明主様は、新しい世界が到来することをお示しになりました。
新しい世界には、新しい信仰があります。
であるならば、「古い信仰」とはなんなのでしょうか?
何が「古い」かを分からずして、何が「新しい」かは分かり得ません。
明主様は、次のように仰せです。
“人間はこういう気持をもて”とか“こういう行いをしなければいけない”と言うが、そういう道理を説いて心を良くするという事であっては、本当は宗教より下のものです。つまり道徳です。
「御講話」昭和28年2月15日
また、次のようにも仰せです。
大体宗教というのは宗祖の教えです。人間はよい事をする、悪い事をしてはいかん、親に孝行を尽くすもの、粗末にしてはいけないという、一つの道徳です。しかしただそれではいけないのです。
「御講話」昭和28年7月27日
明主様は、「こういう思いを持ちなさい」とか、「こういうことを実践しなさい」とか、「善い行いをしなさい」というようなことは、ご自分がされたいことではないと仰せです。明主様は、それらはただの道徳であり、宗教より下のものだと仰せなのです。そして明主様は、道徳ではなく、宗教をされたかったのです。
私たちは、長年、「何ごとにも感謝しなさい」「感謝の気持ちを持つことは大切だ」とか、「こういうことを実践しなさい」「実践は大切だ」とか、「利他愛の実践をしなさい」「善い行いをしなさい」と言ってきたのではないでしょうか?違いますか?
そして、長年、明主様が願っておられ、また、私たちにみ教えくださっていることは、このようなことだと思い込んできたのではないですか?
しかし明主様は、はっきりと、これらのことはただの道徳であり、ご自分の望んでおられることではないと仰せです。
明主様は、次のようにも仰せです。
人間は神を認めて、神様が見通しだという事を知ればそれでよいのです。他の事は別に必要ないです。それが、ややこしい、“ああしろ、こうしろ”と言っているだけでは何んにもならないです。肝腎な「神が有る」という事を唱える人は本当にないのです。
「御講話」昭和29年2月27日
これが明主様のおっしゃったことです。ぐうの音も出ないのではないでしょうか。
それに引き替え、私たちは、ずっと、「実践、実践」「感謝、感謝」と言ってきたのではないでしょうか。
しかし、なぜ私たちは、明主様がおっしゃっていることを真正面から受けとめてこなかったのでしょうか?
このような聖言がずっと私たちの眼前にあったにもかかわらず、なぜ私たちはそれを今日まで無視し続けてきたのでしょうか?
答えは明白です。それは、私たちは、神様に心を向けるよりも、この人間の世界を重視してきたからです。そして、他よりも優ったものとなりたかったからです。
「私はこの実践をしているので、あの人よりはましだ」「私は思いやりがあるので、あの人よりはましだ」「私は、あの人よりは神様に真摯にお仕えしている」。
私たちは、どれだけ信仰実践をしているか、どれだけ利他愛があるかということに価値を置き、それによって結果的に他の人と競い合い、「あの人は、あれだけ真面目に信仰実践をしているので、神様、明主様の御心に適う生き方をしている」とか、「あの人は利他愛に満ちあふれ、何ごとにも感謝しているので、明主様のみ心に適っている」というようなことを言ってきたのではないでしょうか。
しかし、神様や明主様、また、周りの方々に、自分がいかに善い人間であるかを証明してみたところで、一体どんな意味があるというのでしょうか。
明主様は、私たちは神という存在を認め、そして、神様がすべてお見通しであることを知りなさい、ただそれだけでよいのだと仰せです。
皆様、神様はすべてご存じなのです。
私たちが心の奥底で何を感じ、思っているか、すべてご存じなのです。
私たちが、周りの方々や神様から隠したいと思っている醜い思いすらも、すべてご存じなのです。
神様に隠せるものなど何一つない。神様の光は、すでに私たちの心の奥底にまで到達し、あらゆる隠しごと、あらゆる秘密は、すでに神様に知られているのです。
だから、私は、「ギブアップしなさい」と言いたいのです。「神様のみ前に裸になりなさい」と言いたいのです。私たちは、神様に対し、これ以上演技をする必要はないのです。
そもそも、なぜ私たちはここにいるのですか?
私たちの使命は、苦しんでいる方々を救うことではないのですか?それが明主様が私たちにお伝えになりたかったことではないのですか?
では、その「苦しんでいる方々」とは誰のことなのでしょうか。
それは、私たちの中にいる次のような思いを持った方々です。「善い行いができないどころか、とんでもないことをしてしまった」「他人を愛するどころか、憎しみから赦されざることをしてしまった」「私は救いようのない存在です。善い行いも、利他愛の実践もできません。感謝の思いを持つことすらもできません」。
私たちが救わなければならないのは、まさにこのような思いなのです。
しかし、私たちは、一体何をしているというのでしょうか。私たちは、このような思い、姿が私たちの中にあるのを認めるどころか、私たちの生きる時間を、自分の向上のためだけに使っているのではないでしょうか。そして、自分の中に存在している醜い声、救いようのない姿を捨て去りたい、無視したいと思っているのではないでしょうか。
私たちは、自分の時間を、救いや私たちの中で苦しんでいる方々のためではなく、自分の向上のために使っているのではないでしょうか。なんという思い違いをしているのでしょうか。
明主様は、人を天国へ救うには、まず天国に上がりなさいと仰せになりました。しかし私たちは、それはせず、「天国人になるためにはこの実践をしなければいけない」とか、「天国に迎え入れていただくためには善い行いをたくさんしなければいけない」とか、「少なくとも、善い行いをするよう努めなければならない」というようなことをいまだに言っている。
努めること自体は悪いことではないでしょう。しかし、では、私たちは、一体いつになったら自分が罪人であることを認め、悔い改め、天国に帰るのでしょうか?私たちは、「よりよくなるために努める」と言うことにより、単純に、神様からの赦しを受け、天国に帰る時期を後ろにずらしているに過ぎないのです、明主様が、まず、天国に上がらなければならないと仰せになったにもかかわらず。
それとも、皆様の中で、「私は罪を犯したことは一度もない」「すべての人を、平等に、一切の差別なく愛してきた」「善い行いをするよう努めなかったことは一度もない」「私は常に何ごとにも感謝してきた」「他人のことを悪く言ったり、悪く思ったことは一度もない」と言える方が一人でもいらっしゃいますか?心底、言える方がいらっしゃいますか?
はっきり申し上げて、私は、そのような方は一人もいないと思います。それにもかかわらず、私たちは、「努めなければならない」と言っているのです。いかに努力をしようとも絶対にそのような存在にはなれないにもかかわらず、私たちは、「努めなければならない」と言っているのです。なんという偽善に満ちた姿なのでしょうか。
私たちは、神様に対し、善い行いなど一切できないことを認め、悔い改め、神様の赦しを、今、お受けしなければならないのです。
パウロも聖書において、次のように語っています。「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである」(「エペソ人への手紙」第2章8~9節)
ああ私たちは、努力をしていることにより自分が他人よりも優ったものであるとの錯覚に陥らないよう注意しようではありませんか。「行い」を誇ることのないように注意しようではありませんか。それとも、私たちには「行い」をする能力、力があるとでも言うのでしょうか。神の助けなくして、「感謝の心」を持てるとでも言うのでしょうか。
もはや、全世界、全人類を救う時が来たのです。
その、救われるべき方たちはどこにいるのでしょうか。それは、私たち一人ひとりの中です。今日まで、自分とは無関係のものとしておきたかった、私たちの中にある救いようのない思い、それを私たちは救いに来たのです。
新しい信仰と共に、新しい世界は、すでに到来したのです。
行いと人間の努力に象徴される古い信仰に逆戻りしてはなりません。神様の利他愛を人間の利他愛とし、あたかも人間には利他愛を実践する力があると錯覚してはなりません。
そうではなく、むしろ、私たちは、すでに救われ、新しい世界に導き入れられたことを認めねばならないのです。
そして、今日まで無視してきた、私たちの中に確かに存在する声なき声に救いをもたらそうではありませんか。
これこそが、明主様が、そして今教主様が私たちにお知らせくださっている、新しい信仰なのです。