PDF: 御生誕祭_真明様ご挨拶

「貫く心、義の心」

於:グランドニッコー東京 台場(パレロワイヤル)

 

私は正義の為なら世界を相手にしても闘うつもりである。

 聖言「宗教文明時代(下)」

  

皆様、こんにちは。
 ただいまのビデオ「世界救世教を救う」。
 皆様お一人おひとりは、何を感じられたのでしょうか。
 私自身印象に残りましたのは、明主様、二代様、三代様、また、現教主様のお姿はもちろんですけれども、特に、二代様と三代様のもとにっておられた信徒の方たちの映像がありましたね。あの映像が非常に印象に残りました。
 明主様がご昇天になって、人によっては明主様信仰を辞められた方もいらしたでしょう。そういう中にあって、明主様がご遺言によって二代様にを託されて、そして、それを信じられた方々がいらした。明主様が亡くなっても明主様のご神業は終わりではない、教主様のもとで続いていくんだ、教主様が明主様のみ心を現界にしていかれるんだ、ということを信じられた方たちがいた。
 はっきりしておかなければならないのは、明主様は、「これからは理事会の人たちみんなで力を合わせてやってください」とはおっしゃらなかった。これは大切な点ですよ。
 二代様、三代様のもとにった信徒も、「わー、このお方は理事会が推戴したお方だ」ということで二代様、三代様のもとにっていたわけではないですよ。
 そうではなくて、明主様が二代様に後を託されたということは、明主様は、「教団の中心はこれからは教主で、これから私は、『教主という座』を通して働きますよ」というご意志を示されたことなんですから、その明主様のみ心を信じられた方々が、映像にありましたように、二代様、三代様のもとにっておられた。
 ということは、この方たちがいてくださったから本当の明主様信仰は継続されて、そして私たちが明主様のことを知ることができ、明主様を通して神様に出会うことを許された。
 だから私たちが今日ここにいるのは、明主様ご昇天後に「教主様」というご存在を信じられて、そのような信仰を持ってくださった方たちのおかげですよ。だから今日、私たちはここに集わせていただいている。
 そういう方たちがいらしたからこその皆様であり、また、そういう意味においては、今、皆様がいらっしゃるからこその私であると、そのように思っております。
 また、私だけではなくて、今、皆様がその尊い信仰を継承していらっしゃるから、これからも、明主様の本当の救い、また、神様に出会う人たちが生まれるということを思うと、皆様お一人おひとりの信仰というのはどこまでも尊いものだな、ありがたいなと、私は今、そのようなことを思っております。
 というように明主様は、どんな団体にも中心がある、主人公がいると、そう仰せですね。日本において言えば、それは、究極的には天皇陛下であられる。
 で、世界救世教において、その中心、主人公、これはずっと教主様なわけですね。教主様。
 そうなんですが、これが、恥ずかしい話ですけれども、教団がもめまして、今、「世界救世教」と呼ばれている人たちは、岡田陽一教主様は主人公としては要らないと、そういうことになったわけですね。
 そうなると、今後、「世界救世教」においては、果たして誰が主人公なんだろうか。今後誰が、信徒の模範、明主様信仰の模範となって、その方の徳によって「世界救世教」という団体を導いていくのか。
 それは、現在、「世界救世教の五代教主」である、東海大学名誉教授の渡瀬信之氏なのかというと、どうやらこの方は表に出られない。そうではなくて、規則や教規に「教主の認証」というのがあって、理事会の人たちはこの教主のハンコが必要ですので、渡瀬氏は、事実上、理事会の願うそういう手続きをしてくれる存在なんだと、そういうことなんだろうと思います。
 となると、今の「世界救世教」において、その主人公という存在、中心の存在、明主様信仰の模範として信徒にめられるべき存在は、もはや一人しかいない。それは誰かというと、現在、「世界救世教管長」だと言っている長澤好之氏ですね。この方しかいない。
 四代教主様が要らないということは、「世界救世教」は今、「世界救世教管長・長澤好之」という方が信徒の模範であり、そのお方の信仰によって「世界救世教」にがる世界中の信徒を導いていくんだと、そういうことになりますね。
 私は、この長澤さんという方が表立って話をされたのはあまり聞いたことはない。それよりも、どちらかというと、教主様のお言葉はここが御教えと違う、というような批判する文章みたいのだけはたくさん出しているのは知っておりますけれどもね。まあ、膨大な明主様の聖言から、ここが違う、ここが違うと人を批判する文章を作るなんていうのは誰にでもできることですよ。
 でも、もし「世界救世教」にとってそこまで長澤さんという方が大切なのであれば、もし許されるならば、長澤さんには、こういう場に来ていただいて、長澤さんご自身の信仰、生きざまを話していただきたいなと、そして、それを聞いた上で、教主様と私で、長澤さんが、本当に明主様のみ心に適う歩みをしているのか判断したいなと、そう思ったりもしています。
 で、この、「世界救世教を救う」というタイトルですけれども、明主様ご自身は、「世界救世(きゅうせい)教」という名前は一度も使われたことはないんですよ。明主様は、ご昇天になるまで「世界救世(メシア)教」。「救世」の漢字に「メシア」という読みがなを振って、「世界救世(メシア)教」。
 だから、明主様ご在世中であれば、「世界救世教を救う」というビデオのタイトルを見た場合、皆、「世界メシア教を救う」と自動的に読んだわけです。
 でもそれが、明主様ご昇天の1955年からたった2年経った1957年に「世界救世(きゅうせい)教」になった。まあ変えるには都合が良かったですよね。読みがなを特別記載しなければ、「救世」は普通「きゅうせい」と読む漢字ですからね。
 ということで1957年から2021年の今日まで「世界救世(きゅうせい)教」で来た。今、「世界救世教」という字を見たら、世の中を含め、誰もが、「世界きゅうせい教」と読みますよ。でも、明主様時代は誰もそんな読み方をしていなかったんですよ。「世界救世教」は、「世界メシア教」と読んでいた。
 もし今明主様が突然現界に来られて、世界救世教というのを、皆が「世界きゅうせい教」とか「きゅうせい教」とか言っていたら、びっくりされると思いますよ。
 なので私は、この改名というのは、いわば、明主様に対するだまし討ちであったと、そう思っています。
 明主様は、「救世」という漢字は「メシア」と読んでほしいと願っておられた。しかも、「世界救世教」と書いて「世界救世(きゅうせい)教」と読ませるのは「東洋的で面白くない」、西洋の「メシア」という言葉を使いたいとはっきりおっしゃっておられた。
 だとすると、私は、「世界メシア教」を「世界きゅうせい教」にし、それを定着させた私たちは、皆で明主様へのだまし討ちをしたことだなと、最近そのように思っております。
 もちろん、改名した目的、意図は分かりますよ。要は、「メシアは非常に宗教的な響きのする言葉だ」「イエス・キリストもメシアとされているから、他宗を刺激する言葉だ」「だからこれを表看板にすべきではない」「そもそも、メシアの働きは『世を救う』ことなんだから、別に世界メシア教でなくて、世界きゅうせい教でいいじゃないか」という、そういうことですよね。
 でも、ひとたびそのようにして明主様のみ心から離れたら、そのあとはもう際限ないですよ。
 今度は、もう宗教ですらなくなっていきますよ。最初はメシアから始まった。明主様は「メシア」を出されたかった。でも我々が、「いや『メシア』と言ってもその働きは世を救うことなんだから、メシアという言葉は出さなくてもいいじゃないか」となった。すると次は、「『世を救う』ということは、要は、世の中をより良くすることなんだから、別に宗教じゃなくてもいいじゃないか」、というふうに行きますよ、どんどん。もう完全に、明主様のご都合よりも、人間側の都合ですよ。
 で、それは何かと言ったら、我々自身もろに関わっていましたけれども、象徴的には「MOA」ですね、MOA美術館とか、MOAの活動。要は、明主様が説かれたことを、世の中で一般的に言われたり受け入れられていることまで落とし込んで進めて行こうという、そういうあり方ですね。これ、全然他人事じゃないですよ、私たちにとって。
 「MOA美術館だったら人に紹介しやすい」と思ってきませんでしたか?でも、「メシア教」が「きゅうせい教」になって、さらには、そういう宗教でもない活動をしている時点で、もう明主様のみ心から、あまりにもかけ離れてますよ。
 でも我々はその考え方を何の抵抗も無しに受け入れて、むしろ友達に伝えるのに好都合だ、くらいに思ってきませんでしたか?
 明主様にとっての神様はキリスト教の天の父と同じ神様なのに、それを神道的な神様に──神道とか仏教は日本で一般的に受け入れられていますからね──神道的な神様に置き換えたりもしてきませんでしたか?
 というように、世の中で一般的に言われていることに明主様のことを落とし込んで、その中に自分も入って人に伝えて、それで、なんか少し明主様のみ心が実現したかな、というふうに思ってきたじゃないですか、我々、みんな。
 そのような姿になってしまう我々が踏みった第一歩は、世界メシア教を「世界救世(きゅうせい)教」にしてしまったこと。これが一番最初の誤りであった。
 だから私は、前身「主之光教団」が、今、カタカナで「メシア」とした「世界メシア教」とされているのは、漢字に振りがなの「世界救世(メシア)教」としてしまうと、また、いつ将来誰が振りがなを取って「世界救世(きゅうせい)教」にしてしまうか分からないのでそれを避けるためでもあり、また、明主様がお出しになりたかったというのは「世界メシア教」なんですから、もう絶対に「メシア」からは逃げませんという明主様へのお詫びを込めた意思表示でもある、だから「世界メシア教」とされているのではないのかなと、そう思っております。
 でも、とにかく、世界メシア教を世界きゅうせい教にしたことによって、明主様のご都合や明主様の遺されたことそのものよりも、教団の運営とか、人に伝えやすいとか、世の中に受け入れられやすいというような、人間側の都合を主体にしたあり方にずっと入っていってしまった。
 ご浄霊。ご浄霊もそうですよ。
 明主様は、もう、60何年も前ですよ、60何年も前に、「御浄霊は二の問題」とおっしゃった。ご浄霊のことになると、いや教主様がどうだとか言っていますけれどもね、「御浄霊は二の問題」とおっしゃったのは誰ですか?明主様ですよ。「これから想念の世界である。御浄霊は二の問題」だとおっしゃったのは誰ですか?明主様ですよ。明主様が世界メシア教時代におっしゃったことですよ。でも、明主様のみ心をお受けしない世界きゅうせい教の我々にとってこれは都合が悪い。布教、宣教していくのにご浄霊は便利だ、ということですからね。だから、はっきり言ってしまえば、世界救世(きゅうせい)教にとっては、明主様のみ心がなんであるかなんてもう関係ないんですよ。
 で、教主様がこの明主様のみ心に何とかお応えになろうとされて、「明主様がご浄霊は二の問題とおっしゃった意味は、本当は、私たち一人ひとりの中に神様の手があって、私たちは心にいろいろな思いを感じるけれども、それを神様が受け取ってくださっているじゃないか。その愛の手が私たち一人ひとりの中にあるじゃないか」ということを訴えられると、その教主様に対して、教主様はご浄霊を否定していると言う。ということは、そういう方たちは、明主様を否定しているということになりますよ。
 キリスト教のこともありますね。教主様にキリスト教徒の友人がいて、キリスト教のことを学んでいる、それが問題だと言ってる。その論法、本当に大丈夫ですか?
 今日の御生誕祭の御歌5首。親切に「明主様御歌」となっていましたけれども、確かに、キリスト教を否定したい方々にとっては、今日の明主様御歌は、教主様が作ったお歌じゃないかと思いたいぐらいですよね。5首全部に、「ハレルヤ」という言葉がありましたね。明主様はあんなに「ハレルヤ」とおっしゃっていたのかと思うくらいですね。
 ということは、私たちは、普段の生活や会話の中で「ハレルヤ」と言っていいんですよ。そうですよ。だって、明主様がおっしゃっているんですから。
 でも、もし明主様の信徒の誰かが、突然「ハレルヤ!」と言ったら、「それは明主様の信徒としておかしい」と思う私たちがいませんか?というくらい私たちは明主様のみ心からかけ離れているということですよ。私たちは、明主様があんなに「ハレルヤ」とおっしゃっているのに、普段の生活で「ハレルヤ」と一度でも言ったことがあるんだろうか。
 今日の聖言も、明主様にとっては、イエスもご自分も一体として見ていらっしゃいますよ。明主様は、「キリスト教の学校に行くのの何が悪いんだ。イエスを拝むのは私を拝むのと同じこと。私を拝むのはイエスを拝むのと同じことだ」とおっしゃってますよ。もう密接に関係してますよ、イエスと明主様は。明主様の御生誕が1223日、イエスの生誕が1225日、絶対関係ありますよ。
 でも私たちは、世界メシア教を世界きゅうせい教という名前に変えてしまって、もう宗教ですらないという道が正しいと思うくらい明主様のみ心から離れていった。
 だから明主様は、何とか私たちを本当の道に戻さなきゃいけない、ということで教団に大混乱を巻き起こしてくださった。だって、世界きゅうせい教時代の歴史はもうひどい歩みですよ。内紛に次ぐ内紛。聖地を奪い合い、警察も出動したり、裁判、裁判、まあ、今もしておりますけれどもね。それは、明主様が、厳しい愛のによって、「世界メシア教に戻りなさい」「私のみ心に気づきなさい」ということを混乱を通して教えてくださろうとしていらしたからですよ。
 で、最終的に、我々は、行き着くところまで行き着きましたね。我々の仲間が、「教主様を尾行・盗聴・盗撮する」というところまで行き着いてしまった。
 この行為は、信仰者どころか、もう人として踏むべき道から外れてしまった行為ですよ。そこまで落ちてしまいましたよ、私たち自身が。人がどうのこうのじゃないんですよ、このことは。私たち自身の問題なんですよ。
 で、このこともね、「何度もその話を聞きたくない」とか「もう前向きに進んでいるのに」とか言っている方がいらっしゃいますけれどもね、これは、何度も言いますけれども、他人事ではないんですよ。他人事ではない。やはり向き合わなければいけないことというのはあるんじゃないんですか?
 そもそも、よく考えると、この尾行・盗聴・盗撮ということも、それをされた方たちは、この行為が表に出るとは思っていなかったと思いますよ、元はね。そんな行為をしているということは知られたくない。
 だから、よく考えると、彼らがしようとしていたことは、実は、教主様のプライベートな時間を隠れて付け回して、盗撮して、何か弱みみたいのを見つけて、その情報を裏で教主様に突き付けて、そしたら教主様がびびって黙ってくれるだろう、変わるだろう、これで私たちの言うことを聞くだろうと、そういう目的であった。そうなりますね。そうでなければ隠れて付け回す必要はないわけですから。
 だから私は、尾行・盗聴・盗撮という行為そのものも大変なことだと思いますけれども、この手法。自分たちにとって都合が悪い人、邪魔な人がいる時に取った彼らの手法。あの人は都合が悪い、どうしようか、そうだ、隠れて付け回そう、そして何か情報を入手して、弱みを握って、それをもとに言うことを聞かせようというこの手法。これが、実は、もっと大変なことだったのではないかと思うんですね。
 だって、「世界救世(きゅうせい)教」ですよ。世界を救うべき存在の人たち。その人たちの行っているこの手法。
 ではね、もし教主様がそれに屈していたら、私たちはどうなるんですか。そのような手法を取る人たちと、それに屈する弱い教主様だとしたら、そのもとにいる我々はもうおしまいですよ。そんな教主様と、そんな人たちのもとにいる私たちはもう終わりですよ。
 普通、責任役員とか、理事とか、そのような偉い立場になるのは、他の信徒より明主様に近い存在だからそうなっているのに、その方たちがそんな手法を取って、そして教主様もそれに屈する。そのもとにいる私たちはもうおしまいですよ。
 でも教主様は、私たちが、そのような手法を取る人たちのもとにいることにならないよう立ち上がってくださって、断固として戦ってくださっている。
 また皆様も、その教主様のお心に応えられた皆様、正しい道を歩むと決心された皆様である、そういうことですね。
 で、私は、今「世界救世教」に残っている人たちは、っすらとは言え、教主様に対して何が行われたかというのはほぼ全員知っていると思うんですよ、いろいろと情報は出てますから。
それを知っても、なお、教主様のもとに来ないんだとしたら、私は、明主様の名によって、そういう方たちを、「明主様の信徒」と呼ぶわけにはいかない。
 だって、あまりに明主様に申し訳ないじゃないですか。そのようなことを実行した方たちはもちろんのこと、それを容認している教団、そのもとにいる信徒、その方たちを、「明主様の信徒である」と言うのは、あまりに明主様に対して申し訳ないじゃないですか。そのようなことをしたり、そのような行為を認めて教主様のもとに来ない信徒は、もはや明主様の信徒ではないですよ。

 

今、なぜ私がこのような話をするよう明主様から命じられているのか、その深いところは私にも分かりません。
 でも、少なくとも、明主様は、一人でも多くの人を救いたいと思っておられると思うんです。だって、そんな、明主様の信徒とは呼べない状況の方はできるだけいないほうがいいに決まってますから。
 だから私は、明主様が、そういう方たちに対して、「あのような行為は悔い改めるべきことなんだよ」「悔い改めて、本当の道に来なさい」と強く願っていらっしゃる、そう思うんです。そして、いつか、その方たちが、「自分は明主様の名を汚すとんでもないことをしてしまったんだ」と気づけて、そして悔い改めることができたら、それは明主様にとって何よりの喜びですよね。
 だから、確かに、「聞きたくない」のは分かりますよ、喜ばしい話ではないですから、尾行どうだとか隠れてどうだとかいうのは。でも救いのために──明主様の信徒とはもう呼べないような存在になってしまった人たちの救いのために──必要なこと、あると思いますよ。知らなきゃいけないこと、聞かなきゃいけないこと、あると思いますよ。
 裁判のこともありますね。
 教団が裁判していることを皆様はどう捉えていらっしゃるのか分かりませんけれどもね、これも、あくまでも救いのためですよ。
 かね、自分たちが正しい、とか、正しくないとか、そんなみみっちい、と言いますか、そんなことのために我々は裁判すべきではないんですよ。
 だってあちら側は、もし裁判で勝ったとしたら、「やったー、明主様、二代様、三代様に繋がる教主様を追い出したぞー」「明主様の孫を追い出したぞー」と喜ぶんですか?明主様の信徒としてそんな喜び方ありますか?そんなのは、明主様の信徒としてはもう行き着くところまで行ききった姿じゃないですか。落ちるところまで落ちきった姿じゃないですか、それは。
 でも、もし「世界救世教」が教主様に再び繋がることができれば、まだ悔い改めの機会もあるかもしれない。だから私は、今の「世界救世教」にとっての唯一の救いの綱は、彼らが裁判に負けること、これですね。本当は、これが彼らにとって唯一残された救いの綱ですよ。我々は、別にね、裁判に勝っても負けても教主様のもとにいるわけですから、何も揺るがないですよ。
 だから、裁判をするのも救いのため、ですよ。

 

というように私が今いろいろお話ししているのは何を言わんとしているのかというと、私たちは、「明主様」というといろんなイメージを持ちますけれども、私たちは、明主様の「義」「義を貫く心」というのを忘れがちなんじゃないかなと、そう思っていろいろお話ししているんです、今日。
 貫く明主様、義の明主様、これを私たちは忘れてはならない。
 明主様の御歌にも、「およそ世に強きはれを忘れ正しき道を貫く人なり」とありますね。
 これも、漠然と受けとめれば漠然とした受けとめで終わりですけれども、己を打ち忘れて正しき道を貫くのは大変なことですよ。我々には自分の都合がありますからね、己の都合が。こういうことがまだある、これがまだあるからなかなか貫けない。これが解決すれば、これが終われば貫ける。でも、もし正しい道を知っているのだとしたら、自分の都合をかなぐり捨てて、たとえどうなったとしてもそれを貫くところに、神様と明主様が、「よし、そうするならばいくらでも私の力を援助してあげよう」とおっしゃってくださるのに、我々はそこで、人間の都合に引っかかって、己を打ち忘れないで、いや私にはこういう都合があるとして思い切って貫かなければ、絶対、神様、明主様は援助してくださらないですよ。
 だからそれは、究極的には、教主様が、ありとあらゆる物を失うことになられるかもしれないのに、正しいことのために立ち上がられたじゃないですか、貫いてくださったじゃないですか。
 「善悪の差別も分かぬ人間を作る真理なるらめ」。
 もうね、当然、尾行とかいうような行為は悪ですよ、人間としては。それが分からなければアウトですよ。それくらい無知な私たちだということは、それくらいの真理を今まで信じているような姿だったんじゃないんですか?
 「信仰の真髄こそは礼節を守るにありと知れよ信徒」。
 現界における礼節の中心は、救世(きゅうせい)教においては教主様ですよ。明主様はこの御歌を通して、今、私たちに、「教主様への礼節を尽くすということが、実は信仰にも関係しているんだよ」とおしくださってますね。
 教主様に礼節を尽くせなければ、神様に礼節を尽くすのも不可能ですよ、当然。そんなね、自分たちの都合によって、この教主は気に入る、この教主は気に入らないなんてしてたらね、とてもじゃないけど神様に礼節なんて尽くせないですよ。だって、神様はなんでもされるお方ですよ。今の世の中のニュース見たら分かるじゃないですか。それらすべてのこと、一見、人間の都合なんて度外視したことが次々と起きてますよ。だとしたらね、教主様に対してでさえ自分たちの都合で受け入れる、追い出すなんてしていたとしたら、そのようになんでもされる神様に対して、何が起きたとしても、「あなたが何か必要があってなさってくださっているんですね」という礼節なんか持ちるはずないじゃないですか。
 「物のみに頼り只管つかまんとすれど逃げく幸福の二字」。
 確かに、物、法人格、聖地、施設、教会、大切ですよ。でも、それがほしいがために尾行みたいなことをしたり、そういうことをした人たちを認めて、その人たちのもとに行ったらもう終わりじゃないですか。「物」がほしいがためにそんなことをしたら信仰者としておしまいじゃないですか。そんなことも分からないんですか?
 「滅びゆく偽り人のさよ光の道に背けばなりける」。
 「光の道」とはなんですか?それは、明主様の道ですよ。そして、明主様の道は、世界メシア教ですから、明主様の道はメシアの道。そしてこのメシアの道を教えてくださったのは教主様ですよ。ということは、「光の道」というのは、「教主様のもとにあるメシアの道」である。でも、「メシア」と言っても、明主様はメシア教を開教したと同時にイエス・キリストの存在も受け入れていらっしゃいますからね。だからメシアと言っても、イエス・キリストと明主様のお二人。ということは、「教主様のもとにあるイエスと明主様の道」、これが「光の道」ですよ。それは、これに背けば「滅びゆく」と明主様がおっしゃるように、滅んでいってしまいますよと、そういうことです。
 だから、「世界救世(きゅうせい)教」の方たちは、もし裁判に勝ってしまって教主様に繋がる道がなくなったとしたら、残されているのは、明主様からの裁き──というかね、明主様はとうにその方たちを見放してしまわれていると思いますので──残されているのは神様からの裁きのみですよ。
 神様の手に落ちるのは、恐ろしいことですよ(真明様による注:「ヘブル人への手紙」第1026節~31節参照。文末掲載)。それはもちろん、悔い改めなさいという愛のためではありますけれども、恐ろしいことですよ。
 でも、皆様方は「光の道」を選択された。「世界救世教を救う」の映像の、二代様、三代様の時の映像に出ていた信徒たちのように、清い、高い、尊い、揺るがない信仰をお捧げしてくださっている。
 今日は明主様の御生誕祭ですね。明主様はどのような誕生日プレゼントを一番お喜びになるのだろうか。それは、明主様にとっての一番の宝は、信徒である皆様ですよ。ということは、皆様方の「貫く心」、それを一番お喜びになると思いますよ。
 皆様方が教主様のもとにって、「御浄霊は二の問題」「キリスト教と呼応する」という、明主様が長年願っておられたことに一つひとつお応えして、そして、その道を貫く。
 そして、もし不利なことがあったとしても、「光の道」「正しき道」を貫くところに、神様、明主様がいくらでもみ力をくださいますよ。
 だから、明主様御生誕祭の今日、私は、明主様は、皆様方の信仰を、「何よりの誕生日プレゼントだ」とおっしゃって必ず喜んでくださっていると思いますし、また今日も祭典前にピアノ演奏がありましたけれども、「O Holy Night」と言ってね、イエスが生まれた日を祝っている。確かにめでたいですよ、イエスが生まれた日は。でも、明主様がお生まれになった日もめでたいんですよ。その二人合わせて一つ。イエスと明主様、二人合わせて一つ、これが明主様の道ですよ。明主様の道であり、世界メシア教の道であり、光の道。その光の道を歩む先には、我々では想像もつかないほどの喜びと幸せがもう見えているんですよ、本当は。その道を今、私たちは歩んでいる。
 だから、これからもいろいろあると思いますけれども、私たちは、清い、貫く心というのを忘れてはいけない。そして義の心を貫く私たちのく先を、神様が大きく恵んでくださる。ですので、これからも、共に、光の道を一直線に歩んでまいりましょう。
 ありがとうございました。

 

もしわたしたちが、真理の知識を受けたのちにもなお、ことさらに罪を犯しつづけるなら、罪のためのいけにえは、もはやあり得ない。ただ、さばきと、逆らう者たちを焼きつくす激しい火とを、恐れつつ待つことだけがある。モーセの律法を無視する者が、あわれみを受けることなしに、二、三の人の証言に基いて死刑に処せられるとすれば、神の子を踏みつけ、自分がきよめられた契約の血を汚れたものとし、さらに恵みの御霊を侮る者は、どんなにか重い刑罰に価することであろう。「復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」と言われ、また「主はその民をさばかれる」と言われたかたを、わたしたちは知っている。生ける神のみ手のうちに落ちるのは、恐ろしいことである。

 「ヘブルへの手紙」第1026節~31