※英語とポルトガル語でなされたビデオメッセージの和訳
私たちは最近、「悔い改め」ということをよく耳にします。「今までの古いあり方、古い信仰を悔い改めなければならない」「神様中心ではなく、人間中心であったことを悔い改めなければならない」ということをよく耳にします。
そうであるならば、私たちは、今日まで、たくさんの過ちを犯し、明主様のみ心に沿わないことをしてきたのでありましょう。罪深い存在なのでありましょう。
では私たちは、そのような過ちを、無意識に行ってきたのでしょうか?それとも意識的にでしょうか?
気づかぬまま明主様のみ心に反してきたのでしょうか?それとも認識しながらでしょうか?
自覚の無いまま罪人になったのでしょうか?それとも自覚しながらでしょうか?
どちらなのでしょうか。
私たちは、「無意識にそのようなことをしてしまった」「気づかぬうちに明主様のみ心から離れてしまった」「罪人としての自覚がないまま今日まで来てしまった」と言いたいのかもしれません。
しかし、本当にそうでしょうか。
明主様は、御歌に、「大前に額く我となりにけり神に背きし罪を悔みて」と聖言くださっています。
明主様は、ご自分の意思によって、神様に背かれたことを認識しておられます。神様に反逆されたこと、罪人であること、悔い改めの必要があることを、意識的に、認めておられます。
明主様ですら、ご自分の罪深さと神に赦しを乞うことの必要性を認識しておられるのに、私たちがそれをしないということがあり得るのでしょうか。私たちは、明主様より優った存在ですか?明主様より罪が浅い存在ですか?絶対に、違いますね。
アンディ・ウィリアムスが歌うある曲(『Sweet Little Jesus Boy』)において、次のような歌詞があります。
「私たちはあなたが誰かを知らなかったのです」「私たちは盲目で、何も見えなかったのです」「私たちはあなたになんということをしてしまったのでしょうか。しかし、主よ、お赦しください。私たちはあなたが誰かを知らなかったのです」。
イエスが救い主であることを知らずに十字架にかけてしまった、そういうことが歌われている曲です。
しかし、これは事実なのでしょうか。私たちは、本当に、イエスがキリストであることを知らずにイエスを十字架にかけたのでしょうか?無意識のまま―イエスが救い主だと気づかぬまま―イエスに罰を与えたのでしょうか?
断じて違います。
もちろん私たちは知っていたのです。もちろん、私たちは、意識的にイエスを十字架に上げたのです。
「救い主だと知らぬまま十字架に上げた私たちをお赦しください」「イエスを十字架に上げた人たちはとんでもない人たちだ」と私たちが言えるとでも思っているのですか?
それをしたのは私たち自身です。私たち自身が、私たちの手によって、イエスを十字架に上げたのです。
私たちは盲目だったのでしょうか?断じて違います。私たちは、私たちの目で、はっきりと、イエスがどのような存在かを見た。認識した。にもかかわらず、私たちはイエスを十字架に上げたのです。私たちは、イエスがメシアであることに気づいていた。私たちの罪を赦すために来たことに気づいていた。にもかかわらず、私たちはイエスを殺したのです。
私たちにとり、王が現れたことはなんと都合が悪いことだったのでしょうか。もしイエスを受け入れるならば、私たちはもはや王とはなれず、自分の人生を、自分の望み通りに生きることは叶いません。
自分自身に仕えるのではなく、別の存在に仕えなければならなくなるのは、なんと都合が悪いことだったのでしょうか。
そして、自分が罪人であることを知り、悔い改めなければならなくなるのは、なんと都合が悪いことだったのでしょうか。そうなれば、私たちはもはや私たちの善い行いを誇ることは叶いません。
だからこそ私たちは、私たち自身の意志によって―イエスがどのような存在かを充分認識しつつ―イエスを十字架にかけ、イエスという存在を消し去ろうとしたのです。
イエスの十字架から二千年、私たちにとり二度目のチャンスが訪れました。
メシアの御名は世界の極東、世界の端の端に到達したのです。すなわち、日本において、明主様というご存在が、最初、中東のエルサレムにおいて現れたメシアの御名をお受けになったのです。
一人の日本人がメシアの御名を受け入れ、「世界メシア教」という宗教団体を創立し、イエスの願いを成し遂げると宣言し、キリスト教と呼応し永遠の平和を打ち樹てると宣べたのです。
しかし、私たちはなんということをしたのでしょうか。
明主様ご昇天後、私たちは、「明主様の願いは人類の救いなのだから、何も教団名に『メシア』という言葉は使わなくてもいいのではないか。一般的に救いを意味する『救世』という言葉でいいのではないか」ということを口実に、教団名を、世界メシア教から世界救世教に変えてしまったのです。
しかし明主様は、世界「メシア」教とおっしゃったのであり、決して、世界「きゅうせい」教とおっしゃったのではありません。
この二つは、あまりにも差があるのではないでしょうか。「メシア」という言葉を世に出すのか、出さないのか、あまりにも差があるのではないでしょうか。そして、明主様が使われたのは、あくまでも、世界「メシア」教です。
明主様は、世界メシア教を通して、また、ご自身がメシアとして新しくお生まれになったとご発表になったことを通して、全人類は神様の子供たるメシアとして新しく生まれる運命にあること、また、メシアの御霊は、イエスだけではなく、誰もが持たされていることをお示しになったのです。
明主様が全人類に遺された救いのなんと偉大なことでしょう。
しかし、ああ悲しいかな、私たちにとり、王であるメシアが私たちの中に存在していることのなんと都合が悪かったことか!
だから私たちは、再びメシアの御名を抹殺せねばならないと考え、明主様がお付けになった教団名を隠し、メシアの御霊が私たち一人ひとりの中にあることを断固として認めずに来たのです。
皆様、私たちはこれらのことを無意識にしてきたと思われますか?メシアという言葉に込められた力の凄まじさを知らずに教団の名前を変えたのだと思われますか?知らず知らずのうちに、明主様のみ心に反する歩みをしてきたのだと思われますか?
断じてそうではありません。私たちは、これらのことを、もちろん、意識的にしてきたのです。自分たちが、本当は明主様のみ心に反することをしていると充分認識しながら、これらのことをしてきたのです。
いつか神様の御許に行った時、神様から、「子よ、あなたは私に反逆した。違うか?」と聞かれたら、私たちは何と言うのでしょうか。「ああ、お父さま、私はあれらのことを知らず知らずのうちに、罪だと気づかぬまましてしまったのです。しかし私は、ある人から『悔い改めなさい』と言われたので、悔い改めようと思います。お赦しいただけますよね?」とでも言うのでしょうか。
その時、隣にいたもう一人の人物はこう言いました。「お父さま、あなたのおっしゃる通りです。私は自分の意志によってあなたに反逆し、罪を犯しました。私はあなたに赦される資格はありません。あなたが私に必要だと思う罰をいかようにもお与えください」。
皆様は、神様は、この二人のうちのどちらにご自身の赦しを与えられると思いますか?どちらをご自身の家に迎え入れられると思いますか?
もちろん、罪を深く自覚したほうではないでしょうか。
皆様、勘違いしてはなりません。私たちが悔い改めねばならないのは、誰かに言われるからではなく、私たちそのものがそのような存在だからです。
神様の峻厳さを見くびってはなりません。私たちがとっさに考え出す巧みな言い訳は、人間をごまかすことはできたとしても、神様をごまかすことは決してできないのです。
聖書にこうあります。神様は「心の思いと志とを見分けることができる。そして、神のみまえには、あらわでない被造物はひとつもなく、すべてのものは、神の目には裸であり、あらわにされているのである。この神に対して、わたしたちは言い開きをしなくてはならない」(「ヘブル人への手紙」第4章12節~13節)。
私たち一人ひとりの神に対する言い開きを、神様が受け入れてくださいますように。
二千年前、私たちは、私たち自身の手によってイエスを殺し、メシアの御名を押し込めました。それから二千年、私たちは明主様に対しても同じことをし、メシアの御名を再び追いやろうとしたのです。
私たちは、神様によって与えられた二度のチャンスをすでにふいにしてしまいました。
そして今、教主様のもと、三度目のチャンスの時を迎えているのです。
最後のチャンスを、迎えているのです。