新穀感謝祭
2021年12月1日
明主様御歌
人の身は神が造りしものにして人の造りしものにはあらじ
神を恐れ正しき道を守る人つくるぞわれの使命なるらん
万能の力を有つはヱホバなる只一柱なる神よりぞなき
智慧や学如何にありとて判るまじ神の仕組の奥の奥はも
人の眼は一寸先も見えぬなり頼むは神の御護りなりける
聖言
無神論に就いて(昭和29年1月6日)
一体自分という者は何が為に生まれ何を為すべきであろうか、何時迄生きられるのか、死んだら無になるのか、それとも霊界なる未知な世界が在って其処へ安住するのか等々。これ等も考えれば考える程分らなくなり、どれ一つとして分るものはない。仏者のいう実にして空、空にして実であり、天地茫漠、無限無窮の存在であって、これより外に形容の言葉を見出せないのである。これを暴こうとして人間は何千年も前から、凡ゆる手段、特に学問を作り探究に専念しているが、今日までにホンの一部しか分らない程で、依然たる謎である。としたら大自然に対する人間の智慧などは九牛の一毛にも当るまい。これも仏者の所謂空々寂々である。処が人間という奴自惚れも甚だしく、自然を征服するなどとホザいているが、全く身の程知らずの戯け者以外の何物でもあるまい。故に人間は何よりも人間自体を知り、大自然に追随し、その恩恵に浴する事こそ最も賢明な考え方である。
処で以上の如き分らないずくめの世の中に対し、たった一つハッキリしていることがある。それは何であるかというと、これ程素晴しい世界は一体誰が造り自由自在思うがままに駆使しているのかという事である。そこでこの誰かを想像してみると先ず一家庭なら主人、一国家なら帝王、大統領といったように、この大世界にも主人公がなくてはならない筈であり、この主人公こそ右の誰である神の名に呼ばれているXでなくて何であろう、というより外に結論が出ないではないか。
以上の意味に於て、若し神がないとしたら万有もない事になり、無神論者自身もない訳である。恐らくこれ程分り切った話はあるまい。これが分らないとしたら、その人間は動物でしかない事になろう。何となれば動物には意志想念も智性もないからであって、人間の形をした動物というより言葉はあるまい。それには立派な証拠がある。即ち無神思想から生まれる犯罪者であって、彼等の心理行為の殆んどは動物的であるにみてよく分るであろう。従ってこの動物的人間からその動物性を抜き、真の人間に進化させるのが私の使命であり、その基本条件が無神思想の打破であるから、一言にしていえば人間改造事業である。
『栄光』242号
*抜粋