PDF: 十一月度月次祭_真明様ご挨拶

「奇蹟、救い、命」

於:本部ご神前

 

皆様おはようございます。
 今日は思いがけず割と暖かくなりまして、これから私もそこそこ話しますので、もし暑ければ、上着とか脱いでいただいて、リラックスして聴いていただけたらなと思います。

 

今、参拝席に座りながら少し思っていたんですけれども、明主様ご昇天後、明主様につながる信徒全員が集まった場合、先達は誰がすべきなのか。
 それは、明主様ご昇天直後は、明主様がご遺言でを託された、明主様の奥様であられた二代様を先頭に参拝するというのが、当然、順序礼節にったあり方であり、二代様の後は明主様のお子様の三代様、三代様の後は、明主様のお孫様であられる現教主様のもとで参拝させていただくのが一番自然なことではないのかなと思います。
 みんなが集まった時、そこに明主様のお孫様がいらっしゃるのに、その方が先達をされないのはどう考えても不自然ですよね。
 というように、皆様は、そのような、秩序ある、順序礼節に適った歩みを選択されましたし、また、その秩序の中で、今、神様、明主様に真向かわれているわけですが、やはりそういうことをきちっとしておけば、いざという時には明主様に守っていただけるのではないのかなと、そういうことを思いながら、今、参拝しておりました。

 

というように私たちは、今日のように参拝をして宗教活動をしたり、あるいは、日々、家族のため、会社のため、誰かのため、あるいは自分の夢、目標の実現のため、一日一日を必死に生きておりますね。
 そのように、今いただいているを必死に生きている私たちにとって重要な問題がある。それは、「もし死んでしまったら一巻の終わりなのかどうか」ということ。こんなに一生懸命日々生きているのに、「もし死んでしまったら一巻の終わりなのかどうか」。これは重要な問題だと思いますよ。
 若い人は、「死」ということより、この世で自分の居場所をなんとか見つけなければいけないとか、なんとか独り立ちしなければいけない、ということで必死に生きていますので、あまり「死」ということを思わないでしょうけれども、でも場合によってはそれが突然やってくることもありますし、突然やってこなくても、必ず、誰にでも「死」はやってきますのでね、やはりこの問題は、老いも若きも必ず直面することですね。
 で、明主様の信徒である私たちは、「あなたは一生懸命この世で頑張って生きているけれども、死んだら一巻の終わりなんですか?」と聞かれた場合何と答えるのかというと、「いや、一巻の終わりではありません。なぜならば、明主様の御歌に、『尊きは人とふものなり生き変り死に変りつつ果てなの生命』とあります。ですので、人間は、生き変わり死に変わり、生まれ変わりながら、『果てなの生命』、果てない命、ということは永遠の命があり、この世で死んだとしても、数年後とか数十年後にまた地球に戻ってきて、そしてその時にまた死んだとしても同じことを繰り返します。それが永遠に続いていく永遠の命をいただいていますので、死んでも一巻の終わりではありません」と答えたいと、そう思う方もいらっしゃるかもしれません。
 というように、これで話を終えられるのかというと、実は、終えられない。なぜかというと、明主様がこの御歌をご発表になったのは『讃歌集』の改訂版においてですので、1951528日ということになりますね。それからほぼ丸3年経った195465日、明主様は、いわゆる「メシア降誕」の言葉をべられます。それは、その1か月半くらい前の419日に、明主様は脳溢血というご浄化を受けられるわけですが、それを通して明主様は、神様からの強いメッセージを感じられて、それを65日に宣べてくださった。
 もちろん、その10日後の1954615日には、九分通り出来上がったメシア会館において「メシア降誕仮祝典」が執り行われたわけなんですけれども、この時明主様は、事実上、ほぼ何も御言葉を宣べておられませんのでね、そうすると、65日に明主様がお話しになった内容は、脳溢血以降からご昇天までの間で、信徒に直接まとめて話された最後でもあることを考えると、明主様のすべての聖言の中でも最も大切な聖言なのではないか、「至聖言」なのではないかと、そう私は思わせていただいております。
 この65日には、当時お住まいだった碧雲荘に幹部をお集めになったわけですけれども、幹部と言っても500人ぐらいは来た。500人ですから、碧雲荘のお庭に、ぎっしりだったと思いますよ、そんな広いお庭ではないのでね。そして明主様は、礼服で来るようにと指示されたので、礼服を着られた方々500人がお庭にぎっしり、という光景ですね。当日は参拝券も配られたようですが、ということは、ご参拝だったということですね。新しくお生まれになった明主様のもとにご参拝に行く、そういうことだったわけですね。
 その状況で明主様の口から発せられること、これは、どう考えても重要なことですよ。で、その時に明主様が何とおっしゃったのかというと、第一声、「ずいぶん若くなってるよ私の方は」。この時71歳ですよ、明主様は。「ずいぶん若くなってるよ私の方は。メシア降誕と言ってね、メシアが生まれたわけです。言葉だけでなく事実がそうなんですよ。私も驚いたんです」。何に驚かれたのか。次、「生まれ変わるというんじゃないですね。新しく生まれるわけですね」。
 「私も驚いたんです」。何に?「生まれ変わるというんじゃないですね。新しく生まれるわけですね」。これに驚かれた。つまり、生まれ変わるのではない、ということに驚かれた。
 ずっと生まれ変わりを説いてこられた明主様ですよ。生まれ変わりによる永遠の命を説いてこられた明主様ですよ。それを、あっさり、「生まれ変わるというんじゃないですね」「新しく生まれるわけですね」と言われた。
 この「メシア降誕」の聖言、私たちは、昔、聞いたこともあったと思うんですね。また、専従者含めて偉い先生方はほとんど全員知ってたと思いますよ。でも、誰もが、これは神秘的なことで、明主様だけにとっての何か特別なことなんだ、ということで漠然と受けとめてきて、自分たちのことには何も置き換えずに今日まで来た。
 でも、この「メシア降誕」の御言葉は大変なことだと思いますよ。というのは、明主様は、それまでは、「生き変り死に変りつつ果てなの生命」ですから、生まれ変わりによる永遠の命をずっと説いてこられた。その明主様が、「生まれ変わるというんじゃないですね。新しく生まれるわけですね」とおっしゃった。
 新しくお生まれになった明主様は翌年ご昇天になりますけれども、当然、それで亡くなられたわけではない。そのまま生きておられると私たちは信じてますね。霊界から明主様は働かれている、ご経綸を進めていらっしゃると信じているから、私たちは信仰活動をしていますよね。もし、ああ、せっかく新しくお生まれになったのに、もう翌年には亡くなられてしまった、と思っていたら信仰活動をする意味ないですよね。ということは、明主様は、今、生まれ変わりではなくて、新しくお生まれになった中での永遠の命を生きていらっしゃる。
 当然、永遠の命は二つはないですよ。「生き変り死に変りつつ果てなの生命」というのも永遠の命だったわけですが、最終的には、「生まれ変わるというんじゃないですね。新しく生まれるわけですね」ということになった。つまり、「生まれ変わりではない永遠の命」という永遠の命を明主様は私たちにされた。それ以外ないですね。
 では、「メシアが生まれた」「新しく生まれるわけですね」の永遠の命は何かと言ったら、それは、「新しく生まれる」とおっしゃっているんですから、生んだ方がいますよ、絶対。「メシアが生まれた」んですから、メシアを生んだ方がいますよ、絶対。それは誰なのか。
 生まれ変わりで生まれる場合、誰もが肉親の両親から生まれますね。ある人から生まれて、また死んで、例えば100年後、この人から生まれた、というように肉親の両親から生まれますね。
 でも、明主様が新しくお生まれになった時、明主様の肉親の両親はもう、とうに亡くなってますよ。
 では、明主様が新しく生まれたとおっしゃった時、誰が明主様をお生みになったのかといったら、それは、神様しかいらっしゃらないじゃないですか。だってもう肉親の両親はいらっしゃらないんですから、霊の親である神様しかいらっしゃらないじゃないですか。
 ということは、「メシアが生まれた」とか「新しく生まれた」とおっしゃったことにより、明主様は、神様の子供であるメシアとして新しくお生まれになり、その永遠の命に生きる存在になられたと、そういうことですよ。これは否定できないですよ、絶対。「生まれた」とおっしゃってるんですから、絶対に誰かがお生みになってますよ。それは誰か。神様しかいらっしゃらないじゃないですか。
 明主様は、生まれ変わりによる永遠の命ではなくて、神様の子供となられて、その神様のもとにある永遠の命に生きられるご存在となった、そういうことですね。
 ということは、私たちが長年親しんできた、「生き変り死に変りつつ果てなの生命」という御歌で示されている、生まれ変わりによる永遠の命というのは、明主様にとってはもう終わったこと、過ぎ去ったことですよ。「生まれ変わるというんじゃないですね」とおっしゃっているわけですから。
 もちろん、「私も驚いたんです」とおっしゃるくらいですから、明主様も、生まれ変わりを信じておられたと思いますよ。そういう時代の影響を受けておられて、人間というのは、生き変わり死に変わりつつ永遠の命が続いていくんだなと思っていらしたと思いますよ。
 でも明主様は、脳溢血のご浄化により、神様から、「生まれ変わりじゃない」という言葉を賜って、それで、「生まれ変わるというんじゃないですね」とおっしゃった。ですので、「生まれ変わりが終わった」という明主様の方向性は、もうはっきりしておりますよ。
 ここで疑問になるのは、ではね、なぜ、私たちにとって極めて大切なメシア降誕の言葉において、明主様が、「生まれ変わるというんじゃないですね」とおっしゃり、生まれ変わりとは全然別の永遠の命の道、本当の命の道をお示しになっていらしたのに、私たちとか教団はそのもずっと生まれ変わりを説いてきたんだろうという、その疑問がありますね。
 だからそれは、ものすごく俗的な表現で言えば、生まれ変わりは、「超便利」ですよ。教団にとって、生まれ変わりという考え方は、「超便利」ですよ。
 教団としては、信徒を活動させたい、献金させたい。だから、「いっぱい献金したら次生まれてくる時には霊層界が上がっていい境遇に生まれてこられますよ」ということを言って、それで、「いや、そんなに献金できません」という信徒がいたら、「お金に執着してると大変ですよ。来世、貧乏になって生まれてきちゃいますよ」というようなことを言える。「参拝、浄霊、奉仕、お導き。ちゃんと活動しなさい。来世、いい境遇に生まれてきたいでしょ?」と言える。
 いや、これは便利ですよ、教団にとって。信徒を自分たちの願い通りに動かしたい教団からしたら、超便利ですよ。信徒もそれを聞いて、そうなんだ、大変だ、来世、変な境遇に生まれてきたくないな、となってしまう。
 これこそ、明主様のおっしゃる「信仰地獄」ですね。一体いくら献金したら来世のちゃんとした境遇が保証されるのか。教団も、「これぐらいの額」とはっきり言ってくれたらいいのにね(笑声)、それは言わない。
 というように、生まれ変わりというのは、結局、教団にとってあまりに便利だった。
 だから、教主様が、「明主様は、生まれ変わるというんじゃないですねとおっしゃっている。だから、明主様の信徒の使命は、実は、生まれ変わりではなくて、神様の永遠の命に生きることじゃないか」とおっしゃったら、一部の方々は、教主様は生まれ変わりを否定することにより、明主様を否定している、教主様は教義違反だと言い出した。不思議ですね。ということは、その方々は、「明主様が教義違反をしている」と言いたいのでしょうか。
 だって「生まれ変わるというんじゃないですね」とおっしゃったのは明主様ですよ。教主様を教義違反だと言うなら、明主様が教義違反だということになってしまいますよ。
 またもちろんね、生まれ変わりというのは、教団にとっても便利ではありましたけれども、私たち人間にとっても同じことですよ。自分はこれだけのことをしてる、の人より献金いっぱいしてる、お導きいっぱいしてる、ご浄霊たくさんしてる、だから自分は霊層界の位置が上のほうにあって、他の人よりも優った存在なんだ、というように、無意識のうちに、自分を他と比較して優越性を保つために生まれ変わりという考え方を取り入れてる面もあったと思いますよ。
 でも、生まれ変わりを前提としてよく考えたらですよ、例えば来世、ものすごいお金持ちのいい境遇に生まれてきた。そして、そのような、物質に恵まれた人生を何度も繰り返す中で、いつか、たった一回、何か大変な事件を起こしてしまった。そしたらもうそれで終わりじゃないですか。
 もしそうだとしたら、生まれ変わりというのは、出口のない闇をずっと歩いていくようなものですよ。いつか悪いことをしてしまうのではないかという恐怖と、それこそ永遠に向き合っていかないといけない。あるいは、自分がしなくても、自分の家族がとんでもないことをしてしまうかもしれない。いやね、私たちは、これから、永遠、そういう恐怖を抱えて生きていきたいんですか?
 だから、「生まれ変わるというんじゃないですね」と明主様がおっしゃったのは、大変なことだったと思いますよ、「私も驚いたんです」と言うぐらいですからね。それによって私たちを闇のから解放してくださった。
 というか、生まれ変わりはインドのほうから来て、仏教を経由して日本に入ってきたわけですけれども、そもそも、生まれ変わりの本体の仏教では、「生まれ変わらない」ということが目的ですからね。仏教においては、「生きる」のは苦しみなんだ、だから生まれ変わらないようにしよう、ということで、それを最初に成し遂げられたのがお釈迦さんですからね。お釈迦さんは極楽浄土に行かれて、救われた存在となっている、ということですから。
 でも、私たちは、「生まれ変わらない」ということを目的にするわけでもなく「生まれ変わり」を説いている。もうどこにも逃げ場がないですよ。ずーっと生まれては死んでを繰り返すのみで、逃げ場がない。
 だから、生まれ変わりは、よく考えたらおかしなことがいっぱいありますよ。ぱっと聞く瞬間はかね、その説明が腑に落ちるみたいに感じたりもするんですけれどもね。
 だから、生まれ変わりを前提とされていた明主様にとって、最晩年で神様からそれが違うと教えられたことは、これはもう、大大大大、大どんでん返しですよ。もう「大」を10個、20個付けても足りないくらいの大どんでん返しですね、これは。だってそれまでは、生まれ変わりを前提にしていろいろ説かれていたわけですから、明主様は。
 でも、明主様は、「生まれ変わるというんじゃないですね」とおっしゃっているのに、「違う、生まれ変わりはあるんだ」と言うんだとしたら、それこそね、次のようになりますよ。これを、私は、チベット仏教のダライ・ラマの映画で観たことがあるのですが、このダライ・ラマというのは、その、最も大切な存在がずっと生まれ変わっていくということで、今、14世くらいだと思いますけれども、前の代の人が死ぬと、次に生まれ変わってくる。だから、ダライ・ラマ何世かが死ぬと、その生まれ変わりを探すために、残された人たちが、「なんかあっちの地方に生まれ変わった子供がいるらしいぞ」みたいになるんですね。それで、みんなで──いや、これ私は映画で観たので、どの程度事実か分かりませんけれども──それで、その生まれ変わった子供を探すため、みんなでその地方に行くんですが、その時に、今までのダライ・ラマが使ってきた遺品みたいなものをたくさん持っていくんです。それで、家から家を訪ねながら、たくさんの子供に会っていくんですね。そういうことをしていく中で、ある子供が、いくつかある選択肢の中からダライ・ラマが使ってきたものを触るとか、側近の人しか知らない癖みたいな動きをするとか、そういうのをいくつかクリアすると、いきなり、偉い僧侶の人たちが全員その場でその子供にひれ伏して、その子供が継承していく、ということになるらしいんですね。
 だから、もし本当に生まれ変わりを信じるという方々がいるなら、今すぐにでも明主様を探しに行ったほうがいいですよ。だってどこかに生まれ変わっていらっしゃるかもしれないんですから。
 でも、今そういうことをしていないのだとすると、そういう方々は、「生まれ変わりはある」と口では言っていても、やっぱり、この地上に生まれた「岡田茂吉」「明主様」というお方の唯一性を認めてしまっているからじゃないのかなと思いますね。
 いや、だってですよ、もし本当に生まれ変わりを心底信じているとしたら、例えば、明主様は、尾形光琳とか、応神天皇とか、源義経の生まれ変わりだとおっしゃったわけですけれども、じゃあ義経とか尾形光琳とかの写真を見た時に「あっ、明主様!」ということになるはずですよね。でも、ならないですよね(笑声)。
 いや、もし「なる」と言うのであれば、それこそ、御神影の横に、尾形光琳の写真とか源義経の写真とか応神天皇の写真を飾ってもいいわけですよね。本当に生まれ変わりを信じているなら、そうすべきですよね。
 でもそれをしていないということは、生まれ変わりはあると口では言っていても、尾形光琳という人物を唯一のものだと実は認めてしまっているし、明主様の唯一性も認めてしまっている、ということではないでしょうか。
 だって私たちは、明主様というご存在が一度だけこの地上に来られたということを本当に大切にしていますでしょ?そして、明主様は今、永遠の命に生きておられるわけですけれども、また生まれ変わってこの地上に戻ってくる、ということを私たちは真剣には想定していないんじゃないのかなと思いますよ。
 というように、生まれ変わりを本当に信じるとするといろんな問題が出てきますよ、本当はね。
 あるいは、じゃあ、本当に生まれ変わりを信じるならば、私たちの来世はどうなるんだろうか、ということもありますよ。
 もちろん、私たち一人ひとりの努力とか生きざまというのはありますけれども、一方で私たちは、争いを繰り返し続けている世界救世教につながる存在ですよ。その中で私たちは、正しい、良かれと思っていろんなことをしてきたかもしれない。でも、その争いがどんどんエスカレートして、最終的には、私たちの仲間が、尾行・盗聴・盗撮という行為をした。私たちは、そのような方たちの仲間ですよ。私は、私たちの来世にいい境遇が待ち受けているとはどうしても思えないんですね。そもそも、人間に生まれられないかもしれないですよ、私たちは。カエルとかになっちゃうかもしれない。
 いやだから、もし、私たちですらそのような来世が待ち受けているのだとしたら、実際に尾行のようなことをした人たちとか、それを指示した人たちとか、そのような行為をした人たちを認めている人たちの来世はどうなってしまうんだろう、と思ってしまいますね。
 確かに、一方で、「尾行・盗聴・盗撮はそこまでひどい行為なんでしょうか?」という考え方もありますね。実際この行為をした人たちは、このことを「調査」だと言っていますけれども、尾行・盗聴・盗撮は「調査」ではないですよね、少なくとも。「調査」という日本語の意味が分かっているんだろうかと思ったりしますね。
 で、主張としては、泥棒のようなことをするならまだしも、人を付け回すことはそんなに悪いことではない、正当化されるべきだと、そういう主張ですね。確かにね、尾行をして警察に捕まるのかと言ったら、ぎりぎり捕まらないのかもしれない。
 でも、明主様の御歌に、有名な、「人の目を盗むは已に人の物盗むと同じ事にぞありける」とありますね。明主様は、人の目を盗むのは人の物を盗むのと同じこと、泥棒と同じことだとおっしゃる。ということは、明主様の法では、教主様への尾行・盗聴・盗撮は、アウトですね。明主様の法においては、尾行は泥棒と一緒ですから、捕まりますね。
 だから、もしそうだとしたら、それを実行した方々、認めている方々、来世は大変ですよ。特に、「教主様は教義違反で、生まれ変わりを否定している。生まれ変わりはある」と主張している方たちが、尾行・盗聴・盗撮を実行したり容認したりしていますけれども、その方たちは、明主様から泥棒と言われるようなことをしておいて、生まれ変わったらどうなってしまうのかということを、ちょっとでも考えたことはあるのだろうかと思ったりしますね。
 でも、ですよ、そのような方たちも、また私たちも、大丈夫なんです。心配しなくていいんです。だって明主様は、メシア降誕によって、私たちに、まったく新しい永遠の命を説いてくださったじゃないですか。
 明主様は、最晩年には、これからはお詫びじゃなくて悔い改めなんだ、悔い改めなさい、ということを繰り返しおっしゃった。「悔い改めなさい」と明主様が言われるということは、私たちはもれなく罪人だということですよ。だって明主様は、善い行いをしている人に対して悔い改めなさいとは言われませんよ。
 だから明主様は、私たちに対して、「あなた方は、生まれ変わりによる永遠の命ではなく、神様の子供としての永遠の命に生きる道が開いてるんだから、罪を悔い改めなさい」ということをおっしゃってくださっていた。
 「生まれ変わるというんじゃないですね」、ですよ?だから、もう心配しなくていいんです。自分はこんなことをしてしまったので来世は大丈夫だろうか、とか、心配しなくていいんですよ。
 私たちは知らず知らずのうちに「信仰地獄」に入り込んでいたんですね。でも明主様は、メシア降誕の御言葉によって、そこから私たちを解放してくださった。
 この永遠の命ということに関して、今日の祭典の聖言は「奇蹟」についてでしたけれども、皆様は今日の聖言をどのように受けとめられたのだろうか、と思ったりしています。
 今日の聖言は、奇蹟は誰がするかというと神様がする。ただ、奇蹟に対して、不思議だ不思議だと言ってるだけでは能がないじゃないか。奇蹟には神様の目的がある。私たちは、奇蹟の目的も何も、自分の病気が治ればそれでいいみたいなことですけれども、神様からすると奇蹟の目的は、人間に「霊を認めさせる事」「霊を知らせる事」である。つまり、私たちの立場から言えば、「霊を認める」こと、「霊を知る」こと、それが奇蹟をいただいた目的である、ということですね。そして、もし霊のことが分かれば、奇蹟という言葉はなくなるのですと仰せですね、明主様。なくなっちゃうんですよ、奇蹟という言葉が。すごい聖言ですね。そうなると、奇蹟ではなくて、当たり前のことになる。当たり前になるというのは、奇蹟みたいなことが当たり前のようにしょっちゅう起こるという意味なのかというと、そうではなくて、奇蹟というのは、人間のほうで霊を認めてないから、そういうあり得ないようなことや変わったことがいろいろ起きてると明主様は仰せですね。だから、当たり前になるということは、奇蹟が起きても、起きなくても、常に霊を認められるようになりなさい、ということですね。霊と言ったって、それは結局は神様のことですからね。だから、あなた方は、どんな時も神様を認めなさい。普通、あなた方は、奇蹟が起きた時にだけ「これは神様だ」となっているけれども、神様のことをひとたび知った以上、神様が働いておられるのを認めるのは当たり前になるわけなんだから、奇蹟がない状況でも、どんな状況でも、神様が働いていらっしゃることを認めなさい、そういうことを知りなさい。そういう意味において、奇蹟というのは霊を知らせる第一歩なんですよと、今日の聖言はそういった内容の聖言でしたね。
 明主様は、「奇蹟」という言葉はなくなると仰せです。
 教団としては、今までありとあらゆる奇蹟がありましたね。信じられないような奇蹟もたくさんあって、本にも『世界救世教奇蹟集』というそのもののタイトルの本もありますけれども、それから今や何十年も経って、明主様がおっしゃったように、奇蹟という言葉はなくなったのだろうか、と思うわけなんですね。
 もし、なくなってないとしたら、それは、私たちが、いまだに霊のこととか、神様のことを認めてないから、ということになりますよ。
 いや、確かにね、奇蹟というのは喜ばしいことであることは間違いないですよ。でも、霊を認めないからそういう変わったことがあると明主様は仰せなんですから、反面、奇蹟は神様からの警告でもありますよ。「私のことを認めなさい」という警告。
 そして私たちは、いまだに、この第一歩のところでまっているんじゃないんですか?癌の数値がこうなったとか──いや、それは本当に喜ばしいことではありますよ──腫瘍みたいなものがいきなり消えた、これは奇蹟だとか言っている。ということは、明主様が、「奇蹟という言葉はなくなる」とおっしゃっているのに、全然なくなってないじゃないですか。
 せっかく昔、霊を認める、知らせるために奇蹟を起こしてくださったのに、いまだにその第一歩で留まって、まだ奇蹟を求め続けてますよ、私たちは。
 そうすると私たちは、明主様に対して、「いや、明主様。明主様は、奇蹟は霊を知らせる一歩目とおっしゃったけれども、二歩目を提示してくださっていないじゃないですか。だからやむを得ないじゃないですか」と言いたくなると思うんですね。すると明主様は、「いや、私はした」「私は二歩目を示したよ」とおっしゃいますよ。「いや聞いておりません」。「いや、言ったよ」。
 じゃあどこでおっしゃっているのかというと、それは、先ほどのメシア降誕の御言葉、その中に、「今度のことについては」──これは、メシア降誕のことですね──「今度のことについては、もう奇蹟っていうどころじゃない、奇蹟以上の奇蹟がたくさんあった」んだと仰せです。「奇蹟以上の奇蹟」ですよ。神様の子たるメシアとして新しくお生まれになったことを、明主様は、「奇蹟以上の奇蹟」とおっしゃってますよ。
 もう明確な二歩目ですよ、これは。明確な二歩目。
 ではその時に、明主様のお体にいわゆる奇蹟が起きたのかというと、起きなかったですよ。そして翌年、そのまま脳溢血の痛みの中、いわゆる体的な奇蹟は起きないまま、明主様はご昇天になった。
 だけど、明主様は、メシアとして新しくお生まれになったこと、これを「奇蹟以上の奇蹟」とおっしゃったんです。最初の一歩目の奇蹟は病気とか治ったりしたこと。でも、二歩目の「奇蹟以上の奇蹟」の時、明主様は、病気は治らなかったけれども、もっとすごい奇蹟があると思われた。この体が維持されることよりももっとすごい奇蹟があると思われた。その奇蹟とは何か。それが、永遠の命だということですね。
 もちろん、今私が言っていることを否定してもいいですよ。そして、「奇蹟はまだまだ求め続けないといけない」としてもいいですよ。人によっては、まだまだいろんな奇蹟の話を集めて、もうそれを本に出そうと思うくらいですよね、明主様は「奇蹟という言葉はなくなる」とおっしゃっているのに。
 でも、そのようにして、体的な奇蹟を今でも求め続けると言うならば、教団の歴史の中で、たくさんの専従者や信徒が病気で亡くなってきましたね。今も亡くなってますよ。もう毎日のように癌とかコロナとか、いろんな病気で亡くなっている。浄霊をどんなにしても治らない。奇蹟が起きないまま、たくさんの専従者や信徒が亡くなってきたし、亡くなっている。だから、もし今でも体的な奇蹟を求め続けると言うならば、そのような多くの先達の方たちに対して、「あなたには奇蹟は起きませんでした」「あなたは御用が不十分でした。だから奇蹟が起きなかったんですね」というようなことを言うんですか?
 というか、これは、明主様そのものに対してですよ。明主様は、90歳とか120歳まで生きられるとおっしゃったお方ですよ。その明主様が、なんてことはない、この世的な言い方で言えば、脳溢血のご浄化によって、つまり病気によって、奇蹟も起きないまま72歳でご昇天になった。もしいまだに奇蹟を求め続けるのだとしたら、それは、明主様のご存在を否定するのと同じですね。それとも、私たちは、明主様に、「明主様、あなたには奇蹟が起きませんでしたね」と申し上げるんですか?
 でも、そうではないですよね。私たちは最初、体的な奇蹟があって神様のことを認めるに至った。そんな私たちに対して明主様は、「奇蹟以上の奇蹟」ということをおっしゃってくださって、の病気が治らなくても、メシアとして新しく生まれるという「神様の命に生きる奇蹟」を遺してくださった。これはなんのためなのか。
 だって、この瞬間も、明主様の信徒で、癌とかで今にも死なんとしてる方々がいらっしゃいますよ。で、ご家族や知り合いの信徒の方々は、ずっと奇蹟が起きることを願って願って、でもそれが叶わずに亡くなってしまう。その時に、「結局奇蹟は起きませんでした」で終わるんですか?終わりじゃないんですよ、全然。そうではなくて、たとえ病気で死んだとしても、神様の永遠の命に生きるという奇蹟があるじゃないですか。
 最初、病気が治る人、これは救われましたね。じゃあ病気が治らない人の救いはどうなるんですか。病気が治る人は救われた。じゃあ残りの人類はどうなるんですか、残りの半分。私たちが目指しているのは全人類の救いですよ。その全人類の救いのために、明主様が、たとえ病で亡くなったとしても、奇蹟が起きなかったと失望することはないどころか、「あなたは永遠の命に生きるという奇蹟をいただいてるじゃないか」と、そうおっしゃってくださっているんです。それが救いですよ、本当の。
 病床にいる人に対して、ずっと浄霊して、「もっと偉い先生が来て浄霊してくださるから」と言って、ずっと奇蹟を願ってそのまま死んでしまう。その道を選ぶのか、それとも──いや、これは病気の人にお説教で言うことじゃないですけどね──いわゆる体的な奇蹟が起きなくても、明主様は、自分のために、命を捨ててまで、ですよ、命を捨ててまで、病気が治らず亡くなってしまう人にも神様の命という奇蹟がある、救いは誰にでもある、ということを御身をもって見せてくださった、それを信じる、という道を選ぶのか。私たちはどっちを選ぶんですか?
 不治の病の方もいますよ。治らない方、生まれた時から。その方たちには救いはないんですか?私たちは「浄霊がある」と言いますね。で、浄霊で治らなかったらどうするんですか。救われなかった、ということなんですか。
 だから、そういうことのないように、私たちが絶望することのないように、明主様は、命を捨ててまで、私たちのために、本当の奇蹟を遺してくださったんですよ。
 今までの教団の歴史の中で多くの方たちが病気で亡くなってきた。その方たちに対して、私たちは、「奇蹟は起きなかった」と思ってるかもしれませんけれども、全然そんなことないんですよ。だって、誰もが、誰もが、永遠の命という輝かしい奇蹟を持たされているんですから。
 今日も御歌、5首、ありましたね。
 1首目、「神知らぬ人の憐れさ世の終り来つるがまでの命にありせば」。
 だから、奇蹟によって「霊を知る」と明主様はおっしゃっていますけれども、霊と言っても結局は神様のことですよ。奇蹟を通して神様のことを知りなさい、そういうことですね。そして、ここ、神様を知らないと、世の終わりまでの命だとおっしゃっていますね。世の終わり。世の終わりということは、要は、宇宙とかすべてが崩壊するまでの命だということですね。どんなに生まれ変わりを信じていたって、いつか太陽にだって寿命はきますよ。自分には生まれ変わりの永遠の命があると思って安心して、この地上に何度も何度も生まれてきたって、太陽がやられちゃったら終わりじゃないですか。いや、でも自分は他の銀河系に行って生きていく、そうやって自分は生き続けるんだ、永遠の命だ、と言ったってね、全宇宙が崩壊したらもうそれで終わりですよ。それまでの命ですよ。だから、生まれ変わりを信じていたって憐れだなと、そういうことですよ。でも、神様さえ知っていれば、神様は永遠のご存在ですからね、たとえ地球が崩壊しても、太陽が崩壊しても、全宇宙が崩壊しても、大丈夫ですよ。でも、生まれ変わりを信じていたら、それで終わりですよ。だって、何回も何回も生まれてきたいと思っても、住む場所がなくなったらもう終わりですからね。
 2首目、「凡眼に映り得べしやいとき神の姿現はれふも」。
 もうね、神様の御姿は現れたんです。でも私たちの目には映らない。ではどこに現れたのかというと、それを3首目でおっしゃっていますよ。「ほどなきものは世にあらじ近処の宝知る由もなく」。
 「近処の宝」ですから、自分の中、ということですよ。それは人間の目には映らないですよ、だって自分の中にその宝である神様がいらっしゃるんですから。浄霊で体的な病気が治って、そのまま宝をずっと外側に求めてたって、私たちの凡眼では本物の宝は見えないんですよ。「凡眼」に映るのは体的な奇蹟だけ。でも、「近処の宝」ですから、本当は私たち一人ひとりの中にあるんです、その宝が。
 次、「大いなる神の力を見するとも哀れには映らじ」。
 明主様が、大いなる神の力である、メシアが生まれたというひな型になってくださって、その宝が、「近処の宝」、あなた方の中にもあるじゃないかということを教えてくださっても、それを信じなければ、哀れな運命になってしまいますよ、という警告の御歌ですね、これは。
 で、最終的には、5首目、今日の御歌の結論は、「戦ひも病もかせむ神の力を受くる我身は」となってますね。
 病気も、争いも、貧しさも来るなら来い、なぜなら私は神の力を受けてるんだからと、そう明主様は仰せです。で、これは昭和27年の御歌なんですけれども、その2年後、文字通り、来ましたよ、病が、明主様のもとに。でも明主様はこの御歌の精神を貫かれたと思いますよ。「戦ひも病も貧も」来るなら来い、私には神の力があるんだという精神を貫かれた。
 その神の力は何かと言ったら、それは永遠の命ですよ。その永遠の命が私たちの中にもあるんですよ。だから私たちが、今、争いとか、病とか、金銭的な苦しみを抱えていたとしても、絶望することはない。だってあなたの中に、本当の宝、本当の救いがあるじゃないか、ということなんです。
 だから私たちは、明主様がメシアとして新しくお生まれになったことを模範としなければ、もう世の終わりがきたら終わりですよ。明主様を模範として、神様の子供たるメシアとしての永遠の命に目覚めなければ、この世が終わったら一巻の終わりじゃないですか。いや、生まれ変わりを信じてね、何回も何回も生まれ変わってきてもいいですよ。でも、そんなこと言ったって、もう地球が崩壊したら終わりじゃないですか。違いますか?
 というように、私たちは、神様の永遠の命に生きるということが許されているんです。ま、本当は課せられているわけなんですけれどもね、でも、神様のほうとしては、その道を歩んでいいよと私たちに言ってきてくださっている。
 それで、先日の秋季大祭の折にも「本教救いの特異性」という聖言を引用させていただいたんですけれども、そこで、明主様は、「神意は地上天国建設の第一歩として、その模型を造られるという事があまりに明かである。ら、模型ばかりではない、人間、個人が天国人とならなければならない。否、なりる時期が来ているのである」と、こう仰せです。
 そもそも、ここにありますように、明主様は、聖地のことをほぼ毎回「模型」とおっしゃってたのに、私たちはそれを簡単に「聖地」という言葉に言い換えてしまっていますよ。聖地というのは便利な言葉ですからね。
 でも、明主様は、天国の写しをこの地上に造られたかったわけですから、明主様のおっしゃる「模型」は、もっとはっきりした言葉で言えば、「コピー」ですよ、「コピー」。天のをこの地上にも写そうとされたわけですから、原本は、天にある。だから、明主様にとっての聖地は、「コピー」ですよ。でも私たちはそれを、原本だということにして利用しておりますよ。
 いや、模型、コピーと言っても大変ですよ。天国のコピーを造るのは大変なことですよ。でも、明主様が天国の模型を造られた目的は何だったのかと言ったら、それは、私たちが、「自分の中には天国という場所があるんだ」「原本があるんだ」と思うためですよ。
 それなのに私たちは、コピーを原本だと思っている。それでどうするんですか。本体の天国があるということでなければ、「一人ひとりの中にも天国がある」とならないじゃないですか。そしたら、ただ物質的な聖地に参拝だけすればいいということになりますよ。もしそうなら、死んだらもう終わりじゃないですか。
 だから、「然し乍ら、模型ばかりではない、人間、個人が天国人とならなければならない」ですから、もし、「人間、個人が天国人となる」ということの目的を抜きにしたら、どんなに、聖地だ、聖地だ、聖地中心だ、聖地中心だと言って一生懸命聖地の管理をしても、それは、明主様とは無関係の、ただ庭園の管理をしているだけ、ということになりますよ。明主様の目的を無視するなら、聖地だと言ったって、それは、ただの庭ですよ。その庭を一生懸命管理してます、というだけのことですよ。
 いや、確かに、「ひな型」という考え方もありますね。聖地と同じようなものがどんどん世界に拡がっていく、という。
 この「ひな型」というのはどういう意味かというと、明主様は、天国の写しを造ってくださって、私たちの中にも天国があるということを思い出させてくださいましたね。
 で、明主様は家庭も天国化しなければならないとおっしゃった。ということは、明主様は、まず、ひな型を造って──いわゆる聖地のことですね──天国のことを思い出させてくださった。だとしたら、自分の家庭に帰っても、「あっ、ここも神様が治めておられる世界なんですね」「家庭においても天国的生活者とならなければいけないんですね」とさせていただく。それが、家庭においても明主様のひな型が拡がっていくということではないんですか?
 だから、それは、どこに行っても、ですよ。観光をしに行っても、おいしい食事を食べに行っても、どこに行っても、その行く先々の場所で、「ここにも天国はあります。これも神様が治めておられる世界なんですね」と認めさせていただく。それが「ひな型が拡がっていく」という意味であり、神様が喜ばれることであり、また、私たちがそうさせていただければ、明主様がひな型を造られた意味はありますよ。
 いや、だから、もしそうじゃないと言うのであれば、教団が全地球を買い占めなければ地上天国は樹立しないということになってしまいますよ。ほとんど不可能みたいな話ですね。
 だから私たちが、どこに行っても、家に居ても、電車に乗っても、一見誰からも祝福されてないような場所に行ったとしても、「これも神様の世界ですね」と思わせていただければ、明主様が一生懸命聖地を造られた意味に応えることになりますよ。もしそうでなければ、どんなに、聖地だ、聖地だと言ったって、それは、ただの庭ということになってしまいますよ。
 で、先ほど引用した「本教救いの特異性」での明主様のおっしゃり方は「人間、個人が天国人とならなければならない。否、なりる時期が来ているのである」、そうありますね。
 「天国人とならなければならない」で、もう次行かれればいいんじゃないかと思うんですけれども、「否、なり得る時期が来ているのである」と言い換えておられますね。なぜ言い換えておられるのだろうかと、そう私は思うんですね。
 「ならなければならない」。これは非常に断定的な言い方ですね。天国人になりなさい、そうすべきだ。その断定的な言い方から、「否、なり得る時期が来ているのである」。一歩引かれてますね。断定から可能へと、一歩引かれてますね。
 私たちは、明主様から、「天国人とならなければならない」と言われたら、もう「はい」としか言えないですね。でも、「否、なり得る時期が来ているのである」となることによって、明主様の断定のご意志は一旦引っこめられた状況になってますよ。ということは、明主様は、私たちに選択するチョイスを残されている、ということです。
 「ならなければならない」と言われたら、「はい」でもう終わりですよ。明主様の命令に従いました。それだけの話ですよ。でも、「否、なり得る時期が来ているのである」となると、「お、じゃあ自分はどうしようかな」となりますね。
 実際は、「ならなければならない」とおっしゃったことにより、拒否しようがしまいが、天国人となることは避けては通れないことなんですよ、ということを明主様はお示しになっておられますけれども、でも、「否、なり得る時期が来ているのである」と言い換えられているということは、最終的には、一人ひとりが、自分の意思で天国人になりたいと思うかどうかですよと、私たちに選択の余地を残された。
 地上天国建設の一歩目は模型を造った。きれいな場所を作った。でも、「然し乍ら、模型ばかりではない、人間、個人が天国人とならなければならない」ですから、地上天国建設に向かっての二歩目は、あなた方が天国人になりたいと思うかどうかだよ、その選択をあなた方一人ひとりに残してあげたよと、そういうことですよ。だから、ここ、このように言い換えておられる。
 というように、私たちは、「死んで一巻の終わり」どころではなくて、「永遠の命に生きていいんだよ」という選択肢を今、神様が、手を差し伸べて、私たち一人ひとりに授けてくださろうとしておられる。
 その道は今までの信仰とは違いますよ。今までの信仰は、この聖地を本体、原本だと思って、聖地に行かなきゃいけない、病気が治らないといけない、生まれ変わりがある、と言ってね、生まれ変わると言ったって、それは、この地上に生まれてくることを想定しているわけですから、今までの信仰のすべては、目に見える世界を主眼としたものですよ。
 でもそれは、「物のみに頼り只管つかまんとすれど逃げく幸福の二字」。
 そんなね、体的な喜び、健康、ずっと求めていたって本当の幸福は一生得られない。だって病気が治ったって、「死んだら一巻の終わりだ」という不安からは逃れられませんよ。あるいは、生まれ変わりを信じているんだとしたら、「次の自分の人生はどうなるだろうか。悪いことをしないで生きていけるだろうか」という不安。家族の人がいつか死んでしまうという不安。奇蹟が起きなくて病気が治らないんじゃないかという不安。
 だから、そんなふうに私たちが生きていくことのないように、最晩年、明主様は、御身をもって、「本当の幸福とは何か」ということを私たちにお示しくださったんです。明主様のお体に体的な奇蹟は起きなかった。でも、「奇蹟以上の奇蹟」という本当の奇蹟を遺してくださった。
 いや、はっきり言って、私たちは奇蹟を求めることからは逃れられないですよ、確かに。そうなんだから、もっと欲張りになって「奇蹟以上の奇蹟」を求めなさいと、そういうことを私は言いたい。
 体的なことで、確かに病気が治るのは嬉しいですよ。私はそれを否定しているのではなくて、たとえ治らなくて、もう死んでいくとなったとしても、今日お話しした本当の救いの道を求めるところに私たちの「幸福」の二字がある、それを知っていただきたいんです。
 目に見える聖地、目に見える、目に見える奇蹟。このような体的な物に頼ろうとするならば、幸福は永遠に来ません。ずっと逃げ続けますよ。だってこの地上というのは一時的なものですからね。でも、永遠の幸せがある場所は逃げないんですよ、絶対。
 だから今、私たちは、明主様から、「永遠の幸せの道を歩んでいいんだよ」と言っていただいている。いや、これは、本当に大変なことですよ。今私たちが知らされていることというのは大変なことですよ。
 明主様がメシア降誕の言葉を宣べられた時、これは「特にキリスト教と関係がある」とおっしゃったという記録があります。これはどういうご意図でおっしゃったのか。
 来月は御生誕祭がありますけれども、明主様がお生まれになったのは1223日。イエス・キリストが生まれたのは1225日。これ、偶然ですか?偶然なはずないじゃないですか。
 メシアということはなのか。明主様のご存在は何なのか。イエス・キリストと明主様のご関係は一体何なのか。幸せとは何なのか、本当の喜びとは何なのか。
 いや、だから、この、本当の喜び、幸せ、これがね、もうあるんですよ、私たちの中に。私たちが求めて求めてやまないものが、なんと、もうあるんですよ、私たちの中に。
 これは大変なことですよ、本当に。今私たちが神様、明主様から導かれているこの道というのは、本当に、大変なことですよ。
 私も、こうやってお話ししながら、「このことを話してしまっていいんだろうか」と思わせるぐらい、言うのがられるぐらいですよ、それくらいの重大事ですね、今私たちに知らされていることというのは。
 でも、それを知ってしまった重大な責任が私たちにはあるし、また、神様から選ばれて先に知らせていただいている私たちの喜びと同時に、その使命感の大きさは一体どれだけのものだろうかと思ったりしますね。
 今まで私たちは、一喜一憂する生き方で来た。奇蹟が起きたとか起きないとか、病気が治るとか治らないとか、死んだらどうなってしまうんだろうとか、そして、あらゆる体の悩み、心の悩みを抱えている、今も。
 でも、本当は、もうそれを全部克服して余りに余りある光をすでに賜っているんです。だから、一見矛盾するように思うかもしれませんけれどもね、神様の幸福に生きると決めれば、いきなり病気が治るという可能性もあるし、また、たとえ治らなくても、神様は、私たちにとって本当に一番いいように、私たちの人生を必ず、明るいほう明るいほう、輝かしいほう輝かしいほうに導いてくださるに決まってるんです。だって、神様ですよ。
 神様は、今、ご自身がお持ちの絶対的な力と絶対的な救いと絶対的な幸福を私たちに授けようとしておられる。だとしたら、その神様に私たちが言えることといえば、「み心のままにお使いください」しかないじゃないですか。神様がどのようにされたいかは私たちではとうてい計り知ることはできない。だから、「み心のままにお使いください」「私の願いではなく、あなたの願いが成し遂げられるようにお使いください」ということを言わせていただく以外にはない。
 私たちは、私たちでは想像もつかない幸福な道にすでに導き入れていただいたわけですから、共に、「み心のままにお使いください」という思いをお捧げして、今日出発したいと思います。
 ありがとうございました。