくて、やはり、まず、「できなかった」ということを認めることが第一歩だと思いますよ。
 「私では愛は持てませんでした」「感謝の気持ちは持てませんでした」ということを認めて、そして、「だけど、こんな私でも神様に受け取っていただきたいのです」「神様のもとに生きたいのです」と言わせていただいて、そして天国に上がらせていただく。
 そうすると、そう決めたあとも、いろんな思いが湧いてきますよ。決心したからといって急にこの世のすべてがバラ色になるかと言ったら、それは形の上ではすぐはそうならないんだけれども、でも、そういうふうに決めたあとの時間──天国の神様のもとに帰ったあとの時間──は、今度は、救いの時間じゃないですか。どんな思いを持ったとしても、「あっ、これは地獄で苦しんでいる人たちの思いなんだな」とさせていただける。
 だから、これが、明主様がお説きになっていたし、また、今教主様がお説きになっている本当の信仰であり、新しい信仰なんですね。
 いや、それは、私たちは、「古い信仰」「新しい信仰」と言いますが、本当はそこに区別はないんですよ。
 「古い信仰」と聞くと、「じゃあ今までの時間は何だったんだ」と思いますね。でも、そうではなくて、今までも、ずっと、「地獄で苦しんでいる人たちを救い上げる」ということに私たちの心は使われてきてたんですよ。「努力しなきゃいけない」とか「努力では乗り越えられない」とか「感謝しようと思ったけれどもできない」とかいろいろと思ってきた。その、私たちの努力しようとしている姿、また、私たちの至らなさを、神様は、人類の歴史の集約した姿として、例外なく全部受け取ってくださって、救いの御用のために私たちを使ってきてくださっていたんです、今までも。
 でも、これからは、自分の意志で救いの御用にお使いいただく。その違いがあるわけです。
 だってじゃあ、私たちは、これからも、自分を救われる側に置いて、救われなければいけない存在としての自分を表現していくのか、それとも、勇気を持って、自分は天国に上がって、これからの時間を神様と一つとなって救いの御用にお使いいただくのか。
 持つ、感じる思いは今までと同じかもしれませんよ。でもそれを、「あっ、自分はこれを救いに来たんだな」と思って神様と共に歩むのか歩まないのか。これを決めなきゃいけない。
 でも私たちには、こういう話そのものがよく分からないかもしれない。もし私が今日、「どんなことがあっても、とにかくいろんなことに感謝させていただきましょう」と言ったら、「そのお話よく分かった!」となると思うんですよ。「平等にいろんな人を愛していきましょう」と言ったら、「その話はよく分かる!」となると思うんですよ。なぜそうなるかというと、それは、私たちの中に、明主様のおっしゃる、先祖代々から続く「棒」というものがあって、その棒に沿った話だと「よく分かる!」となりますのでね。
 でも、私たちは、この新しい信仰というのは今まで聞いたことがないわけです。だって明主様は、誰もやったことのないをされようとしていらしたわけですから。
 というように、本当は簡単に分かりようがないんですけれども、今私たちは、教主様によって、本当の信仰を知る道に至っている。
 実は、本当は簡単なことなんですけれども、慣れていないから、難しく感じちゃうんですね。
 だけど、複雑に考えるんじゃなくて、例えば、今日もたくさんお供え物をしていますでしょ、神様のみ前に。どれも非常にきれいですよね。これは、形の上では、神様に対して人間として最高のものをお出ししているわけです。鯛も一番きれいな鯛。果物も傷のない果物。最高のものを神様にお出しして、誠を示しているわけですね。
 でも、私たちの心はそうではなくて──これは何でしょうね?(ご神前に振り向かれお供え物をご覧になりながら)この、ネクタリンみたいな、これ。あるいは、この梨でもいいですけれども──これをね、私たちは、「自分は感謝できるすばらしい人間になりました」と言って、神様に対してピカピカの梨をお見せしようとしていたんですね、今までは。
 「神様、このすばらしいネクタリンいかがですか?私いっぱい努力しました」と言って右手を差し出す。でも、自分の反対の左手は背中のほうにあって、神様に見てほしくない腐った鯛、腐ったネクタリン、傷のついた梨をたくさん抱えているんですよ。そうしながらきれいなものだけを神様にお見せしている。そんな私たちに対して神様は、「その後ろに持っているものを出しなさい」「何隠しているんだ」とおっしゃっている、そういうことなんです。
 だから、もちろん、形の上ではきれいにさせていただくべきですけれども、でも、私たちの心の中では、ありとあらゆるものを三宝にお載せして、そして、ありのままの自分を神様にお捧げすればいいんですね。それは、神様は本当に喜ばれると思いますよ。「それこそが私の収穫したかったものだ」とおっしゃってくださる。
 だから私は、教主様は、神様のそういう愛を、この17年間、いろんな方法で私たちに伝えようとしてくださっていたのじゃないのかなと思うんですね。「神様の子供となる」ということも、親に隠し事をしていたら、本当の意味でその親の子供になれないじゃないですか。ありのままの自分でお父さんに抱きつきなさい、そういうことなんですよ。それが「新しく生まれる」ということですよ。それを私たちは難しく考えちゃってるんですね。
 でも、難しく考えてしまうのではなくて、教主様は、母と一体となって、私たちを本当の喜びの道におうとしてくださっているんですから、私たちの心の中にどんな思いがあったとしても恥じることはないんです。ありのまま、すべてを神様にお捧げする、そうさせていただければ、きっと、教主様はお喜びくださると思いますよ。
 だって教主様は、この17年間、18年間、一生懸命私たちの心を解放しようとしてくださってきた。私たちはずっと牢獄に生きていたんです、本当はね。戒律という牢獄。教主様は、その牢獄の鍵を開けに来てくださって、「もう出てきなさい」「いつまで罪人のようにしているんだ」とおっしゃってくださっている。
 だから、ありのままを神様にお捧げさせていただければ、教主様もお喜びになるし、教主様がお喜びになれば、教主様は明主様の聖業を継承していらっしゃるわけですから、明主様もお喜びになるし、明主様がお喜びになれば、神様もお喜びになる。
 で、神様がお喜びになれば、神様は私たち一人ひとりの中にいらっしゃるわけですから、私たちが今まで感じたことのない喜び、幸せを、私たちの内に必ず沸々と感じることができるようになるんです。そして、今まで本当にがんじがらめのような人生だったんですけれども、神様はそれを解放してくださって、私たちの人生を大きくいてくださる、というすばらしい時が来るんですね。その時が目の前に待っている。
 だから、「自分はこの先もう短いからいいです」ということではなくて、「選ぶがままのこの世なりける」とありましたけれども、じゃあこの選択は、地上を去ったらもうしなくていいのかと言ったら、そうではないんですよ。選択をしなければ、亡くなって地上を去ったあとも、神様からは「お前はどっちにするんだ」とかれ続けるんです。だから、もう今日決めちゃったほうがいいんですよ、これは。神様に、「どっちにするんだ」と毎日訊かれたくないですよね?
 地獄で苦しんでいる人たちを救うために生きたほうがいいですよ、絶対。それは神様もお喜びになるし、人類のためにもなるんですから。
 だからその道を、今日から、勇気を持って、共に歩ませていただきましょう。
 ありがとうございました。