PDF: 秋季大祭_真明様ご挨拶

 

於:ホテルニューオータニ大阪(鳳凰)

 

皆様、こんにちは。
 今の「浄霊のその先へ」というビデオを拝見しまして、一つの言葉が私の脳裏に浮かびました。それは、「明主様を捨てる」という言葉です。
 私たちは、自分は明主様の信徒である、と思っておりますけれども、無意識に、あるいは意識的に、明主様を捨ててるということもあるんじゃないかと、ビデオを見ながらそんなことを思いました。
 ビデオにおいては、終戦のあと、信教の自由が日本国民にも許されて、その時明主様は、日本観音教団という宗教団体を立ち上げられた(195024日には世界メシア教に改名される)、とありましたね。
 その前、明主様は、「岡田式浄化療法」とか「日本浄化療法」という、宗教色を消した浄化療法というものをされていた。だから、明主様が日本観音教団を立ち上げられた時、「なんだ、宗教だったのか」ということで、多くの人が明主様のもとから離れた。
 このことは、ご存じの方もたくさんいらっしゃると思います。というのは、この辺りのことは、世界救世教発刊の明主様の伝記本である『東方之光』に詳しく書かれております。
 宗教団体が立ち上がった時、明主様のもとから離れた方々というのは、これは、いわば、直接的に明主様を捨てた方々ですね。宗教ではないと思っていたのに、宗教ということで進んでいくんだとしたら、考え方が相容れないわけですから、当然のことですね。
 しかし、これは、見方によってはいと言えると思います。方向性が違うからこの人のもとでは歩めないとして、潔く明主様のもとから去った。
 だけど、今のビデオにあったように、もっとずるいと言いますか、たちの悪いと言いますか、そういう方々が、当時いたわけですね。
 それは、明主様のもとにまりつつ、明主様の名前を利用しながら、「浄化療法」という、明主様が廃止されたことをしている方たちがいた。
 明主様へのお伺いにも、以前の浄化療法式で人を導いている会があって、その人たちは浄化がひどい時ほど浄化療法をしないといけないと言っている、これについてはいかがですか?というお伺い。それに対して明主様は、「逆である。浄化のひどい程浄霊する」とおっしゃった。
 また別のお伺いにおいては、ご浄霊する時、患部をする時はを用いず、浄霊のみですることは承知しているけれども、患部以外のところとか、あるいは疲労している人に対しては、体を用いてもいいですか?浄化療法みたいなことをしてもいいでしょうか?しかも、実は、そういうふうにしている人がたくさんいるんです、ですので、失礼とは存じながらお伺い申し上げます、というお伺い。
 それに対し明主様は、「こりゃあ、違いますよ」、それは「大変な間違い」だとはっきり仰せになった。
 ということは、のどの部分に対しても──患部であっても、患部でなくても──を使った浄化療法をしてはだめだ、ということです。何があろうと、体を用いる浄化療法をするのは、明主様からしたら「逆である」ということですね。明主様が願っておられる方向性とは「逆である」と、そう明主様は仰せなわけです。そして、「浄化療法」は、「大変な間違い」だと仰せになった。ということは、浄化療法のようなことを隠れてしている方たちに対して、明主様はっておられた。憤っておられたから、あのようにはっきりとおっしゃったのだと思います。
 でも、残念なことに、というか、驚くことに、2021年の今日の時点でも、明主様の名を語りながら、明主様が廃止された「岡田式浄化療法」をしている方たちがいる。これは驚くべきことですね。そして、それは誰かと言うと、皆様もご存じだとは思いますけれども、それは、「MOA・東方之光グループ」である。この方たちは、あろうことか、今も、「岡田式浄化療法」ということで活動をしている。
 しかし、もっと驚くことは、この、明主様が「大変な間違い」だとおっしゃった「岡田式浄化療法」を今もしている方たちが、なんと、教主様に対して、教主は教義違反をしたので世界救世教から追放したと主張している、ということ。これは本当に驚くべきことですね。
 というのは、明主様の聖言をほんの少しでも実際に読めば、ご事蹟をほんの少しでも実際にたどれば、「浄化療法」をいまだにしていることは明らかな教義違反であることは誰にでも分かることですね。教義違反というか、教義無視とでも言うのでしょうか。簡単に言えば、教義の逆をっている、ということですね。
 その方たちが、教主様に対して、教主は教義違反である、と言っている。
 私からすれば、いまだに浄化療法をしている方たちが教義の何を分かるんだと、そう思いますね。明主様が、70年以上も前にはっきり取りやめられたことをいまだにしている方たちが、明主様の教義の何を知っているんだと、そう思いますね。
 そういう方たちとしては、自分たちは教主様を捨てた、と思っていますよね。しかし、皆様ご存じのように、世界救世教にとって「教主様」というのは、明主様の聖業を継承されるお立場ですね。明主様が、ご遺言によってご神業を二代様にお託しになって、そして、その後、三代様、現四代教主様へと、明主様はご自分の聖業を託してこられた。その教主様を捨てた、ということは、そういう方たちは、本当は、「明主様を捨てた」ということですね。
 では明主様のお立場からするとどうなるのか。それは、70年以上も前から、ご自分が廃止された浄化療法式で人を導いている会がご自分の教団の中にあって、明主様はそれに憤られていた。その方たちを追い出されたかった。でも、慈悲のお心によって大きな目で見てくださっていた。 
 だけど、その明主様の慈悲のお心すらも何十年も無視し続け、ついには、信仰者として、人として、あるまじき行為である尾行・盗聴・盗撮のようなことまでしてしまった。ということでついに、明主様としては、はっきりしなければならないということで、いわば、そういう方たちとの綱を切られた、そういうことですね。
 つまり、そういう方たちから見たら、教主様を捨てたことにより、明主様を捨てたことになったわけですけれども、本来、教主様がいらっしゃるところが明主様がいらっしゃるところですから、明主様からしたら、そういう方たちを教主様から離れさせるという方法を取って、ご自分のもとから追放したと、そういうことですね。
 もちろんそれは、ただ「追い出す」ということではなく、悔い改めてほしい、という願いからであると思います。
 一方で私たちはどうなのか。私たちは、「自分たちは明主様に選ばれて、捨てられなかった」と誇れるのかというと、全然そんなことはないんですよ。
 だって、今のビデオにもありました、明主様の、ご浄霊は二の問題でこれから想念の世界だ、というこれ。これを一体私たちはどう受けとめてきたのだろうか。
 これは、側近奉仕者の方がうそを言っているんですか?そんなことはないと思いますよ。この明主様のご発言は、教団の機関誌である『地上天国』誌にも載って、想念でお祈りをすることによってやけどが治ってしまうというようなエピソードとかもいろいろと載っていますけれども、そういうことが全部うそであるとは思えませんよ。だから、あったんですよ、実際に。明主様は、本当に、ご浄霊は二の問題で、これから想念の世界である、ということをおっしゃったんですよ。
 「浄霊法る」の聖言がありますね。その時、明主様は、浄霊法が変わって、これからは絶対的力を抜くことについて、「今日以後通りに」してほしい、「迷わずせず、私のいう通りに」してほしいとおっしゃいましたね。
 こういうおっしゃり方をされたということは、反発とか抵抗している方々がいることを分かっていらしたからですよ。この聖言をご発表になった、19501227日、その日以降は新しい方向で進んでほしい、迷わず臆せずそうしてほしいとおっしゃったということは、迷ったり、臆している方がいることをご存じだったからですよ。
 しかし明主様はここで止まられたわけではない。それから34年ほど経って、脳溢血のご浄化をお受けになった時に、おっしゃるわけですよ、明主様は。「これから想念の世界である。御浄霊は二の問題」だとおっしゃるわけですよ。
 これも、明主様としては、「浄霊法変る」と同じことですよ。今日以降その通りにしてほしい、迷わず臆せず私の言う通りにしてほしいというお気持ちでいらしたと思いますよ。
 そうすると私たちは、「いや、私はそのことを知らなかった。聞いてなかった」と言いたい思いもありますね。だけど、じゃあこの聖言を知った日以降、私たちは一体どうしていたんだろうか。
 私は、いまだに浄化療法をしている方々は、きっと、その活動を正当化するために、「こういう明主様の聖言もある」「こういうご事蹟もある」と言っていると思うんですね。
 だから、そういうようなことを私たちもしてたんじゃないか、しているんじゃないかと、そう思うんですね。「こういう明主様の聖言もある」「こういう御教えもある」と言って、それで、浄化が苦しいと、明主様が想念の大切さについて説かれたことが分かっていても、思わず手を掲げて浄霊をしている。
 だから、先程引用させていただいたお伺いと似てますよ。以前の浄化療法式で人を導いている会があって、浄化がひどい時には浄化療法でやっている。それに対して明主様は「逆である」とおっしゃった。浄化のひどい時ほど、浄化療法ではなくて浄霊をしなさいとおっしゃった。
 今の私たちも、「想念、想念」と言っていても、浄化がひどい時には浄霊、となってしまっているのではないですか?そうだとしたら、明主様は、私たちに対して、「逆である。浄化のひどい時ほど想念だ」と絶対におっしゃると思いますよ、私は。
 メシア教においては浄霊は3分ということになっておりますけれども、これは、その3分の間に一生懸命浄霊をしなさい、ということではなくて、ご浄霊は二の問題でこれからは想念の世界であるとおっしゃった明主様のみ心に少しは目覚めなさい、気づきなさい、という意味で、そのように浄霊の時間を短くしているのではないですか?
 でも、この、明主様の想念の話をしていると、「いや、そうは言っても、あなたは資格三条件のことを知らないのか」というふうに絶対なるんですね。
 それは、明主様がご昇天になる2か月ほど前に、明主様は、水晶殿において、今後の教団の組織を考える上で、最もご浄霊のれた人、これが一番。二番目が人を多く導いた人、三番目が奉仕をいっぱいした人──ご献金のことだと思いますけども──それをみて教団の組織を考えなさいということをおっしゃった、ということを、明主様の秘書と言うんでしょうか、執事の方が言われた、明主様からの伝言として。
 この水晶殿でのことがあるので、明主様が「御浄霊は二の問題」で「これから想念の世界である」ということをおっしゃったあとにこの資格三条件のことをおっしゃったんだから、最終的には想念ではなくて浄霊なんだ、と主張したい人たちがいる、ということですね。
 だから、何でそうなってしまうんですか?
 明主様が、最もご浄霊の優れた人とおっしゃったことは、全然、「御浄霊は二の問題」で「これから想念の世界である」とおっしゃったことを打ち消しはしないですよ。でも私たちは、あたかもそれが打ち消されたかのようにしてますよ。明主様は想念のことも確かにおっしゃったけれども、最終的にはご浄霊で終わったんだ、だから、想念ではなく浄霊なんだ、というふうにして、簡単に、この「御浄霊は二の問題」という聖言を闇にってますよ、私たちは。
 だから、そうではなくて、「御浄霊は二の問題」で「これから想念の世界である」とおっしゃった明主様がおっしゃる、「最もご浄霊の優れた人」とはどういうことなんだろうかと考えるところに、私たち信徒の明主様に対する誠があるんじゃないんですか?それなのに、私たちは、自分たちにとって都合の良いほうばかりを取ってるんです。明主様に申し訳ないですよ、本当に。
 「本教救いの特異性」の、天国にまず上がるということも、明主様は、まず、天国に上がりなさいとおっしゃっているのに、私たちは、それを横に置いて、霊層界についての御教えだけしか取り上げないで、霊の曇りを軽くして少しずつ上に上がって行くということばっかりを言ってますよ。
 でも、明主様は、まず天国に上がりなさい、それが、「ゆる宗教とる点で、それはろ反対でさえある」とおっしゃる。ということは、あらゆる宗教のやり方は何なのか。それは、一歩一歩、天国にるというやり方ですよ。
 でも私たちは、霊層界に関しての聖言ばかりを取り上げて、徳を積まなきゃいけない、良いことをしなきゃいけないと言って、その180段の霊層を、自分の努力で少しずつ上がっていくことばかりを考えている。
 これは、教団からすれば便利だと思いますよ。信徒に対して、「献金しなさい、これしなさい、あれしなさい。そうすれば霊層界が上がりますよ」と言える。だって、まず天国に上がりなさいと言われてしまったら、もう何もできないじゃないですか、私たちは、教団は。終わりですよ、それで。
 でも本当は、その両方の御教えをされた明主様のみ心は何だろう、と求めるところに私たちの明主様に対する真摯な向き合い方がある。そうではないですか?

それで、「明主様を捨てる」という話になると、どうしても避けられないことがありますね。それが、教主様に反対する方々が実行・容認している「尾行・盗聴・盗撮」、これですね。
 というのは、尾行・盗聴・盗撮ということを実行することはもはや論外ですけれども、そのような行為を認めてしまったら、それはもう、明主様を捨てたという宣言をしたのと同じことですよ。
 で、尾行みたいなことをして何が分かったか。それは、教主様にはキリスト教の友人がいらして聖書の勉強をされてる、それが分かった、ということですね。
 いや、それはね、それこそ、もし教主様が、浄化療法に関連するような、統合医療とか代替医療に関わっているような人たちと頻繁にお会いになっていたら、それは問題ですよ、明らかに。
 だって、明主様が完全に取りやめられたものについて、いまだにそういうことを推進されようとして、そういう人たちと会われて、話されていたら、それは問題ですよ。
 あるいは、教主様が、もし、ご浄霊をされている時に、相手のを触って、を用いてご浄霊をされているということが判明したら、それは問題ですよ。明主様が「絶対的力」を抜きなさいとおっしゃっているのにいまだにそれをしている。それは問題ですよ、確かに。
 でも、キリスト教ですよ、キリスト教。明主様は、キリスト教について何とおっしゃっているんですか?
 それは皆様もよくご存じだと思いますけども、明主様はメシア教を開教された時、メシア教は「キリスト教と呼応」して人類救済を進めるとおっしゃった。「メシア教は余程キリスト教に近くなる」とおっしゃった。世界平和は実現可能ですか、という問いに対しては、「絶対可能」だ、西洋のキリストと東洋のメシア、この二大勢力の全信徒が、東西相呼応して全力で戦うなら、必ず実現するとおっしゃった。その、キリスト教の人たちと会うことの何が問題なのか。
 インターネットとかでは、いまだに、教主様や母が、尾行・盗聴・盗撮された時の映像とかを公開している人たちがいますね。
 私は、可能であれば、メシア教の広報部の方たちに、その、教主様がキリスト教のことを学んでおられる時間を、「教主様の休日の密着取材」ということできちんと取材して、公開したらどうだろうかと思うんですね。
 そしたらね、母もちゃんと着飾りますよ、もっと。休日で気楽に出かけていたところを、隠れて、知らない間に撮られて、「撮られることを知ってたらもっと化粧したのに」とかね、「キリスト教のお友達と会っていることはいいんだけど、あの格好の時だけはやめてほしかった」とか、あるかもしれないですよ(一同笑声)。
 しかし、母も、気丈にしているようですけれども、当時、教主様が、尾行・盗聴・盗撮によって引き起こされた妻の心の状態、ストレスを案じている、というお気持ちを表明されたんですね。
 そしたら、当時の──今もだと思いますけれども──MOAの理事長とか数名が、連名で教主様に文書を送り付けてきたんですね。
 その内容は、「隠し立て不要の今回のことで、奥様が傷つかれることはないと思われます」と書かれていた。そして、「教主様が奥様の心の傷を気遣われるのであれば、奥様同様に、或いは、それ以上に、気遣うべき人たちがいるのではないかということです。その事を忘れたかのように、奥様の心の傷のみを全信徒に訴えることは、許されないことと思います。今回を機に、善処されることを心より願っております」と、そう書かれていた。
もう唖然とするような内容ですね。
教主様、あなたは奥様のことを案じることなど許されないのだ。あなたには気遣うべき人たちがいるんだ、というのは、あちらとしては、きっと、教主様が教義違反をしていることにより苦しんでいる人たち、ということでしょうけれども、これを、いまだに「岡田式浄化療法」をしている人たちが言っている。そして、今回を機に、ということは、尾行・盗聴・盗撮を機に、ということですけれども、今回を機に善処しなさいと、そういう内容です。
いや、隠し立て不要なら盗聴・盗撮されても心に傷は負わないだろうって、私たちは、家で生活をしているのは、別に隠すことではないですよね。でもじゃあそれを盗聴して盗撮されたら、それは、ストレスですよ。
 これは、本当に同じ明主様の信徒の言動なんだろうかと、唖然とするような話ですよ、本当に。
 だけど、詰まるところ、これらのことは他人事なんですか?ということなんです、私が言いたいのは。これらのことをしているのは、ずっと一緒に信仰をしてきた私たちの仲間ですよ。尾行・盗聴・盗撮とか、今の文書にあるような姿、これは他人事なんですか?
 他人事ではないんです、これは。
 もし、他人事だということでただ批判するだけだったらですよ、私が、皆さんが大切な時間を使ってわざわざここに来てくださったのに、話すようなことではないですよ。
 でも私は、私たちの仲間がしたことは、私たちの信仰に関係があると思うから、このことについて何度も話さざるを得ない、そういうことなんですね。
 例えば、キリスト教で言えば、キリスト教で一番大きな罪は何ですかというと、それは、「原罪」と言って、アダムとエバが、神様から「絶対取ってはだめですよ」と言われていた木の実を、神様の目を盗んで食べてしまった。それによって人類に罪が入り込んできた。だから、イエスのいを受けなければいけないとなっているわけですね。
 でも、普通のキリスト教徒は、別にその木の実を自分で取って食べたわけではないですよ。アダムとエバが、ずっと昔にそれをした。ということは、もう他人事も他人事ですよ。でも、彼らはそれを自分たちのことだと思って神様に赦しをうている。
 私たちの場合はどうか。私たちの場合は、私たちの仲間が、教主様の目を盗んで、絶対してはならないような行為をし、自分たちにとって都合の良いものを撮った。だから、キリスト教の原罪とちょっと似てますよ。アダムとエバは、神様の目を盗んで、神様から絶対だめだと言われていたのに、その木の実を取った。
 キリスト教徒の方々は、アダムとエバのことを他人事とせずに、そのことを直視して、そして罪の赦しを乞うている。直視することにより、神様は善悪をきっちりと裁かれる厳しいご存在なんだ、ということで思い上がらないようになると思うんですね。
 だから私たちも、尾行・盗聴・盗撮とか、あのような文書を作成する姿を他人事としてしまうのではなくて、やっぱり自分のことだと思うならば、やはりどうしても罪の赦しを受けないといけないと、そうなるのではないですか?
 だから、私は、キリスト教にとっては、その木の実を取って食べたのが原罪だとしたら、私は、救世教とか明主様信仰につながる人の原罪は、尾行・盗聴・盗撮をしてしまったことだと、そう思います。
 でも、キリスト教徒の方々にとっては、その木の実を取ったことについて向き合うことは、ある意味では喜びなんです。だって、そこから赦されたことを知ったということでもありますから。
 だから、尾行・盗聴・盗撮のことも、そこに向き合うというのは、そういう姿を赦していただいたんだという、恵みの象徴でもあると思いますよ、私は。
 そして、こういう姿というのは、教団浄化のおかげで現れたんです。それまでは、みんなで仲良くしよう、みんなで仲良くしようと言ってね、こういう姿が出ないようにしていたわけです。でも、それが、教団浄化のおかげで、いわば対立の状況が生まれたおかげで、そういう姿を明主様によってはっきりと見せていただけた。これはありがたいことだと思います。
 では、「人の姿は自分の姿」だからといって、はっきりと意思表示しなくていいのかというと、そうではなくて、やはり、「自分はそういう歩みはしません」「そういう人たちからは決別します」という決断はしないといけないと思うんですね。また、そのようにはっきり意思表示された皆様が、今日、ここにいらっしゃるんだと、そう思います。
 そうでないと、では、あちらの方々の仲間として明主様のみもとに行った時どうなるか。明主様は、「どうだったか」と聞かれると思うんですね。その時に、「実は教団は大変なことになりました。でも、問題だった教主を『調査』という名目で尾行・盗聴・盗撮して、なんとか追い出しました。聖地も死守しました。裁判もやりましたけれども、法的にもまったく問題ありませんでした。岡田式浄化療法を一生懸命させていただいています」と明主様にお伝えして、明主様が「よかったね」「すばらしいね」とおっしゃりますか?おっしゃるはずないじゃないですか。明主様は、「そんな話は聞きたくない」「私の前から出ていきなさい」とおっしゃいますよ、それは。

聖地ということで言えば、今日の聖言、「本教救いの特異性」でも、聖地のことが出ていましたね。
 明主様は、「之等によってみても、神意は地上天国建設の第一歩として」──第一歩ですよ、第一歩──「神意は地上天国建設の第一歩として、その模型を造られるという事があまりに明かである」。ここ、「模型」とおっしゃっていますよ、模型。そして次のおっしゃり方。「ら、模型ばかりではない、人間、個人が天国人とならなければならない。否、なりる時期が来ているのである」。こうなってますね。
 私たちは今、「聖地、聖地」と言っていますけれども、明主様は、聖言の中で、ほとんど、「模型」とおっしゃっていますよ。聖地とはほとんどおっしゃっていないですよ。少しだけです。あとは、型とかも少しだけおっしゃってますね。でも、ほとんど、模型とおっしゃってる。
 「聖地」というのは利用しやすい言葉ですよ、解釈の余地が大きい言葉ですから。明主様は「模型」とおっしゃっているのに、私たちは簡単に「聖地中心」と言ってますけどね。だって、「模型中心」という言葉は、少し言いにくそうですよね。「模型を中心にするのか」ということになってしまうのでね。
 でも、明主様は、「模型」とおっしゃったんですよ。この意味は大きいと思いますよ。というのは、「模型」ということを言うと、「じゃあ本体は何なのか」という問いが絶対に出てきますからね。
 で、その本体が何かというと、明主様は、この聖言ではっきりとそれを示していらっしゃいますよ。
 「然し乍ら、模型ばかりではない、人間、個人が天国人とならなければならない」。はっきり仰せですね。
 模型を造るのはいいけど、本当に天国にならなければならないのは何だったのか。いろんな外側の世界、場所が美しくなって天国になることが目的だと思っていたけれども、そうではなくて、本当は、人間、一人ひとりが天国人とならなければならない、それが天国となるべき本体である、そういうことですね。
 だから、模型を造るというのは、ただの一歩目だったんですよ。それを造られて、そして、人間一人ひとりの中にこそそういうすばらしい場所があるということに目覚めてほしかったんです、明主様は。
 だから、本当は、人間という存在が天国人じゃないか、美しい存在じゃないか。そこに私たちを導かれたかったんです、明主様は。
 では、私たちが模範とすべき天国人の存在とは誰かと言ったら、それは明主様しかいらっしゃらないじゃないですか。メシアとして新しくお生まれになった明主様。
 だから、明主様は、私たちの目指すべき天国人としての完成した姿を、もうご在世中に示してくださっていたんですよ。
 だから、それが、「大いなる二歩目」ですよ。大いなる二歩目。地上天国建設の第一歩は模型を造ること。でも、本当は、人間が「地上天国」という存在にならなければいけないという、その、大いなる二歩目を、明主様は私たちのために遺してくださっていたんです。
 それなのに私たちは、「人類救済、人類救済」と言ってね、その「人類」に自分を含めてきたんですか?自分のことより周りの人とか世界のことばかりを考えて、聖地中心だとか、聖地だ、聖地だと言ってね、一歩目のところでずっとまっていたじゃないですか。物質に捉われた姿となっていたじゃないですか、私たちは。
 でも、私たちも、その大いなる二歩目を歩む時が来たんです。だって、もし一歩目で歩みをめたとしたら、それこそあんなに心血を注がれて美しい場所を造られた明主様のご努力が無駄になるじゃないですか。
 明主様は、メシアとして新しくお生まれになったことにより、御身をもって、なぜあのような美しい場所を造られたのかを私たちにお示しになったんです。
 そして、「本教救いの特異性」の結論。それは、「釈尊の唱えた苦の娑婆の時機は最早終ったのである。此事真諦が判ったとしたら、その歓喜は人類の経験にない程絶大なものがあろう」。
 「苦の娑婆の時機」は終わったんです、もう。明主様は、霊界がどうとか、そういう中途半端な言い方をされてはいませんよ。「苦の娑婆」という、非常にこの的な表現をされていますよ。その「苦の娑婆の時機」はもう終わった。
 私たちは、教主様が、「もう昼の世界に入った」ということをおっしゃると、いや、明主様はそんなことはおっしゃっていないと思ったりしますけれども、明主様はおっしゃっていますよ、はっきりと。「苦の娑婆の時機」はもう終わったわけですから。
 そして、「此事の真諦が判ったとしたら」、真諦というのは、簡単に言えば、本当の意味とかそういう意味ですけれども、このことの本当の意味が分かったとしたら、その歓喜はすごいですよ、人類の経験にないほど絶大な歓喜ですよとおっしゃってる。
 その歓喜、私たちは味わっているんですか?全然味わってないじゃないですか。コロナになれば、「コロナ」だとか簡単に言って。なんですか、コロナは?
 世の中で起きるいろいろなことについても、明主様は、苦の娑婆の時機はもう終わったとおっしゃっているのに、私たちは、「まだまだ苦の娑婆の時機が続いているな」「コロナ大変だな」「これはひどいニュースだな」とか、ずーっと言っていますよ、今でも。
 だから、結局、明主様は、「此事の真諦が判ったとしたら」とおっしゃいましたけれども、分かってないんです、私たちは。分かってないままここまで来た。だって、歓喜していませんよ。人類の経験にないほど絶大な歓喜を味わってないじゃないですか、今。
 だけど、そのような本当の喜びを得られない私たちのために、明主様が、教主様をお使いになって、「此事の真諦」を今、私たちに教えてくださっているんじゃないんですか?
 だから、それは何かと言えば、それは、一見、世の中にはいろんなことがありますね。尾行・盗聴・盗撮もそうだし、その、毎日、いろんな事件がある。だから、それを、「人類はこれからどんどんひどい姿になっていってしまう。なんとかしなければ」という見方ではなくて、その姿そのもの、その姿そのものが、実は、神様が、私たちに対して、「あなた自身もこういう姿だったじゃないか。それを私は赦してあげたんだよ」というのを教えてくださるために、私たちはいろんなことを見聞きさせられている、経験させられていると、そういうことなんです。
 だから、罰を与えるどころではない。むしろ逆ですよ。「もう赦したよ」ということを教えてくださるために、いろんなことを身の回りに起こしてくださって、心にもいろんな思いを感じさせてくださっている。
 だから、このことのすごさに気づいたら、それは、歓喜だと思いますよ、本当はね。もはやすべて赦されて、天国への道は大きく開かれて、そして、先には希望しかないんだ、罰せられるということはないんだ、ということの重大性に気づけたとしたら、それは人類の経験にないほど絶大な歓喜だと思いますよ。
 だからといって、「赦されている」ということは大上段に掲げて言えることではないんですよ。下手をすると、自分のやりたい方向で何かを進めたい時に、「すべて赦されているんだ」「教主様はすべて赦されてるとおっしゃってるじゃないか」と言って、それを水戸黄門の印籠のようにして、そうしておいて、自分のやりたいやり方をそのまま継続するという姿もありますよ。
だけど本当は、もし、神様の赦しの大きさに気づいたら、それはもう、神様のみ前にひれ伏すしかないですよ。「自分は赦された存在です」とか、簡単に言えないですよ。「教主様は『赦す』とおっしゃってるからそのことは赦されているんですよ」とは言えないですよ、絶対。
 では、今言ったような道で自分の人生を歩もうと決心すればどうなるかと言うと、こういう思いが私たちの中に浮かんでくるんですね。それは、よく言う、「なかなか決心できないな」とか、「なかなかすべて赦されているとは思えないな」というそういう思いが湧いてくるんです。「あの人は決心しててすごいな」「自分はいつか分かるようになるのかな」「実感が無いからなかなか思えないな」とか、あるいは、「分かるようになりたいとも思わないな」というこういう思い、こういう思いを感じさせられるようになる。
 で、こういう思いは、実は、神様の愛を真っすぐ受けるのを微妙に避けてる姿なんですね。
 だけど私たちは、「なかなか思えないな」と思っていることが、実は神様の愛を避けている姿だとは思わないから、そこでまっているんです、今。
 でも、その思いは、実は、それをずっと放っておいて、そこにずっと留まっていたら、神様の愛からもっともっと離れていってひどいことになってしまう、というその元の思いみたいな思いだと思いますよ、私は。
 「なかなか思えないな」とか、「実感がなかなか無いな」とか、「なかなか自分は決心できないな」とか、「決心したと思ったけど、また揺らいできてしまったな」とか思ってる。でも、私たちは、「こういう思いそのものが、神様の愛を真正面から受けようとしない、救われなければならない姿なんだな」ということで、その時にこそ、その思いを神様にお捧げすればいいのに、それはしないで、そこでずっと足踏みしているんです。「なかなか思えない、なかなか思えない」「実感が無い、実感が無い」と言って、ずっと足踏みしている。

というように、本当に、私たちは明主様を捨ててきたような存在ではあったんですけれどもね、だけど、「浄霊のその先へ」のビデオにもあった、「御浄霊は二の問題」で、「これから想念の世界である」ということ、少なくとも、これは、今、お受けさせていただかなければいけないんじゃないですか?
 もう、「苦の娑婆の時機」は終わったんです。神様の愛のみ手が私たちの中にあるんです。
 で、こういうことを言うと、「想念、想念と言うと、誰も何もしなくなっちゃうじゃないか」と言いたい人がいますね。いや、そんなことはないですよ。
 もし天国が私たちの中にすでにあるということの本当の喜びを知ったら、その歓喜は人類の経験にないほど絶大なわけですから、私たちは喜びに満ちあふれて、その喜びは、人に伝わらざるを得ないですよ。場合によっては、そのことを誰かに伝えることも許されるかもしれない。
 そしてね、この、「人間の掲げている手は、実は、神様の愛のみ手だったんだ」というこのメッセージ。これは、もちろん、全人類や明主様の信徒に対して向けられていることは間違いないですよ。
 でも、それだけではなくて、私は、手かざし系と言うんでしょうか、手かざしの宗教をしている団体、たくさんありますね、世の中に。そういう方たちにも向けられているメッセージではないのかなと思います。
 だって、もしそうでないとしたら、ここの団体の手かざしはよく治ります、奇蹟があります、とか、ここは奇蹟が少ないです、いやうちのほうが奇蹟がいっぱいあります、ということで、こっちが奇蹟の本を出したら、あっちも奇蹟の本を出して、それで、どっちが力があるかということを競い合っていくんですか?もうそういう時代じゃないじゃないですか。
 確かに私たちは、最初、奇蹟によって神様の力を知りましたよね。それは間違いない。
 でも、そうやって奇蹟を通して神様の力を知ったということは、これからは、奇蹟が無い時も神様は働いていらっしゃることを知りなさい、そういうことですよ。
 そうでなければ、それは、うまくいってる人はいいですよ。でも、どん底の人には救いが無い、ということになってしまうじゃないですか。病気が治る人、治らない人。治った人にだけ神様が働いているんですか?
 よく、子供が産まれたら「赦された」という人がいますけれども、産まれなかった人は赦されなかったんですか?産まれないということも、そういう神様の赦しですよ。
 絶望のどん底であっても、なんにもなくても、誰の中にも本当は光は輝いているんです。それを知りなさいということですよ、もし奇蹟を見せていただいたんだとしたら。
 だから、私たちは、この救いの道を、本当に歩みたいのか歩みたくないのか。いや、もしね、浄化療法とか、あるいは手を掲げる浄霊ということで歩みたいなら、昔、日本浄化療法普及会を明主様が解散された時に辞めた方たちのように、潔く明主様のもとから去ればいいと思うんですよ、「これは私のやりたいことと違います」ということで。明主様を捨てて、自分で手かざしの創始者か何かになって、それで、手を掲げる浄霊をすればいいと思うんですよ。
 あるいは、ですよ、教主様のもと、明主様にどこまでもしがみついていくのか、どっちにするんですか?だって、こんなこと、私は、すごい恵みだと思いますよ。今までは、何か特別な時にしか神様は働いていらっしゃらないと思っていたのに、実は、常に働いていらして、私たちの中で私たちを常に見守ってくださっていて、救いが全然無いような状況の中でも、「私はここにいるよ」とおっしゃってくださっている。
 確かに今私たちはいろいろ抱えていますよ、現実的に。隣人関係とか、のこととか、いろんな問題を抱えている。でも、教主様のもと、明主様とご一緒にその神様を信じて歩めば、神様、明主様は必ずやそれを解決してくださって、より良い方向にしてくださって、そして、希望が全然無かったような状況も、希望があるように導いてくださるんです。それが神様のみ力じゃないですか。
 だから、私たちをね、本当の意味で落胆させるようなことは起きないんです、もう。絶対に愛の力によって導いてくださるんです、神様は。
 だから、その喜びの道を教主様のもと、共に歩んでまいりましょう。
 ありがとうございました。