〔明主様〕

仏陀は慈悲を説き諭した、因果の法則を示した、基督は愛と犠牲を、孔子は人倫の道を、モーゼは戒律をそれぞれ人類の為めに説いたことは尠からず役立って居るのは否定す可くもない。しかし是等各々が持つ特殊性は、人類向上の為めの一分野であったに過ぎなかった。何となれば其孰れもが、教理を立て戒律を造って居る。それはそれ自身が既に限度を示して居る。此の故に完全ではない、教の無い教、戒律の無い戒律、主義の無い主義でなければならない。即ち応対変通である。それこそ宇宙の運行と倶なる真理の具現である。之を卑近な例にとって見よう。人間の不正を矯める(1)に法律がある。此の法律は斯くす可からずの項目が何百何千もあるが、如何に努力するとも所期(2)の目的を達し得ないのである。それは法規の文字によって範囲と限度とを示して居るからである。不正な人間は此の限られたる法文以外に不正な手段を発見しようとするのが、何よりの実証である。法網粗(3)であった時代より、法網益々密になって、犯罪は減少しなければならない筈であるのに、事実は其反対の結果をさえ示すと云う皮肉は、私の説を裏書して居る。
 彼の釈尊の八万四千もある経文は、法網の密なる理と、全く等しいと、思うのである。
 此故に人間悪を絶対に匡正(4)する方法それは人間内面に在る魂の工作でなくては根本的ではない。その魂さえ浄化清澄であったなら、例えば法律の無い世界に住して居ても不正をやらないのは自明の理であるが、此状態の魂こそは、法規や道徳や戒律に何等束縛をされて居ないところの、実に自由無礙自主的活現であるからである。天地と共なる真理其儘の姿であるからである。是れ即ち観音心である。
「観音心と観音行」1936411

 

(1)矯める=曲がっているものをまっすぐにする。悪い性質や習慣を改める。
 (2)
所期=期待している事柄。
 (3)
法網=法律の網。「法網粗」は法律の網が粗い、つまり法制度が整っていないこと。
 (4)
匡正=欠点などを正しい状態に改め直すこと。

 

〔聖書〕

それでは、わたしたちは、なんと言おうか。律法は罪なのか。断じてそうではない。しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったであろう。すなわち、もし律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりなるものを知らなかったであろう。しかるに、罪は戒めによって機会を捕え、わたしの内に働いて、あらゆるむさぼりを起させた。すなわち、律法がなかったら、罪は死んでいるのである。わたしはかつては、律法なしに生きていたが、戒めが来るに及んで、罪は生き返り、わたしは死んだ。そして、いのちに導くべき戒めそのものが、かえってわたしを死に導いて行くことがわかった。なぜなら、罪は戒めによって機会を捕え、わたしを欺き、戒めによってわたしを殺したからである。このようなわけで、律法そのものは聖なるものであり、戒めも聖であって、正しく、かつ善なるものである。では、善なるものが、わたしにとって死となったのか。断じてそうではない。それはむしろ、罪の罪たることが現れるための、罪のしわざである。すなわち、罪は、戒めによって、はなはだしく悪性なものとなるために、善なるものによってわたしを死に至らせたのである。わたしたちは、律法は霊的なものであると知っている。しかし、わたしは肉につける者であって、罪の下に売られているのである。わたしは自分のしていることが、わからない。なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからである。もし、自分の欲しない事をしているとすれば、わたしは律法が良いものであることを承認していることになる。そこで、この事をしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている。もし、欲しないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。そこで、善をしようと欲しているわたしに、悪がはいり込んでいるという法則があるのを見る。すなわち、わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな。このようにして、わたし自身は、心では神の律法に仕えているが、肉では罪の律法に仕えているのである。
 こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである。
「ローマ人への手紙」第77節~第82

 

教会誌『グローリー』No. 21, 2021/10月号掲載
 出典:『口語訳聖書 1954/1955年改訳』(日本聖書協会)

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