PDF: 新穀感謝祭_真明様ご挨拶

 「主の栄光を見た」

於:本部ご神前

 

皆様おはようございます。
 今日は121日ということで、昨晩は結構雨も降りましたね。私の家からは雷も聞こえたりしまして、また今日も、まだ風がだいぶありますね。

 

そんな中、今年もいよいよあとひと月、皆様にとって、この一年はどういう一年であったのかなと、今、そんなことを思っております。
 良いことがたくさんあった方もいらっしゃるでしょうし、悪いことが結構あったという方もいらっしゃると思います。半々のような方が一番多いのかもしれませんね。
 あるいは、すごい悪いことがあって、その問題にまだまだ来年も向き合っていかなければいけないとか、あるいは、長年病気のようなものを抱えていて、それとずっと向き合っていかなければいけないとか、誰も自分の気持ちは分かってくれないんだ、という思いの中で、今日を迎えた方もいらっしゃるんじゃないのかなと思いますね。
 でも、たとえそうであったとしても、私たちはがりなりにも信仰者ですから、この一年あったことについて、やはり、神様がその背後に働いておられるということ、少なくともこれは認めなければならない。
 我々の目には良いことだったり悪いことだったりしても、やはり、「その背後には神様が働いておられるんですね」ということは認めなければならないし、そして、やはり、感謝ですね、「神様に感謝させていただきます」と、これは必要ではないでしょうか。
 我々にとっては良かったり悪かったりすることも、神様は、何か理由があってそういうさまざまなことを起こしてくださっているわけですから、我々が信仰者である以上、この一年の締めくくりの時に、やはり、神様に感謝の思いを捧げること、少なくともこれは課せられているのではないのかなと思います。
 で、ここで大切なのは、「感謝」と言っても、その度合いがあると思うんですね。例えば、悪いことにはなかなか感謝できないから良いことだけには感謝しようとか、あるいは、不都合に感謝、という度合いの感謝もありますね。それに似たので、悪いことも養い育てていただいているんだから、それに感謝させていただこうという感謝もありますね。
 アメリカの曲で、キリスト教の歌ですけれども、讃美歌とかではなくて、普通の曲なんですが、タイトルは英語で、「Drinking from my saucer」。Drinkingというのは飲んでいる。from my saucersaucerというのは、ソーサーということで、これは、コーヒーのカップとかを置く受け皿のことですね。要は、「受け皿から飲んでいる」というタイトルですね。
 で、その歌詞は、簡単に言うと、「人生いろいろあって、お金が苦しい時とかもよくあるけれども、自分は神様の祝福に満たされています」という内容になるんですが、その「満たされている」というのが、満たされているどころではなくて、神様の祝福はカップからあふれ出るほどたくさんあって、ソーサーにまでこぼれてしまっているので、もうカップからは飲めない。だから自分は、ソーサー、受け皿をすすりながら神様の恵みを飲ませていただいている、そういう歌詞です。
 私はこの曲に出会った時、これはすごい信仰だなと思いました。我々は、「足りない、足りない」と言っているくらいですけれども、この人は、神様の恵みがもうコップからこぼれ出てしまっているから、受け皿からずっとすすっているんだ、と言うわけですね。
 いや、だから我々も、もし神様に感謝をするなら、こういう感謝を捧げなきゃいけないんじゃないのかなと思うわけなんですね。
 でも、我々にとってカップの状況はどうなっているかというと、ほとんど満たされてないみたいに思ってますよ。満たされてない、もっと注いでほしい、なんでもっと満たしてくれないんだと、そう思ってますよ、神様に対して。
 でも、よく考えると、本当は、神様は、私たちを100%満たしてくださっている。今、この瞬間ですよ。今この瞬間、神様は、私たちに対して、「もう十分満たしているよ」とおっしゃってくださっている。
 でも我々としては、「足りないので、もっともっと」となっているじゃないですか。もっと奇蹟がほしい、こういうことが起きてほしい、このことを改善してほしい、となってますよね、神様に対して。だから我々の見た目にはカップは全然ガラガラで、もっと注いでほしいとなってますよ。
 でも神様から言わせると、「いや、私の祝福は、もうあなたのカップどころか、受け皿からもこぼれようとしているんだから、これ以上祝福しようがないんだ」「今、もう十二分に祝福しているんだ」となってるわけです。
 もし本当はそうなのだとしたら、我々が、今の状況を──今の状況ですよ、5分先でも、1時間先でも、10日先でも、1年先でもない──今の状況を、「ああ、神様は今、私を十分満たしてくださっているんですね」と言ってね、そして、「受け皿にこぼれ出ている神様の祝福を丸々お受けします」ということでそれを飲んだら、神様は、「おっ、ソーサーのところに少しきができたから、もうちょっと注いであげるよ」とおっしゃることができるんじゃないかと思うわけですね。
 でも我々は、いつも、神様は完全な形で働いていない、もっと注いでほしいとなっているから、神様も我々を祝福しいものがあるんじゃないのかなと思います。
 だから、私たちは、まず、人生における今の状況を、「今、神様が、私にとって一番良いように導いてくださっているんですね」ということで、ソーサーから、受け皿から、「神様の恵みを受けさせていただきます」とすれば、神様が、「じゃあ、もっと与えてあげよう」ということはあると思うんですよ。
 でも、今与えられている、この今の瞬間の状況を100%受け入れないで、「神様は寝ていらっしゃるんじゃないか」「私の声を聞いてくださっていないんじゃないか」と思っていたら、神様としては、「少なくとも、まず、そのソーサーにあるものを飲みなさい」とおっしゃるんじゃないのかなと思うんですね。
 だから、「感謝する」と言ってもね、中途半端な感謝ではなくて、「もうあふれんばかりに満たしてくださっているんですね」「丸々今の状況を受け入れます」という、そういう感謝を、私たちメシア教の信徒は神様に捧げなければならない。

 

そうなると、じゃあその神様は誰なんだということになりますね。それはもちろん、「主神なる我等の神」であり、「主神なる先祖の神」。そうなりますね。去年までは「みろくおおみかみ」。
 「みろく」とか「主神」という表現になると、なんか私たちだけのとか、明主様だけのとか、日本だけの神様みたいに思いますけれども、実はそうではなくて、今日の、「万能の力をつはヱホバなる」という御歌もありますし、また、聖言にも、「救世教の神様と言うとおかしいですが、これはキリスト教のエホバです」とありますように、キリスト教のエホバ──ヤハウェという呼び方もありますけれども──このエホバという神様が私たちの信仰対象である、そういうことですね。
 だから、御神体は「大光明」と書いてありますので、一見日本の神様みたいに思うかもしれませんけれども、私たちの信仰対象がエホバだということは、この「大光明」の文字に、「エホバ」という読みがな、ふりがなを振ってもいいと、そういうことになりますよね。
 私たちが毎日朝夕拝で拝ませていただいているのもエホバですし、今日の祭典もエホバのもとで執り行っている。
 そう考えると、明主様が、メシア教の神様はキリスト教のエホバだとおっしゃったこと、これは大変なことなんじゃないかと、私は最近そう思うようになりました。
 というのは、エホバというのは、当然キリスト教の神様でもあるけれども、ユダヤ教の神様でもありますね。いわば『旧約聖書』とか『新約聖書』にかれている神様ですね。その神様が我々の信仰対象である。
 ということは、いわゆる、アダムとエバをエデンの園から追い出したお方であり、それから、アブラハムとか──いますよね、そういう偉い方が──をお使いになったお方であり、あるいはモーセ。海を真っ二つに割って、十戒を授けたというのがありますね。それをされたお方であり、また、ダビデという王が出て、そのダビデの血統と言いますか、系列と言いますか、そこからイエスを登場させて、そこからイエスの十二弟子を集めて、パウロという宣教師をお使いになったり、そういうことをされた神様を我々は信仰している。
 いや、僕は、今までエホバというのは何となく分かってましたよ。明主様も「神エホバ」とかおっしゃっているのでね。でも、改めて思うと、このエホバというお方が我々の信仰対象であるのは大変なことだなと、最近そう思うわけです。
 明主様は、神様のことを「ドエライお方」という表現もしておられますけれども、本当に、そういうドエライお方が私たちをお使いになっていらっしゃるし、私たちはその存在を信仰している、そういうことになりますね。
 また、エホバのことは「天の父」とも言いますよね。明主様の、「キリストの父なる神はの神と知れよ信徒吾とせて」という御歌がありますね。明主様は、「私の言う主神は、イエスが言っている父なる神、天の父と同じだということを、私と同じように知りなさい」、そうおっしゃってますね。
 このような御歌をわざわざお詠みになるということは、私たちのほうでその認識が薄いからですよ。「天の父はキリスト教の神様で、明主様の神様とは違うでしょ」と我々が思ってるから、明主様はこのような御歌をお詠みになったわけですよ。
 だから、もしそうだとすると、神様というのは、仰々しいことではなくて、簡単に言えば、「お父様」ということですよ。大光明に宿っているのは「お父様」だということですよ。本当のお父さん。
 いや、本当はそのような表現をさせていただくのは畏れ多いことなんですけれども、でも、お父さんですよね、間違いなく。我々の肉体よりももっと大切な、我々の魂そのものを造ったお方ですからね。だから、「お父さん」と呼ばせていただいてもいいんです。
 また、キリスト教においては「」という言葉も使いますね。イエスのことを「主」とも言うし、神様のことも「主」と言う。
 「主」と聞くと、なんかキリスト教的だな、と思われる方もいらっしゃるかもしれませんね。でも、今日、本部の玄関にかけてあった御書をご覧になった方がいらしたのかどうか分かりませんけれども、皆さんを玄関で迎えてくださった御書は、明主様の御書で、「主之栄光」ですよ。「主之栄光」。
 今日までの私たちは、もし誰かが、「主の栄光をお受けします」とか、「主の栄光を共にお受けしましょう」と言ったら、「なんかキリスト教的なことを言っているな」と感じる私たちではなかったのではないでしょうか。
 でも、明主様が「主之栄光」という御文字をお書きになっているんですから、「主の栄光をお受けします」という言葉を発するのは、明主様の信徒として当たり前のことですよ。だって、明主様がお書きになった御書の内容をお受けするのは、明主様の信徒として当たり前のことですからね。
 だから、もしそこに違和感があるんだとしたら、それは、それだけ明主様の進んでいらっしゃった方向と、私たちの進んでいる方向が違うからですよ。だから違和感を感じる。
 でも、明主様は「主之栄光」という御書を実際書かれているんですから、「主の栄光をお受けします」という言葉を発したほうがいいんじゃないですか?だって明主様が「主之栄光」と書かれたんですから。
 「主の栄光」。なんかよく分からないけど、とにかく素晴らしい響きですよね。主のえある光。それにもかかわらず、私たちは、今まで一度でも、「主の栄光をお受けします」と、とにかく言ってみようと思ったことがあったんだろうかと、そう思います。
 だから、確かに今年一年いろいろなことがありましたけれども、私たちをお使いくださっていたのは誰か。私たちが感謝を捧げるのは誰に対してか、と言ったら、それは、エホバであり、天の父であり、主であり、主の栄光を現してくださっているご存在に対してである。
 いや、そのお方はね、本当にとんでもないご存在なんですよ。人智を遥かに超えた方であり、ユダヤ教のほうではそのお名前すら呼ぶのも畏れ多いというくらいですからね。
 我々は、感謝をするとしたら、その偉大な方に感謝をしないといけない。
 だってですよ、自分で全然違う神様像を勝手に作りあげて、その神様に一生懸命感謝しても、それは聞き入れてもらえないと思いますよ。やはり、明主様がおっしゃっている神様に感謝しなければならない。そうでないと、どんなに感謝しても聞いてもらえないですし、明主様からも、「感謝をしている方角が違う」と言われてしまいますからね。
 だから、もしこの年末、この一年のすべてについて神様に感謝させていただくなら、そういう偉大な神様のもとで信仰させていただいて、生かされていることへの感謝を捧げるべきだなと、そう思います。

 

また、12月といいますと、明主様の信徒である私たちにとっては、23日がありますね。明主様が御生誕になった日。本当に、明主様がこの世にお生まれになったから、今日も私たち、縁をいただいてこうして会わせていただいていますし、明主様がお生まれになったことによって、すべてが発生していますね。明主様がお生まれになったことによって、私たちが今、こうして祭典を開いて、一緒に神様に心を向けることもできる。だから、1223日はお祝いすべき日ですね。
 そしてその2日後、1225日。これはイエスの誕生日ですね。今、世の中でもクリスマスということでお祝いしていますね。キリスト教徒どころか、もう日本中でクリスマスのお祝いをしていますね。クリスマスのイルミネーションとか、飾りとか、デパートに行けば大きなクリスマスツリーがあったりとかして、街が華やいでいますね。
 で、私たちにとって、今まで、このイエスの生誕を祝うことと、明主様の御生誕、これは、何も関係がなかったんですよ。「クリスマスのお祝いをしているな」で終わりだったんですよ。「私たちは明主様。世の中の人はクリスマスのお祝いをしているな」で終わりだったんですよ。
 でもそれが、実はなんと、そうではなくて、イエスというのは私たちにとっての大切な土台だということがだんだん分かってきた。そうですね?メシア教はキリスト教と呼応して人類救済を進める、イエスの予言を実行するのがメシア教なんだと明主様はおっしゃるわけですから。
 先ほど紹介した「Drinking from my saucer」という曲の歌詞では、自分はお金はないかもしれないけれども、イエスの存在を知ったことによってもう十分富んでいるんだと、そういう箇所があります。自分の罪が赦されたことによって自分はもう満足なんだと、そういうことですね。
 これ、私たちは丸々そのまま受け入れるんですよ。私たちにとってもイエスはい主なんですから。でも私たちは、そこで終わらない。
 キリスト教徒は、「自分の罪が赦された。イエスはすごい。それが最高の富だ」と言ってそこで終わっている。でも我々は、その次のステップである、ただイエスはすごい、神様はすごい、拝みます、信仰しています、ということだけではなくて、なんと、先ほど話した素晴らしい神様の魂そのものが私たちの中にあって、そして、私たちはそれと一つになって、もう神様という存在になることを目指している、そういうことなんです。神の子という言い方もしますけれども、神様という言い方をしてもいいんですよ。教主様も前におっしゃっていましたけれども、「人間の子供は人間」なんですから、「神様の子供は神様」ですよ。
 キリスト教においては、イエスが唯一の神の子。いや、確かにイエスという存在は本当に偉大ですよ。でも我々は、そのイエスと同等の「神の子」「神様」という存在になれる、そういうことなんです。
 私たちの中にはメシアと名の付いた神様の魂があって、その神様と一つとなって本当に偉大な存在になれるんだということを、明主様が御身をもって示してくださった、メシアとして新しくお生まれになったことによって。
 だから私たちは、キリスト教では成し遂げられなかった次のステップ、これですね。ただ人間の立場として、イエス様はすごい、この教祖はすごい、神様すごい、ではなくて、もう神様と同等の存在になれるんですよ。イエスだって水の上を歩いたりしたとされていますよ。我々にとってもそういうことは不可能ではないんですよ。神様ならば何でもできますよ。
 だから、キリスト教徒は、イエスの名前を知って、そして罪が赦されたことを知ったことによって、本当に喜んで、もうこれで十分豊かなんだ、満たされているんだと言う。
 私たちは、その恵みも丸々受けることができて、でもそれだけではなくて、それプラス、なんの因果か、神様から一方的に、人類にとっての最後の救い、次のステップの救い、第二ステップの救い、これを知らされてる。大変なことですよ、これは。神様は、我々のことを、我々では考えられないくらい豊かに恵んでくださっている。
 でも、あくまでもイエスの贖いがあっての私たちのですからね。だから、その意味においては、イエスの生誕を祝うクリスマスと、また、街とかでいろいろやっている華やかなことについて、それは、もう、思いっきり楽しんでいいんですよ、私たちは。楽しむ権利があると言うんですかね。だから、何か大切な人に会ってもいいし、クリスマスプレゼントを交換するとかしてもいいんです。
 もちろん、それをただ楽しむだけではなくて、本当に、その「次のステップ」を知らされている私たちなんだというプライドと誇りを持って、その上で、十分、このクリスマスシーズン、街が華やぐことを目一杯、皆さんにね、味わって楽しんでいただきたいなと、そう思っています。
 明主様は、ヘンデルの「メサイア」は、神様がメシア教のために用意したとおっしゃいますね。もしそうならば、私は、このクリスマスシーズン、街でいろんなお祝いをして、華やいで、デコレーションをしているのは、もちろんキリスト教徒のためでもあると思いますけれども、それはやはり、私たちメシア教のために神様がそういうふうにしてくださってるんだというふうに言ってもいいのではないかなと思います。皆様には、ぜひ、そういう思いで、目一杯、この華やいだ季節を楽しんでいただきたいなと思います。
 というか僕は、日本中がイエス・キリストの生誕を祝うクリスマスを──もちろん日本中だけじゃなく世界中ですけれども──日本全体でクリスマスということを受け入れて、お祝いをしているのはすごいことだと思いますよ、よく考えると。イエスは、いわばただの一宗の教祖ですよ。その人物のために、学校とかでもクリスマス会とかしてますよね。
 だから、それはきっと、多くの人は意識していないかもしれないけれども、イエスという存在は、我々にとって、全人類にとって、何か関係がある、大切なことがあるから、ですよね。クリスマスということを、ほぼ全員キリスト教徒ではない日本人ですら無意識に受け入れていますよね。日本人は、キリスト教の教会で結婚することも抵抗なくしますしね。
 だから、もし、「イエスを贖い主として受け入れない」「明主様だけが唯一のメシアである」と言うんだとしたら、もう日本中の人がおかしいということになりますよ。街でクリスマスの飾りをしている日本中がおかしいということになりますよ。
 だから、教主様を批判している方々は、イエスを贖い主として受け入れない、明主様だけが唯一のメシアである、ということを主張しているようですが、そうだとすると、このクリスマスをお祝いしている日本人全体、世界全体がおかしいと、そういうことになってしまいますよ。
 でもメシア教である我々はそうではない、ですよね。多くの日本人はイエスを無意識に受け入れている状況だと思いますけれども、私たちは、意識的にイエスを贖い主として受け入れている。そして、我々の神業の第一ステップを成し遂げられた偉大な存在だということを受け入れている、そういうことですね。

 

今年私は、こういう場において、「悔い改め」ということについて何度か話しましたが、そのことに関して、最近、あることをクリアしないと年を越せないんじゃないか、そう思わされています。
 それは何かというと、結局、「悔い改め」と聞くと、すぐ、「自分はそこまでの悔い改めの思いはなかなか持てない」「なかなか思えない」というふうになりますね。というふうに言うということは、前提として、悔い改めるという思いを自力で持てると認識している、からですよね。自分で悔い改められると思うから、「まだそこまで思えない」とか私たちは言う。ですね?
 では我々は、果たして、努力をすれば、人間の力によって悔い改めることができるのか、できないのか。私たちは、この問題をクリアしないといけないと思うんです。
 で、それは、ひと言で言えば、人間には本来そんな力はない。
 いや、確かに、悔い改めようと思おうとすることは本当に大切なことだと思いますよ。それを否定しているわけではないです。ただ、忘れてはならないことがあるのではないかと、そう思うわけですね。
 お受けする──これも大切ですね。「お受けします」というふうに思うことは本当に大切ですよ。でも、お受けすることを我々の力で思えるのかというと、本当はそんな力は我々にはない。
 そうでなければ、あの人はお受けできる、この人はお受けできない、自分はお受けできた、あの人はお受けできない、もうその世界ですよ。あの人は悔い改めてる、この人は悔い改めてない、私はなかなか悔い改められない、というその世界ですよ。
 でも、神様はそういうことではないのではないでしょうか。お受けするどころか、人間は、呼吸することも、話すことも、立つことも、歩くことも、神様の力なくして、なんにもできない存在です。
 そういうことを言うと、「いや、人間は確かにちっぽけな存在だけど、でも捨てたもんじゃない」というようなことを我々は簡単に言っていますよ。
 でもそんなことを言っていると、明主様の今日の聖言にもありましたように、何を自惚れて、何をホザいてるんだ──明主様はホザくという言葉を使っておられましたね──というふうに言われてしまうと思いますよ。
 明主様の御歌に、「大神の眼より見れば人間はよりさきものとこそ知れ」。神様の眼から見ると、人間は蟻より小さいものなんだと知りなさい、こういうことですね。この場合のその小ささというのは、人間からの見た目ですね。人間から見た蟻の大きさ、それぐらい小さい存在なんだよという御歌。
 人間の小ささをなかなか受け入れたくない人にとっては、蟻みたいに小さいのかとるかもしれません。でも、蟻ですから、まだ人間の目に写ってますね。なので、我々としては、神様は確かに偉大な存在だから、蟻と言われてもそれはしぶしぶ受け入れるしかないか、蟻も力を合わせればすごいことができるし、というようなことを思うかもしれない。
 でも、こういう御歌もありますよ、「大神の目より見れば人間は菌よりもなほさからん」(一同笑声)。もう肉眼では捉えられなくなりました、ばい菌ですからね。顕微鏡ででしか捉えることができない。でも、「黴菌よりもなほ小さからん」ですから、ばい菌よりもなお小さい。
 私たちは、明主様というと、本当に偉大な存在で、我々人間としては、明主様を、なんかこう人間的な意味で高みに置いてしまうようなこともあると思うんですけれども、こういう御歌で表現されている明主様の神様に対する謙虚さはすごいですね。人間である私という存在は、ばい菌よりもなおも小さいんだとおっしゃってますよ。
 私は、そういう明主様にして初めて、新しくお生まれになることができたんじゃないのかなと思うんですね。「新しく生まれる」というと、なんか、善いことをして、どんどん偉大な存在になって初めてそういう存在になれるようにも思うと思うんですけれども、やっぱり神様に対しての謙虚さ──人間に対しての謙虚さではないですよ──神様に対しての謙虚さ、これがないといけない、そう思います。だからここに、我々の大いなる勘違いがあるのかもしれないと思ったりもします。
 神様は、「万能の力を持っているのは私だ」、「はい、おっしゃる通りです」。「命はお前のものなのか?」、「違います。私はばい菌よりなお小さい存在です」と明主様は思われて、「そうか。ならば私の命を与えよう」となったと思うんですよ。
 明主様の神様に対する信仰心。神様のみ前においてご自分をどういう存在として捉えていらっしゃったのか、これを見誤ってはいけない。
 有名な、「国と国人と人とのもなき争ひ止むるは神の外なき」。これは大変な御歌ですよ。普通、人と人がっていたら──いや、目の前でいろいろ起きていることを、ただ、「神様が止めるんだ」と言って何もしない、というへ理屈で捉えるのではなくて──争いを止めるのは「神の外なき」ですから、神様の他にいない、人間の力ではない、ということですね。すごい御歌だと思いますよ。
 あるいは、「全人類救ふ力はの神の外になき事知る大き」。私たち今まで、これは素晴らしい御歌だなと何となく思ってきたと思うんですけれども、でも、よく考えると、神様がすべての力をお持ちだとしたら、我々には、もうつまらなすぎますよ。
 神様から、「あなたには救いの力はない。持っているのは私だ」と言われたらふてくされるぐらいですよ、私たちは。でも明主様は、それを「大き幸」だとおっしゃってる。私にはなんの力もない、神様がすべての力をお持ちなのだと知ることが私にとっては幸せなんだ、大きな幸せなんだと明主様はおっしゃる。
 この明主様の姿勢は私たちの正反対だと思いますよ。私たちは、自分が活躍したい、自分の手柄としたい、一生懸命御用をして自分が評価を得たい、そして、自分の努力によって何か良いことが起きると、それが幸せだと思っていますよ。でも明主様にとっては、神様にすべての力がされるのが「大き幸」なんですね。
 でも、明主様がいかにこのようなことをおっしゃってもね、この人間という存在は、本当に神様というご存在を認めないことについては上手だなと思うんですね。どんなに明主様が「人間は小さい」ということをおっしゃったとしても、「いや、確かに人間は小さいけれども、小さい人間同士力を合わせればすごいことができる」とかすぐ言いますよ、我々はね。
 もちろん協力していろんなことをしなきゃいけないのは事実ですよ。だけど、神様のお力を認めないために、ありとあらゆる言い方を考え出していますよね。だいたいそれを、なんか、良いことみたいにして言っていますよ、世の中では。人間はちっぽけな存在だけど、でも捨てたもんじゃない、みんなで力を合わせれば立派なことを成し遂げられる。そういうことを、良いことかのようにして言っていますよ、世の中では、私たちは。
 でも、そうやって人間が願う方向にどんどん進んで文化を発展させてもね、明主様は、「文化のみ如何に進むも人類の幸福はなし神他にして」
 文化が発達していくのは我々としてはそれは幸せなことだと感じますね。いやぁすごいスマホができた、これができた、あれができたと言って、それは、我々にとっては幸せなことだと思いますね。でも明主様は、人類の幸福はそうじゃないとおっしゃる。神様を抜きにしたら人類の幸福はないんだとおっしゃる。
 我々は、人類の幸せが神様の幸せだと思ってきたと思うんですね。人間が幸せなのを神様が見守ること、それが神様の幸せだと思ってきたと思うんですよ。でも本当は、神様の幸せがあって初めて、私たちの幸せもある。だから本当は、神様の幸せが人類の幸せである、そういうことですね。ここにも、私たち人間の大いなる錯覚があるんじゃないかなと思いますね。
 じゃあ神様の幸せは何かと言ったら、神様は親なんですから、人類が神様のもとに帰ってきてほしいと願ってるに決まってるじゃないですか。でも我々は、自分の力でできる、人間同士力を合わせれば何でもできると言って、全然神様のほうに心を向けてませんよ。
 「本当はすべて神様のお力なんですね」と思わせていただくことができれば、それは神様にとっての幸せですよ。よく分かってくれたねとおっしゃってくださると思いますよ。
 だから、「人の力いとど弱きを知りてより心に宿る神の生魂」ということです。で、この御歌はどういう意味なんだろうか。
 自分が、神様という存在と戦うようにして、人間も捨てたもんじゃないとしていれば、それは、もうずっと、神様から見たら、「あなたはばい菌よりもなお小さい存在なんだよ」と言われちゃうんですよ。でも、「自分のものは何もありません。ばい菌ほど小さい私の体の細胞すらも神様が自由自在に使っておられるんですね。すべてあなたのものです」とすれば、今度は、「黴菌よりもなほさからん」どころじゃなくて、「全部あなたのものですよ」と言っていただけるんです、神様から。
 「あなたはばい菌よりも小さい」、「はいそうです。それどころか、すべてあなたのものです、神様」とすれば、今度は、実は、「すべてあなたのものだよ」となるんです。
 この目も、耳も、鼻も、口もそうだし、私があなたの中にいて、見て、聞いて、手を動かしたり、仕事したり、呼吸したりしている。その全部があなたのものですよ、と言っていただける。何もないと思ったけれども、すべてが神様に満たされれば、今度はそのまったく逆で、全部ですよ。
 それなのに、私たちは、自分のすべてを神様に満たしてもらうのではなくて、神様という偉大な存在がいて、その前にひれ伏し拝んでいる小さい人間みたいになってしまっている。でも、そもそも信仰する心そのものが人間の心では持てないんです。
 だから、全部を明け渡せば今度は、ところがどっこいすごい存在ですよ。ばい菌どころか、もう神様というような存在ですよ。
 だから、今まで私たちは「信仰、信仰」と言ってましたけれども、自分は偉大な神様を一生懸命信仰してる、としていれば、もう、ずっと小さいままですよ。
 ばい菌よりもさらに小さいと明主様から言われるということは、「もう諦めなさい」ということですよ。もう、人間の力で何かをするのは諦めなさいということですよ。それもまたへ理屈で捉えてね、じゃあ神様がすべてされるなら人間は何もしなくていいんですね、ということじゃないですよ。与えられていることを精一杯させていただくのは当たり前のことですからね。
 今回の教団浄化においても、私たちは選択したみたいになりましたね。聖地とか慣れ親しんでる教会があって──これは、元いづのめや東方之光の方がだと思いますけれども──そういう選択を迫られて、それは本当に尊い選択であったことは間違いないですね。そして、そのような信仰が結集して、去年、世界メシア教が復活した。明主様がご命名になった教団名が復活した。
 でも、神様から言わせると、人間側に手柄があるのかどうか。
 確かに私たちはいろんな困難を乗り越えて、本当の明主様信仰の道である教主様の道を選んで、えある道を歩いてますよ、今。神様が本当に大いに祝福してくださっている。でも、では私たちに何か手柄があったからそうなったのかというと、本当は、私たちの手柄は何もないと、そうなりますね。
 だって今日の聖言でも「自由自在」という言葉がありましたね。神様がすべてのものを自由自在に使われる。自由自在に何かを使うことができるということは、使われているほうの意思はゼロですよ。むしろ、使ってらっしゃる方のご意思が100
 今、なぜ私たちがこういう道を歩ませていただいているのか、もはや、その理由は分からないですよ。神様が、何千年も前に、「2020年に世界メシア教を復活させる」と一方的に決めておられて、そして、私たちになんの手柄がなくても、私たちを使うと神様が決めておられて、私たちを集められた。一方的にですよ。
 逆に、人によっては、教主様のことをおかしいと思ったらもうそれをめることはできないですよね。ひとたび神様がそのようにされたら、それを人間の力で変えることはできない。
 ということは、神様に対して心を開くのも、また逆になになって神様に反発するのも、人間の意思は実は一切関係ない。信仰心を持たせるのも神様だし、信仰心を持たせないのも神様。だから今日の御歌に一寸先は見えないというのがありましたけれども、我々も、神様のことを見くびっていたら、神様にどういうふうに使われるか分からないですよ、本当に。
 だから、明主様の御歌の、「神を恐れ正しき道を守る人つくるぞわれの使命なるらん」。「正しき道」ということも、我々としては、それは、「ちゃんと信仰することだ」とか、「ちゃんと参拝することだ」とか思いますけれども、「神を恐れ」という言葉が付いているということは、人間がするさまざまなことについて思い上がってしまうのではなくて、「信仰する心も自分の心ではないんですね」「お受けする心、悔い改める心もあなたのものなんですね」とすれば、それが「正しき道」ですよ。
 普通は「正しき道」というと、ちゃんと悔い改められて、ちゃんと参拝できて、ちゃんと感謝できる人みたいになるんですけれども、そうではなくて、すべてを神様にせる人が「正しき道」を歩んでる人なんだよと、そういうことだと思います。だから、「正しき道」と言っても、それは「神の道」だということです。
 だいたい、この「神を恐れ」ということも、日本人でこういうことを言われる方は珍しいと思いますよ。キリスト教とかユダヤ教の人は、神様を恐れるということは聖書とかにもあるので言いますけれども、日本人としては珍しいと思いますよ。
 これは、いわゆる神道で言う自然界を畏怖するのとはわけが違いますからね。明主様のおっしゃる「神を恐れ」は、神エホバに対する恐れですよ。日本人の多くの人は、「神エホバとか天の父は恐れるべき存在なんだ」なんて、あんまり思ってないんじゃないかなと思いますね。
 そもそも、「神を恐れ」なんて言うと、神様というのは恐れる存在じゃなくて愛の存在なんだというようなことを簡単に言う人がいますね。
 でも、神様を恐れる心なくして、どうして神様が「愛のみ」だと知った時の感動があるんですか。神様に受け入れられないかもしれないという恐れなくして、どうして神様に受け入れられた時の喜びがあるんですか。悔い改めても赦されないかもしれないという恐れなくして、どうして、神様から、「あなたのことを赦したよ」と言われた時の喜びがあるんですか。死ぬかもしれないという恐怖、無になってしまうかもしれないという恐怖なくして、どうして永遠の命に出会う喜びが味わえるんですか。孤独の絶望を知らずして、どうして神様がずっと一緒にいてくださるということを知った時の言葉に出来難い喜びを味わうことができるんですか。
 だから、私たちの今日までの信仰は、本当になまぬるい信仰だったんですよ、やれ実感があるとかないとか言って。でも明主様は、神様に対する本物の信仰を私たちに持ってほしいと願っておられると思いますよ。違いますか?
 でもね、じゃあ孤独の絶望とかをそんな簡単に味わえるのかというとそれはなかなか難しいですよ。でも、少なくともね、「本当の喜びを感じられるようになりたい」とか、「今までの私はなまぬるい信仰だったんだな」ということは認めなきゃいけない。
 として厳しいから考えられないほどの愛情もあるんです、神様は。本当の幸せとか、喜びとか、愛に触れなければ、生まれてきた意味が何もないじゃないですか。そんな中途半端な、なまぬるい思いを神様に捧げてたってどうにもならないですよ。
 確かにね、そうは言っても私たちは愛を求めますよね。誰もが愛を求めてますよ。赤ちゃんであればお母さんとかお父さんの愛をずっと求めて、大きくなれば今度は同性とか異性からの愛。で、結婚すれば配偶者からの愛を求めて、子供ができたら、自分は子供から愛されているだろうか。もっと大きくなったら、自分は孫から愛されるかな、というように、ずっと愛を求めてますよ、我々は。全人類の誰もが愛を求めて生きている。渇望してる。
 でも、もしそうじゃないとして、自分は誰からも愛されていて満たされています、友達からも家族からも愛されて満たされています、ということだったら、我々は神様のことに心を向けることは絶対ないじゃないですか。
 ということは、私たちが愛を求めて求めて、さみしいなと思ったり、満たされない思いになるのは、その瞬間、愛がないどころじゃなくて、実は、神様が、「人間の愛よりももっと大きい愛があるんだよ」「それを知ってほしい」「私がふんだんな愛を持ってあなたを包んであげてるんだよ」ということを私たちに教えてくださるために、そのために、私たちが愛を渇望しているんじゃないんですか?そうじゃなければ──もし常に愛に満たされていると思っていたら──神様のことなんか絶対に思わないですよ、私たちは。
 だから僕は、どういう形にしろ、全人類が今、もれなく愛を求めているということは、神様が、全人類を、もれなく、あふれんばかりの愛を持って包んでおられる何よりの証拠だと思いますよ。
 もちろんこれを感じるのは難しいですよ、だって、さみしい時はさみしいですからね。でも、もし、さみしい思いが湧いてきた時に、「私は人間の世界の愛ばかり求めて生きてきたけれども、実は、神様は、神様の愛に気づいてほしいから私にこういうさみしい思いを湧かせてくださっているんですね」「私はなんと幸せなんだろう」ということで、「私は神様の愛に満たされております」と思うことができたら、それは神様は喜ばれると思いますよ。
 だって神様は、全人類のほとんどから、一日中、「足りない、足りない、足りない」と言われてますよ。でも、少なくとも我々だけでも、神様に対して、「足りてます」と言うことができれば、それは神様喜ばれると思いますよ。
 お金のこともありますよ。お金も確かに足りない。もちろんね、それはできるだけあったほうがいいですね。でも、物質的に完全に満たされるだけでは、本当は、心が満たされることはない。
 だから、「お金が足りないな」「もうちょっとほしいな」という時に、「本当は、今、神様が私を十二分に恵んでくださって、豊かに富ませてくださっているんですね」とすれば、それは目には見えない富かもしれないけれども、神様は喜ばれると思いますよ。
 いや、もしそう思わないとしたら、もう5年先も、10年先も、100年先も、1000年先も、私たちは「足りない」と言ってますよ、絶対。愛も足りないし、物質的にも足りない、それをずっと言い続けてますよ。
 だから、決めるしかない。
 足りない、渇望してると感じた時に、「本当は、もう、神様が、あふれんばかりの愛と富を持って臨んでくださっているんですね」「私は満ち満ちています」と決めるか決めないか。もし決めないとしたら、「足りない」という人生をずっと生きていくだけですよ。
 だから、今年もあと1か月ですけれどもね、年が越してしまう前に、皆様にはね、この生き方に転換する決心をしていただきたい。だってそうじゃなければ、ずっと「足りない」という人生をこのまま歩んでいくんですか?
 もちろん、そう決心したからといって、すぐにね、具体的にいろいろ変わるかどうかは分からないですよ。だけど、たとえ状況が同じだとしても、生き方は今までとはまったく違いますよ。今までは、ずっと、「足りない、足りない、足りない」と言ってきたのが、今度は、「あります、あります、あります」となるんですから。
 いや、だからね、そのように思わせていただくことができれば、そしたら、実は、神様がね、「本当にお前に必要なものをもっとあげよう」と言って、物質的にも満たしてくださるかもしれない。
 「足りない、足りない、足りない」と言ってね、今、神様から与えてもらっているものを喜ばずして、どうして神様が次の恵みをくださるんですか?
 私たちは「新しく生まれる」ことを目指してるんですよね。「生まれ変わるのではなく新しく生まれる」。ということは、まったく別の命に目覚めようとしているんですよね。その中で、今までの生き方のままでいくのか。というか人類すべてですね。人類すべて「足りない」として生きている。その生き方でこれからも、来年も、再来年も死ぬまでそれで生きていくのか。それとも、今までのあり方から大きく転換して、大きく自分の生き方を変えて、そして神様に、「あなたはあふれんばかりに満たしてくださってるんですね」という思いをお捧げしながら生きていくのか──そのように思わせていただくのは、渇望する思いが湧く時にこそですよ。
 そのように歩めば当然神様は喜ばれるし、神様に喜んでいただければ、私たちの人生うまくいくに決まってるじゃないですか。
 だから本当に、世界メシア教の信徒である私たち全員で、神様に対して、「満たされています」という思いをお捧げしたいと思います。いや、本当に、満たされてるんですよ、今。天の父、エホバという存在に、また、主の栄光と、祝福と、富と、愛と、幸せとに満たされてるんです、今。
 だから、感謝をするならば、そのことに対する感謝を、私たち一同、この年末の時期に、神様にお捧げしたいと思います。
 ありがとうございました。

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